- 所在地
- イタリア共和国ラツィオ州ローマ県ローマ
- 地区
- ポンテ
概要
モンテ・ジョルダーノ宮殿は、ローマにある建物。
モンテ・ジョルダーノ
モンテ・ジョルダーノとは、パリオーネ通りとテヴェレ川の間の小さな丘のことである。中世に入るとリアーノ領主ジョヴァンニ・ロンチオーネがここに要塞を建て、1242年~1262年の間に徐々にオルシーニ家がこの辺りの唯一の所有者となり始め、1286年から建設も始められた。その名称はたぶん、ニコラウス3世のきょうだいジョルダーノ・オルシーニ枢機卿からか、1339年にローマ元老院議員を務めたジョルダーノ・オルシーニから付けられた。ダンテ・アリギエーリの『神曲』地獄篇18章30~33節で引用されている。
建築物群
中庭の一部。
ガブリエッリ通りの入口。
カリストゥス3世は1455年4月8日に行った教皇即位式でここから出発した。
15世紀終わり、建物の最も古い部分が崩れてしまい、アトリウムが石その他の落下物で覆われてしまう。ナポリ王国における諸侯の陰謀でのヴィルジーニオ・オルシーニの立場が原因で、1485年11月30日から12月1日にかけての夜にモンテ・ジョルダーノの家々が燃やされた。さらに、教皇アレクサンデル6世の死後、1503年8月20日にミケーレ・ダ・コレーリア率いるチェーザレ・ボルジア軍に略奪され、放火される。
16世紀後半、フランチオット・オルシーニとそのモンテロトンド系、ブラッチャーノ系の武将アレッサンドロ・オルシーニにより、建物群を引き離そうとする動きが起こる。
1688年にフラヴィオ・オルシーニが分家の建物、ブラッチャーノ公宮殿とピティリアーノ伯宮殿とモンテロトンド領主宮殿を兄弟たちから強制的に買い取って、拡張した。
ブラッチャーノ公宮殿
モンテ・ジョルダーノ通りの入口。
左がモンテ・ジョルダーノ宮殿。
所有者、居住者
おそらくエレーナ・オルシーニから息子ルドヴィーコ・ミリオラーティが相続し、妻アドリアーナ・デル・ミラと共に居住。1489年頃夫が亡くなるも住み続け、ロドリゴ・ボルジア枢機卿の子供たち、チェーザレ・ボルジアとルクレツィア・ボルジアらを引き取る。チェーザレ・ボルジアはペルージア大学に入学するまでの1年間、ルクレツィア・ボルジアは1486年6月頃から1493年まで居住していた。イッポーリト・デステのローマの代理官事務所の1つとなった邸宅があり、ベルナルド・タッソーやその息子トルクワト・タッソーをよく招いた。1572年12月2日にその宮殿にて枢機卿は亡くなり、ミトラを被せられ紫の祭服を着せられて、翌日サンタ・カテリーナ・デイ・フナーリ教会に移されるまで、主室に遺体が横たえられた。
1574年、ブラッチャーノ公パオロ・ジョルダーノ・オルシーニとイザベッラ・ロモーラ・デ・メディチ夫妻がフィレンツェからこちらに移り住んだ。
1888年プラチード・ガブリエッリがタヴェルナ伯爵に売却。1923年から半世紀以上、ジュスティーノ・フォルトゥナート南部学会図書館が所有。
塔と噴水
モンテ・ジョルダーノ通りの門には関係者以外は立ち入り禁止のため柵があり、そこから見える18世紀に要塞を宮殿として建て替えた中庭には、豪華な噴水、中世風の塔がある。噴水はアントーニオ・カゾーニによる17世紀バロックの作品で、オルシーニ家の熊も付けられていたが、現在は壁の上に移動されている。塔は、テヴェレ川にかかる現在のウンベルト1世橋のたもとにも建っていたようである。

別表記
タヴェルナ・モンテ・ジョルダーノ、タベルナ宮殿、Palazzo di Monte Giordano、Palazzo sul Monte Giordano、Palazzo Orsini Taverna
外部リンク
ボルジア解体新書
Cepolina Photo
Google Books - The Fountains of Rome
Google Maps
RomaSegreta.it
STEFANINA ALDOBRANDINI
Wikipedia - Monte Giordano
記載日
2006年7月24日