パオロ・オルシーニ

Paolo Orsini

パオロ・オルシーニ

生没年:~1503年1月18日
没地:ピエーヴェ
父:ラティーノ・オルシーニ
妻:フランチェスカ・デッラ・ヴァッレ
  ジューリア・サンタクローチェ
子:ファビオ・オルシーニ
  ロベルト・オルシーニ
  ポルツィア・オルシーニ
  カミッロ・オルシーニ

概要

 パオロ・オルシーニはイタリアの傭兵隊長。

年表

1500年4月末
チェーザレ・ボルジアローマにおいて、チッタ・ディ・カステッロの君主で前フィレンツェの傭兵隊長ヴィテロッツォ・ヴィテッリ、ペルージアの君主ジャンパオロ・バリオーニ、オルシーニ一族を代表するパオロ・オルシーニなど、イタリアの最も強力な傭兵隊長たちのほとんどを雇い入れ、自分の傭兵軍を自軍の主力とする態勢を整え始める。
1501年4月29日
ボローニャ到着。
1501年4月30日
チェーザレ・ボルジアの代理として、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオと協定を結ぶ。ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオはカステル・ボロネーゼをチェーザレ・ボルジアに割譲。
1502年6月25日
ウルビーノ滞在中のフィレンツェ共和国特使フランチェスコ・ソデリーニニッコロ・マキアヴェッリを訪問。
1502年9月26日
オルシーニ一族でチェーザレ・ボルジアの傭兵隊長を務める者たち、チェーザレ・ボルジアによって一族の領国を奪われる危険性を察知し、トーディに集まって対策を検討し、チェーザレ・ボルジアに反抗すべく彼のほかの傭兵隊長を含む会合をペルージア近郊トラジメーノ湖近くのマジョーネで開いて対策を練ることを決める(1502年9月28日)。
1502年9月末
マジョーネの会合に出席。
1502年10月
教皇使節がペルージアに到着した時、ヴィテロッツォ・ヴィテッリは高熱を出し、パオロ・オルシーニは疥癬だらけになっていた。到着した教皇使節に対してパオロ・オルシーニは、自分は教会の兵士で、教皇の意向に背くなど滅相もない。挙兵の原因は糧食の欠乏である。どうか教皇に住む場所を与えてほしいなどと言う。
1502年10月
チェーザレ・ボルジアからの使節ロベルト・オルシーニに対し、自らイーモラに赴き、チェーザレ・ボルジアの条件、ボローニャの企てから離れ、フィレンツェ領とヴェネツィア領を侵犯しないことに合意する意思を示す。
1502年10月9日
マジョーネの会合、反ボルジア一族で共同行動を取ることなどを約定、攻守同盟を締結(1502年10月8日)。
1502年10月15日
ウルビーノにて、ヴェネツィア共和国シニョーリア宛に手紙をしたためる。カルマッツォの戦いでの勝利を伝える。
1502年10月24日
チェゼーナ到着。
1502年10月25日
密使に変装して、イーモラ到着。
1502年10月28日
パオロ・オルシーニ、チェーザレ・ボルジアと和睦。同盟側は奪った領地、領国をチェーザレ・ボルジアに返し、チェーザレ・ボルジアは同盟側の反抗の責を問わないことなどにつき合意。
1502年10月29日
朝、パオロ・オルシーニはチェーザレ・ボルジアの代理として、ジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニと共に、条文を持ってウルビーノへ向けイーモラ出発(1502年10月30日)。
1502年
ウルビーノ到着。
仲間から憎まれ、カステッラーニやウルビーノ公国の者から「マドンナ・パオラ」と悪口を言われる。
1502年11月
シエナパンドルフォ・ペトルッチのもとに到着。
1502年11月13日
この日付でシエナにいるチェーザレ・ボルジアの秘書がチェーザレ・ボルジア宛手紙を書く。

 パオロ・オルシーニとパンドルフォ・ペトルッチに閣下の委任を開示しましたところ、激論の末全てが良きように収まりました。まさに閣下の要望と命令どおり、パオロ・オルシーニとパンドルフォ・ペトルッチ閣下が批准し、ジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニ枢機卿から送られてきたアントーニオ・ダ・ヴェナーフロ殿が代理として批准致しました。ヴィテロッツォ・ヴィテッリジャンパオロ・バリオーニオリヴェロット・エウッフレドゥッチ殿から委任された者はおりませんでしたが、パオロ・オルシーニとパンドルフォ・ペトルッチ閣下が彼らも批准するだろうと約束なさいました。
1502年11月14日
マジョーネ同盟、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオを除く全員がパオロ・オルシーニの和睦案に同意、調印。マジョーネ同盟解体。
1502年11月27日
マジョーネ連合の全員の署名を持って、イーモラ到着。
1502年11月29日
夕刻14時、軍の給与を持って、新ロマーニャ総督アントーニオ・チョッキ・デル・モンテと共に、イーモラ出発。
ファーノ周辺に駐屯していた軍をウルビーノへ進軍させる。
1502年12月6日
アントーニオ・チョッキ・デル・モンテを先導してウルビーノに入る。
1502年12月8日
グイドバルド・ダ・モンテフェルトロウルビーノ出発。
パオロ・オルシーニは、ウルビーノ代官として滞在。
1502年12月
オリヴェロット・エウッフレドゥッチが、チェーザレ・ボルジアの名においてセニガッリアに入る。
ヴィテロッツォ・ヴィテッリと甥、パオロ・オルシーニと息子ファビオ・オルシーニフランチェスコ2世・オルシーニもそれぞれの軍を率いてセニガッリアに集結。ジャンパオロ・バリオーニは病気を理由にチェーザレ・ボルジアの招集を拒絶。
1502年12月31日(土)
セニガッリアの罠:ベルナルディーノ・クアルターリ邸に入ったところを、チェーザレ・ボルジアに拘束される。
1503年1月18日
チェーザレ・ボルジア、サルテアーノに着き、連行していたオルシーニ家の両名、パオロ・オルシーニ及びフランチェスコ2世・オルシーニを処刑。

チェーザレ・ボルジア数

 父ラティーノ・オルシーニ→きょうだいエレーナ・オルシーニ→子ルドヴィーコ・ミリオラーティ→妻アドリアーナ・デル・ミラ→父ペレ・デル・ミラ→母カテリーナ・デ・ボルハ→きょうだいイザベッラ・デ・ボルハ→子アレクサンデル6世→子チェーザレ・ボルジア

別表記

 パーオロ、Paul

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Geneanet
 JDA's Family Tree
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani

参考文献

 『イタリア史』
 『君主論』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia

記載日

 2005年5月29日以前
オルシーニ家
歴史人物辞典
そこそこアレな感じで