パオロ・ヴィテッリ

Paolo Vitelli

パオロ・ヴィテッリ

生没年:1461年~1499年10月1日
出身:チッタ・ディ・カステッロ
没地:フィレンツェ
父:ニッコロ・ヴィテッリ
母:ペンテジーレア・アッボッカテッリ
妻:ジローラマ・ディ・ロベルト・オルシーニ
子:アレッサンドロ・ヴィテッリ
  ニッコロ・ヴィテッリ
  キアッピーノ・ヴィテッリ
  コルネリア・ヴィテッリ
  ベアトリーチェ・ヴィテッリ
  ジューリア・ヴィテッリ

概要

 パオロ・ヴィテッリはイタリアの傭兵隊長。ピサ戦役におけるフィレンツェ軍総指揮官であったが、反逆罪によって、1499年10月1日、フィレンツェに呼び戻されて処刑された。

年表

1498年5月
フィレンツェ共和国、ルドヴィーコ・イル・モーロの勧めに従い、かつルイ12世の同意を得、フランスに滞在中のパオロ・ヴィテッリ、ヴィテロッツォ・ヴィテッリ兄弟を傭兵隊長として雇うことを決定。
1498年6月初め
パオロ・ヴィテッリが軍の総指揮官として着任し、シニョーリア広場で大歓迎集会が開かれる。
1498年6月6日
パオロ・ヴィテッリ、ピサ戦線に出陣。
1498年8月
パオロ・ヴィテッリ軍の戦績が期待され程に上がらず、フィレンツェ市内に彼に対する不満が生じる。
1498年
パオロ・ヴィテッリの主力軍を、ヴェネツィア軍の進撃を阻止するためカセンティーノに移動。ピサ戦線には小軍のみが残り、事実上ピサ攻撃を中断。
1499年2月半ば
この頃(?)病に陥ったヴェネツィア軍の指揮官グイドバルド・ダ・モンテフェルトロから自身と自身の軍隊の安全を保障するよう要請されたパオロ・ヴィテッリは、直ちにこれを受諾。
パオロ・ヴィテッリのこの対応が伝えられるや、フィレンツェ市内に彼に対する不満また生ずる。さらに彼がピエロ・イル・ファトゥオジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ兄弟と接触しているとの噂が広まり、彼に対する怒りが芽生える。
1499年6月26日
パオロ・ヴィテッリ指揮の傭兵軍、パオロ・ヴィテッリ自身の発案によりピサ近郊カッシーナを占領。
1499年8月1~10日
パオロ・ヴィテッリ指揮の傭兵軍、ピサを猛攻撃し、1499年8月10日陥落直前の追い込む。しかし状況判断を誤って兵を引き、ピサを立ち直らせる。以後、シニョーリアの督促にも拘らず戦闘を再開せず。
1499年9月14/15日
パオロ・ヴィテッリ、ピサの包囲を解いて撤兵。ピサ制圧に失敗。
1499年9月末~10月1日
パオロ・ヴィテッリ及びヴィテロッツォ・ヴィテッリ兄弟を裏切りの廉で逮捕しようとするがヴィテロッツォ・ヴィテッリは逃亡し、1499年9月28日パオロ・ヴィテッリのみを逮捕。フィレンツェに護送し、1499年9月30日拷問にかけ、何の自白も得ぬまま翌1499年10月1日処刑。

チェーザレ・ボルジア数

 妻ジローラマ・ディ・ロベルト・オルシーニ→父ロベルト・ディ・カルロ・オルシーニ→きょうだいエレーナ・オルシーニ→子ルドヴィーコ・ミリオラーティ→妻アドリアーナ・デル・ミラ→父ペレ・デル・ミラ→母カテリーナ・デ・ボルハ→きょうだいイザベッラ・デ・ボルハ→子アレクサンデル6世→子チェーザレ・ボルジア

別表記

 パーウロ、パーゴロ、パーオロ・ヴィテリ

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Find A Grave
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『マキアヴェリ』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

記載日

 2005年5月29日以前
ヴィテッリ家
歴史人物辞典
そこそこアレな感じで