Papa

教皇

グレゴリウス1世 Gregorius I

生没
540年?~604年3月12日
祝日
3月12日

概要

 グレゴリウス1世は、第64代教皇、四大ラテン教父の1人。

在位

 第64代教皇 590年9月3日~604年3月12日

肖像

別表記

 大聖グレゴリウス、Gregory

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参考文献

 『メディチ家』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Lucretia Borgia

グレゴリウス7世 Gregorius VII

生没
1020年?~1085年

概要

 ヒルデブランドは、11世紀のイタリアの男性、聖職者。第157代教皇グレゴリウス7世。

在位

 第157代教皇 1073年~1085年

本名

 ヒルデブランド

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 世界帝王事典

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『修道院』
 『世界大百科事典』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ローマ教皇検死録』

ハドリアヌス4世 Hadrianus IV

生没
1100年~1159年9月1日

概要

 ニコラス・ブレイクスピアは、12世紀の男性、聖職者。第169代教皇ハドリアヌス4世。

在位

 第169代教皇 1154年~1159年

本名

 ニコラス・ブレイクスピア、Nicholas BreakspearBreakspeare

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参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『戦闘技術の歴史2 中世編』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

グレゴリウス9世 Gregorius IX

生没
1143年?~1241年8月22日
出身
アナーニ
没地
ローマ

概要

 ウゴリーノ・コンティは、12世紀~13世紀の男性、聖職者。第178代教皇グレゴリウス9世。

在位

 第178代教皇 1227年~1241年

年表

1143年

アナーニにて、生(1170年頃)。

1227年

ライモンド・オルシーニに黄金の薔薇を授与。

本名

 ウゴリーノ・ディ・コンティ、Ugolino di ContiUgolino dei Conti di Segni

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参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

ウルバヌス4世 Urbanus IV

生没
1195年頃~1264年10月2日

概要

 ジャック・パンタレオンは、12世紀~13世紀の男性、聖職者。第182代教皇ウルバヌス4世。

在位

 第182代教皇 1261年~1264年

本名

 ジャック・パンタレオン、Jacques Pantaléon

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 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界大百科事典』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『ルネサンスの歴史』

クレメンス5世 Clemens V

生没
1264年~1314年

概要

 ベルトラン・ド・ゴは、13世紀から14世紀の男性、聖職者。第195代教皇クレメンス5世。

在位

 第195代教皇 1305年~1314年

本名

 ベルトラン・ド・ゴ、ベルトラン・ド・ゴット、Bertrand de GotBertrand de Gouth

別表記

 クレメンティウス5世

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 世界帝王事典
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参考文献

 『西洋拷問刑罰史』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『ルネサンス宮廷大全』

ヨハネス22世 Johannes XXII

生没
1244/49年~1334年12月4日

概要

 ジャック・ドゥーズは、13世紀から14世紀の男性、聖職者。第196代教皇ヨハネス22世。

在位

 枢機卿 1312年12月23日~1316年
      任命した教皇:クレメンス5世
 第196代教皇 1316年~1334年

本名

 ジャック・ドゥーズ、ヤコポ・ディ・カオール、Jacques Duèze

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 檸檬
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 The Cardinals of the Holy Roman Church

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『修道院』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『Lucretia Borgia

グレゴリウス11世 Gregorius XI

生没
1330年5月9日~1378年3月27日
出身
フランス王国リムーザン、ロジエ=デグルトン
没地
教皇領ローマ

概要

 ピエール・ロジェ・ド・ボーフォールは、14世紀の男性、聖職者。第201代教皇グレゴリウス11世。

在位

 枢機卿 1348年5月29日~1370年
 第201代教皇 1370年~1378年

年表

1330年5月9日

ロジエ=デグルトンにて、生(1329年、1336年)。

1348年5月29日

教皇クレメンス6世により、枢機卿に選出される(1348年5月28日)。

1370年12月30日

教皇に選出される。

1371年1月5日

教皇として戴冠。

1371年1月2日

ギー・ド・ブローニュ枢機卿により、司祭に叙階される。

1371年1月3日

ギー・ド・ブローニュ枢機卿により、司教に叙階される。

1376年9月13日

ローヌ川の橋を渡り、アヴィニョンを出発しローマに向かう。

マルセイユで乗船し、ジェノヴァに寄港。チヴィタヴェッキアで上陸。

1377年1月17日

ローマに入城。

埋葬地

 サンタ・フランチェスカ・ロマーナ大聖堂

本名

 ピエール・ロジェ・ド・ボーフォール、Pierre Roger de Beaufort

任命した枢機卿

1371年5月30日 ロベール・ド・ジュネーヴ

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 The Cardinals of the Holy Roman Church

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』

ウルバヌス6世 Urbanus VI

生没
1318年~1389年

概要

 バルトロメオ・プリニャーノは、14世紀の男性、聖職者。第202代教皇ウルバヌス6世。

在位

 アチェレンツァ大司教 1364年~
 バーリ大司教 1377年
 教皇侍従 1377年
 第202代教皇 1378年~1389年

年表

1386年

ルッカ共和国ゴンファロニエーレのフォルティグエッラ・フォルティグエッリに祝福された剣を授与。

1389年

ライモンド・オルシーニ・デル・バルツォ黄金の薔薇を授与。

本名

 バルトロメオ・プリニャーノ、Bartolommeo Prignano

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参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ルネサンスの歴史』

クレメンス7世 Clemens VII

生没
1342年~1394年

概要

 ロベール・ド・ジュネーヴは、14世紀の男性、聖職者。対立教皇クレメンス7世。

在位

 枢機卿 1371年5月30日 ~1378年
     任命した教皇:グレゴリウス11世
 対立教皇 1378年~1394年

年表

1378年

教会の大分裂(~1417年)。

本名

 ロベール・ド・ジュネーヴ、Robert de Genève

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 The Cardinals of the Holy Roman Church

参考文献

 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ルネサンス宮廷大全』

ボニファキウス9世 Bonifacius IX

生没
1350年~1404年10月1日

概要

 ピエトロ・トマチェッリは、14世紀から15世紀の男性、聖職者。第203代教皇ボニファキウス9世。

在位

 第203代教皇 1389年~1404年

本名

 ピエトロ・トマチェリ、ピエトロ・トマセッリ、Pietro Tomacelli

別表記

 ボニファティウス9世、ボニファシウス9世

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参考文献

 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

ベネディクトゥス13世 Benedictus XIII

生没
1328年11月25日~1423年5月23日
出身
アラゴン連合王国イリュエカ
没地
ヴァレンシア王国ペニスコラ
フアン・マルティネス2世・デ・ルナ
マリア・ペレス・デ・ゴトル

概要

 ペドロ・マルティネス・ド・ルナは、14世紀から15世紀の男性、聖職者。対立教皇ベネディクトゥス13世。

在位

 対立教皇 1394年9月~1417年

年表

1415年

反ユダヤ主義の勅書を発行し、ユダヤ人の経済活動を制限すると共に、ユダヤ人がキリスト教の典礼用及び礼拝用の聖具の製造又は販売に関与することを禁止。

1423年5月23日

ペニスコラにて、死(1422年)。

本名

 ペドロ・デ・ルーナ、Pedro Martínez de Luna y Pérez

別表記

 ベネディクト13世、ペドロ・マルティネス・デ・ルーナ、月光法王

関連項目

 The Borgias: 108

外部リンク

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 enciclopedia.cat
 Google Books

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』
 『ルネサンスの歴史』

グレゴリウス12世 Gregorius XII

生没
1326年~1417年10月18日

概要

 アンジェロ・コッレールは、14世紀から15世紀の男性、聖職者。第205代教皇グレゴリウス12世。

在位

 第205代教皇 1406年11月30日~1415年7月4日

本名

 アンジェロ・コレル、Angelo CorrerAngelo Coraria

関連項目

 The Borgias: 108

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参考文献

 『メディチ家』

ヨハネス23世 Johannes XXIII

生没
1370年頃~1419年12月22日
出身
ナポリ王国ナポリ
没地
フィレンツェ共和国フィレンツェ

概要

 バルダッサーレ・コッサは、14世紀から15世紀の男性、聖職者。ボローニャの対立教皇ヨハネス23世。

在位

 枢機卿 1402年2月27日~1410年
 サンテウスタキオ助祭枢機卿 1402年2月27日~1410年5月17日
 ボローニャ教皇特使 1403年1月22日~1409年9月8日
 対立教皇 1410年5月17日~1415年5月29日
 フラスカーティ司教枢機卿  1419年6月23日~1419年12月22日

年表

1394年10月11日

ベネディクトゥス13世、アヴィニョンの対立教皇に即位。

1402年2月27日

ローマ教皇ボニファキウス9世により、枢機卿に選出される。

1406年12月19日

グレゴリウス12世ローマ教皇に即位。

1410年5月3日

ピサ及びボローニャの対立教皇アレクサンデル5世、死。

1410年5月17日

対立教皇に選出される。

1410年5月25日

ボローニャの対立教皇に即位。

1411年6月6日

アラマンノ・アディマリを枢機卿に選出。

1411年

シャルル6世黄金の薔薇を授与。

1413年

ルドヴィーコ・アリドージに黄金の薔薇を授与。

1414年9月

ピエール・ド・フォワを枢機卿に選出。

1414年

ジギスムント・フォン・ルクセンブルク祝福された剣を授与。

1415年

ジギスムント・フォン・ルクセンブルク黄金の薔薇を授与。

埋葬地

本名

 バルダッサレ・コッサ、Baldassare Cossa

別表記

 ヨハンネス23世

関連項目

 The Borgias: 108

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 The Cardinals of the Holy Roman Church

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界大百科事典』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネッサンス夜話』

クレメンス8世 Clemens VIII

生没
1369/1370年~1446年12月28日

概要

 ジル・サンチェス・ムニョスは、14世紀から15世紀の男性、聖職者。ベネディクトゥス13世の後に選出された対立教皇クレメンス8世。アルフォンス・デ・ボルジャの説得によって退位し、教会は統一された。

在位

 対立教皇 1423年~1429年
 マヨルカ司教 1429年~1446年

年表

1423年6月10日

アヴィニョンの対立教皇に選出される。

1426年5月19日

アヴィニョンの対立教皇の位に就きクレメンス8世を名乗る。

1429年7月26日

アヴィニョンの対立教皇の位を放棄。教会大分裂、ようやく終わる(1378年~)。

本名

 ジル・サンチェス・ムノツ、Gil Sánchez Muñoz y CarbónGil Sánchez Muñoz i Carbó

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参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

パウルス2世 Paulus II



生没
1417年2月23日~1471年7月26日
出身
ヴェネツィア

概要

 ピエトロ・バルボは、15世紀のイタリアの男性、聖職者。第211代教皇パウルス2世。

在位

 枢機卿 1440年7月1日~1464年
 第211代教皇 1464年~1471年

年表

1440年7月1日

エウゲニウス4世により、サンタ・マリア・ヌオーヴァ助祭枢機卿に叙階される。

1451年6月16日

サン・マルコ司祭枢機卿に叙階される。

1464年8月30日

枢機卿ピエトロ・バルボ、教皇に即位し、パウルス2世を名乗る。

新教皇パウルス2世、故ピウス2世の対オスマン・トルコの遺志の継承を表明するが、直ちにその財政上の問題に逢着。

1466年

スカンデルベグ祝福された剣を授与。

1467年以降

エンリケ4世・デ・カスティーリャに、1467年か1469年に制作された祝福された剣を授与。

1468年2月2日

パウルス2世、ミサでオスマン・トルコに対抗するためにイタリアの平和の必要性を訴える。

その上でパウルス2世、フィレンツェ、反フィレンツェ両陣営の30日以内の和平、トルコ軍の脅威に曝されているアルバニアのキリスト教徒軍最高指揮官としてバルトロメオ・コッレオーニのアルバニアへの派遣、彼への報酬のイタリア諸国による支払い、この間の戦闘で奪われたイーモラ及びフィレンツェの所領の返還を内容とする勅書を発する。

これに対してフィレンツェ陣営3国、和平には賛意を表しながら、バルトロメオ・コッレオーニへの報酬の負担を拒否。

1468年2月末

この頃、Giulio Pomponio Letoの主催するAccademia Romana、反教会的、異教的、共和政的秘密結社と化して反パウルス2世の陰謀を企んだと見なされて閉鎖され、Giulio Pomponio Letoを初めバルトロメオ・プラティナ(1421年~)ら人文主義者が逮捕される。しかし各自反論し、翌1469年5月頃までに釈放される。

1468年4月25日

パウルス2世、バルトロメオ・コッレオーニに関する条項を撤回した修正和平案をフィレンツェ、反フィレンツェ両陣営に提示。

1468年5月8日

フィレンツェ、反フィレンツェ両陣営、共にパウルス2世の修正和平案を受諾。フィレンツェの被追放者たちの企図、潰える。

1468年10月9/13日

シジスモンド・マラテスタ、死(1417年~1468年:リーミニの君主在位1429年~1468年:ファーノ・シニガリアの君主在位1429年~63年)。パウルス2世、リーミニの教会帰属を宣言。

シジスモンド・マラテスタの庶子でパウルス2世の反マラテスタ戦陣の先頭にあった(1460年~1463年)傭兵隊長ロベルト・マラテスタ(1440/1441年~1482年)、パウルス2世にリーミニを返還すると約束しながら密かにフェッランテ・ダラゴーナと通謀してリーミニに入り、奸策により自らの支配権を樹立。

1468年

フリードリヒ3世祝福された剣を授与。

1469年5月28日

ロベルト・マラテスタフェッランテ・ダラゴーナの密謀が明らかとなって驚愕したパウルス2世とヴェネツィア、攻守同盟を結び、軍の最高指揮官にアレッサンドロ・スフォルツァを据える。

1470年8月25日

パウルス2世、イタリア諸国、諸権力者にエウボイア陥落の及ぼす危険性を説く書簡を送る。

1470年9月18日

パウルス2世、イタリア諸国、諸権力者に、和平を説きオスマン・トルコの脅威に一致して対抗せよと説く書簡を送る。

1470年12月22日

1470年8月以降、繰り返しイタリア内の和平と一致した反オスマン・トルコ行動とを説いてきたパウルス2世の主導の下、ようやく、ナポリのフェッランテ・ダラゴーナ、ミラノのガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ、モデナ・レッジョ・フェッラーラのボルソ・デステ及びフィレンツェ、ローディの和・イタリア同盟(1454年~1455年)を基にした対オスマン・トルコ共同防衛同盟を締結。

1471年4月14日

パウルス2世、ヴァティカン宮殿内聖堂でボルソ・デステにフェッラーラ公位を授与。

1471年7月25日

深更パウルス2世急死。

任命した枢機卿

1467年9月18日 オリヴィエーロ・カラーファ
フランチェスコ・デッラ・ローヴェレ
1468年11月21日 ジョヴァンニ・バッティスタ・ゼノ
ジョヴァンニ・ミキエル

関連項目

 リーミニ攻囲戦
 対オスマン・トルコ共同防衛同盟

本名

 ピエトロ・バルボ、Pietro Barbo

別表記

 パオロ2世(Paolo II)、パゴロ(Pagolo

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 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Treccani.it

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ローマ教皇検死録』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

ハドリアヌス6世 Hadrianus VI

生没
1459年3月2日~1523年9月14日

概要

 アドリアン・フロリス・ボイエンスは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、第218代教皇ハドリアヌス6世。

在位

 スペイン総督 1520年~1522年
 異端審問長官 1518年~1522年
 枢機卿 1515年12月14日~1522年
     任命した教皇:レオ10世
 第218代教皇 1522年~1523年

年表

1522年1月9日

カール5世のかつての教師、助言者で現スペイン総督(在位1520年~1522年)、異端審問長官(在位1518年~1522年)、枢機卿(在位1517年~1522年)、ネーデルラント人Adrian Florensz Boeyens(1459年~1523年)、教皇に即位し、ハドリアヌス6世を名乗る。

この新教皇選出、自らもこの位を狙いながらもなおその実現は不可能と見たジューリオ・デ・メディチの判断と決断に大きく影響される。

枢機卿会議、スペイン・Vascoにあってまだイタリアを訪れたことのない新教皇ハドリアヌス6世が着任するまで教会領の現状を凍結、維持すべく、ペルージアに迫ったジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ指揮のフィレンツェ軍に教会領より撤退するよう要求。フィレンツェ軍、撤退。

1522年8月29日

ハドリアヌス6世、ペストが猖獗を極めるローマにようやく到着し、1522年8月31日戴冠。

1522年9月半ば~10月半ば

ハドリアヌス6世、恭順の意を表し忠誠を誓ってきたアルフォンソ1世・デステフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレに対し、アルフォンソ1世・デステにはフェッラーラの支配を認めると共にモデナ、レッジョの返還を約束し、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレにはウルビーノの支配を認める(翌1523年3月27日、正式に叙任)。

1522年12月1日

自分のかつての神学講義の聴講生エラスムスから、自分の教皇即位後に、彼のカトリック信仰を証言する書簡を受け取っていたハドリアヌス6世、この日、彼にその学識をマルティン・ルターに向けるよう要請する書簡を送る。

1522年12月23日

エラスムス、この日付の書簡をハドリアヌス6世に送り、ルター派への対応について、自分の態度は語らず、教会の不名誉となるような弾圧はしないよう要望。

1523年1月23日

ハドリアヌス6世、エラスムスに再び書簡を送り、彼をローマに招くと共にマルティン・ルターを論駁するよう重ねて要請。

1523年3月22日

エラスムス、ハドリアヌス6世に書簡を送り、一派に与して争いに加わるよりは死を選ぶとマルティン・ルター論駁を冷たく断る。

1523年4月27日

フランチェスコ・ソデリーニフランソワ1世に艦隊で教皇領シチリアを攻撃してカール5世のロンバルディア駐在軍をそこにひきつけながらフランソワ1世自身が速やかに北部イタリアに侵攻するよう勧めたとされ、ハドリアヌス6世の命により深夜、逮捕されてサンタンジェロ城に幽閉される。この処置に、ハドリアヌス6世と親密でその施策に影響を与えることの多いジューリオ・デ・メディチの反ソデリーニ家の意図と周到な工作が強く働く。以後ジューリオ・デ・メディチ教皇庁内での力、とみに強まる。

1523年4月30日

ハドリアヌス6世、勅書を発してキリスト教世界における3年間の休戦を命じ、従わなければ破門、聖務禁止に処すと警告。

1523年7月29日

この頃、1523年4月頃以来カール5世から使節ジローラモ・アドルノを、その死後は同じくMarino Caracciolo(1469年~1538年)を送られ、協定を求められてきた上に1523年7月半ばからはハドリアヌス6世からも強く促されていたヴェネツィアは、求めに応じてカール5世フェルディナンド及びフランチェスコ・マリーア・スフォルツァとミラノ防衛の協定を結ぶ。カール5世によるフランソワ1世の孤立化、そのイタリア侵攻阻止の態勢、さらに強まる。しかしフランソワ1世はイタリア侵攻の意を弱めず軍を強化。

1523年8月3日

イタリアにおける戦闘の終息及びオスマン・トルコの攻撃に対するキリスト教世界の防衛を期するハドリアヌス6世、イタリア侵攻、ミラノ奪還の意図を捨てようとしないフランソワ1世に対抗すべく、カール5世ヘンリー8世フェルディナンドフランチェスコ・マリーア・スフォルツァ、フィレンツェ、シエナ、ジェノヴァなどと同盟を締結。

1523年9月14日

ハドリアヌス6世、死。

本名

 Adriaan Florenszoon Boeyens

外部リンク

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 The Cardinals of the Holy Roman Church

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia

マルケルス2世 Marcellus II

生没
1501年5月6日~1555年5月1日
出身
モンテファーノ
没地
ローマ

概要

 マルチェッロ・チェルヴィーニは、16世紀の男性、聖職者、第222代教皇マルケルス2世。

在位

 枢機卿 1539年12月19日~1555年
 ニカトロ司教 1539年8月27日~1540年9月24日
 アチェルノ教区長 1539年12月10日~1539年12月19日
 レッジョ・エミリア司教 1540年9月24日~1544年2月29日
 サンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ司祭枢機卿 1540年11月5日~1555年4月9日
 グッビオ司教 1544年2月29日~1555年4月9日
 ヴァティカン図書館司書 1550年5月24日~1555年4月09日
 第222代教皇 1555年4月10日~1555年5月01日

年表

1539年12月19日

パウルス3世により、枢機卿に選出される。

1545年3月15日

この日、トレントで開催予定の公会議、パウルス3世の特使・枢機卿Reginald Poleジョヴァンニ・マリーア・チオッキ・デル・モンテ、マルチェロ・チェルヴィーニの他数名の司教・枢機卿しか集まらず、開催できずに終わる。

1555年4月9日

教皇に即位し、マルケルス2世を名乗る。

1555年5月1日

教皇マルケルス2世死。

本名

 マルチェッロ・チェルヴィーニ、Marcello Cervini

別表記

 マルチェッロ2世、マルチェロ・チェルヴィーニ

外部リンク

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 世界帝王事典
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 The Cardinals of the Holy Roman Church

参考文献

 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ピウス5世 Pius V

生没
1504年1月17日~1572年5月1日

概要

 アントーニオ・ギスリエーリは、16世紀の男性、聖職者。第225代教皇ピウス5世。

在位

 第225代教皇 1566年1月7日~1572年5月1日

年表

1566年6月19日

クレメンス7世の書記官を務めた(1533年)が後に改革派(Valdés派)に傾斜したためパウルス4世の下で再三、異端審問に晒され、一旦は有罪判決を受け(1558年)ながらも、パウルス4世の死後ピウス4世の下でコジモ1世・デ・メディチの仲介により判決を取り消され(1560年)、この頃コジモ1世・デ・メディチの客としてフィレンツェに招かれていたPietro Carnesecchi(1508年~1567年)について、新教皇ピウス5世の下のローマ異端審問所、その身柄を引き渡すようコジモ1世・デ・メディチに要求。

1566年

フェルナンド・アルバレス・デ・トレドに祝福された剣を授与。

1566年末

この頃?、教皇ピウス5世、故ピウス4世がトレント公会議の決議に基づきその甥・枢機卿カルロ・ボッロメオの監修下で4名の神学者に執筆させた主任司祭用の教理問答書を、最終的に校閲させラテン・イタリア両語で、ローマで刊行させる(Catechismus Romanusローマ公教要理)。

1567年4月11日

ピウス5世、トマス・アクイナスDoctor ecclesiae(教会博士)(Doctor communis(公道的博士)、Doctor angelicus(天使的博士))の称号を与える勅書を発する。

1568年

フェルディナンド2世・フォン・ハプスブルク祝福された剣を授与。

1569年4月中旬

1569年1月22日フランス・カトリック陣営への援軍を結成し、1569年3月13日その指揮官としてサンタ・フィオーラ伯Sforza Sforza(1520年~1575年:在位1564年~1575年)を任命していたピウス5世、この軍に出陣を命ずる。

1569年5月14日

教皇軍とフィレンツェ軍、トスカーナで合流し、フランスに向かう。

1566年8月16日

1566年7月上旬からPietro Carnesecchiに対して異端審問を行ってきたローマ異端審問所、この日、「恐るべき異端者」・「邪悪な人間」として斬首・火刑に処するとの判決を下す。

1569年8月27日

ピウス5世、Santo Stefano騎士団の創設(1562年)、Pietro Carnesecchiの身柄引き渡し(1566年)、フランス・カトリック陣営への支援、など教皇・教会への協力姿勢の顕著なコジモ1世・デ・メディチを「カトリック信仰擁護の貢献者」などと評価し、この多大な貢献にGran Duca di Toscana(トスカーナ大公)の位をもって報いるとの勅書を発する。

この勅書に、フィレンツェシエナ神聖ローマ帝国の封土と考えるマクシミリアン2世及びイタリア諸侯、こぞって反発。

1569年

この頃までにコジモ1世・デ・メディチ、ピウス5世の要請を受け入れフランス・カトリック陣営への援軍を整備。

1569年8月

教皇軍とフィレンツェ軍、トゥール近郊でアンリ3世指揮のフランス王軍(カトリック軍)と合流。間もなくポワティエ防衛戦に参加。

1570年2月25日

ピウス5世、真実の教会の危機を救い背信の徒を罰する義務を負う教皇として、異端者エリザベス1世を破門し「自称」イングランド王の位に関わる権限を失わしめる、との勅書を発し、イングランドのカトリック教徒をエリザベス1世への忠誠義務から解放。

1570年3月5日

ピウス5世、この日のために1570年2月18日ローマに入ったコジモ1世・デ・メディチに、システィーナ礼拝堂でトスカーナ大公の冠を授与。

これに対し、当初は静観していたフェリペ2世が教皇の世俗権力への介入・干渉とコジモ1世・デ・メディチの権力の増大を懸念してナポリ王ミラノ公の名で反対に回ったのを初め、1570年3月29日マクシミリアン2世も重ねて反対の意を表明。

1570年9月9日

オスマン・トルコ軍、首都ニコシアを占領しキプロス島を制圧。

1571年5月20日

対トルコ十字軍の理念を唱えるピウス5世を中心に、ヴェネツィアフェリペ2世の三者、対オスマン・トルコ神聖同盟をローマで秘密裏に締結。

この神聖同盟とトスカーナ大公コジモ1世・デ・メディチ、サヴォイア公エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアパルマ・ピアチェンツァ公オッタヴィオ・ファルネーゼウルビーノ公グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレジェノヴァ、マルタ騎士団とが提携し、直ちに共に同盟軍の編成に着手。

1571年

フアン・デ・アウストリア祝福された剣を授与。

1572年

シャルル9世黄金の薔薇を授与。

1572年5月1日

死。

本名

 アントーニオ・ギスリエーリ、Antonio Ghislieri

外部リンク

 ウィキペディア
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参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』

グレゴリウス13世 Gregorius XIII

生没
1502年1月7日~1585年4月10日
出身
ボローニャ
クリストフォロ・ブオンコンパーニ
アンジェラ・マレスカルキ

概要

 ウーゴ・ブオンコンパーニは、16世紀の男性、聖職者、第226代教皇グレゴリウス13世。

在位

 第226代教皇 1572年~1585年

年表

1502年1月7日

ボローニャにて、生(1502年1月1日)。

1530年

ボローニャ大学で法学を学び、卒業。

ボローニャ大学で法学を教える。

生徒に、アレッサンドロ・ファルネーゼ、レジナルド・ポール、スタニスワフ・ホジュシュ、カルロ・ボッロメオなど。

1572年5月14日

教皇に即位。

1574年

フアン・デ・アウストリア黄金の薔薇を授与。

1580年

ステファン・バートリ祝福された剣を授与。

1582年2月

ユリウス暦からグレゴリオ暦への、暦の切り替えの勅令を発布。

1582年10月

ユリウス暦からグレゴリオ暦への、暦の切り替えが実施される。カトリックの国であるイタリア、スペイン、ポルトガル、ポーランドなどで採用され、ユリウス暦の1582年10月5日が1582年10月15日に改められた。

1582年

フェルディナンド2世・フォン・ハプスブルク祝福された剣を授与。

本名

 ウーゴ・ブオンコンパーニ、Ugo Buoncompagni

外部リンク

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参考文献

 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『Lost Girls

記載日

 2006年7月15日

更新日

 2024年7月8日