パウルス3世

Paulus III

パウルス3世

本名:アレッサンドロ・ファルネーゼ(Alessandro Farnese)
生没年:1468年2月28日~1549年
在位:枢機卿 1493年9月20日~1534年
       任命した教皇:アレクサンデル6世
   第220代教皇 1534年~1549年
    先代:クレメンス7世
    次代:ユリウス3世
父:ピエル・ルイジ・ファルネーゼ
母:ジョヴァンナ・カエターニ
子:ピエル・ルイジ・ファルネーゼ

概要

 アレッサンドロ・ファルネーゼは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、聖職者。第220代教皇パウルス3世。

教養

 ローマにてポンポーニオ・レトのもとで、フィレンツェ、ピサにて、学ぶ。

年表

1487年
インノケンティウス8世により、家族の争いにおける態度のためサンタンジェロ城に投獄される。
148?年
脱獄する。
1488年頃
ローマの聖職者。
1491年
ロレンツォ・イル・マニーフィコの推薦により、教皇秘書官、教会首席書記官になる。
1492年
財務長官。
1492年6月22日
ヴィテルボのサン・ロレンツォ大聖堂の司教座聖堂参事会員。
1493年9月20日
枢機卿会議で、助祭枢機卿に任命される。
1493年9月23日
赤い帽子とローマのサンティ・コスマ・ダミアーノ教会助祭を授かる。
1494年11月14日
教皇領管区教皇代理。
1495年5月27日
教皇アレクサンデル6世に従い、オルヴィエートへ。
1495年6月27日
アレクサンデル6世に従い、ローマ到着。
1496年7月16日
アレクサンデル6世が勅書を発す。教皇代理アレッサンドロ・ファルネーゼを歓迎させるためヴィテルボ人を招待する。
1496年9月15日
ヴィテルボの統治はフアン・ボルジアに取って代わられる。
1500年2月22日(土)
チェーザレ・ボルジアを迎えるためローマ出発。
1500年
ニコラウス・コペルニクスがローマを訪れた際、最も根気よい聞き手の1人だった。
1534年10月13日
教皇に枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼ(1468年~1549年:枢機卿在位1493年~1534年:教皇在位1534年~1549年)即位しパウルス3世を名乗る。
1534年10月
共和政の復活を目指すヤコポ・ナルディFilippo ParentiGaleotto Giugni(1497年~1541年)、Silvestro Aldobrandini(1499年~1558年)らフィレンツェ共和政派と、アレッサンドロ・デ・メディチの支配への反発から彼に代えてイッポーリト・デ・メディチを擁立しその下で貴族寡頭制を敷こうとするフィリッポ・ストロッツィらフィレンツェ貴族及びフィレンツェ出身の枢機卿ニッコロ・ディ・ピエロ・リドルフィジョヴァンニ・サルヴィアーティは、クレメンス7世の死を機にそれぞれの宿願を達するべく反アレッサンドロ・デ・メディチという唯一共通の方針を掲げ、新教皇パウルス3世の援助の下ローマに結集。
1534年11月13日
即位後、枢機卿たちにカトリック教会内改革のための公会議開催の必要性を説いていた教皇パウルス3世、この日の枢機卿会議でもその旨を強調。
1535年1月14~15日
パウルス3世、枢機卿会議で再び公会議早期開催の必要性を力説。
1535年5月20日
パウルス3世ヘンリー8世により投獄されているJohn Fisherを枢機卿に任命。
1535年7月20日
パウルス3世クレメンス7世によるS. Paolo (Paulus)律修聖職者会(バルナバ会)公認(1533年)を追認。
1535年7月26日
パウルス3世John Fisherの処刑に抗議する書簡をキリスト教各国に送る。さらに1535年7月末、トマス・モアの処刑の報に激怒。
この他、John Fisher及びトマス・モア処刑の報、カール5世をも含む各君侯などヨーロッパ各地・各陣営に大きな反響を呼び起こす。これを鎮めるべくThomas Cromwellローマを初め各地に、彼ら両名は王ヘンリー8世の寛容・忍耐にもかかわらず王に反抗した王を打倒しようとしたと処刑を正当化する書簡を送る。
1535年8月
パウルス3世、枢機卿会議に、破門に動じないヘンリー8世の王位喪失、その臣下の忠誠の解除と反抗の勧奨、イングランドにおける聖務の禁止などを命ずる勅書を提出。
1535年9月10日
ペルージアに軍を送ってリドルフォ・バリオーニと従兄弟ジャンパオロ・バリオーニを放逐したパウルス3世、この日、自らペルージアに入りバリオーニ家を領外追放、封土、城塞没収に処すと共に領内統治のため自身の代理を置く。以後リドルフォ・バリオーニはフィレンツェでアレッサンドロ・デ・メディチに臣従。
1535年9月
ミケランジェロパウルス3世によりヴァティカン宮殿の絵画・彫刻・建築制作主任に任命され、システィーナ礼拝堂の「最後の審判」の制作に着手(~1541年)。
1535年
ルドヴィーコ・イル・モーロの庶子、カラヴァッジョ候、CalliateGiampaolo Sforzaスフォルツァ家の嫡流が絶えたことを理由にミラノ公位の継承を望み、それをカール5世に承認させてくれるようパウルス3世に懇願すべくローマに向かうが、途中フィレンツェで急死(1497年~)。
フランソワ1世、ミラノ継承請求権を主張し、息子アンリ・ド・ヴァロワにミラノを与えるよう要求。
1536年4月5日
カール5世、兵7百を率いてナポリからローマに入り、以後パウルス3世と会談を重ねる。
1536年4月17日
カール5世パウルス3世初め枢機卿及びフランソワ1世の大使を含む君主の駐教皇庁大使たちが居並ぶ前で演説し、フランソワ1世を、長年にわたって違約を続け、好戦的野望を満たそうとしていると激しく非難。
1536年5月11日
フランソワ1世、自分に対するカール5世の非難演説(1536年4月)への反論をパウルス3世に送る。1536年5月25日、反論は枢機卿及び教皇庁駐在大使たちの前で読み上げられる。
1536年5月23日
パウルス3世、ポルトガル王ジョアン3世(1502年~1557年)の強い要請に応じ、スペイン方式の厳格な王立異端審問所の設立を認可。
1536年6月2日
カトリック教会内改革に意欲を燃やすパウルス3世、1536年4月8日枢機卿会議で反対派の抵抗を押して開催を決め、1536年4月24日カール5世の残した使節との間でその日時について合意した公会議を、誤認・異端の排除、キリスト教諸国家の和平、などのため1537年5月23日マントヴァで開催するとの勅書を発する。
1536年7月後半
パウルス3世、公会議に備えて、教会内の諸問題を検討し教会改革案を作成するための九人委員会(Commissione novemvirale)を設立し、Reginald Pole(1500年~)、枢機卿G. Contarini(在位1535年~)、I. Sadoletoジョヴァンニ・ピエトロ・カラーファら9名を委員に任命。
1536年9月5日
フランソワ1世カール5世との戦闘が続いている現状ではフランスの聖職者をマントヴァに送ることはできないと言明し、パウルス3世マントヴァ公会議開催の勅令(1536年6月)を拒絶。
1536年12月22日
パウルス3世、教会改革九人委員会のメンバーの内、Reginald PoleI. Sadoletoジョヴァンニ・ピエトロ・カラーファを枢機卿に叙任。
1537年1月31日
パウルス3世、自分の長子ピエル・ルイジ・ファルネーゼ(1503年~1547年)を教会の旗手に任命。
1537年1月
ウルビーノフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレの子・後継相続者グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ(1514年~)とカメリーノの正統継承資格者の1人ジューリア・ダ・ヴァラーノ(1523年~?)、ジューリア・ダ・ヴァラーノを自分の孫オッタヴィオ・ファルネーゼ(1524年~1586年)と結婚させ、カメリーノを自家領としてウルビーノ公を押さえたいパウルス3世の妨害——(破門(1535年2月)、カメリーノでの聖務禁止(1535年3月)、カメリーノの封与(1535年5月))——に対してウルビーノ公の承認の下で結婚し、カメリーノを事実上、領有。
1537年3月9日
教会改革九人委員会、Consilium de emendanda ecclesia(教会改革草案)をパウルス3世に提出。
間もなく外部に漏洩したこの教会改革草案を知ったマルティン・ルター、これをドイツ語で公刊して嘲笑を加え、筆者たちを「嘘吐き」、「いかさま師」と決めつける。
1537年4月20日
パウルス3世マントヴァでの公会議開催にあたって警護の兵1千6百を教皇の負担で整えるようにとの公フェデリーコ2世・ゴンザーガの要求を拒否し同地での公会議開催を延期することを、枢機卿会議で決める。
1537年6月9日
すでに1537年5月、インディオ保護の指示を発していたパウルス3世、1537年6月、彼ら新発見地の土着民は全て「真の人間」(veros homines)であり、決して彼らを奴隷にすることなくその「自由と所有する財産」を保護し、「イエス・キリストの信仰に導くために」彼らに「神の御言葉を説き教え」よ、との勅書を発する。
1537年6月24日
イグナティウス・デ・ロヨラとその同志5名、パウルス3世の格別な計らいと認可により、通常は10年を要する叙任過程を2週間で完了し、司祭に叙任される。
1537年6月
3人の枢機卿らフィレンツェの亡命者たちとの友好を表明していたパウルス3世カール5世に臣従してそのイタリアでの勢力拡大に貢献しつつあるコジモ1世・デ・メディチに反感を抱きながらも、カール5世の威勢とオスマン・トルコによる攻撃の脅威を考慮し、フィリッポ・ストロッツィら亡命者たちに対して教会領内での徴兵を厳禁すると共に、彼らとコジモ1世・デ・メディチとの戦争には中立を保つ。
1537年7月26日
パウルス3世、キリスト教諸国・諸君主宛の勅書の中で、ヘンリー8世は異端・涜神者・反逆者でありすでに王位を失っていると激しく非難。
1537年7月
パウルス3世エルコーレ・ダ・ヴァラーノを威嚇し、封与した(1535年)カメリーノを教会に返還させる。以後、カメリーノを教会領と主張。
1537年8月下旬
パウルス3世ヘンリー8世の「罪」を列挙し2か月以内に改心しなければ破門に処する、それにより彼は王位を失い、臣下は忠誠を解除され、イングランドでの聖務は禁止されるとの勅書を枢機卿会議に提出。
1537年9月30日
カール5世パウルス3世を自陣に引き入れるべく、その申し出を受け入れて彼の孫オッタヴィオ・ファルネーゼマルゲリータ・ディ・パルマを与えることを内心で決めると共に、かねてから彼女との結婚を求めていたコジモ1世・デ・メディチも自陣に確保しておくべく、慰撫策として彼にDuca(公)の称号を認める。(以後コジモ1世・デ・メディチフィレンツェコジモ1世・デ・メディチとなる)。
1537年10月8日
パウルス3世、公会議を延期し1538年5月1日にヴィチェンツァで開催することをヴィチェンツァの同意も得て枢機卿会議で決め、1537年10月18日公表。
1537年10月31日/11月1日
パウルス3世、長子ピエル・ルイジ・ファルネーゼとその正統相続人のためにカストロ公国を創り、これを近くの都市ネピ、ロンチリオーネ、Capraloraと共に封与。
1537年
パウルス3世、対オスマン・トルコ軍事費の増大による教皇庁財政の悪化に対処するため、教会領全域で塩税を大幅に増税。
コロンナ家が不払いを宣言し、各都市が増税撤回を求めたのに対しパウルス3世、一時的延滞を認めながらも増税撤回は拒否。
1538年2月8日
ヴェネツィアの各地の拠点を次々と攻略し、その領内ケルキラ島をも占領しようとするスレイマン1世軍の威勢を前に、パウルス3世ヴェネツィアカール5世及びフェルディナンドヴァティカン宮殿で対オスマン・トルコ神聖同盟を結び、同盟軍の結成(陸軍の指揮官ウルビーノフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、水軍の指揮官アンドレア・ドーリア)、戦費の分担(パウルス3世ヴェネツィアカール5世が1対2対3の割合)などを約定し、2日後に公示。しかし、同盟軍はこの秋になってようやく結成される。
1538年2月
カール5世パウルス3世の長子ピエル・ルイジ・ファルネーゼに、自身とパウルス3世の仲介者となることを期待してノヴァーラを封与。
1538年5月17日
公会議の早期開催とオスマン・トルコの脅威への対策についてキリスト教諸国の和解・同盟を実現すべくニースでのカール5世フランソワ1世の会見を提案してきたパウルス3世、1538年3月23日ローマを発ち、この日ニース郊外に到着。以後、カール5世と1538年5月19日、1538年5月21日、1538年6月3日、1538年6月9日の4回、フランソワ1世と1538年6月2日、1538年6月13日、1538年6月17日の3回、個別に会談。
しかし、カール5世フランソワ1世の直接の会談はついに実現できないままに終わる。
1538年6月22日
パウルス3世カール5世、ニースから同道でジェノヴァに到着。この地に滞在中、両者は、公会議の1539年4月6日までの延期、パウルス3世の孫オッタヴィオ・ファルネーゼカール5世の庶出の娘、故アレッサンドロ・デ・メディチの寡婦マルゲリータ・ディ・パルマの結婚、スペインにおける教会収入5年分のカール5世への付与について正式に合意。
1538年6月28日
パウルス3世、公会議を翌1539年4月6日まで延期するとの勅書を発す。
フィレンツェのみならずパウルス3世をも自陣に引き寄せながら全イタリアに派遣を樹立しようと狙うカール5世懸案についてこの頃ジェノヴァで、マルゲリータ・ディ・パルマオッタヴィオ・ファルネーゼに嫁がせると決定していること、フィレンツェの城塞はできる限り早期にコジモ1世・デ・メディチに返還すること、フィリッポ・ストロッツィアレッサンドロ・ヴィテッリに代わるJuan de Lunaの下でアレッサンドロ・デ・メディチ殺害への関与について取り調べること、を公表。
1538年11月4日
3日前にパウルス3世からローマの総督に任命されたばかりのオッタヴィオ・ファルネーゼマルゲリータ・ディ・パルマの結婚式が、コジモ1世・デ・メディチとの結婚を希望し続けるマルゲリータ・ディ・パルマの意を抑えて、ローマで盛大華麗に行われる。
1538年11月15日
パウルス3世、カメリーノの領有を続けるウルビーノグイドバルド2世・デッラ・ローヴェレと妻ジューリア・ダ・ヴァラーノにカメリーノは教会直属領であると改めて主張し、領地返還を要求。
1538年11月29日
パウルス3世ピエル・ルイジ・ファルネーゼにその軍を率いてカメリーノを攻撃するよう指令。
1538年12月7日
パウルス3世、1537年8月枢機卿会議に提出していたヘンリー8世処罰の勅書を公表。
1539年1月初旬
グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレと妻ジューリア・ダ・ヴァラーノ、自分たちのカメリーノ領有権を支持するコジモ1世・デ・メディチの具体的支援も、父・故フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレの健在時に得てきたヴェネツィアフェッラーラの支援も共に得られず、パウルス3世の強い要求に屈してカメリーノ領有を断念・放棄。代わりに報償金と、これまで拒否されてきたパウルス3世によるグイドバルド2世・デッラ・ローヴェレウルビーノ公への叙任を得る。
1539年1月8日
パウルス3世、カメリーノ占領総督を任命。
1539年5月21日
パウルス3世、1539年5月1日にヴィチェンツァで開催予定であった公会議を、当日に司教が参集しなかった上、公会議開催に最も熱心なカール5世からプロテスタントとの交渉が進展しない現状では公会議に代表を派遣できないと伝えられ、この協力を期待できなくなったため、無期延期することを枢機卿会議で決める。
1539年5月
パウルス3世、対オスマン・トルコ軍事費の増大などによる教皇庁の財政危機の深刻化に対処するため、塩税の増税(1537年)に加えて教皇領内全教会の聖職禄に対する課税率を20パーセントに上げる。
1539年7月
パウルス3世教皇庁の財政危機の深刻化に対処するため、1539年5月の聖職禄への増税をさらにイタリア全土の全教会に対して実施。
1539年9月3日
イグナティウス・デ・ロヨラらのイエズス信徒会、正式の修道会としての許可を得るべく、枢機卿G. Contariniを介して5か条からなる会掟草案をパウルス3世に提出。
1539年9月
1539年1月占領したカメリーノの視察からローマへの帰途ペルージアに立ち寄ったパウルス3世、その執政長官から塩税の延滞金の軽減を懇願されるが拒絶。これに対しペルージア、間もなくその支払いを拒否。
1539年10/11月
イグナティウス・デ・ロヨラらイエズス信徒会メンバー、1538年と同じく1539年も聖地巡礼船の出航が不可能となったため、その活動の方向をパウルス3世の意に委ねることにし、その決定に従って世界各地での福音宣教に奉仕することを決める。
1540年2月7日
パウルス3世、改めて新塩税の支払いを命じ、違反者を重罪に処すとの勅書を発する。
これに対しペルージア、武装反乱に決起。
1540年3月
パウルス3世ペルージアでの聖務を禁止。これに対しシエナオルヴィエートスポレートメディチ家及びコロンナ家など、ペルージア反乱への支援を協議。
1540年5月8日
パウルス3世ピエル・ルイジ・ファルネーゼアレッサンドロ・ヴィテッリジローラモ・オルシーニらの指揮の下にペルージアに送った教皇軍とペルージア守備軍の衝突、戦闘、始まる。
1540年6月1日
パウルス3世と決定的に対立することを避けたいカール5世の制約の下、領国境界まで軍を進めながら対教皇軍戦の支援に踏み切れないメディチ家を初めコロンナ家や諸都市からも期待した支援を得られずに孤立し、資金と食糧の欠乏したペルージアの代表リドルフォ・バリオーニは、教皇軍のジローラモ・オルシーニに、市民の安全及び移転の自由などを条件として市の明け渡しを認める。
1540年6月5日
ペルージア、教皇軍により占領・制圧される。
1540年6月12日
シュパイエルで1540年5月23日開催を予定されていたドイツのカトリック・プロテスタント両派の宗教討議、同地でのペストの蔓延のためアグノーに場を移し、この日、フェルディナンドにより開会を宣言される。
自分の代理を討議に出席させておけばそこで生ずるかもしれない両派の和解・妥協を公認することになるのではないかと懸念したパウルス3世、代理を送らず無視。
1540年7月5日
パウルス3世、「天主の貧しき僕の会」(1532年~)を公認。
1540年9月27日
パウルス3世、イエズス信徒会を解消したイエズス会(Societas Jesu)を会員数の制限(60名)付きで公認。
1540年11月5日
パウルス3世、カメリーノをオッタヴィオ・ファルネーゼに封与。但しこの報、カメリーノには翌1541年7月12日に届く。
1540年11月25日
ドイツのカトリック・プロテスタント両派宗教討議、ヴォルムスで、カトリック側からJ. EckGiovanni Morone(1509年~1580年:枢機卿1542年~1580年)、パウルス3世の特使Tommaso Campeggio(1481年~1564年)ら、プロテスタント側からJ. CalvinM. Bucerらが出席し、カール5世の大法官・全権特使Nicolas Perrenot de GranvelleGranvela:1486年頃~1550年:大法官在位1530年~?)を議長として開会。しかし実質討議は翌1541年1月まで遅滞。
1541年2月25日
パウルス3世、対オスマン・トルコ軍事費のためとして加重した塩税の納入を拒否していた(1537年~)コロンナ家の統領Ascanio Colonna(1490年代~1557年)に、3日以内に出頭しその未納について弁明するよう命令。
しかしAscanio Colonna、これを拒否しコジモ1世・デ・メディチに支援を求める。これに対しパウルス3世、直ちにピエル・ルイジ・ファルネーゼ指揮の軍をローマに結集。
以後、ペドロ・デ・トレドカール5世の特使としてローマに入って両者の仲介を、ヴィットーリア・コロンナローマに帰り両者の交渉の進展を、それぞれ試みるが実らず。
1541年2月
ニッコロ・マキアヴェッリCliziaピエル・ルイジ・ファルネーゼの長子(パウルス3世の孫)・枢機卿Alessandro Farnese(1520年~1589年:在位1534年~1589年)邸(ローマ)で上演される。
1541年3月中旬
パウルス3世ピエル・ルイジ・ファルネーゼ指揮の軍にコロンナの家領を攻撃させ、主要地点を次々と陥落させる。
1541年4月27日~1541年5月25日
レーゲンスブルク帝国議会(1541年4月5日~)におけるドイツのカトリック・プロテスタント両派の宗教討議、カトリック側からJ. EckNicolas Perrenot de GranvelleGiovanni MoroneTommaso Campeggioパウルス3世の特使G. Contarini、プロテスタント側からMelanchthonJ. CalvinM. Bucerらが出席して開催され、義認をめぐる教理の和解成立かとの期待、生ずる。
1541年5月26日
コロンナ家ペドロ・デ・トレドにも支援を求めたものの、パウルス3世フランソワ1世側に追いやることは避けたいカール5世側の思惑からここでも聞き入れられず、この日、最後の拠点パリアーノの城塞も制圧され、全面的に敗北。
統領Ascanio Colonnaを初め一族はナポリに亡命し、所領は全てパウルス3世に没収される。
1541年7月28日
レーゲンスブルク帝国議会、閉会(1541年4月~)。宗教討議(1541年4月~1541年5月)で成立を期待された義認をめぐる和解、カトリック側ではパウルス3世の、プロテスタント側ではマルティン・ルターの峻拒に会って成立せず、3次にわたる宗教討議は失敗に終わる(1540年~)。
1541年9月13日~9月18日
パウルス3世カール5世ルッカで会見・懸案の公会議問題の解決にカール5世の協力を得たいパウルス3世と、スペインなど地中海沿岸各地を略奪して回っているのみならず、フランソワ1世の水軍と共同行動をとる可能性のあるBarbarossa指揮オスマン・トルコ水軍の根拠地アルジェ攻撃を敢行するため、パウルス3世を介して自分へのフランソワ1世の敵対行動を抑えたいカール5世、会見。共にオスマン・トルコに対抗しフェルディナンドを支援する点では合意したものの、公会議開催問題などの点では合意に至らずに終わる。
フランソワ1世ルッカに使節を送り、1541年7月の自分の使節2名の殺害の罪で、アルフォンソ3世・ダヴァーロスを裁判に付すようパウルス3世に要求するが、自分も自分の総督も全く関知していないとのカール5世の主張によって、退けられる。
フェッラーラエルコーレ2世・デステフィレンツェコジモ1世・デ・メディチなど、ルッカに入りカール5世に表敬。
1541年10月下旬
カール5世ルッカ会見におけるパウルス3世の忠言やアンドレア・ドーリアなど自軍首脳揃っての諌止を聞き入れず、アンドレア・ドーリア指揮の大艦隊を率いてBarbarossa指揮オスマン・トルコ水軍の根拠地アルジェを攻撃。しかし、突然襲来した激しいハリケーンとそれに乗じての現地Barbaria人軍団の反撃にあって壊滅的打撃を受け、カール5世自身も危機に陥る。以後、オスマン・トルコ水軍、フランソワ1世水軍との提携の下、北アフリカのスペイン拠点を次々と攻略。
1542年4月26日
ドイツにおけるカトリック・プロテスタント両派の宗教討議の失敗を受けてパウルス3世、帝国都市トレント(トリエント)で1542年11月1日公会議を開催することを、フランソワ1世側の反対を抑えて枢機卿会議で決める。1542年5月22日、勅書を発して公表。
これに対してフランソワ1世、激しく反発し司教の派遣を拒否。
1542年7月21日
パウルス3世ローマジョヴァンニ・ピエトロ・カラーファら6名の枢機卿からなるローマ及び世界異端審問所(Congregatio Momanae et universalis inquisitionis:のちの検邪聖省(Sanctum Officium))を、各キリスト教国にその代行機関をそれぞれ設置する勅書を発し、宗教改革運動排撃・反宗教改革の姿勢を明確に打ち出し始める。
1542年11月1日
この日トレントで開催予定の公会議、パウルス3世は特使・枢機卿Reginald PoleGiovanni MoronePietro Paolo Parisio(1473年~1545年:在位1539年~1545年)を派遣したものの、フランソワ1世は司教を派遣せず、カール5世も大法官Nicolas Perrenot de Granvelleを派遣しながら司教をしないなど、参集者が少なく、開催できず。
1543年2月11日
カール5世ヘンリー8世カール5世は自身の対戦相手である、ヘンリー8世は自身が併合を目指すスコットランドの背後にあるフランソワ1世に共に対抗する秘密同盟を締結。
この同盟についてカール5世パウルス3世に使者を送り、対フランソワ1世戦ないしは対フランソワ1世同盟国(オスマン・トルコ)戦のためのものであり、イングランド教会を支持してローマ教会・パウルス3世に対抗するものではないどころか、ヘンリー8世を正道に引き戻すためのものであると弁明。
1543年6月22/23~24/25日
パウルス3世カール5世パウルス3世の申し込みによりパルマ近郊ブッセートで会見し、(1)ミラノ領有問題、(2)トレント公会議開催問題、などについて討議。しかし(1)についてはパウルス3世は自家ファルネーゼ家の威勢拡大を企図しながら自身の孫・カール5世の娘婿オッタヴィオ・ファルネーゼへの封与を提案し、カール5世は自身の子フェリペ2世による領有の現状維持を目論み、カール5世(2)についてパウルス3世カール5世フランソワ1世戦の終結までの延期を図り、カール5世は自身とフランソワ1世の間で中立を装うパウルス3世に不満を抱きながら自派の枢機卿の増員・トレントでの早期開催を主張するなど、懸案のいずれについても合意できずに終わる。
1543年7月6日
パウルス3世カール5世フランソワ1世戦争及びオスマン・トルコによるキリスト教諸国侵攻という状況に鑑み、公会議の開催を適切な時期まで延期することを枢機卿会議で決め、直ちに勅書を発して公表。
1543年
ポルトガル船、種子島に漂着
1543年
コペルニクス「天球の回転について」
1543年
教皇庁、禁書目録作成
1544年9月18日
クレピーの和:カール5世ヘンリー8世両軍によるパリ攻撃・占領の危険を感ずるフランソワ1世と、前進・撤退いずれの策も自軍の大損害を招くと見たカール5世、クレピーで和約し、(1)フランソワ1世の第三子OrléansCharlesd'Orléans:1522年~:在位1536年~)はカール5世の娘マリア・デ・アブスブルゴ(1528年~1603年)と結婚し婚資としてネーデルラントを得るか、フェルディナンドの娘Annavon Österreich:1528年~1590年)と結婚し婚資としてミラノを得る、(2)フランソワ1世ミラノナポリ及びフランドル、アルトワへの継承請求権を放棄する、(3)カール5世はピエモンテ、サヴォイアを、フランソワ1世はブーローニュをそれぞれ返還する、(4)両者は共にオスマン・トルコに対抗する、(5)宗教の再統合のために公会議の開催を促進し、カール5世はドイツ・プロテスタントといかなる同盟も結ばない、ことを約定(第4次カール5世フランソワ1世戦争終結(1542年~))。
ヘンリー8世、この和約を受容しながらも、約定の前に占領したことを理由にブーローニュ占領を解かず、フランソワ1世軍に対する戦闘を続行。
しかしこの和により、カール5世は西ヨーロッパで圧倒的な優位を、とりわけイタリアで決定的優位を占め、領内ドイツでのプロテスタントとの対決に専心可能となり、フランソワ1世はドイツ・プロテスタント諸侯との同盟の必要性から解放されたことに伴い、パウルス3世はこの両者から協力を得られることになってトレント公会議開催の主たる障害から解放される。
1545年3月15日
この日、トレントで開催予定の公会議、パウルス3世の特使・枢機卿Reginald Poleジョヴァンニ・マリーア・チオッキ・デル・モンテ(1487年~1555年:在位1536年~:教皇在位1550年~1555年)、マルチェロ・チェルヴィーニ(1501年~1555年:在位1539年~:教皇在位:1555年)の他数名の司教・枢機卿しか集まらず、開催できずに終わる。
1545年8月12日
パウルス3世、枢機卿会議で、カメリーノとネピオッタヴィオ・ファルネーゼから取り上げて教会直轄領とし、代わりに教会領のパルマとピアチェンツァを結合した上でピエル・ルイジ・ファルネーゼに封与すること、オッタヴィオ・ファルネーゼにはカストロ公国を封与すること、などを、かねてから娘婿オッタヴィオ・ファルネーゼへのパルマ・ピアチェンツァ封与を公然と希望していたカール5世側の枢機卿の猛反対を押して強引に議決。1545年8月26日付の勅書で公表。
パウルス3世のこの自家勢力拡大策(nepotismo)をカール5世、準備しつつあるプロテスタントとの戦にパウルス3世の指示を必要とすること、1545年8月27日娘マルゲリータ・ディ・パルマオッタヴィオ・ファルネーゼの間に子供が生まれ、子供のないピエル・ルイジ・ファルネーゼへの1545年8月26日付の封与はこの新たな孫への継承の可能性を持つこと、から表面上、黙過。
1545年11月6日
パウルス3世、1545年12月13日トレントで公会議を開催することを枢機卿会議で改めて決める。
1545年12月13日
トレント公会議開催:公会議、トレント(トリエント)大聖堂でようやく開会(~1563年)。但し、プロテスタントの出席者がないまま、教皇特使3名を含む34名のローマ教会高位聖職者が出席し、特使Reginald Poleを議長とする、かつ全議会に教皇の批准を必要とする、純然たるカトリック会議となる。
1545年
トリエント公会議(-63)
1546年1月22日
トレント公会議、主要審議課題は教義の確定だとするパウルス3世側と、教会改革だとするカール5世側とが鋭く対立する中、この日、両課題を同時並行的に審議していくことを決める。
1546年4月8日
トレント公会議、(1)旧約聖書新約聖書の他、聖伝も信仰の基準とすること、(2)教会で伝統的に用いられてきたラテン語訳聖書Vulgataを公認基準聖書とすると共にその批評校訂版が必要であること、(3)教会を聖書の唯一の標準的解釈者とすること、(4)聖書の出版は教会の許可なくしては行ってはならないこと、など伝統的なカトリックの教義の基本原則を確認することにより、異端を認めない絶対的教条を決定。
1546年5月
すでに対シュマルカルデン同盟戦争を企図していたカール5世、軍の移動を始める一方、パウルス3世に同盟に対抗するための特別協定の素案を提示。
1546年6月7日
カール5世パウルス3世の使節に、(1)自分がこの月内にもシュマルカルデン同盟に対して戦端を開き、以後パウルス3世の明確な同意なしにはプロテスタントとこの戦争の原因や目的に関して、とりわけ教会の教義や規定に触れる事柄についていかなる譲歩・合意もしない、(2)自分にパウルス3世は軍資金と大軍を送る、(3)両者はいずれか一方にとって障害となる者に共に対抗する、などを骨子とする対シュマルカルデン同盟特別協定案を、前日付で自分が署名した上で手渡す。
1546年6月26日
パウルス3世、4日前に枢機卿会議で承認を得たカール5世署名の対シュマルカルデン同盟特別協定に署名。これにより、パウルス3世カール5世の対プロテスタント連合、成立。
1546年8月7日
カール5世軍、パウルス3世が派遣したオッタヴィオ・ファルネーゼ総指揮の大援軍とランツフートで合流することに成功。以後さらにコジモ1世・デ・メディチからリドルフォ・バリオーニ指揮の援軍、エルコーレ2世・デステからの援軍などをも加え、大幅に増強される。
1546年末
ジェノヴァシエナのみならずパルマ・ピアチェンツァをも直接、支配下に収めようと企図し、後者の公ピエル・ルイジ・ファルネーゼの失脚を狙いながらもそのためにはパウルス3世の死を待つ他はないと考えるカール5世に、フェッランテ・ゴンザーガ、公の強力・苛烈な統治で伝来の封建的特権を制約され不満を強めている貴族を利用するよう提案。
1547年1月2日~1月3日
ジェノヴァの貴族Gian Luigi Fieschi (il Giovane)(1522年~)とその兄弟Gerolamo FieschiOttobono Fieschi(?~1555年)、カール5世を背景にジェノヴァを事実上専制的に支配するアンドレア・ドーリア一族の放逐とフランソワ1世の庇護下でのBarnaba Adorno(?~1558年)による統治を目指し、市内の親フランス派貴族と結んで、武装蜂起。
市の城門を閉め、港に停泊中のアンドレア・ドーリア艦船を捕獲し、彼の後継者Giannettino Doriaを殺害するなど目的完遂かと思われたが、アンドレア・ドーリア自身には逃げられた上、Gian Luigi Fieschi (il Giovane)が艦船を乗り移る最中に海に落ちて溺死し、それと共に仲間が逃亡し、蜂起は失敗に終わる。
市内に戻ったアンドレア・ドーリアGerolamo Fieschi(?~)らを処刑するなど、蜂起勢力を厳しく処罰。
カール5世ジェノヴァの蜂起にはピエル・ルイジ・ファルネーゼパウルス3世が関与しているとしてパウルス3世の使節に抗議するが、否定され斥けられる。
1547年1月13日
トレント公会議、正義は信仰と人間の行為によると定め、信仰のみによるとする宗教改革の根本原理を否定してこれに対抗する立場を明確化する。
1547年1月22日
パウルス3世カール5世Moritzとの協定(1546年6月)などにより対シュマルカルデン同盟特別協定(1546年6月)の(1)に違反しているとして、自身がカール5世に派遣した(1546年8月)援軍を引き上げる勅書を発する。
1547年3月11日
パウルス3世の特使ジョヴァンニ・マリーア・チオッキ・デル・モンテらトレント公会議の多数派、パウルス3世の意を付度し、シュマルカルデン戦争における勝利を確定的にしたカール5世の圧力を回避すべく、発疹チフスの流行で会議参加者にも罹患・死亡が相次いでいることを理由に会議のボローニャ移転を決議。少数反対派はトレントに残留することを決め、これを支持するカール5世は以後、威嚇してボローニャ会議での決議宣言を阻止し続ける。
1547年9月12日
フェッランテ・ゴンザーガ、軍と共にピアチェンツァに入り、カール5世の名をもって占領。ピエル・ルイジ・ファルネーゼを倒した貴族たちにピアチェンツァはファルネーゼ家にもパウルス3世にも渡さぬと宣言。さらにパルマをも狙う。
1547年9月16日
ピエル・ルイジ・ファルネーゼ暗殺・フェッランテ・ゴンザーガによるピアチェンツァ占領の報を逗留中のペルージアで受けたパウルス3世、この日までにアレッサンドロ・ヴィテッリ指揮の軍と共に故人の子オッタヴィオ・ファルネーゼパルマに急派。同時に教会領内で全力を傾注して兵を集め、次々とパルマに送る。これによりパルマは辛うじてファルネーゼ家の配下に残る。以後パウルス3世カール5世にピアチェンツァの返還を求め続ける。
1548年7月31日
イエズス会の活動の精神的源泉として自己の魂の浄化、意志の発見、神の意志への完全な献身を説くイグナティウス・デ・ロヨラEjercicios espirtuales(心霊修業(霊操))を、全篇くまなく敬神の心と至誠に満ちた書だと絶賛し全信徒にこの書から学べと勧奨する勅書を発すると共に、直ちにこの書を刊行させる。
1548年7月
この頃?、1547年来カール5世と信仰上も政治上も反発・対立を強めてきたパウルス3世、ピエモンテにあるアンリ2世に反カール5世協定の締結を密かに働きかける。しかしアンリ2世、この協定を望みながらも高齢のパウルス3世の死とそれによる同盟の瓦解の可能性を危惧し、イタリア諸都市の同盟参加を条件として提示するなどしながら状況の推移を見守る。
1549年9月13/14日
ボローニャでの多数派による公会議の中止を宣言。この会議はついに1度も議決宣言を出さず、カール5世の抗議に屈した形で終わる。
1549年11月10日
早朝死。

 パウルス3世霊廟

任命した枢機卿

1536年12月22日 ジョヴァンニ・ピエトロ・カラーファ
ジョヴァンニ・マリーア・チオッキ・デル・モンテ
1538年12月20日 イッポーリト・ディ・アルフォンソ・デステ
ピエトロ・ベンボー
1539年12月19日 マルチェロ・チェルヴィーニ
1549年4月8日 ジョヴァンニ・アンジェロ・メディチ

チェーザレ・ボルジア数

 きょうだいジューリア・ファルネーゼ→夫オルシーノ・ミリオラーティ→母アドリアーナ・デル・ミラ→父ペレ・デル・ミラ→母カテリーナ・デ・ボルハ→きょうだいイザベッラ・デ・ボルハ→子アレクサンデル6世→子チェーザレ・ボルジア

別表記

 パウロ3世、パウル3世、ペチコート枢機卿

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 チェーザレ・ボルジアとその周辺
 Find A Grave
 GCatholic.com
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Treccani.it

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界悪女大全』
 『世界大百科事典』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家の人びと』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ハプスブルク家』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス百科事典』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ルネサンスの女たち』
 『Lucretia Borgia

記載日

 2005年5月29日以前
ファルネーゼ家
歴史人物辞典
そこそこアレな感じで