Pazzino de' Pazzi

パッツィーノ・デ・パッツィ

生没:11世紀後半~12世紀初め

概要

 パッツィーノ・デ・パッツィは、十字軍の伝説的な騎士、フィレンツェパッツィ家の始祖。

年表

1099年7月15日
第1回十字軍にて、エルサレムの壁を素手で登り、聖地に入った最初の騎士という。壁周辺にいたイスラム教徒を倒し、追い払って、十字軍が町を征服する道を切り開く。
1099年7月
その戦功を称えられ、ゴドフロワ・ド・ブイヨンにより、聖墳墓の石を3つ贈られる。青地に2頭の海豚と金の十字架というパッツィ家の紋章もこの時に贈られる。
1101年7月16日
フィレンツェに帰還し、名誉をもって迎えられ、祝われる。

スコッピオ・デル・カッロ Scoppio del Carro


 パッツィーノ・デ・パッツィが持ち帰った3つの石は、毎年復活祭の日に行われる祭スコッピオ・デル・カッロで山車を発火させる火打石で、フィレンツェにとって大きな価値を有している。この石は初めパッツィ家で保管されていたが、その後1785年までサンタ・マリア・ソプラ・ポルタ教会で、1785年5月27日からサンティ・アポストリ教会の入って左側の礼拝堂の中にて保存されている。
 復活祭の前日の聖土曜日になると、この石でおこされた火は聖なる火として街中に配られた。聖なる光は、死の支配する闇から解き放つものとして復活の象徴とされたのである。
 山車によって聖なる火が運ばれるようになり、14世紀末頃から花火が使用されるようになったという。山車と関連費用はパッツィ家に任されていたが、パッツィ家の陰謀のために1478年にこの名誉は剥奪される。それと共に山車は聖なる火を配るだけのものとなったが、花火を使った華々しいお祭りを惜しみ、パッツィ家の陰謀以前の慣習に戻される。
 1494年のメディチ家追放後、パッツィ家に再び権利が戻り、現在のようなさらに大掛かりな仕掛けのある山車を用意した。しかし1679年、山車はサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の広場に曳かれてくる途中で老朽化のため粉々になり、1765年に作り直された。1859年パッツィ家の直系のガエターノ・デ・パッツィが亡くなったのを機に、市当局がスコッピオ・デル・カッロを主催することになった。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『メディチ家の人びと』

記載日

 2019年4月29日