Pier Luigi Farnese

ピエル・ルイジ・ファルネーゼ

生没:1503年11月19日~1547年9月10日
在位:教会の旗手 1537年2月1日~1547年
   カストロ公 1537年~1545年
    次代:オッタヴィオ・ファルネーゼ
   パルマ公 1545年9月16日~1547年9月10日
    次代:オッタヴィオ・ファルネーゼ
   ピアチェンツァ公 1545年~1547年
    次代:オッタヴィオ・ファルネーゼ
父:パウルス3世
妻:ジローラマ・ディ・ルドヴィーコ・オルシーニ
子:アレッサンドロ・ファルネーゼ
  ヴィットーリア・ファルネーゼ
  オッタヴィオ・ファルネーゼ
  ラヌッチオ・ファルネーゼ
  オラツィオ・ファルネーゼ

概要

 ピエル・ルイジ・ファルネーゼは、16世紀のイタリアの男性。

年表

1537年1月31日
パウルス3世により、教会の旗手に任命される。
1537年3月14日
教皇パウルス3世により、新公国として、ネピとロンチリオーネを封ぜられる。
1537年10月31日
パウルス3世、長子ピエル・ルイジ・ファルネーゼとその正統相続人のためにカストロ公国を創り、これを近くの都市ネピ、ロンチリオーネ、Capraloraと共に封与(1537年11月1日)。
1538年2月
カール5世パウルス3世の長子ピエル・ルイジ・ファルネーゼに、自身とパウルス3世の仲介者となることを期待してノヴァーラを封与。
1538年11月29日
パウルス3世ピエル・ルイジ・ファルネーゼにその軍を率いてカメリーノを攻撃するよう指令。
1540年5月8日
パウルス3世ピエル・ルイジ・ファルネーゼアレッサンドロ・ヴィテッリジローラモ・オルシーニらの指揮の下にペルージアに送った教皇軍とペルージア守備軍の衝突、戦闘、始まる。
1541年2月25日
パウルス3世、対オスマン・トルコ軍事費のためとして加重した塩税の納入を拒否していた(1537年~)コロンナ家の統領Ascanio Colonna(1490年代~1557年)に、3日以内に出頭しその未納について弁明するよう命令。
しかしAscanio Colonna、これを拒否しコジモ1世・デ・メディチに支援を求める。これに対しパウルス3世、直ちにピエル・ルイジ・ファルネーゼ指揮の軍をローマに結集。
以後、ペドロ・デ・トレドカール5世の特使としてローマに入って両者の仲介を、ヴィットーリア・コロンナローマに帰り両者の交渉の進展を、それぞれ試みるが実らず。
1541年2月
ニッコロ・マキアヴェッリCliziaピエル・ルイジ・ファルネーゼの長子(パウルス3世の孫)・枢機卿Alessandro Farnese(1520年~1589年:在位1534年~1589年)邸(ローマ)で上演される。
1541年3月中旬
パウルス3世ピエル・ルイジ・ファルネーゼ指揮の軍にコロンナの家領を攻撃させ、主要地点を次々と陥落させる。
1543年6月12日
フランソワ1世戦に対処するためスペインから海路イタリアに入り、アルフォンソ3世・ダヴァーロスピエル・ルイジ・ファルネーゼフランチェスコ3世・ゴンザーガ及びコジモ1世・デ・メディチらの表敬訪問を受けていたカール5世、この日パヴィアコジモ1世・デ・メディチに、フィレンツェ領内の城塞を巨額の軍資金との引き換えで返還すると約束。1543年7月3日?、返還。
1545年8月12日
パウルス3世、枢機卿会議で、カメリーノとネピオッタヴィオ・ファルネーゼから取り上げて教会直轄領とし、代わりに教会領のパルマとピアチェンツァを結合した上でピエル・ルイジ・ファルネーゼに封与すること、オッタヴィオ・ファルネーゼにはカストロ公国を封与すること、などを、かねてから娘婿オッタヴィオ・ファルネーゼへのパルマ・ピアチェンツァ封与を公然と希望していたカール5世側の枢機卿の猛反対を押して強引に議決。1545年8月26日付の勅書で公表。
パウルス3世のこの自家勢力拡大策(nepotismo)をカール5世、準備しつつあるプロテスタントとの戦にパウルス3世の指示を必要とすること、1545年8月27日娘マルゲリータ・ディ・パルマオッタヴィオ・ファルネーゼの間に子供が生まれ、子供のないピエル・ルイジ・ファルネーゼへの1545年8月26日付の封与はこの新たな孫への継承の可能性を持つこと、から表面上、黙過。
1546年末
ジェノヴァシエナのみならずパルマ・ピアチェンツァをも直接、支配下に収めようと企図し、後者の公ピエル・ルイジ・ファルネーゼの失脚を狙いながらもそのためにはパウルス3世の死を待つ他はないと考えるカール5世に、フェッランテ・ゴンザーガ、公の強力・苛烈な統治で伝来の封建的特権を制約され不満を強めている貴族を利用するよう提案。
1547年1月2日~1月3日
ジェノヴァの貴族Gian Luigi Fieschi (il Giovane)(1522年~)とその兄弟Gerolamo FieschiOttobono Fieschi(?~1555年)、カール5世を背景にジェノヴァを事実上専制的に支配するアンドレア・ドーリア一族の放逐とフランソワ1世の庇護下でのBarnaba Adorno(?~1558年)による統治を目指し、市内の親フランス派貴族と結んで、武装蜂起。
市の城門を閉め、港に停泊中のアンドレア・ドーリア艦船を捕獲し、彼の後継者Giannettino Doriaを殺害するなど目的完遂かと思われたが、アンドレア・ドーリア自身には逃げられた上、Gian Luigi Fieschi (il Giovane)が艦船を乗り移る最中に海に落ちて溺死し、それと共に仲間が逃亡し、蜂起は失敗に終わる。
市内に戻ったアンドレア・ドーリアGerolamo Fieschi(?~)らを処刑するなど、蜂起勢力を厳しく処罰。
カール5世ジェノヴァの蜂起にはピエル・ルイジ・ファルネーゼパウルス3世が関与しているとしてパウルス3世の使節に抗議するが、否定され斥けられる。
1547年9月10日
フェッランテ・ゴンザーガカール5世の承認の下、ピエル・ルイジ・ファルネーゼに不満を強めているピアチェンツァの貴族と結び、この日、彼らにピエル・ルイジ・ファルネーゼを刺殺させる(1503年~:パルマ・ピアチェンツァ公1545年~)。
1547年9月12日
フェッランテ・ゴンザーガ、軍と共にピアチェンツァに入り、カール5世の名をもって占領。ピエル・ルイジ・ファルネーゼを倒した貴族たちにピアチェンツァはファルネーゼ家にもパウルス3世にも渡さぬと宣言。さらにパルマをも狙う。
1547年9月16日
ピエル・ルイジ・ファルネーゼ暗殺・フェッランテ・ゴンザーガによるピアチェンツァ占領の報を逗留中のペルージアで受けたパウルス3世、この日までにアレッサンドロ・ヴィテッリ指揮の軍と共に故人の子オッタヴィオ・ファルネーゼパルマに急派。同時に教会領内で全力を傾注して兵を集め、次々とパルマに送る。これによりパルマは辛うじてファルネーゼ家の配下に残る。以後パウルス3世カール5世にピアチェンツァの返還を求め続ける。
1551年5月27日
オッタヴィオ・ファルネーゼアンリ2世と同盟を結んで軍資金と武器の援助を約束される。
これに憤激したカール5世、直ちにオッタヴィオ・ファルネーゼから、自らがその父ピエル・ルイジ・ファルネーゼに封与した(1538年)ノヴァーラなどを取り上げ、ユリウス3世の甥Giovan Battista del Monteに封与。

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 Treccani.it

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの歴史』
 『Lucretia Borgia

記載日

 2005年5月29日以前