Piero il Fatuo

ピエロ・イル・ファトゥオ

生没:1472年2月15日~1503年12月28日
出身:フィレンツェ
没地:ガリリャーノ川
父:ロレンツォ・イル・マニーフィコ
母:クラリーチェ・ディ・ヤコポ・オルシーニ
妻:アルフォンシーナ・オルシーニ
子:ロレンツォ・デ・メディチ
  クラリーチェ・デ・メディチ

概要

 ピエロ・デ・メディチは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

年表

1472年2月15日
ロレンツォ・イル・マニーフィコの長男ピエロ・イル・ファトゥオ。
1487年2月25日
ヴェネツィアに加えてフィレンツェをフェッランテ・ダラゴーナに対抗する同盟相手としようとするインノケンティウス8世と、教皇の権威を利用して自家の権威を増大させようと狙うロレンツォ・イル・マニーフィコ、教皇の長子で40歳近いフランチェスケット・チーボ(1449年~1519年)と、ロレンツォ・イル・マニーフィコの14歳の次女マッダレーナ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ(1473年~1519年)の結婚を取り決める。
ロレンツォ・イル・マニーフィコ、長男ピエロ・イル・ファトゥオと、ローマの有力貴族オルシーニ家の娘でロレンツォ・イル・マニーフィコの妻クラリーチェ・ディ・ヤコポ・オルシーニの従妹アルフォンシーナ・オルシーニ(1472年~1520年)との結婚を代理人誓約の形で取り決める。
これらの婚姻政策により、メディチ家は教皇庁及びローマ貴族との結びつきを強め、ロレンツォ・イル・マニーフィコは事実上の君主の地位をフィレンツェ内外でさらに固める。
加えてロレンツォ・イル・マニーフィコ、次男ジョヴァンニ・デ・メディチを枢機卿にすべく、密かに教皇庁内で工作を始める。
1492年4月13日、4月16日
長子ピエロ・イル・ファトゥオがロレンツォ・イル・マニーフィコの公職を、その継承資格年齢に達していないにも拘らず継承することを、百人委員会、コンシーリオ・デル・ポーポロ、コンシーリオ・デル・コムーネで承認。これによってピエロ・イル・ファトゥオ、スムーズにロレンツォ・イル・マニーフィコの後を継ぐ。
1492年8月10/11日
すでに大きな財を貯え複数の女婿との間で複数の子をなすなど世俗的頽廃を一身に備える名うての枢機卿ロドリゴ・ボルジア空前絶後と言われる激しい贈収賄と聖職売買により、ほとんどの者の予測を超えて教皇に即位し、アレクサンデル6世を名乗って8月26日、戴冠(教皇在位1492年~1503年)。
この過程でアレクサンデル6世選出の主動因の役を果たした枢機卿でルドヴィーコ・イル・モーロの弟アスカーニオ・マリーア・スフォルツァは、以後、教皇庁内部で教皇に匹敵する力を持ち続ける。
ピエロ・イル・ファトゥオらフィレンツェ代表団がローマに赴いて教皇即位を祝し、恭順の意を表したのを初め、イタリア諸国の代表団、アレクサンデル6世の即位に不満のジェノヴァのそれをも含めて陸続とローマに赴き、新教皇に祝意と恭順の意を表する。
この各国代表団を一団にまとめてその中心に位置しようと企図していたルドヴィーコ・イル・モーロは、ピエロ・イル・ファトゥオに無視され、先を越され、フィレンツェに警戒心を抱く。
1492年9月3日
インノケンティウス8世の死後、フィレンツェの義兄ピエロ・イル・ファトゥオのもとに身を寄せていたフランチェスケット・チーボ、父から与えられた教会領の戦略上の拠点ローマ近郊AnguillaraとCervetriを、ピエロ・イル・ファトゥオとフェッランテ・ダラゴーナの仲介と尽力により、フェッランテ・ダラゴーナの隊長でローマの反アレクサンデル6世勢力の中心であるオルシーニ一族のヴィルジーニオ・オルシーニ(?~1496年)に売却。この費用を受け持ったフェッランテ・ダラゴーナは教会領の拠点を押さえ、自分への包囲網を敷かれたと感じたアレクサンデル6世は強く警戒。
この後、ピエロ・イル・ファトゥオは、父ロレンツォ・イル・マニーフィコの方針(=フェッランテ・ダラゴーナアルフォンソ2世・ダラゴーナ父子とスフォルツァ家を仲介し両者の均衡を保持する)を転換し、オルシーニ家を介してフェッランテ・ダラゴーナアルフォンソ2世・ダラゴーナ父子の側に立つ。これに対しルドヴィーコ・イル・モーロは、一掃シャルル8世に期待し傾斜。
1493年4月25日
アレクサンデル6世ルドヴィーコ・イル・モーロ及びヴェネツィア、ルドヴィーコ・イル・モーロとその弟、枢機卿アスカーニオ・マリーア・スフォルツァの主導により、前年のフェッランテ・ダラゴーナとピエロ・イル・ファトゥオの連携に抗すべく防衛同盟を締結。ルドヴィーコ・イル・モーロとヴェネツィアはヴィルジーニオ・オルシーニが取得したチェルヴェーテリとアングイララの奪回のための軍事負担に同意し、アレクサンデル6世の身辺警護の軍を派遣。
間もなくこの同盟にシエナのパンドルフォ・ペトルッチ、ヤコポ・ペトルッチ兄弟、フェッラーラのエルコーレ1世・デステ、マントヴァのフランチェスコ2世・ゴンザーガも加わる。
1494年
ピエロ・イル・ファトゥオ、シャルル8世の使節に対し、伝統的な親フランス政策を転換してナポリを支持し防衛すると表明。
1494年6月
シャルル8世により、ピエロ・イル・ファトゥオの政策転換への対抗策として駐シャルル8世宮廷大使及びメディチ銀行リヨン支店支配人を追放される。
1494年夏~初秋
メディチ一族及びメディチ派有力貴族の内部にもナポリ支持政策に反対してピエロ・イル・ファトゥオから離反し、親フランスの動きを示す者が生じるなど、市民の間にメディチ支配を逃れようとの動き広まる。ピエロ・イル・ファトゥオは、この動きを促進している者として、ピエルフランチェスコ・デ・メディチ(1430/1431年~1476/1477年)の子ロレンツォ・イル・ポポラーノ(1463年~1503年)とジョヴァンニ・イル・ポポラーノ(1467年~1498年)を市外に追放。両名はフランスに逃亡。
1494年10月26~末日
親フランス派が市内で大勢を占める中、ピエロ・イル・ファトゥオは、公的な権限のないまま独断でサルザーナ近くのシャルル8世の陣に交渉に向かう。
交渉の過程で、領内ピサ、リヴォルノ、Sarzanello、サルザーナ、ピエトラサンタの難攻不落の要塞の放棄、巨額の軍資金の支払い、などシャルル8世の要求を全て受容。市内に不満と怒り強まり、ピエロを祖国の裏切り者と呼ぶ声が上がり始める。
1494年11月4日
シニョーリアは、コンシーリオ・デル・セタンタを召集し、対策を諮問。ピエロ・カッポーニ(1446年~1496年)がピエロ・イル・ファトゥオを支配者として相応しくないと断定し、彼の幼稚な専制支配を終わらせて市民の自由を回復せよと強調するなど、メディチ派の有力者たちがメディチ支配に公然と反抗し始める。
1494年11月5日
百人委員会は、前日のコンシーリオ・デル・セタンタでのピエロ・カッポーニの発言に基づき、ジローラモ・サヴォナローラピエロ・カッポーニなど5名の使節をシャルル8世の元に派遣し、反フランス政策への転換はピエロ・イル・ファトゥオ個人の責任であること、ピエロ・イル・ファトゥオをフィレンツェの公式の代表とは認めないこと、を言明してピエロ・イル・ファトゥオを慰撫することを決議。5名の使節出発。ジローラモ・サヴォナローラは、初めて政治の全面に登場。
1494年11月
この頃、ピエロ・イル・ファトゥオによって追放されてシャルル8世の陣にいたロレンツォ・イル・ポポラーノジョヴァンニ・イル・ポポラーノが市内に戻り、反メディチ支配の気運なお高まる。
1494年11月8日
市内の状況を知ったピエロ・イル・ファトゥオは、急ぎ市内に戻る。
1494年11月9日
メディチ家支配体制崩壊:シニョーリアは、ピエロ・イル・ファトゥオに出頭命令を下す。しかし、武装した従者を率いてきたピエロ・イル・ファトゥオのヴェッキオ宮殿への立ち入りを禁止。ヴェッキオ宮殿の塔の鐘を鳴らして急を告げ、市民をシニョーリア広場に召集。反メディチを叫ぶ群衆市内に溢れ、ピエロ・イル・ファトゥオの帰途を妨害。
ピエロ・イル・ファトゥオ、辛うじてメディチ宮殿に帰着。市外にいた手兵を引き入れて抵抗しようと目論む。
シニョーリア、メディチ派への加担者を絞首刑に処し、祖国への反逆者ピエロ・イル・ファトゥオと弟ジョヴァンニ・デ・メディチを捕らえるか殺害した者に賞金を与えるとの布告を流す。
夕刻、ピエロ・イル・ファトゥオと弟ジョヴァンニ・デ・メディチは、少数の忠臣と共にボローニャへ逃亡。メディチ家支配体制、崩壊。
1494年11月17日
シャルル8世は、軍と共に厳かに市内に入り、自身はメディチ宮殿に投宿。自身に譲歩したピエロ・イル・ファトゥオを復辟させ、自身をピエロ・イル・ファトゥオの上に立つ大君主と見なすよう要求。
ジローラモ・サヴォナローラを除くピエロ・カッポーニら4名の代表団は、シャルル8世の脅迫的要求を拒否。交渉決裂。市内にフランス軍による略奪、蛮行の不安、恐怖広まる。
1494年11月20日
シニョーリアは、ピエロ・イル・ファトゥオを反逆者と宣言し、彼の身柄をシニョーリアに引き渡した者に賞金を与えると公式に布告。
1494年11月25日
シャルル8世は、先の要求を緩和。ピエロ・カッポーニら代表団と、ナポリ制圧後可能な限り速やかにピサをフィレンツェに返還すること、フィレンツェは彼にナポリ制圧のための多額の軍事金12万ドゥカーティを3回に分割して支払うこと、ピエロ・イル・ファトゥオ及びその兄弟をフィレンツェから追放しその財産を没収すること、などについて合意し、協定。
1495年6月12日
シャルル8世、軍にトスカーナ各地で略奪の限りを尽くさせながらピエロ・イル・ファトゥオを伴ってシエナに入る。必要なものを提供すると申し出るフィレンツェの使節に対して全領土を提供せよと威嚇。ピエロ・イル・ファトゥオの襲撃を警戒する市民、武器を取って臨戦態勢に入る。
1495年6月17日
シエナ領に入らずポッジボンシで待機していたジローラモ・サヴォナローラ、到着したシャルル8世と会見。1494年11月25日の約束を守ってフィレンツェのものを全て返還しピエロ・イル・ファトゥオ勢力を排除しなければ神にすぐ、重く罰せられるだろうと説諭。
以後ポッジボンシで一度、ピサ方面に向かうシャルル8世を追ってカステルフィオレンティーノで一度、会見し同様に説諭。
しかしシャルル8世からはピエロ・イル・ファトゥオ支援の中止のみを回答される。
1495年
この頃ピエロ・イル・ファトゥオ、ペルージア周辺のフィレンツェ領境で軍を整える。
1497年4月27~28日
ピエロ・イル・ファトゥオは、自分が軍を率いて城門に迫ればフィレンツェ市内の支持者や市民が決起して自分を迎え入れるであろうと期待し、ヴェネツィアの指揮官バルトロメオ・ダルヴィアーノ(1455年~1515年)の支援を得、1200余の兵を率いて城門に迫る。しかししないに期待した動きが全く見られず、何事もなせずに退却。
これをもってピエロ・イル・ファトゥオによる自身の復辟の策動が終わり、フィレンツェ市内のメディチ派も急速に衰退し始める。
代わって反メディチ、反ジローラモ・サヴォナローラの貴族の勢力が顕著に増大。
1498年10月末
バルトロメオ・ダルヴィアーノグイドバルド・ダ・モンテフェルトロの指揮するヴェネツィア軍は、カゼンティーノ地区のビッビエーナを占領。この軍にピエロ・イル・ファトゥオ、ジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ(1479年~1516年)兄弟が従う。
1501年
ラッファエーレ・デ・パッツィ司教と共にローマ出発。
1501年
シエナ境界に到着。
1502年6月
この頃、アレッツォに入り市民に歓迎される。
1503年12月28日
ルイ12世軍の陣にいたピエロ・イル・ファトゥオは、ガリリャーノ川で溺死。

別表記

 ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ、ピエーロ、ピエロ2世、ピエートロ、Pier de' Medici

関連項目

 The Borgias: 104, 105, 107

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 そらのお城
 Genealogy.EU
 THE BORGIAS wiki

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネッサンス夜話』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年5月29日以前