Piero il Gottoso

ピエロ・イル・ゴットーソ

生没:1416年~1469年12月2日
出身:フィレンツェ
没地:フィレンツェ
在位:正義の旗手 1461年1月~2月
父:コジモ・イル・ヴェッキオ
母:コンテッシーナ・デ・バルディ
妻:ルクレツィア・トルナブオーニ
子:ロレンツォ・イル・マニーフィコ
  ジュリアーノ・ディ・ピエロ・デ・メディチ
  ビアンカ・デ・メディチ
  ナンニーナ・デ・メディチ
  マリーア・ディ・ピエロ・デ・メディチ

概要

 ピエロ・デ・メディチは、15世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
 父コジモ・イル・ヴェッキオと息子ロレンツォ・イル・マニーフィコの間に挟まれ、彼らの偉大な業績の前にはかすんだ存在に見えるが、それでもピッティ陰謀事件を見事に乗り越え、5年間フィレンツェ共和国におけるメディチ家の支配体制を約5年間立派に守り抜いた。

性格

 穏健。教養に富む。

年表

1416年
誕生。
1449年1月1日
コジモ・イル・ヴェッキオの長子ピエロ・イル・ゴットーソ(1416年~1469年)の長子で後にil Magnificoと称されることになる。ロレンツォ・イル・マニーフィコ生(1449年~1492年)。
1450年3月
フランチェスコ1世・スフォルツァから年来の支援への感謝の書簡がシニョーリアとコジモ・イル・ヴェッキオに届き、シニョーリアはコジモ・イル・ヴェッキオの長子ピエロ・イル・ゴットーソネリ・ディ・ジーノ・ディ・ネリ・カッポーニ(1388年~1457年)、ディエティサルヴィ・ネローニルカ・ピッティ(1394年~1472年)の4名の祝賀使節をミラノに派遣すると共に、市内で祝賀行事を開催。
1461年1~2月
ピエロ・イル・ゴットーソ、この期の正義の旗手に就任。これを最後にメディチ家は、官職、顕職を占めることなく背後から事実の支配者として君臨。
1461年1~2月
この期の正義の旗手に就任。これを最後にメディチ家は、官職、顕職を占めることなく背後から事実上のフィレンツェ共和国の支配者として君臨。
1464年8月1日
コジモ・イル・ヴェッキオ、カレッジの別荘で死(1389年~1464年)。——長子ピエロ・イル・ゴットーソ(1416年~)、メディチ家の当主となる(1464年~1469年)。
折りしもメディチ銀行の衰退始まる。
1464年8月1日
コジモ・イル・ヴェッキオ、没。長子ピエロが、メディチ家の当主となる。
1464年8月8日
ピウス2世コジモ・イル・ヴェッキオの死を悼み、継承者、長子ピエロ・イル・ゴットーソにアンコーナから弔文を送る。最後の手紙となる。
1464年11月
コジモ・イル・ヴェッキオの残した莫大な債権の回収、新規事業の回避などピエロ・イル・ゴットーソによる金融、商業活動の整理、縮小策も作用して破産者が続出し始めるなど、経済的危機深まる。
同時にメディチ派の有力者のピエロ・イル・ゴットーソからの離反と伝統的共和政への回帰願望も表面化。
1464年
メディチ銀行ジュネーヴ支店、リヨンへの移転開始(1464年~1466年)。
1465年9月16日~1465年9月18日
シニョーリアの選出を伝統的な抽籤に戻す案、百人委員会、Consiglio del Popolo(平民評議会)及びConsiglio del Comune(自治都市評議会)において圧倒的多数で承認、決議される。
1465年11月8日~11月12日
オットー・ディ・グァルディアなどの伝統的抽籤による選出及び百人委員会の権限の縮小を、コンシーリオ・デル・ポーポロ、コンシーリオ・デル・コムーネ、百人委員会で決議。
この決議と1465年9月の決議により官職の選出方法は1458年改変から伝統的抽籤に回帰したものの、その被選出有資格者の決定はメディチ配下の有力者ないしその関係者が占めるアッコピアトーリによって行われる。
1465年
ルイ11世により、紋章の中にフランス王室の3本の百合を入れることを許可される。
1466年3月8日
最大の同盟者であるフランチェスコ1世・スフォルツァ、没。
1466年3月15日
フィレンツェでロレンツォ・イル・マニーフィコ宛書簡をしたためる。
1466年3月25日
メディチ銀行リヨン支店、ジュネーヴからの移転を完了し、開設。
1466年3月
シニョーリアは、フランチェスコ1世・スフォルツァの弔問使節をミラノに派遣。故コジモ・イル・ヴェッキオによるフランチェスコ1世・スフォルツァのミラノ制圧(1450年)過程での支援以来、最大の同盟者だったフランチェスコ1世・スフォルツァの死により、ピエロ・イル・ゴットーソは領外の最強の支柱を失う。
1466年4月1日
メディチ銀行は、Bartolomeo da Framuraに代わって教皇庁とのトルファ明礬鉱の開発及び明礬の販売に関する契約に参加し、販売の独占権を得る。
1466年5月24日~1466年5月31日
若干の例外を除き全ての官職を永久に伝統的抽籤によって選出することを、百人委員会、コンシーリオ・デル・ポーポロ、コンシーリオ・デル・コムーネが決める。1465年来の決議により、1458年の共和政変改の決定は全て覆される。
1466年5月27日
コジモ・イル・ヴェッキオ死後もしばらくはピエロ・イル・ゴットーソの最強の支持者だったものの次第にメディチ家を離れ、その権力、威勢の限定、縮小と、共和政の復活を唱えてきたルカ・ピッティを指導者とし、ジャンノッツォ・ピッティManno Temperaniアニョーロ・アッチャイウオリディエティサルヴィ・ネローニらメディチ支配下で指導的地位を占めてきた有力者を中心とする約400名の市民、共和政の再建、維持に全力を尽くして当たるとの誓約を行う。但しこの誓約、今だピエロ・イル・ゴットーソの追放などは唱えず。
1466年8月
ルカ・ピッティの陰謀:新ミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァからの、父、故フランチェスコ1世・スフォルツァ時代以来の定期支援金の求めに応じようとするピエロ・イル・ゴットーソと対立したのを契機にメディチ支配の一掃を企図するようになったルカ・ピッティを中心とするアニョーロ・アッチャイウオリディエティサルヴィ・ネローニニッコロ・ソデリーニら、病弱なピエロ・イル・ゴットーソの行動力の欠如と彼の強大な支援者フランチェスコ1世・スフォルツァの死を利して一気にピエロ・イル・ゴットーソを殺害しメディチ支配を打倒することを狙う。このためボルソ・デステに密かに支援を求める。
1466年8月27日
ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオから反乱とエステ軍の領内侵入を通報する書状を受けたピエロ・イル・ゴットーソ、療養中だったカレッジの別荘から急ぎフィレンツェ市内に向かう。
市内に入ったピエロ・イル・ゴットーソ、直ちにメディチ派を集め、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオの書状を示して反乱と外敵の侵入を告げ、さらに書状をシニョーリアに運ばせ直ちに防衛体制を取らせる。
自らも兵を集めながらもピエロ・イル・ゴットーソルカ・ピッティに交渉を呼びかける。反乱の早期の発覚と予想に反してのピエロ・イル・ゴットーソの迅速果敢な対応に機先を制された首謀者たち、呼びかけに応じざるを得なくなる。
交渉に現われた老ルカ・ピッティは、ピエロ・イル・ゴットーソと和解。しかし帰宅後ニッコロ・ソデリーニら陰謀仲間に説得され、すぐ翻心。
1466年8月28日
反乱首謀者たちを交渉に引き込みながら、シニョーリアによるパルラメントの召集、パルラメントによるバーリアの設置、の非常手段によって事態を打開しようと図っていたピエロ・イル・ゴットーソ、1466年9月~1466年10月のシニョーリアをメディチ派で占めることに成功。
1466年8月29日
シニョーリアの選出結果を見たルカ・ピッティ、改めてピエロ・イル・ゴットーソと和解し、屈服。
1466年9月2日
午後、シニョーリアピエロ・イル・ゴットーソが配備した3千の武装兵が囲むシニョーリア広場パルラメントを召集、開催し、8名からなる4ヶ月任期のバーリアの設置、アッコピアトーリによるシニョーリアの実質上の選出の復活を承認させる。
1466年9月5日
設置されたばかりのバーリア、1462年~1466年の共和政への復帰の決定をことごとく覆し、1458年の体制を復活させる。
これにより、父コジモ・イル・ヴェッキオに劣らぬ独裁的支配体制を築く。
1466年9月末
ピエロ・イル・ゴットーソ、陰謀、反乱の平定を告知するためヴェネツィア、ミラノのガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ、ボローニャのジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ、ナポリのフェッランテ・ダラゴーナに使節を派遣。この後ボローニャにはマッテオ・パルミエリを派遣し、反乱をいち早く通報してくれたことへの謝意をも表明。
1468年2月末~3月初め
この頃?、ピエロ・イル・ゴットーソ、ジェノヴァのフレゴーソ家からサルザーナとサルザネッロを買い入れる。
1469年4月6日
ピッティ陰謀事件(1466年)に加わり追放されていたBernardo Nardiら少数者、領内プラートで反乱。一時、そのシニョーリアの委員を捕らえるが間もなく到着したフィレンツェ軍に徹底的に鎮圧される。首謀者Bernardo Nardiフィレンツェ市内に護送され、1469年4月9日処刑された(?~)他、主な参加者20名が相次ぎ処刑される。
1469年12月2日
ピエロ・イル・ゴットーソ、死(1416年~)——ロレンツォ・イル・マニーフィコメディチ家の当主となる(1469年~1492年)。
以後ロレンツォ・イル・マニーフィコ、銀行業などの経済活動には政治に対するような関心を抱かず、フランチェスコ・サッセッティにメディチ銀行の全権を委ねる。
1469年12月2日
死去。息子ロレンツォ・イル・マニーフィコが、メディチ家の当主となる。
1469年
この年までにメディチ銀行ヴェネツィア支店廃止。

肖像

 東方三博士の旅
 東方三博士の礼拝

 ジョヴァンニとピエロ・デ・メディチの霊廟

関連項目

 ピッティ陰謀事件
 1467年1月4日の同盟
 リーミニの戦い

別表記

 ピエロ・デ・メディチ、ピエロ・イル・ゴットーゾ、ピエトロ・デ・メジチ、ピエートロ・メーディチ、通風病みのピエロ

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 RootsWeb.com

参考文献

 『イコノロジー研究
 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネッサンス夜話』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

記載日

 2005年10月1日以前