Piero Soderini

ピエロ・ソデリーニ

生没:1450年5月18日~1522年6月13日
出身:フィレンツェ
没地:ローマ
在位:正義の旗手 1501年3月~4月
   終身正義の旗手 1502年11月~1512年
父:トンマーゾ・ソデリーニ
母:ディアノーラ・トルナブオーニ
妻:アルジェンティーナ・マラスピーナ

概要

 ピエロ・ソデリーニは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。

年表

1450年5月18日
フィレンツェにて、生(1452年5月18日)。
1481年
Priore delle Arti
1484年
Consiglio Maggiore
1485年
ピストイアポデスタ
1487年
Commendatore di Firenzuola
1490年
アレッツォポデスタ
1490年
軍事八人委員会
1493年
軍事八人委員会
1498年
フランス駐在大使。
1499年
フランス駐在大使。
1500年
ボローニャ駐在大使。
1500年5月10日
この日?、フィレンツェ共和国、ピエロ・ソデリーニをミラノに派遣し、ルイ12世の宰相ジョルジュ・ダンボワーズに対してそのミラノ制圧、支配に祝意を表すると共に、1499年11月の約定に基づくピサ攻略へのフランス軍の派遣の具体的条件について交渉。王に多額の軍資金を支払うという条件を飲んで交渉、ようやく妥結。
1501年3月~1501年4月
正義の旗手
1501年5月9日
シニョーリアは、使節ピエロ・ソデリーニ、アラマンノ・ディ・アヴェラルド・サルヴィアーティヤコポ・デ・ネルリチェーザレ・ボルジアのもとに派遣しすることを決定。
通行許可を与える代わりに、市壁内には入らず町には関わらないこと、パオロ・オルシーニヴィテロッツォ・ヴィテッリなどのフィレンツェ共和国現政府の敵を従えてこないことを条件とする。
1501年5月
使節が到着した時には、チェーザレ・ボルジアはすでにトスカーナに入っている。
チェーザレ・ボルジアは、フィレンツェ領内自由通行の承認、自らをフィレンツェの傭兵隊長に雇う契約の締結、フィレンツェの政体の変更を要求。
1502年6月16日
この日?、ルイ12世の指示と援軍派遣の意向を知って市民の意気上がり、シニョーリアはピエロ・ソデリーニを援軍派遣の確認、督促のためミラノシャルル・ダンボワーズのもとに送る。
1502年7月7日
ルイ12世、アスティに入る。
1502年7月
ピエロ・ソデリーニ、フランチェスコ・グァルテロッティルイジ・デッラ・ストゥファの3名、使節としてアスティでルイ12世と会見し、そのフィレンツェ支持の意図を再確認。
1502年9月22日
コンシーリオ・マッジョーレは、終身正義の旗手に民衆派貴族ピエロ・ソデリーニを選出(1502年9月20日)。
1502年11月1日
ピエロ・ソデリーニ、終身正義の旗手に就任。
1503年6月1日
この日?、終身正義の旗手のピエロ・ソデリーニの弟フランチェスコ・ソデリーニが枢機卿に任命され、盛大な祝賀行事が繰り広げられる。
1503年11月14日
コンシーリオ・デリ・オッタンタは、1503年11月10日のユリウス2世の要請を退け、チェーザレ・ボルジアの軍の領内通行の安全を保障しないことに決める。
1504年8月22日
この日から?、ピサへの水路による食糧搬入を妨害するためアルノ河の水路をピサからそらす試み、ピエロ・ソデリーニの承認と支持の下、レオナルド・ダ・ヴィンチらも参画して着手される。しかし間もなく失敗に終わる。
1505年
ピエロ・ソデリーニ、ニッコロ・マキアヴェッリの説得により市民軍創設を決意。職権でニッコロ・マキアヴェッリに徴兵を開始させる。
ピエロ・ソデリーニ、ニッコロ・マキアヴェッリの示唆により市民軍の指揮車として、かつてチェーザレ・ボルジアの腹心でその軍隊の指揮官であったミケーレ・ダ・コレーリアを採用することを決意。
市民軍がソデリーニの私兵と化すことなどを恐れる市民軍創設反対論、ソデリーニの支持、反対両派で急速に強まる。しかし実効を持ち得ずに終わる。
1505年
この頃、アメリゴ・ヴェスプッチ、自身の大航海に関する第6の書簡(フィレンツェの終身正義の旗手のピエロ・ソデリーニ宛)を刊行。
1506年9月11日
ナポリに向かう途上ピオンビーノに立ち寄ったフェルナンド2世・デ・アラゴンのもとに表敬使節としてピエロ・ソデリーニの弟Giovanvittorio Soderini(1460年~1527年)、Niccolè del Nero(1447年~1518年)、アラマンノ・ディ・アヴェラルド・サルヴィアーティを送る。
1506年12月6日
市民軍の創設がコンシーリオ・マッジョーレで正式に承認され、Nove Ufficiali dell' Ordinanza(フィレンツェ市民軍九人委員会)、通称Nove Ufficiali di Miliziaが設置される。
ジョヴァンニ・バッティスタ・リドルフィアラマンノ・ディ・アヴェラルド・サルヴィアーティを初めとする有力貴族のピエロ・ソデリーニに対する反発、憎悪、抵抗、一段と強まる。
1507年初秋
マクシミリアン1世のもとに正式の大使を派遣して関係を改善すべきか、ルイ12世との従来の友好関係を重視すべきかで指導的貴族層の意見対立。結局、後者を重視するよう主張するピエロ・ソデリーニらの意見に落ち着き、前者に関しては使節フランチェスコ・ヴェットーリに正式の大使の権限を付与することになる。
1507年12月17日
ピエロ・ソデリーニ、マクシミリアン1世の動向及び先に派遣した使節フランチェスコ・ヴェットーリの活動を監視するため、さらにニッコロ・マキアヴェッリを派遣。
1508年
ピエロ・イル・ファトゥオの死後、武力によるフィレンツェ復帰策を捨て、ローマの自邸をフィレンツェ人に開放するなど市民との融和による復帰を目指し、市内に次第に共感、賛同、崇敬の念を醸成しつつあった枢機卿ジョヴァンニ・デ・メディチは、ピエロ・イル・ファトゥオの娘クラリーチェ・デ・メディチ(1493年~1528年)と有力貴族ストロッツィ家フィリッポ・ディ・フィリッポ・ストロッツィ(1489年~1538)との婚姻、及びロレンツォ・イル・マニーフィコの娘ルクレツィア・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ(1470年~1551年頃)と有力貴族でピエロ・ソデリーニの公然たる政敵アラマンノ・ディ・アヴェラルド・サルヴィアーティの甥ヤコポ・ディ・ジョヴァンニ・サルヴィアーティとの婚姻を成立させる。
これをピエロ・ソデリーニは、共和国の叛徒との婚姻を禁じている法を犯すものと糾弾。しかし反ピエロ・ソデリーニ派は反論。メディチ家に対する方針を巡って共和政派と反共和政派の対立、さらに厳しくなる。
1509年10月下旬
ヴェローナに後退したマクシミリアン1世から軍資金を求められたため、彼のもとへ使節としてピエロ・ソデリーニの弟Giovanvittorio Soderiniピエロ・ディ・ヤコポ・ディ・ピエロ・グィッチャルディーニ(1454年~1513年)を派遣。1509年10月24日2度に渡って献金することで合意し、即日、第1回分を献納。次回は1509年11月15日、マントヴァで献納することとなる。
1510年6月
ユリウス2世ルイ12世の対立が深まる中、伝統的親フランスの方針を取るピエロ・ソデリーニ派とメディチ派など反ピエロ・ソデリーニ派との対立も深まる。しかしフランスとの同盟も断てず、近隣諸国に布陣する教皇軍も無視できず、態度決定をなし得ぬまま動揺を続ける。
ルイ12世より、政治方針を明確化せよと執拗な要求を受ける。
1510年6月20日
ピエロ・ソデリーニ及びディエチ、ルイ12世のもとに、これまでの彼との合意は遵守することを伝えるべく、ニッコロ・マキアヴェッリを派遣することに決める。
1510年8~9月
この頃すでにユリウス2世が、フィレンツェの親フランス的態度を激怒し、その政体を変える必要があると公言。以後、ますますその態度を硬化し、フィレンツェを破門することを考えていると教皇庁駐在フィレンツェ大使に公言。
ユリウス2世の反ピエロ・ソデリーニ政権の態度が強まるにつれ、メディチ派など市内の反ピエロ・ソデリーニ派は勢いを得る。
1510年12月22日
ピエロ・ソデリーニ、コンシーリオ・マッジョーレで、高まる批判に対して自己の政治方針を説明。
1510年12月23日
1508年にピエロ・イル・ファトゥオの娘クラリーチェ・デ・メディチを妻としたフィリッポ・ディ・フィリッポ・ストロッツィ、熱烈なメディチ派で教皇庁に使えている青年Prinzivalle della Stufa(1484年~1561年)からユリウス2世の傭兵隊長マルカントーニオ・コロンナの兵10名を得てピエロ・ソデリーニ殺害の機を窺っていると打ち明けられ、同族に相談の上これをピエロ・ソデリーニに通報。Prinzivalle della Stufaはシエナに逃亡。
1510年12月29日
ピエロ・ソデリーニ、自身の暗殺の陰謀についてコンシーリオ・マッジョーレに報告し、共和政の護持を訴える。コンシーリオ・マッジョーレは、Prinzivalle della Stufaの父ルイジ・デッラ・ストゥファに反逆罪で禁固5年の刑を宣告。
1511年10月23日
ユリウス2世の反フィレンツェ政策に対抗して、教会に対する新税を制定。ユリウス2世のピエロ・ソデリーニに対する反感さらに強まる。
1512年
ボローニャでルイ12世軍が神聖同盟軍を撃退したとの報が伝えられ、ピエロ・ソデリーニは市民に、フィレンツェの利益と威信を守る上でフランス側につくことこそが必要だと力説。
1512年7月初旬
ユリウス2世より、教皇庁駐在大使を通してピエロ・ソデリーニの解任を求められ、これに従わなければ聖俗両面であらゆる手段を用いて戦うと通告される。
1512年7月11日
ユリウス2世の使節ロレンツォ・プッチ(枢機卿在位1513年~)が、ピエロ・ソデリーニの解任と神聖同盟への加盟を求めるユリウス2世の書簡を持ってフィレンツェに到着。
1512年
この頃?、ピエロ・ソデリーニ、トレントに着いたマクシミリアン1世の使節Matthäus Lang von Wellenburg(1468/1469年~1540年:1512年11月25日枢機卿)のもとへ自分の弟Giovanvittorio Soderiniを使節として派遣。Matthäus Lang von Wellenburgから巨額の献金を条件としてフィレンツェの安全を保障すると提案され、直ちに拒絶。
1512年8月26日
領内に侵攻してきたライモンド・ディ・カルドーナのもとへ使節を派遣し、フェルナンド2世・デ・アラゴンの要求は可能な限り受け入れることを伝える。しかしライモンド・ディ・カルドーナからは神聖同盟全体の要求としてピエロ・ソデリーニの解任、メディチ家の復帰を求められる。第2点は承諾し、第1点は拒否。
1512年8月28~29日
スペイン軍プラートに到着し、全域を制圧し劫掠。市民軍はスペイン軍の攻勢の前に敗走。前線総監を初めフィレンツェの役人は捕虜となる。
プラート劫掠の報が伝わるや、断固たる対策を講じ得なかったピエロ・ソデリーニへの非難、一気に強まる。
1512年8月31日
パオロ・ヴェットーリ(?~1526年)、アントンフランチェスコ・デリ・アルビッツィバルトロメオ・ヴァローリらメディチ派の有力者が、少数の兵を率いて政庁宮に入り、ピエロ・ソデリーニを脅迫して辞任を強制。夜ピエロ・ソデリーニは、シエナへ逃亡。後ラグーサへ逃れる。
1512年9月1日
ピエロ・ソデリーニの解任が公式に告示されると共に、夕刻、ジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチが市内に入り、メディチ家の18年ぶりの復帰始まる。
1512年10月13日
正義の旗手、ピエロ・ソデリーニの5年間追放と彼の弟Giovanvittorio Soderini及び3人の甥の3年間追放が公式に告示される。
1522年5月下旬
フランチェスコ・ソデリーニの軍事行動と結んでジューリオ・デ・メディチを1522年6月19日殺害しピエロ・ソデリーニを終身正義の旗手として復帰させることなどを企んでいた陰謀発覚し、首謀者の内Iacopo da DiaccetoLuigi di Tommaso Alamanniは逮捕されるが、ツァノービ・ブォンデルモンティ、Luigi di Piero AlamanniA. Brucioliヴェネツィアに逃亡。後正式に追放処分を下される。
1522年6月13日
共和政下の終身正義の旗手ピエロ・ソデリーニ、ローマで死。

別表記

 Pier Soderini

外部リンク

 ウィキペディア
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani
 Treccani

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『フィレンツェ史』
 『マキァヴェッリ 忘恩、運命、野心、好機』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

記載日

 2005年9月30日以前