——Piero Strozzi——
ピエロ・ストロッツィ
生没年:1510年頃〜1558年6月21日
父:フィリッポ・ストロッツィ
母:クラリーチェ・デ・メディチ
妻:ラウドミア・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ
記載日:2005年5月29日以前

年表
 1544年11月末/12月 ルッカにおける貴族寡頭支配の打倒、シエナピサの共和主義者の協力を得てのメディチ家ハプスブルク家専制支配の打倒、トスカーナにおける共和政諸都市の自由連合と信教の自由、を希求していた(1543年頃?〜)ルッカの貴族・政治家Francesco Burlamacchi(1498年〜)、メディチ家の宿敵ストロッツィ家との提携を図り、フランソワ1世の下で対カール5世戦に従軍していたピエロ・ストロッツィ(1510年頃〜)・Leone Strozzi(1515年〜)兄弟(故フィリッポ・ストロッツィの子)のもと(マルセイユ及びパリ)に使者・靴職人Bastiano Carletti(1400年代末〜?)を派遣。Leone Strozziから計画への賛同・協力及び早期決起のための武器収集などの約束を得る。
               しかし、フランソワ1世軍の対ヘンリー8世軍戦闘のため、決起は17か月後とされる。
 1546年4月28/29日 ルッカFrancesco BurlamacchiヴェネツィアLeone Strozziら一派と会見し、決起支援の確約を得ると共に1546年6月末決起することについて合意。
 1546年5月中旬 Francesco Burlamacchiピエロ・ストロッツィLeone Strozzi兄弟一派から、準備不足につき決起は1546年9月まで延期すべしとの連絡を受ける。
 1546年7月〜1546年8月 この間Francesco Burlamacchiルッカのゴンファロニエーレに選出されて政庁宮住まいを強いられ、決起の準備に支障を来たす。
 1551年6月12日 オッタヴィオ・ファルネーゼ軍とフェッランテ・ゴンザーガ指揮のユリウス3世軍、戦闘を開始。ユリウス3世軍はすぐパルマを包囲するが、後ピエロ・ストロッツィ指揮のアンリ2世軍に解かれる。
 1553年秋 この頃?、アンリ2世ピエロ・ストロッツィシエナ争奪戦における軍の総指揮官に任命。ピエロ・ストロッツィは弟Leone Strozziにもましてメディチ家打倒に燃える。
 1554年1月1日 ピエロ・ストロッツィアンリ2世軍の総指揮官としてシエナに到着。
           フィレンツェの亡命者でメディチ家に宿怨を抱くピエロ・ストロッツィが総指揮官としてシエナに入ったとの報にコジモ1世・デ・メディチシエナの武力制圧の早期断行を決意。
 1554年7月 ピエロ・ストロッツィ指揮のアンリ2世軍、シエナ領外に出て各地を占領し優勢を保つ。しかし1554年7月末フィレンツェ軍にナポリからの援軍、到着。
 1554年8月2日 朝、全軍を率いてマルチアーノからルチアーノに移動しようとするピエロ・ストロッツィを、同じく全軍を率いたジャン・ヤコポ・デ・メディチが急襲。2時間の激闘でピエロ・ストロッツィ自身が重傷を負ってモンタルチーノに運び込まれるなど、アンリ2世軍、惨敗。陣営の若いフィレンツェ亡命貴族Baccio ArrighiGirolomo CiardiGiambattista Strozziら7名は捕縛され、フィレンツェに移送されて斬首などの刑に処される。
 1554年8月14日 この日頃ピエロ・ストロッツィ敗北・重傷との報を受けたアンリ2世、驚愕。
 1555年6月16日 ジャン・ヤコポ・デ・メディチピエロ・ストロッツィアンリ2世軍のみ残るポルト・エルコーレなどを制圧。ピエロ・ストロッツィは逃亡するが、ポルト・エルコーレに留まっていたシエナの亡命者は捕えられ、指導者はフィレンツェに送られて斬首される。
 1557年 40日間の休戦協定(1556年11月27日)の期限が切れた後、ローマにあったピエロ・ストロッツィの指揮するパウルス4世軍、オスティアティヴォリ、ヴィコヴァーロなど1556年Fernando Álvares de Toledo指揮のフェリペ2世軍に占領された各地を次々と奪回。
 1557年3月3日 軍をロマーニャに進め、自らは1557年3月2日ローマに入ったFrançois I de Lorraine、この日からパウルス4世Carlo Carafaピエロ・ストロッツィらと同盟軍の作戦会議を開く。しかし、パウルス4世ナポリ攻略を、François I de Lorraineはトスカーナ攻略を主張して結論が出ず、会議、延引。
 1558年1月1日 1557年末ピエロ・ストロッツィ自身の探索によってカレーの守備態勢が手薄なことを知ったアンリ2世François I de Lorraine指揮の軍をカレーに送り、集中砲火を浴びせる。
 1558年6月20〜22日 メス近郊ティオンヴィルを包囲していた(1558年6月〜)François I de Lorraine指揮のアンリ2世軍、これを奪回しフェリペ2世軍を追放。
               この戦闘の中でピエロ・ストロッツィ戦死(1510年頃〜)。この報を得たアンリ2世、宮廷内を喪に服させる。
 1537年7月下旬 軍の編成に励んでいたフィリッポ・ストロッツィバッチオ・ヴァローリら亡命者たち、ミランドラで決起。数千の兵をフィリッポ・ストロッツィの子ピエロ・ストロッツィ(1510年頃〜1558年)及びベルナルド・サルヴィアーティ(1492年〜1568年)に指揮させてアペニンを越え、ピストイアとプラートの中間地モンテムルロに集結。

外部リンク
 Treccani.it

参考文献
 『銀色のフィレンツェ』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『Lost Girls
ストロッツィ家
歴史人物辞典
そこそこアレな感じで