出来事

ピュドナの戦い Pugna Pydnae

概要

 ピュドナの戦いは、第三次マケドニア戦争において紀元前168年6月22日にルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクス率いるローマ軍とペルセウス王率いるアンティゴノス朝マケドニア軍との間で戦われた会戦。共和政ローマが圧勝。

芸術作品

外部リンク

 ウィキペディア

チオンピの乱 Tumulto dei Ciompi

概要

 チオンピの乱とは、1378年フィレンツェで起こった労働者の反乱。

原因

中小市民

 フィレンツェ共和国は毛織物、銀行などの商工業組合であるアルテを基盤としている。12の大アルテと9の小アルテからなり、いずれかのアルテに属していないと公職に就くことはできず、大アルテが小アルテに対し圧倒的優位を占めていた。チオンピとは、毛織物製造業者の下請けをする梳毛工(すきげこう)で、そのアルテに属さず参政権がない最下層の労働者の呼称である。14世紀に入ってからの対外戦争、不況、飢饉、黒死病の襲来は、とりわけ彼ら下層労働者や中小市民に深刻な打撃を与え、経済的な困窮から不満を募らせていた。

有力市民

 1375年7月から1378年7月には、教皇庁と争った八聖人戦争が起こっている。この戦争に当たって1375年8月に設けられた軍事八人委員会は、グエルフィと激しく対立していた。
 1378年5~6月期の正義の旗手に選ばれたサルヴェストロ・デ・メディチは、この政府の分裂状態を打開するために、ベネデット・デリ・アルベルティトンマーゾ・ストロッツィジョルジョ・スカーリなどの有力市民と組んで、アルビッツィ家をはじめグエルフィの幹部を攻撃。1378年6月中旬、扇動された中小市民によるグエルフィ有力者の館の焼き討ち事件が起こり、1378年6月末から7月にかけて、グエルフィによって公職追放されていた者たちが解除される一方、グエルフィの主だった者たちが公職追放処分を受ける。1378年7月18日、教皇庁から和平を告げる書簡が届く。グエルフィによる公職追放を解除された者たちと軍事八人委員会は、チオンピの反乱を利用して政権奪還を図るのである。

経過

 1378年7月から9月にかけて3度にわたり、チオンピが小アルテに属する手工業者と手を組んで、大アルテ=グエルフィに対し暴動を起こす。この中にはチオンピであったドナテッロの父も参加していた。
 暴動鎮圧後、大アルテと小アルテが協力して新体制を築くことになるが、チオンピは軍事八人委員会らの思惑を離れ、自らのやり方に従って要職を任命するようになる。チオンピであるミケーレ・ディ・ランド正義の旗手に就任し、手工業者と下層労働者の市政参加を保証するためにチオンピなどの3つの新たなアルテを創設。
 この新体制の中で、サルヴェストロ・デ・メディチは表向きは中心的な役割を演じたが、実権はベネデット・デリ・アルベルティトンマーゾ・ストロッツィらの手中にあった。元々下層民への同情からではなく、この騒乱の中で冒険的な党派争いから暴動を誘発する挙に出たサルヴェストロ・デ・メディチは、一時的に下層民衆の英雄に祭り上げられるが、やがて大アルテ=グエルフィの反動が強まると、1382年にミケーレ・ディ・ランドらと共に国外追放に処せられ、その政治生命はあっけなく断たれる。サルヴェストロ・デ・メディチの扇動家的な政治行動は、下層民の立場に立った民主的な動機とは本質的に無縁であったが、ニッコロ・マキアヴェッリも伝えるように長くフィレンツェ市民の記憶に残り、中小市民の擁護者としてのメディチ家という政治的イメージの形成に寄与するのである。死の直前に許されて帰郷した。

終息

 反乱による新体制は4年間続いたものの、チオンピの過激化に恐れをなした穏健派の中小市民層の離反と敵対によって、1382年、ミケーレ・ディ・ランドサルヴェストロ・デ・メディチが国外追放処分にされ、多くの者が処刑される。
 その後、トンマーゾ・ストロッツィジョルジョ・スカーリベネデット・デリ・アルベルティらが、一般大衆の人気に支えられてフィレンツェを3年間支配することになる。こうして再び有力市民層によるフィレンツェ寡頭支配体制が成立するのである。

別表記

 チオンピの反乱、チォンピの乱、チョンピの乱

外部リンク

 ウィキペディア
 紗瑠々の資料室
 ペルバッコ
 アートシティ「展」
 十四世紀フィレンツェのおける毛織物生産
 八聖人戦争期フィレンツェにおける政争と社会不安
 Treccani.it

参考文献

 『君主論』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

コンスタンツ公会議 Concilio di Costanza

概要

 コンスタンツ公会議は1414年から1418年にかけて神聖ローマ帝国内のコンスタンツ司教領で開催されたカトリック教会の公会議。

別表記

 コンスタンツの宗教会議

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』

バーゼル公会議 Concilio di Basilea

概要

 バーゼル公会議は、1431年にスイスのバーゼルで開会されたキリスト教の公会議。

別表記

 バーゼル宗教会議

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『Lucretia Borgia

アンギアリの戦い Battaglia di Anghiari

概要

 アンギアリの戦いは、1440年6月29日にミラノ軍対フィレンツェ共和国、ヴェネツィア共和国、教皇軍の同盟軍との戦いである。

別表記

 アンギアーリの戦い

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『メディチ家』
 『ルネサンス宮廷大全』

ローディの和 La Pace di Lodi

概要

 ローディの和とは、1454年4月9日に結んだ和平協定。これがイタリア五大国のイタリア同盟へと繋がり、諸都市国家間の戦争に終止符を打った。

発端

 イタリアはそれまでルネサンスの時代を迎えていたが、一方でイタリアの覇権を巡って戦乱の絶えない時代でもあった。しかし、1430年代からキリスト教国の脅威となっていたオスマン・トルコによって、ついに1453年5月29日、ビザンティン帝国が滅ぼされる。コンスタンティノープルの陥落である。イタリア諸都市国家はにわかに危機感を強めることとなった。

経過

 ニコラウス5世は、オスマン・トルコの進出に対するキリスト教諸国の結束を図るべく、1453年7月18日、ナポリフィレンツェヴェネツィアミラノに枢機卿を使節として送り、諸国間の和を結ぶ使節をローマに送るよう強く指示。
 ニコラウス5世の召集したイタリア諸国、諸君主の和平交渉がローマで続けられながらも成果を得られないでいる中、教皇の使節アウグスティヌス会修道士シモーネ・ダ・カメリーノの精力的な仲介によってミラノ公フランチェスコ1世・スフォルツァヴェネツィアの交渉が妥結。この間の戦争で奪い合った領地を相互に返還すること、各自の同盟者をこの同意に加えていくことなどを、1454年4月9日、ローディで協定。コジモ・イル・ヴェッキオフィレンツェ首脳を除く他の戦争当事者も存知するに至らない内に結ばれた。
 1454年4月14日、フィレンツェが加入すると共に、ローディの和が公表される。
 突然、和平の成立を知らされたナポリ王アルフォンソ5世・デ・アラゴンは、これに加わることを強く拒否し、戦闘継続を宣言。

参加国

 ローマ教皇国(ニコラウス5世
 ミラノ公国フランチェスコ1世・スフォルツァ
 ヴェネツィア共和国
 フィレンツェ共和国(コジモ・イル・ヴェッキオ

別表記

 ロディの平和、ロディの会議

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

イタリア同盟 La Lega Italica

概要

 1454年4月9日のローディの和が契機となり、1455年3月2日、イタリア五大国が同盟したことを宣言。イタリア同盟が成立する。

経過

 1454年8月30日、ミラノフィレンツェヴェネツィアによる25年間の同盟をヴェネツィアで締結。さらにこの同盟への加盟をイタリア各国に求める。
 フェッラーラボローニャが直ちに加盟。
 間もなく教皇ニコラウス5世も加盟し、さらに使節として枢機卿ドメニコ・カプラーニカナポリに送る。ヴェネツィアフィレンツェなどの使節と共に、同盟への加盟を強く勧奨、説得させる。
 1455年1月21日、ナポリが、この同盟がジェノヴァを除外しかつジェノヴァに対する自身の権利を留保することなどを条件として加盟。
 1455年3月2日、ニコラウス5世ローマでイタリア同盟を厳粛に宣言。

参加国

 フィレンツェ共和国(コジモ・イル・ヴェッキオ
 ミラノ公国フランチェスコ1世・スフォルツァ
 ヴェネツィア共和国
 ローマ教皇国(ニコラウス5世
 ナポリ王国アルフォンソ5世・デ・アラゴン
 フェッラーラボルソ・デステ
 ボローニャサンテ・ベンティヴォーリオ

除外国

 ジェノヴァ
 リーミニシジスモンド・マラテスタ

結果

 この同盟によってイタリアは、諸都市国家間の戦乱の時代に終わりを告げた。その後、1494年のフランス王シャルル8世によるイタリア侵攻まで、イタリアの平和と呼ばれる、小国分立、相互均衡、抑制に基づく一応の平和が約40年間生じたのである。それぞれの支配体制の強化と国内での文化の展開、深化に努めることにより、ルネサンスもまた最盛期を迎えることになる。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ピッティ陰謀事件 

概要

 ルカ・ピッティを首謀者とする反メディチ派が、ピエロ・イル・ゴットーソ及びメディチ家に対し反乱。ピエロ・イル・ゴットーソは1466年8月27日の暗殺を回避し、反乱の平定に成功し、メディチ家によるフィレンツェ共和国支配を継続、再強化させた。

原因

メディチ家の制度化されていない権力の継承

 フィレンツェ共和国の一市民に過ぎないはずのメディチ家が、実質フィレンツェ共和国を掌握している。故コジモ・イル・ヴェッキオが確立した権力を、長男ピエロ・イル・ゴットーソが世襲。伝統的共和政への回帰願望が表面化していく。

フィレンツェの銀行商会を襲った不況

 1464年11月、ピエロ・イル・ゴットーソは、故コジモ・イル・ヴェッキオの残した莫大な債権回収に乗り出し、また新規事業の回避など、メディチ銀行経営再生のためにリストラクチャリングを推し進め出す。真偽のほどは明らかではないが、ディエティサルヴィ・ネローニが彼の失脚を狙って進言したという。
 このことが不況を誘発したとも考えられており、銀行商会が次々倒産するこの不況がメディチ派にも反発と敵意を生み出し、政情不安をもたらした。

発端

 ディエティサルヴィ・ネローニアニョーロ・アッチャイウオリと共謀し、共和政の復活を唱えてきたルカ・ピッティを首謀者として打ち立てる。そして、ピエロ・イル・ゴットーソを排除した後、二人はルカ・ピッティをも排除するつもりだった。

選挙→メディチ派のお手盛り選出→伝統的抽選制

1465年9月16日

 コジモ・イル・ヴェッキオ時代にメディチ派による公職独占の鍵を握っていた選挙管理委員の機能を停止し、旧来の抽選制復活案が、コンシーリオ・デ・チェント(百人評議会)、コンシーリオ・デル・ポーポロ(平民評議会)及びコンシーリオ・デル・コムーネ(自治都市評議会)で可決。しかし、官職の選出方法は1458年改変から伝統的抽選に回帰したものの、その被選出有資格者の決定はメディチ配下の有力者ないしその関係者が占めるアッコピアトーリによって行われる。

1466年4月(1466年5月27日?)

 反メディチ派の約400人の有力者は、伝統的共和制の諸制度を遵守する旨を宣言した宣誓書に署名。ピエロ・イル・ゴットーソに対する対決姿勢を明らかにする。

1466年5月24~31日

 若干の例外を除き全ての官職を永久に伝統的抽選によって選出することを、コンシーリオ・デ・チェント(百人評議会)、コンシーリオ・デル・ポーポロ(平民評議会)及びコンシーリオ・デル・コムーネ(自治都市評議会)が決定。1458年の共和政変改の決定は全て覆される。
 この結果、ニッコロ・ソデリーニ正義の旗手に選ばれる。ニッコロ・ソデリーニは直ちに評議会の候補者名簿を拡大したため、両評議会における反メディチ派の数は著しく増大した。

フランチェスコ1世・スフォルツァ、死去

 1466年3月8日、メディチ家の権力を背後から支えてきたフランチェスコ1世・スフォルツァが死去。ピエロ・イル・ゴットーソは領外最強の支柱を失うことになる。
 また、新ミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァからの、フランチェスコ1世・スフォルツァ時代以来の定期支援金の求めにピエロ・イル・ゴットーソが応じるが、その送金を反メディチ派が阻止。両派が対立。

主な反メディチ派

 ルカ・ピッティ
 ディエティサルヴィ・ネローニ
 アニョーロ・アッチャイウオリ
 ピエルフランチェスコ・デ・メディチ
 Giovannozzo Pitti
 Manno Temperani

反乱発覚

 反メディチ派は、フェッラーラボルソ・デステに支援を求め、1466年8月、弟エルコーレ1世・デステ指揮の約4千のエステ軍がフィレンツェに向かう。
 1466年8月27日、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオから反乱とエステ軍のフィレンツェ共和国領内侵入を通報する書状が、カレッジの別荘にて療養中のピエロ・イル・ゴットーソの元に届く。

内乱の危機

ピエロ・イル・ゴットーソの行動

 カレッジからフィレンツェの帰途、武装した刺客がサンタンブロージョ・デル・ヴェスコヴォに配されていた。彼がいつもここを通っていたからである。しかし、彼はこのルートを選ばず、1466年8月27日のこの暗殺は未遂に終わる。
 急遽フィレンツェに戻り、直ちにメディチ派に反乱が起こった旨伝える。また、書状をシニョーリアに運ばせ、防御態勢を取らせる。
 ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァに援軍を要請し、騎兵1100人がイーモラに到着。
 同時にルカ・ピッティに交渉を呼びかける。
 フィレンツェ市内で両派の一触即発の危機が高まる。

ルカ・ピッティの行動

 反乱の早期の発覚と、予想外のピエロ・イル・ゴットーソの迅速な対応に機先を制され、交渉に応じざるを得なくなる。
 ピエロ・イル・ゴットーソと和解するも、帰宅後ニッコロ・ソデリーニらに説得され、すぐに翻心。

シニョーリアをメディチ派が占める

 1466年8月28日、ピエロ・イル・ゴットーソの支持者ロベルト・リオーニ正義の旗手となり、9~10月のシニョーリアをメディチ派で占めることに成功。
 1466年8月29日、シニョーリアの選出結果を見たルカ・ピッティは、改めてピエロ・イル・ゴットーソと和解し、屈服。それに伴い、エステ軍が退却。

パルラメント開催

 1466年9月2日午後、ピエロ・イル・ゴットーソの私兵3000が包囲する中、シニョーリアにより政庁宮広場にパルラメントが開かれる。8月からなる4ヶ月任期の治安八人委員会の設置、アッコピアトーリによるシニョーリアの実質上の選出の復活を承認。
 1466年9月5日、設置されたばかりの治安八人委員会は、1462~66年の共和政への復帰の決定をことごとく覆し、1458年の体制を復活させる。これ以降メディチ家がフィレンツェ共和国を追放される1494年まで28年間に渡り、反対派を自在に排除できるメディチ派のお手盛り選出が維持されることになった。

反メディチに対する処罰

 1466年9月11日、治安八人委員会は、陰謀の関係者の処罰を決め、ことごとく追放や罰金刑に処する。

ルカ・ピッティ

 処罰せずに放置。以後、各派から軽蔑され、事実上の陰棲を余儀なくされる。

アニョーロ・アッチャイウオリ

 息子たちと共にバーリ近郊Barlettaへ、20年間追放。

ディエティサルヴィ・ネローニ

 息子、兄弟と共にシチリアへ、20年間追放。

ニッコロ・ソデリーニ

 息子と共にフランス・プロヴァンスへ、20年間追放。

終息

 こうしてピエロ・イル・ゴットーソは2年に渡る政治危機を乗り切り、国内のメディチ体制は再強化されるのである。

関連項目

 1467年1月4日の同盟

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

1467年1月4日の同盟 

概要

 1467年1月4日、フィレンツェ共和国、ナポリ王フェッランテ・ダラゴーナ及びミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァは、25年間の対ヴェネツィア防衛同盟を結んだ。

発端

 1466年、フィレンツェ共和国の被追放者たちは、ヴェネツィアに結集。1434年の被追放者とも結び、ヴェネツィア共和国に反フィレンツェ軍事行動を強く勧奨し続ける。
 ヴェネツィア共和国は、自軍の指揮官バルトロメオ・コッレオーニを解任してフィレンツェ共和国の被追放者たちに与え、その下での軍の結集、強化を支援。

陣営

フィレンツェ共和国同盟軍
ウルビーノ公国

 フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ・・・最高指揮官

フィレンツェ共和国(ピエロ・イル・ゴットーソ

 ロベルト・サンセヴェリーノ

ナポリ王国フェッランテ・ダラゴーナ

 アルフォンソ2世・ダヴァーロス

ミラノ公国

 ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ自ら2千の騎兵を率い、その費用はフィレンツェ共和国が持つ

ヴェネツィア共和国を中心とする対同盟軍
ヴェネツィア共和国

 バルトロメオ・コッレオーニ・・・最高指揮官

フェッラーラ公国(ボルソ・デステ

 エルコーレ1世・デステ

ペーザロ

 アレッサンドロ・スフォルツァ

ファエンツァ

 アストッレ2世・マンフレディ・・・途中でフィレンツェ共和国を裏切りヴェネツィア陣営へ

フィレンツェ共和国被追放者

 アニョーロ・アッチャイウオリ
 ディエティサルヴィ・ネローニ
 ニッコロ・ソデリーニ

その他の国の対応
同盟側

 ボローニャジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ
 イーモラ

中立

 リーミニシジスモンド・マラテスタ

会戦

 1467年5月10日、ヴェネツィア軍は、ポー河を越えてフィレンツェ攻撃に向かう。
 1467年6月、同盟軍とヴェネツィア軍が、ファエンツァとフォルリの間で相対。余談だが、バルトロメオ・コッレオーニはこの時、イタリアの歴史では初めて、三十門の野砲を第一線に押し出している。戦場に混乱をもたらしたものの、実際にはそんなに被害が出るものではなかったらしい。
 この間、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァは、ピエロ・イル・ゴットーソに、戦争の展開を議論するべくフィレンツェに招かれている。
 1467年7月23日、両軍は、イーモラ領モリネッラの近郊で激戦を交わすが決着せず。以後、戦闘が断続的に続く。
 1467年7月25日、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが戦場に戻る前に、ロマーニャのメッツォラーラに近いリッカルディーナで両軍が遭遇。正面切っての会戦となり、バルトロメオ・コッレオーニが敗退。
 ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァは、兵の大部分を率い、ミラノへ帰還。

終息

 1468年2月2日、パウルス2世はミサでオスマン・トルコに対抗するためにイタリアの平和の必要性を訴える。
 その上で、フィレンツェ共和国、ヴェネツィア共和国両陣営の30日以内の和平、トルコ軍の脅威に曝されているアルバニアのキリスト教徒軍最高指揮官としてバルトロメオ・コッレオーニのアルバニアへの派遣、彼への報酬年俸10万フィオリーノイタリア諸国による支払い、この間の戦闘で奪われたイーモラ及びフィレンツェ共和国の所領の返還を内容とする勅書を発する。
 これに対してフィレンツェ共和国、ナポリミラノは、和平には賛意を表しながら、バルトロメオ・コッレオーニへの報酬の負担を拒否。
 1468年4月25日、バルトロメオ・コッレオーニに関する条項を撤回した修正和平案をフィレンツェ共和国、ヴェネツィア共和国両陣営に提示。
 1468年5月8日、フィレンツェ共和国、ヴェネツィア共和国両陣営は共に、パウルス2世の修正和平案を受諾。フィレンツェ共和国の被追放者たちの企図は潰える。

関連項目

 ピッティ陰謀事件

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

リーミニ攻囲戦 Assedio di Rimini

概要

 1468年10月9/13日、リーミニを支配していたシジスモンド・マラテスタが死去する。教皇パウルス2世はそのリーミニの教会帰属を主張。しかし、1469年8月29/30日、リーミニ攻囲戦においてマラテスタ陣営軍が勝利し、庶出の息子ロベルト・マラテスタが支配権を維持することになる。

陣営

リーミニ領主ロベルト・マラテスタ陣営
フィレンツェ(ピエロ・イル・ゴットーソ

 ロベルト・サンセヴェリーノ

ナポリ(フェッランテ・ダラゴーナ

 カラブリア公アルフォンソ2世・ダラゴーナ

ミラノ(ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ

 少数の兵を派遣。

ウルビーノ

 ウルビーノ伯フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ

教皇パウルス2世陣営
ペーザロ

 ペーザロ領主アレッサンドロ・スフォルツァ・・・最高指揮官

ヴェネツィア

 フランチェスコ・グイッチャルディーニ著『フィレンツェ史』によれば援軍は派遣されなかったとされているが、ここでは派遣されたものとして記述する。

経過

 リーミニはシジスモンド・マラテスタの愛人だったイゾッタと、ロベルト・マラテスタの異母兄弟であるサルスティオとヴァレリーノが支配していた。そこへ、ロベルト・マラテスタは百姓に身をやつして入り、教皇パウルス2世の名の下にリーミニを奪取。が、フェッランテ・ダラゴーナと通牒していたロベルト・マラテスタは、すぐに自らリーミニを支配するようになる。
 リーミニ返還の約束が反故にされたパウルス2世は、リーミニの教会帰属を宣言。ロベルト・マラテスタを破門する。
 1469年5月28日、パウルス2世は、ヴェネツィアと攻守同盟を結び、軍の最高指揮官にアレッサンドロ・スフォルツァを据え、教皇軍をリーミニに派遣。
 一方、1467年1月4日の同盟国であるフィレンツェ、ナポリ、ミラノはロベルト・マラテスタがヴェネツィアに走ることや、リーミニがヴェネツィアに奪われることを危惧し、彼を支持。

ローマ派遣大使

 ミラノ公の大使たちと共にフィレンツェは、オットー・ニッコリーニヤコポ・グイッチャルディーニを、パウルス2世の元に派遣。

戦闘

 1469年6月8日、アレッサンドロ・スフォルツァ指揮の教皇軍及びヴェネツィア軍は、リーミニに近いサン・フレディアーノの村を占領。
 1469年7月、教皇軍は、リーミニ周辺に進撃。
 アルフォンソ2世・ダラゴーナはトロントを越え、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロと合流。フィレンツェからはロベルト・サンセヴェリーノが、ミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの少数の兵と共に派遣され、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの指揮下に入る。
 1469年8月29/30日、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ率いる同盟軍は、教皇軍をリーミニ近郊で破る。

別表記

 リーミニの戦い

外部リンク

 Wikipedia - Roberto Malatesta

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

対オスマン・トルコ共同防衛同盟 

概要

 オスマン・トルコのスルタン、マホメッド2世の艦隊によって、エーゲ海の中心にヴェネツィア共和国が占める最大の拠点であるユービア島(ネグロポンテ)が陥落する。これを契機として、1470年12月22日、新たに対オスマン・トルコ共同防衛同盟が締結される。

経過

 1470年6月半ば、マホメッド2世が陣頭に立って、オスマン・トルコの艦隊が出撃し航海中との報が、ローマに届く。
 1470年6月、オスマン・トルコの艦隊が、ユービア島の主要地点を包囲。
 1470年7月12日、オスマン・トルコ軍、ユービア島を征服。
 1470年8月25日、パウルス2世はイタリア諸国にユービア島陥落の及ぼす危険性を説く書簡を送る。
 1470年9月18日、パウルス2世はイタリア諸国に、和平を説きオスマン・トルコの脅威に一致して対抗せよと説く書簡を送る。
 1470年12月22日、パウルス2世の主導の下、ようやく、ナポリミラノフェッラーラフィレンツェ共和国が、ローディの和イタリア同盟を基にした対オスマン・トルコ共同防衛同盟を締結。

参加国

 ローマ教皇国(パウルス2世
 ナポリフェッランテ・ダラゴーナ
 ミラノガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ
 モデナ・レッジョ・フェッラーラボルソ・デステ
 フィレンツェ共和国(ロレンツォ・イル・マニーフィコ

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

パッツィ家の陰謀 Congiura dei Pazzi

概要

 1478年4月26日日曜日、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂での昇天祭ミサの最中に、都市国家フィレンツェ共和国の若き指導者ロレンツォ・イル・マニーフィコとその弟ジュリアーノ・デ・メディチが襲撃される。ジュリアーノ・デ・メディチは19箇所もの刺し傷を負ってたちどころに絶命。ロレンツォ・イル・マニーフィコは負傷したものの、逃げ延びる。フィレンツェ市民はメディチ家に味方し、陰謀に加担した者たちを処刑したため、かえってメディチ家の支配体制は盤石なものとなった。

芸術作品

舞台

 宝塚歌劇団宙組『異人たちのルネサンス―ダ・ヴィンチが描いた記憶』

別表記

 パッツィ家陰謀事件、パッツィ一族の謀反、パッツィの乱

外部リンク

 ウィキペディア
 チェーザレ・ボルジアとその周辺
 Europe in the Late Middle Ages - Knox

参考文献

 『君主論』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

イタリア戦争 Guerre d'Italia

概要

 イタリア戦争は、16世紀に主にハプスブルク家ヴァロワ家イタリアを巡って繰り広げた戦争である。

経過

 第一次イタリア戦争
 第二次イタリア戦争
 カンブレー同盟戦争
 ウルビーノ戦争
 神聖ローマ皇帝選挙
 第三次イタリア戦争
 コニャック同盟戦争
 第四次イタリア戦争
 第五次イタリア戦争
 第六次イタリア戦争

外部リンク

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モルダーノ劫掠 Sacco di Mordano

概要

 モルダーノ劫掠とは、第1次イタリア戦争において1494年10月20日と21日の間にイーモラ近郊モルダーノで起こった戦闘である。

交戦勢力
フランス王国
ミラノ公国
イーモラフォルリ
ナポリ王国
教皇国
フィレンツェ共和国
指揮官
ロベール・スチュアート・ドオービニイ
ガレアッツォ・サンセヴェリーノ
ガスパーレ・サンセヴェリーノ
マリーノ・メルカテッリ
ジャンフランチェスコ・ボレッリ
戦力
歩兵1万4千~6千、騎兵、多数のカノン砲、射石砲 歩兵2百
損害
僅か 甚大

背景

 1493年、ミラノの正統な公爵ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァパヴィアのヴィスコンティ城に閉じこもって贅沢に過ごしルドヴィーコ・イル・モーロに従属しているとの不平を綴った手紙を公爵夫人のイザベッラ・ダラゴーナが父アルフォンソ2世・ダラゴーナに送った後、ナポリミラノの関係は悪化していた。1494年1月25日ナポリ王フェッランテ・ダラゴーナが死んでアルフォンソ2世・ダラゴーナが即位し、反フランスの教皇領フィレンツェ共和国の支援を受けてミラノ公国に宣戦布告。1494年6月、シャルル8世が率いるフランス軍は、ナポリ王国を征服することを目的として、陸路と海路で半島への遠征の準備を整えた。
 ミラノ公国を事実上支配していた叔父ルドヴィーコ・イル・モーロからフランス陣営に誘われ、教皇アレクサンデル6世からはラッファエーレ・サンソーニ枢機卿をフォルリンポーポリに派遣されたものの、イーモラフォルリの摂政であるカテリーナ・スフォルツァは、自国を犠牲にする可能性のある戦争に小さな領を巻き込まないよう中立であり続けることにした。フランス軍と同盟軍の動きを知って、城郭内、城やロマーニャに点在する要塞化した村に領民を入れ、イーモラ、トッシニャーノ、ブバーノモルダーノの要塞の守備隊を強化することで戦争に備える。
 1494年5月以来、ミラノ軍騎兵と弩兵の4、5部隊は、少数の派兵でロマーニャに侵入しチェゼーナとベルティノーロの間で野営したが、領土に損害を与えはしなかった。8月末までに、ガレアッツォ・サンセヴェリーノガスパーレ・サンセヴェリーノが率いるミラノ軍本隊がボローニャ近郊に到着し、コティニョーラへ進軍。
 その後日、ミラノナポリの特使が再びカテリーナ・スフォルツァを説得し、最終的に1万6千ドゥカートで反フランス陣営と同盟することに決まる。

戦闘

 1494年9月5日、ナポリ軍はカラブリアフェッランディーノ・ダラゴーナの指揮下、イーモラフォルリ領地に入り、ヴィッラフランカ(現フォルリのフラツィオーネ)周辺に配置。9月23日、フェッランディーノ・ダラゴーナはバグナラの要塞のすぐ外で直接カテリーナ・スフォルツァに会い、両者は作戦について合意。10月17日、ナポリ軍は近くのモルダーノに移動し、戦場に扇動するよう挑発的な攻撃をフランスの野営地に繰り返し行う。その後、北のサンターガタに向かって部隊を引いた。後に続いたいくつかの小競り合いはナポリ軍にいい結果になったが、フランスを攻撃する好機を活かすことはできなかった。フランス軍はナポリ軍をモルダーノに押し戻したが、村の守備兵による抵抗を受けた。
 10月20日、前日の雪辱を果たしたいフランス軍が先導して、ロベール・スチュアート・ドオービニイガスパーレ・サンセヴェリーノ率いるフランス・ミラノ軍は村を取り巻くモルダーノに進軍。フランス人の残忍さを知るガスパーレ・サンセヴェリーノは、マリーノ・メルカテッリの指揮下にある城の守備隊と平和的に放棄するよう交渉を開始。マリーノ・メルカテッリは、ジャンフランチェスコ・ボレッリ、モルダーノ知事、カルデリーニ伯爵と合意して、死ぬ覚悟はできていると言って要塞を明け渡さず。
 交渉が失敗に終わり、フランスの砲兵隊はモルダーノの要塞を打ち込み始め、塔や壁に深刻な被害をもたらした。アントーニオ・ブッリエールは、ドイツの砲手ヨハネスがスピンガルダで貴族の敵を殺した午後3刻頃がフランスの攻撃開始だったろうとしている。フランスは侵入を試みたが、少数であったものの守備兵が階段を破壊し、スピンガルダとアーキバスで多数の兵士を負傷させることに成功。ついに、跳ね橋を支える鎖がフランス軍の大砲によって破壊され、歩兵が入口に到達し、斧で破った。フランス分隊も城の小さな裏口に達し、通過。3つの戦線で攻撃されて疲弊した守備隊は、真夜中の1刻に降伏を余儀なくされた。  

結果

 1494年10月21日の朝、フランス軍は要塞を略奪する準備をしていたが、跳ね橋に殺到した結果崩壊を招き、多数が溺れたり堀に押しつぶされたりした。一旦要塞を占領すると、モルダーノの村に侵入し、略奪し、火をつけ、あらゆる種類の暴力を実行した。彼らは市庁舎を避け、残りの少数の女性が避難した教会の、せめて神聖な聖具はミラノによって免除するよう規制された。ガスパーレ・サンセヴェリーノは虐殺を防ぐため、ミラノ兵を城と村にに送ってフランスに従うよう命じたところ、モルダーノミラノに降伏してしまった。この決定に怒ったフランスは同盟軍を攻撃する寸前で、砲手ヨハネスを四つ裂きの刑に処すことによって鎮められた。マリーノ・メルカテッリとジャンフランチェスコ・ボレッリは捕虜となり、後にカテリーナ・スフォルツァによって身請けされた。変装しフランス兵に紛れ込んだカルデリーニ伯は、敵の侵入口を通って城から脱出に成功し、カテリーナ・スフォルツァに警告するためにイーモラへ走った。モルダーノを略奪したフランス軍はブバーノとバニャーラ周辺の土地を荒廃させ、フォルリに向かって行軍。
 同日朝、フランスの動向を知ったカテリーナ・スフォルツァフェッランディーノ・ダラゴーナに支援に来るように頼んだが、後者は将軍たちと相談した後、フランス軍の戦力が現在大きすぎることを考慮して今のファエンツァ付近から離れないことにした。裏切りとモルダーノ喪失に激怒したカテリーナ・スフォルツァは、新しい同盟を締結するためにガレアッツォ・サンセヴェリーノとの接触を持つことを決心。しかし、カラブリア公は、フォルリの領土を横断することができた。公はカテリーナ・スフォルツァを信用せず、南のマイアーノとセルバニョーネを通って街を避けることにし、田舎を壊滅させ、教皇直轄領チェゼーナに向かった。

外部リンク

 Google Books - Tigress of Forli: The Life of Caterina Sforza
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』

グラナダ条約 Tratado de Granada

概要

 グラナダ条約は、ナポリ王国を二国間で分割するために、フランス王国とスペイン王国の間で秘密裏に定められた軍事同盟。1500年10月10日にルイ12世が署名し、1500年11月11日にグラナダのアルハンブラ宮殿でフェルナンド2世・デ・アラゴンイサベル1世・デ・カスティーリャが署名し、批准。

背景

 ルイ12世は、ヴァロワ=アンジュー家の後継者としてナポリ王国に対する主張を新たにした。フェルナンド2世・デ・アラゴンは、アルフォンソ5世・デ・アラゴンの甥としての権利を主張。

合意内容

 フランス王ルイ12世は、ナポリ王とエルサレム王の称号、カンパーニアアブルッツォ地域を取得。
 アラゴン王フェルナンド2世・デ・アラゴンは、プーリア、カラブリア公の称号、カラブリア公国及びプーリア全土を取得。
 羊の関税を折半。

教皇の承認

 1501年に公表され、教皇アレクサンデル6世の承認を得た。教皇はナポリ王フェデリーコ・ダラゴーナを破門し、廃位を宣言し、1501年6月25日付の教皇勅書によるグラナダ条約への公式支持を与えた。

別表記

 グラナダ協定

外部リンク

 Wikipedia

セニガッリアの罠 Strage di Senigallia

概要

 セニガッリアの罠は、チェーザレ・ボルジアが自身に反抗の意を示した傭兵隊長たちとの和解を装ってセニガッリアに招集し、捕縛、死刑にした事件のことである。

経過

 1502年12月、オリヴェロット・エウッフレドゥッチが、チェーザレ・ボルジアの名においてセニガッリアに入る。ヴィテロッツォ・ヴィテッリと甥、パオロ・オルシーニと息子ファビオ・オルシーニフランチェスコ2世・オルシーニもそれぞれの軍を率いてセニガッリアに集結。ジャンパオロ・バリオーニは病気を理由にチェーザレ・ボルジアの招集を拒絶。
 1502年12月30日、オリヴェロット・エウッフレドゥッチチェーザレ・ボルジアが通る予定である門の正面の村に軍を駐屯。他の傭兵軍は5、6マイル離れた複数の城に駐屯。歩兵1千、騎兵1百50。
 1502年12月31日にチェーザレ・ボルジアはミーザ川の橋を渡り、城郭の門をくぐった。現コルソ2世・ジューニョ通りに連なる橋を渡ったと思われる。チェーザレ・ボルジア軍は重騎兵6百。ミケーレ・ダ・コレーリア軍は槍騎兵2百、歩兵2千5百。この日の宿所のベルナルディーノ・クアルターリ邸にて、チェーザレ・ボルジアは、パオロ・オルシーニフランチェスコ2世・オルシーニヴィテロッツォ・ヴィテッリオリヴェロット・エウッフレドゥッチを拘束。翌1503年1月1日夜10刻、この辺りでヴィテロッツォ・ヴィテッリオリヴェロット・エウッフレドゥッチは死刑に処された。その様子は、ニッコロ・マキアヴェッリによってフィレンツェ共和国に詳しく報告されている。
 1503年1月1日早朝にロヴェレスカ要塞を明け渡させ、夕刻にはコリナルドに到着。
 ちなみに、チェーザレ・ボルジア軍がセニガッリアを占領した時、抵抗はしないが直接チェーザレ・ボルジアに引き渡すため要塞に陣取っていたのがアンドレア・ドーリアだったという話がある。ジョヴァンニ・デッラ・ローヴェレの傭兵隊長だったが、1501年の彼の死後にもローヴェレ家に仕えていたのかどうか確証は持てず、1565年の伝記にはそのような記載があるものの妙に詳細すぎて英雄譚のための作り話と思われる節があり、ほとんど信憑性はない。
 チェーザレ・ボルジアは傭兵隊長たちにロヴェレスカ要塞を占拠されては厄介だったので、予め城主と通じておき、自分にのみ跳ね橋を下ろさせるように指示を送っていたのではないだろうか。あまりにも都合よく捕縛後に要塞は降伏し、その後ほとんどすぐセニガッリアを出発している。領主の母ジョヴァンナ・ダ・モンテフェルトロはすでに逃亡し、援軍の見込みもなく、城主が抵抗する意味はない。降伏を部下にしようが上官にしようが相違はないのだから、その方が自然に思える。要塞が陥落していないことを自軍の武装の口実にし、狭い城郭都市内に密集しないようにと言って傭兵隊長の軍は遠ざける。全ての危険性を抜かりなく排除した上で、裏切者たちを捕らえたのだ。

セニガッリアの罠の舞台

 チェーザレ・ボルジアが自分を裏切った傭兵隊長たちを捕らえたのはロヴェレスカ要塞ではなく、少し南西に位置したベルナルディーノ・クアルターリ・ダ・パルマ邸。
 ジョヴァンニ・パスコリ小学校の西南のソルフェリーノ通り側の壁に、ベルナルディーノ・クアルターリ・ダ・パルマ邸があった場所を示す下のプレートがある(Google Maps)。しかし、ここは当時城郭の外だったはずなので、不正確な位置に設置されてしまっているようである。


Nella casa di Bernardino Quartari da Parma
che sorgeva qui presso ebbe luogo
per ordine di Cesare Borgia Duca Valentino
l'eccidio di Oliverotto Uffreducci da Fermo
et Vitellozzo Vitelli da città di Castello
suoi condottieri il giorno 31 dicembre 1502.

ミケーレ・シラーニ氏が2012年に描いたもの。セニガッリアの罠は、城郭の形が赤い線だった時代である。

外部リンク

 Comune di Senigallia
 Wikimedia Commons - Plaque Senigallia Vitellozzo Vitelli et Oliverotto da Fermo
 Wikipedia

フォルノーヴォの戦い Battaglia di Fornovo

概要

 フォルノーヴォの戦いは、1495年7月6日フォルノーヴォのタロー河畔での、フランス軍対ヴェネツィア同盟軍の戦闘。

対仏神聖同盟

 1495年3月31日、ヴェネツィアにて協定が調印され、教皇アレクサンデル6世、シチリア王フェルディナンド2世神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世ミラノ公ルドヴィーコ・イル・モーロ、イングランド王国、ヴェネツィア共和国が、対オスマン帝国の名目で同盟を結成。フィレンツェ共和国、フェッラーラ公国は加盟を拒否。
 フランチェスコ2世・ゴンザーガを総司令官とする神聖同盟軍は、1495年5月1日から、シャルル8世がフランスとの連絡確保のため途中で残していた守備隊への攻撃を開始。

交戦勢力
フランス王国
マントヴァ侯国
ヴェネツィア共和国
ミラノ公国
指揮官
総指揮官シャルル8世
ガストン・ド・フォワ
ピエール・ド・ロアン
ピエール・テライユ
ルイ2世・ド・ラ・トレモイユ
ジャック2世・ド・シャバンヌ
フィリッポ2世・ディ・サヴォイア
ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオ
カミッロ・ヴィテッリ
エンゲルベルト・フォン・クレーヴ
ジャン・ド・フォワ
ジャンパオロ・バリオーニ
ルイ・ダルマニャック
ガスパール1世・ド・コリニー
フェッランテ・デステ
フランチェスコ・セッコ
グルリーノ・トンベージ
ジャン・ニッコロ・トリヴルツィオ
エヴェラルド・アリステオ
ギイ・ド・ルーヴィエ
アントワーヌ・ド・ベセ
エイモン・ド・プリ
ジル・カロンネル
クラウディオ・ド・ラ・シャストル
オデ・ド・リベラック
ジュリアン・ブールニャフ
ベルナルディーノ・サンヴィターレ
ロベルト・グイディ・ディ・バーニョ
ルドヴィーコ2世・デル・ヴァスト
総指揮官フランチェスコ2世・ゴンザーガ
マントヴァ侯国
フランチェスコ2世・ゴンザーガ
パオロ・カヴリアーニ
ガレアッツォ・イッポーリティ
クリストフォロ・カスティリオーネ
ヴィスタッロ・ジニョーニ
アンニーバレ・マルティネンゴ
アレッシオ・ベッカーグト
ヴェネツィア共和国
リドルフォ・ゴンザーガ
フェーボ・ゴンザーガ
ニッコロ2世・オルシーニ
ヴィルジーニオ・オルシーニ
メルキオッレ・トレヴィサン
メルキュリオ・ブア
パンドルフォ4世・マラテスタ
グイド・ブランドリーニ
フィリッポ・マリーア・デ・ロッシ
ラヌッチョ・ファルネーゼ
ミラノ公国
フランチェスコ・ベルナルディーノ・スフォルツァ
ジャンフランチェスコ・サンセヴェリーノ
アキッレ・トレッリ
リッチオ・ダ・パルマ
ルドヴィーコ1世・ピコ
ガレアッツォ1世・パッラヴィチーニ
アントーニオ・マリーア・パッラヴィチーニ
アントーニオ・ピオ
アルフォンソ1世・デステ
戦力
約1万 2万以上
損害
約1千 約4千

別表記

 フォルノーヴォのタロー河畔の戦闘

外部リンク

 De Re Militari
 Fornovo 1495: France's bloody fighting retreat
 Google Books - Annali veneti dall'anno 1457 al 1500
 Sideway-Shuffle
 Wikipedia
 Youtube - Kings and Generals

参考文献

 『戦闘技術の歴史2 中世編』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia

第二次オスマン・ヴェネツィア戦争 seconda guerra turco-veneziana

概要

 第二次オスマン・ヴェネツィア戦争は、1499年から1503年まで、東地中海の覇権を巡ってオスマン帝国とヴェネツィア共和国の間で戦われた戦争。オスマン帝国の勝利にて終結。

外部リンク

 ウィキペディア

ガリリャーノの戦い Battaglia del Garigliano

概要

 ガリリャーノの戦いは、1503年12月29日にガリリャーノ川で、ゴンザロ・デ・コルドバ率いるスペイン王国軍と、サルッツォ侯ルドヴィーコ2世・デル・ヴァスト率いるフランス王国軍との戦闘。スペイン王国軍が勝利し、1734年まで続くナポリ王国の政治的命運を決定した。

交戦勢力
スペイン王国 フランス王国
指揮官
ゴンザロ・デ・コルドバ
プロスペロ・コロンナ
ファブリツィオ1世・コロンナ
マルカントーニオ・コロンナ
ポンペーオ・コロンナ
ファビオ・オルシーニ
ロレンツォ・デッラングイッラーラ
フランチオット・オルシーニ
ペドロ・ナバロ
バルトロメオ・ダルヴィアーノ
ディエゴ・アルシア・デ・パレデス
ディエゴ・デ・メンドーサ
ウーゴ・デ・モンカーダ
ベリザリオ・アクアヴィーヴァ
ファンフッラ・ダ・ローディ
ジューリオ・ヴィテッリ
エルナンド・デ・アラルコン
エットーレ・フィエラモスカ
ルドヴィーコ2世・デル・ヴァスト
ピエール・テライユ
フランチェスコ2世・ゴンザーガ
ピエロ・イル・ファトゥオ
イヴ・ダレーグル
テオドーロ・トリヴルツィオ
メルキューリオ・ブア
ルイ2世・ド・ラ・トレモイユ
シジスモンド・カンテルモ
タッデオ・デッラ・ヴォルペ

別表記

 ガリリアーノの戦い

外部リンク

 Wikipedia

カンブレー同盟 La Lega di Cambrai

概要

 カンブレー同盟とは、当時経済的軍事的絶頂期にあったヴェネツィア共和国イタリア北部における伸長を阻止するため、1508年12月10日、教皇ユリウス2世が、フランス王ルイ12世神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、そしてアラゴン王フェルナンド2世・デ・アラゴンとの間に結成した反ヴェネツィア同盟である。

別表記

 カンブレイ同盟、Lega di Cambraythe League of Cambray

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『君主論』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia

カンブレー同盟戦争 Guerra della Lega di Cambrai

概要

 カンブレー同盟戦争は、1508年から1516年まで続いた、イタリア半島を巡ってフランス王国、教皇国ヴェネツィア共和国の間で起こった戦争。

外部リンク

 ウィキペディア

アニャデッロの戦い Battaglia di Agnadello

概要

 アニャデッロの戦いは、カンブレー同盟戦争の一環として、1509年5月14日にアニャデッロ近郊カッシーナ・ミラベッロでフランス軍とヴェネツィア共和国軍の間に起こった戦い。フランスが勝利し、ヴェネツィア共和国ロンバルディアからの撤退を余儀なくされる。

交戦勢力
フランス王国
フェッラーラ公国
サルッツォ侯爵領
モンフェッラート侯爵領
ヴェネツィア共和国
指揮官
フランス王国軍
ルイ12世
ルイ2世・ド・ラ・トレモイユ
ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオ
ジャンニッコロ・トリヴルツィオ
テオドーロ・トリヴルツィオ
アントワーヌ・ド・ロレーヌ
ジャック2世・ド・ラ・パリス
シャルル2世・ダンボワーズ
ピエール・テライユ
アルフォンソ1世・デステ
シャルル・ド・ブルボン
ミケーレ・アントーニオ・デル・ヴァスト
ガレアッツォ・サンセヴェリーノ
アキッレ・トレッリ
ロベール3世・ド・ラ・マルク
イヴ・ダレーグル
ガストン・ド・フォワ
ヴァンドーム伯シャルル4世・ド・ブルボン
フィリップ・ド・サヴォワ
グリエルモ9世・パレオロゴ
ガスパール1世・ド・コリニー
メルキューリオ・ブア
ガレアッツォ1世・パッラヴィチーニ
アントーニオ・マリーア・パッラヴィチーニ
バルトロメオ・ダルヴィアーノ
ニッコロ2世・オルシーニ
アンドレア・グリッティ
アントーニオ・ピオ
ベルナルディーノ・フォルテブラッチ
ヴィンチェンツォ・ヴァリエール
チトロ・デ・ペルージア
サッコッチョ・ダ・スポレート †
フランコ・ダル・ボルゴ †
ヤコポ・セッコ
レオナルド・プラート・ダ・レッチェ
ジローラモ・グランキオ †
ヤコポ・ダ・ラヴェンナ
ジャンフランチェスコ・ガンバラ ヤコポ・デッラ・サッセッタ
トゥルケット・ダ・ローディ †
パンドルフォ4世・マラテスタ
ピエロ・デル・モンテ・ディ・サンタ・マリア †
ディオニジ・ナルディ
ルイジ・アヴォガドロ
フランチェスコ・スブロジャヴァッカ
フィリベルト・バボーネ・ナルディ
ガブリエーレ・タディーノ
ジャンコンテ・ブランドリーニ
ジャン・フランチェスコ・ダイナ
戦力
3万 重装騎兵:1千6百55
騎兵:少なくとも4百
歩兵:1万5千5百10
弩兵:7百85
大砲:34門

合計:約1万8千5百00
損害
死者:1千5百~4千 死者、負傷、捕虜:4千~6千

別表記

 アニャデッロあるいはヴァイラーテの戦闘、アニャデロの戦い

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『君主論』
 『戦闘技術の歴史2 中世編』
 『フィレンツェ史』
 『マキァヴェッリ 忘恩、運命、野心、好機』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの華』

マリニャーノの戦い Battaglia di Marignano

概要

 マリニャーノの戦いは、1515年9月13日から14日にかけて、ミラノの東南16kmに位置するメレニャーノとサン・ジュリアーノ・ミラネーゼで行われたフランス・ヴェネツィア連合軍とスペイン側のスイス軍との戦闘。フランス王フランソワ1世が勝利し、ミラノ公国はフランスの支配下に入った。

交戦勢力
フランス王国
ヴェネツィア共和国
スイス連邦
マントヴァ侯国
ミラノ公国
指揮官
フランス王国軍
フランソワ1世
シャルル4世・ダランソン
ジャン4世・ダンボワーズ
ルイ2世・ド・ラ・トレモイユ
オデ・ド・フォワ
シャルル・ド・ブルボン
ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオ
テオドーロ・トリヴルツィオ
ロベール・スチュアート・ドオービニイ
ジャック2世・ド・シャバンヌ
ガスパール1世・ド・コリニー
アントワーヌ・ド・ロレーヌ
シャルル1世・ド・ラ・トレモイユ
ペドロ・ナバロ
アンヌ・ド・モンモランシー
ロベール3世・ド・ラ・マルク
ピエール・テライユ
クロード1世・ド・ギーズ
ルイ4世・ド・ビュエイユ
カミッロ・ディ・マルティネンゴ
キアッピーノ・オルシーニ
ミケラントーニオ・ディ・サルッツォ
アイマー・ド・プリエ
カール・ファン・エグモント
ルドヴィーコ・ダ・バルビアーノ
ヴェネツィア共和国
バルトロメオ・ダルヴィアーノ
マラテスタ4世・バリオーニ
ヤコポ・ダ・ヴィコヴァーロ
ロレンツォ・デッラングイッラーラ
メルキューリオ・ブア
スイス連邦軍
マルクス・ロイスト
マテウス・シャイナー
オズヴァルド1世・ズルラウブ
コンラート・エンゲルハルト
フルドリッヒ・ツヴィングリ
ペッレグリーノ ラントベルク
ハスラー ファッティオ
マントヴァ侯国
ジョヴァンニ・ゴンザーガ
アロイジオ・ゴンザーガ
ミラノ公国
マッシミリアーノ・スフォルツァ
アレッサンドロ・スフォルツァ
プロスペロ・コロンナ
ムツィオ・コロンナ
リドルフォ・ディ・サリーチェ
アレッサンドロ・ベンティヴォーリオ
マッテオ・バンデッロ
戦力
フランス軍
ランツクネヒト兵:2万6千
フランス歩兵:4千
ガスコーニュ弓兵:5千5百
重装騎兵:2千9百50
軽騎兵:1千5百
大砲:56門

ヴェネツィア軍
歩兵:8千
騎兵:7百
大砲:数門

合計:4万8千6百50
スイス兵:2万5千~3万
ミラノ及び教皇軍騎兵:数百
ミラノ歩兵:数百
ファルコネット砲:8~10門
損害
3千~6千 8千~1万4千

外部リンク

 Wikipedia

記載日

 2006年7月16日

更新日

 2024年4月12日