ピッティ陰謀事件

概要

 ルカ・ピッティを首謀者とする反メディチ派が、ピエロ・イル・ゴットーソ及びメディチ家に対し反乱。ピエロ・イル・ゴットーソは1466年8月27日の暗殺を回避し、反乱の平定に成功し、メディチ家によるフィレンツェ共和国支配を継続、再強化させた。

原因

▼メディチ家の制度化されていない権力の継承
 フィレンツェ共和国の一市民に過ぎないはずのメディチ家が、実質フィレンツェ共和国を掌握している。故コジモ・イル・ヴェッキオが確立した権力を、長男ピエロ・イル・ゴットーソが世襲。伝統的共和政への回帰願望が表面化していく。

▼フィレンツェの銀行商会を襲った不況
 1464年11月、ピエロ・イル・ゴットーソは、故コジモ・イル・ヴェッキオの残した莫大な債権回収に乗り出し、また新規事業の回避など、メディチ銀行経営再生のためにリストラクチャリングを推し進め出す。真偽のほどは明らかではないが、ディエティサルヴィ・ネローニが彼の失脚を狙って進言したという。
 このことが不況を誘発したとも考えられており、銀行商会が次々倒産するこの不況がメディチ派にも反発と敵意を生み出し、政情不安をもたらした。

発端

 ディエティサルヴィ・ネローニアニョーロ・アッチャイウオリと共謀し、共和政の復活を唱えてきたルカ・ピッティを首謀者として打ち立てる。そして、ピエロ・イル・ゴットーソを排除した後、二人はルカ・ピッティをも排除するつもりだった。

選挙→メディチ派のお手盛り選出→伝統的抽選制

▼1465年9月16日
 コジモ・イル・ヴェッキオ時代にメディチ派による公職独占の鍵を握っていた選挙管理委員の機能を停止し、旧来の抽選制復活案が、コンシーリオ・デ・チェント(百人評議会)、コンシーリオ・デル・ポーポロ(平民評議会)及びコンシーリオ・デル・コムーネ(自治都市評議会)で可決。しかし、官職の選出方法は1458年改変から伝統的抽選に回帰したものの、その被選出有資格者の決定はメディチ配下の有力者ないしその関係者が占めるアッコピアトーリによって行われる。

▼1466年4月(1466年5月27日?)
 反メディチ派の約400人の有力者は、伝統的共和制の諸制度を遵守する旨を宣言した宣誓書に署名。ピエロ・イル・ゴットーソに対する対決姿勢を明らかにする。

▼1466年5月24~31日
 若干の例外を除き全ての官職を永久に伝統的抽選によって選出することを、コンシーリオ・デ・チェント(百人評議会)、コンシーリオ・デル・ポーポロ(平民評議会)及びコンシーリオ・デル・コムーネ(自治都市評議会)が決定。1458年の共和政変改の決定は全て覆される。
 この結果、ニッコロ・ソデリーニ正義の旗手に選ばれる。ニッコロ・ソデリーニは直ちに評議会の候補者名簿を拡大したため、両評議会における反メディチ派の数は著しく増大した。

フランチェスコ1世・スフォルツァ、死去

 1466年3月8日、メディチ家の権力を背後から支えてきたフランチェスコ1世・スフォルツァが死去。ピエロ・イル・ゴットーソは領外最強の支柱を失うことになる。
 また、新ミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァからの、フランチェスコ1世・スフォルツァ時代以来の定期支援金の求めにピエロ・イル・ゴットーソが応じるが、その送金を反メディチ派が阻止。両派が対立。

主な反メディチ派

 ルカ・ピッティ
 ディエティサルヴィ・ネローニ
 アニョーロ・アッチャイウオリ
 ピエルフランチェスコ・デ・メディチ
 Giovannozzo Pitti
 Manno Temperani

反乱発覚

 反メディチ派は、フェッラーラ候ボルソ・デステに支援を求め、1466年8月、弟エルコーレ1世・デステ指揮の約4千のエステ軍がフィレンツェに向かう。
 1466年8月27日、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオから反乱とエステ軍のフィレンツェ共和国領内侵入を通報する書状が、カレッジの別荘にて療養中のピエロ・イル・ゴットーソの元に届く。

内乱の危機

ピエロ・イル・ゴットーソの行動
 カレッジからフィレンツェの帰途、武装した刺客がサンタンブロージョ・デル・ヴェスコヴォに配されていた。彼がいつもここを通っていたからである。しかし、彼はこのルートを選ばず、1466年8月27日のこの暗殺は未遂に終わる。
 急遽フィレンツェに戻り、直ちにメディチ派に反乱が起こった旨伝える。また、書状をシニョーリアに運ばせ、防御態勢を取らせる。
 ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァに援軍を要請し、騎兵1100人がイーモラに到着。
 同時にルカ・ピッティに交渉を呼びかける。
 フィレンツェ市内で両派の一触即発の危機が高まる。

ルカ・ピッティの行動
 反乱の早期の発覚と、予想外のピエロ・イル・ゴットーソの迅速な対応に機先を制され、交渉に応じざるを得なくなる。
 ピエロ・イル・ゴットーソと和解するも、帰宅後ニッコロ・ソデリーニらに説得され、すぐに翻心。

シニョーリアをメディチ派が占める

 1466年8月28日、ピエロ・イル・ゴットーソの支持者ロベルト・リオーニ正義の旗手となり、9~10月のシニョーリアをメディチ派で占めることに成功。
 1466年8月29日、シニョーリアの選出結果を見たルカ・ピッティは、改めてピエロ・イル・ゴットーソと和解し、屈服。それに伴い、エステ軍が退却。

パルラメント開催

 1466年9月2日午後、ピエロ・イル・ゴットーソの私兵3000が包囲する中、シニョーリアにより政庁宮広場にパルラメントが開かれる。8月からなる4ヶ月任期の十人委員会の設置、アッコピアトーリによるシニョーリアの実質上の選出の復活を承認。
 1466年9月5日、設置されたばかりの十人委員会は、1462~66年の共和政への復帰の決定をことごとく覆し、1458年の体制を復活させる。これ以降メディチ家がフィレンツェ共和国を追放される1494年まで28年間に渡り、反対派を自在に排除できるメディチ派のお手盛り選出が維持されることになった。

反メディチに対する処罰

 1466年9月11日、十人委員会は、陰謀の関係者の処罰を決め、ことごとく追放や罰金刑に処する。

ルカ・ピッティ
 処罰せずに放置。以後、各派から軽蔑され、事実上の陰棲を余儀なくされる。

アニョーロ・アッチャイウオリ
 息子たちと共にバーリ近郊Barlettaへ、20年間追放。

ディエティサルヴィ・ネローニ
 息子、兄弟と共にシチリアへ、20年間追放。

ニッコロ・ソデリーニ
 息子と共にフランス・プロヴァンスへ、20年間追放。

終息

 こうしてピエロ・イル・ゴットーソは2年に渡る政治危機を乗り切り、国内のメディチ体制は再強化されるのである。

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

関連項目

 1467年1月4日の同盟

記載日

 2006年10月27日以前