Pius II

ピウス2世

生没:1405年10月18日~1464年8月14日
出身:コルシニャーノ(現ピエンツァ
没地:アンコーナ
在位:枢機卿 1456年12月17日~1458年
       任命した教皇:カリストゥス3世
   第210代教皇 1458年~1464年
    先代:カリストゥス3世
    次代:パウルス2世
父:シルヴィオ・ピッコローミニ
母:ヴィットーリア・フォルテグエッリ

概要

 エネア・シルヴィオ・ピッコロミーニは、15世紀のイタリアの男性、聖職者、人文主義者、詩人、歴史家。第210代教皇ピウス2世。

年表

1456年12月17日
カリストゥス3世により、枢機卿に叙任される。
1458年8月19日
1456年末に枢機卿に叙任されたばかりのエネア・シルヴィオ・ピッコロミーニ、教皇に即位しピウス2世を名乗る。
オスマン・トルコの東ヨーロッパ侵攻に対抗するためにキリスト教世界の、とりわけイタリアの平穏と結束が不可欠と見てその実現に腐心。
1458年8月20日
まずナポリを巡る争乱を鎮めることが緊要と見て、フェッランテ・ダラゴーナをその正統王とみなし、教皇庁における彼の使節を王国使節と見なすことに決意。
1458年10月13日
オスマン・トルコに対すべく次年にキリスト教君主会議を召集、開催するとの勅書を発す。
1458年10月17日
ピウス2世とフェッランテ・ダラゴーナ、それぞれの代理の間で、前者は後者にナポリを封与後者をその王に叙任すること、後者は前者に忠誠を尽くすこと、を本旨とする前者に有利な協定をローマで締結。
1458年11月10日
前月の協定の旨の勅書を、ルネ・ダンジューをナポリ王となすべきとするフランス人枢機卿たちの反対を押さえて、発する。
1459年1月22日
オスマン・トルコ軍のセルビアの侵攻の報が届く中、1459年6月にマントヴァで開催することに決めたキリスト教君主会議のため、ローマを出発。以後ペルージア、シエナ、フィレンツェ、ボローニャ、フェッラーラなどでそれぞれの政情に応じた歓迎、供応を受けながらマントヴァに向かう。その途上、ヨーロッパ及びイタリアの諸国、諸君主に君侯自身ないしはその全権使節が会議に出席するよう促す書状を発し続ける。
1459年2月
シエナ到着。一足早く春が来たかの如く、町は花々、植物で飾られており、凱旋式のような歓迎を受ける。大司教宮殿に滞在。
1459年4月25日
フィレンツェ市内に入り、富を尽くした大歓迎を受ける。
滞在中、リーミニのシギスモンド・マラテスタら諸君主にまじりフランチェスコ1世・スフォルツァの長子ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが騎兵350を率いて表敬に現われ、以後マントヴァまで教皇を先導。
1459年5月5日
フィレンツェ市内を離れボローニャに向かう。
コジモ・イル・ヴェッキオは、健康が優れないことを理由に、ついに表敬せず。
1459年5月27日
大歓迎を受けてマントヴァに入る。しかし、召集した君主会議に出席すべき君主ないし全権使節は一人も到着していないことを知る。
1459年6月1日
ミサを開き、キリスト教君主会議の開催を宣言。同時に1459年6月2日にかけて会議への出席を求める回状を各国、各都市、各君主に発する。
1459年9月26日
1459年9月半ば過ぎ再三の招請に応えてフランチェスコ1世・スフォルツァがようやくマントヴァに現われたのに続き、イタリアの大小の君主ないしはその使節及びヴェネツィア、フィレンツェ、シエナ、ボローニャ、フェッラーラなどの使節が到着し、この日、開会宣言後3ヵ月半余を経てようやくキリスト教君主会議第一回会議を開催。
冒頭で教皇、オスマン・トルコに対するキリスト教世界の防衛を熱烈に訴え、その聖戦の遂行を決議させる。
1459年9月27日
この日から始まった対オスマン・トルコ聖戦の態勢の整備についての討議、自国の商業上の利益のため対オスマン・トルコ戦に加わりたくないヴェネツィア及びフィレンツェ、ことに前者の意義のため成案を得られず。
引き続き、ドイツ、フランス、イングランドなどの諸君主に会議への出席ないし全権使節の派遣を求める書状を送り続ける。
1459年11月30日
ルネ・ダンジューの使節から、面前で対オスマン・トルコ問題について語るより先にフェッランテ・ダラゴーナへのナポリ王位承認を非難し、その撤回とルネ・ダンジューへの王位授与を要求される。後日、これを却ける。
1460年1月半ば
対オスマン・トルコ聖戦の遂行の具体案を得られないままマントヴァを離れる(1460年1月半ば~1460年1月19日)。
1460年1月31日
フェッラーラ、ボローニャ、フィレンツェなどを経て、この日シエナ着。
1460年2月2日
聖燭祭シエナ大聖堂で執り行い、シエナ市民1人1人に自ら蝋燭を手渡す。
1460年6月11日
バーニ・ディ・ペトリオーロにて、ロドリゴ・ボルジア枢機卿の不品行を戒める手紙をしたためる。

 余の聞き知ったところによれば、3日前、シエナの数名の夫人がジョヴァンニ・ビーキの庭園(現シエナ国立絵画館)に集い、貴下は自らの品位をほとんどおもんばかるところなく午後の1時から6時までこの婦女子らと共にあり、しかも1名の枢機卿が貴下と行を共にしたとのことである。彼は、教皇庁への敬意からでないまでも、少なくともその年齢からして自らの義務を想起すべきであったろうと思われる。かなりに淫らな舞踏がなされたことも報告されている。あらゆる愛の誘惑がなされ、貴下は俗界の若者の如くに振舞ったとのことである。その場で起こったことを明記するのは憚られる。名を挙げることさえ貴下の品位には相応しからぬことである。若い婦人らに付き添ってきた夫、父親、兄弟、その他の近親者らは入場を禁じられた。貴下、及び貴下の意に従って参加し、踊る一部の親しい者たちが欲しいままに振る舞い、楽しむためである。シエナでは、この噂でもちきりであり、人々は貴下の軽薄な振る舞いを笑っている由である。教会人や信徒たちの多くいるこの温泉地においてさえ、貴下の名前が万人の話題にのぼっている。聖なる地位と職場を貶めた貴下の行為がもたらした、余の不愉快は言葉にできぬほどである。清廉潔白な生活を送るからではなく、欲望を満たすがために我々は富裕で地位が高いのだと、人々は言うだろう。これこそが君主や権力をして、我々や教会の長を定めるのだ。枢機卿たちと肩を並べ、教皇座の助言者として教皇と共にある者だという事実が、貴下の行為をいっそう咎むべきものとしているのだ。人を非難すれば自身の生活態度こそが己に仕返しするだから、女子に言い寄り、信徒たちに嘲られることが貴下の品位になるのかどうかは貴下に委ねよう。このような行為を放置しているように見えるのだから、キリストの代理人が侮辱されるのだ。愛する息子よ、貴下はスペインで最も重要なヴァレンシアの司教職を預かっていながら、果実や葡萄酒を愛し、あらゆる楽しみごとに1日中打ち興じた。貴下の故に、余は非難され、貴下に多くの名誉ある職責を委託したとして貴下の伯父上カリストゥス3世の名声も傷つけられた。若さゆえの過ちだと訴えるなら、貴下は己の職責を弁えぬほど若くはないと返そう。一枢機卿は非の打ちどころがなく、万人の目に善き生活の模範とならなければならない。それならば、俗世の君主たちが余に蔑称を浴びせる時、財産を巡って対立し余を意に従わせようとする時、正当な怒りを感じることができるのだ。その行いこそが教会の権威をないがしろにするがために、自ら己を傷つけ、自ら己に苦悩を与えているというのが真実なのだ。現世では、不名誉こそがその罰であり、受けて然るべき拷問である。それ故、分別でもって軽率な行動を慎み、自己の尊厳を見失うことのなきよう。そして、若い男女の間に粋人としての評判を立てようなどと求めてはならぬ。もし同じようなことが再び起こったならば、余も心苦しいが、そんなことを奨励しているわけではないということを示さざるを得なくなる。その問責は貴下を恥辱に苛まさせるだろう。貴下を常から愛し、熱心で謙虚な性格の男として目をかけるに値する者と思っている。しかるに、これから自らの振る舞いを正すなら前述の貴下への評価を変えないであろうし、秩序正しい生活の手本としてのみ貴下に注目するであろう。父親の如く叱るのは、改善を不可能とはしない貴下の年齢のせいなのだ。
1460年10月6日
シエナに8ヶ月余逗留し、ローマに帰着。
1461年8月上旬
この頃?、スカンデルベッグ指揮のアルバニア騎兵隊、教皇の指示により対オスマン・トルコ戦からフェッランテ・ダラゴーナ支援にナポリに到着。
1461年
フランス王ルイ11世にブールジュの国事詔書(1438年)を形式的にではあれ撤回させる。
1462年3月31日
イフラヴァ協約(1436年、1437年)を無効とし廃棄すると宣言して俗人の聖餐を禁ずる。
1462年7月6日
チヴィタヴェッキア近郊の教会領の山地トルファで明礬鉱が発見され、この日、教皇庁はトルファ明礬鉱の発見者(ジョヴァンニ・ディ・カストロ)及びそのパトロン(Bartolomeo da Framura、カルロ・ガエターニ)と鉱の開発について契約。
以後この地の明礬の独占販売の収入、教皇庁の財政を潤し、対オスマン・トルコ十字軍などに向けられる。
1462年9月
オスマン・トルコ軍、エーゲ海の大島レスボスを制圧。
1462年11月
オスマン・トルコ軍、コリントス湾とパトラ湾を結ぶ都市レパントを包囲し周辺を略奪。
1463年4月3日
オスマン・トルコ軍、モレア(ペロポネソス半島)東部アルゴリスのヴェネツィア植民地を襲撃し、この日、アルゴスを占領。
1463年5月
ヴェネツィアはまず艦隊を、続いて陸軍をモレアに送り、オスマン・トルコ軍と対峙、戦争状態に入る。
しかしヴェネツィア、公的には宣戦を布告せずになおオスマン・トルコとの協調を探り、トルコの脅威に曝されるボスニアからの同盟の提案を拒み続ける。
1463年5月~1463年6月
この間にオスマン・トルコ軍、ボスニアを制圧。トルコの脅威、イタリア本土にも及び始める。
1463年7月
対オスマン・トルコ十字軍の結成に再び専心。
この月、枢機卿ヨハネス・ベッサリオンをヴェネツィアに派遣し、オスマン・トルコに対する公式の宣戦布告及びキリスト教諸国・諸権力者による十字軍への参加を促す。しかしヴェネツィアはいずれにも難色を示す。
1463年7月24日
対オスマン・トルコの一環としてハンガリーの内紛を調停し、マティアス・コルヴィヌスを終身王とする和を結ばせる。
1463年7月28日
ヴェネツィアがオスマン・トルコに公式に宣戦を布告。
1463年9月12日
ヴェネツィアとハンガリーは、対オスマン・トルコ攻撃協定を結び、公表。
イタリア諸国、諸権力者の使節に対オスマン・トルコ十字軍の結成を呼びかける。
これに対し、レヴァントとの通商をヴェネツィアと競うフィレンツェの使節が、対トルコ問題はヴェネツィアの問題であり、ヴェネツィアが単独で対処すべきだとして最も強い難色を示す。
1463年10月
対オスマン・トルコ十字軍の結成にヴェネツィアの尽力が不可欠との観点からその要請を入れ、コンタードを5マイルに限定してリーミニを封与し教皇庁への貢納を義務付けるなどの厳しい条件付で、シギスモンド・マラテスタを免罪。
1463年10月22日
対オスマン・トルコ十字軍の結成を宣言し全キリスト教徒に応分の参加協力を訴える勅書を発す。
1463年11月初め
諸国、諸権力者の使節に対し、アンコーナに結集する十字軍の先頭に自ら立つとの決意を表明。
1463年
自叙伝Commentarii rerum memorabilium quaetemporibus suis contigerunt(備忘録)を執筆。(1584年ローマで刊)。
1464年6月18日
その病身を慮り周囲がこぞって反対する中、生きて再びローマを見ることはあるまいとの言葉を残し、対オスマン・トルコ十字軍を自ら率いるためアンコーナに向かってローマを出発。
教皇の悲愴な決意と行動、この後ヨーロッパ各地の民衆には感動を与え十字軍参加の熱を高める。
1464年7月19日
イタリア全土を覆うペストが猖獗を極めるアンコーナに到着。すでに甚だしく衰弱した彼は、ヴェネツィア初め諸国、諸権力者が約束した艦船、兵士がまだ到着していないことを知る。以後、ひたすらその到着を待つ。
1464年8月8日
コジモ・イル・ヴェッキオの死を悼み、継承者、長子ピエロ・イル・ゴットーソにアンコーナから弔文を送る。最後の手紙となる。
1464年8月14日
夜半、身命を賭した対オスマン・トルコ十字軍の結集を見ないままアンコーナで死(8月15日)。
この日、ヴェネツィアの小艦隊、アンコーナに到着。

肖像

 エネア・シルヴィオの桂冠式

任命した枢機卿

1460年3月5日 ニッコロ・フォルテゲッラ
フランチェスコ・トデスキーニ
1461年12月18日 フランチェスコ・ゴンザーガ

本名

 エネア・シルヴィオ・ピッコロミーニ、Enea Silvio Piccolomini

別表記

 ピオ2世(Pio II)、アエネアス・シルヴィウス(Aeneas Silvius)
 エネア・シルヴィオ・デ・ピッコロミニ、Enea Silvio de Piccolomini

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 GCatholic.com
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Treccani

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『傭兵の二千年史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネサンス百科事典』
 『ローマ教皇検死録』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2006年10月12日以前