Pius V

ピウス5世

生没
1504年1月17日~1572年5月1日

概要

 アントーニオ・ギスリエーリは、16世紀の男性、聖職者。第225代教皇ピウス5世。

在位

 第225代教皇 1566年1月7日~1572年5月1日

年表

1566年6月19日

クレメンス7世の書記官を務めた(1533年)が後に改革派(Valdés派)に傾斜したためパウルス4世の下で再三、異端審問に晒され、一旦は有罪判決を受け(1558年)ながらも、パウルス4世の死後ピウス4世の下でコジモ1世・デ・メディチの仲介により判決を取り消され(1560年)、この頃コジモ1世・デ・メディチの客としてフィレンツェに招かれていたPietro Carnesecchi(1508年~1567年)について、新教皇ピウス5世の下のローマ異端審問所、その身柄を引き渡すようコジモ1世・デ・メディチに要求。

1566年6月26日

トスカーナの「王」となるためにピウス5世の支援を得たいコジモ1世・デ・メディチPietro Carnesecchiの期待に反し、要求を拒まず彼の身柄を教皇庁の特使に引き渡す。

1566年末

この頃?、教皇ピウス5世、故ピウス4世がトレント公会議の決議に基づきその甥・枢機卿カルロ・ボッロメオの監修下で4名の神学者に執筆させた主任司祭用の教理問答書を、最終的に校閲させラテン・イタリア両語で、ローマで刊行させる(Catechismus Romanusローマ公教要理)。

1567年4月11日

ピウス5世、トマス・アクイナスDoctor ecclesiae(教会博士)(Doctor communis(公道的博士)、Doctor angelicus(天使的博士))の称号を与える勅書を発する。

1569年4月中旬

1569年1月22日フランス・カトリック陣営への援軍を結成し、1569年3月13日その指揮官としてサンタ・フィオーラ伯Sforza Sforza(1520年~1575年:在位1564年~1575年)を任命していたピウス5世、この軍に出陣を命ずる。

1569年5月14日

教皇軍とフィレンツェ軍、トスカーナで合流し、フランスに向かう。

1566年8月16日

1566年7月上旬からPietro Carnesecchiに対して異端審問を行ってきたローマ異端審問所、この日、「恐るべき異端者」・「邪悪な人間」として斬首・火刑に処するとの判決を下す。

1569年8月27日

ピウス5世、Santo Stefano騎士団の創設(1562年)、Pietro Carnesecchiの身柄引き渡し(1566年)、フランス・カトリック陣営への支援、など教皇・教会への協力姿勢の顕著なコジモ1世・デ・メディチを「カトリック信仰擁護の貢献者」などと評価し、この多大な貢献にGran Duca di Toscana(トスカーナ大公)の位をもって報いるとの勅書を発する。

この勅書に、フィレンツェシエナも神聖ローマ帝国の封土と考えるマクシミリアン2世及びイタリア諸侯、こぞって反発。

1569年

この頃までにコジモ1世・デ・メディチ、ピウス5世の要請を受け入れフランス・カトリック陣営への援軍を整備。

1569年8月

教皇軍とフィレンツェ軍、トゥール近郊でアンリ3世指揮のフランス王軍(カトリック軍)と合流。間もなくポワティエ防衛戦に参加。

1570年2月25日

ピウス5世、真実の教会の危機を救い背信の徒を罰する義務を負う教皇として、異端者エリザベス1世を破門し「自称」イングランド王の位に関わる権限を失わしめる、との勅書を発し、イングランドのカトリック教徒をエリザベス1世への忠誠義務から解放。

1570年3月5日

ピウス5世、この日のために1570年2月18日ローマに入ったコジモ1世・デ・メディチに、システィーナ礼拝堂でトスカーナ大公の冠を授与。

これに対し、当初は静観していたフェリペ2世が教皇の世俗権力への介入・干渉とコジモ1世・デ・メディチの権力の増大を懸念してナポリ王ミラノ公の名で反対に回ったのを初め、1570年3月29日マクシミリアン2世も重ねて反対の意を表明。

1570年9月9日

オスマン・トルコ軍、首都ニコシアを占領しキプロス島を制圧。

1571年5月20日

対トルコ十字軍の理念を唱えるピウス5世を中心に、ヴェネツィアフェリペ2世の三者、対オスマン・トルコ神聖同盟をローマで秘密裏に締結。

この神聖同盟とトスカーナ大公コジモ1世・デ・メディチ、サヴォイア公エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアパルマ・ピアチェンツァ公オッタヴィオ・ファルネーゼウルビーノグイドバルド2世・デッラ・ローヴェレジェノヴァ、マルタ騎士団とが提携し、直ちに共に同盟軍の編成に着手。

1572年5月1日

死。

本名

 アントーニオ・ギスリエーリ、Antonio Ghislieri

外部リンク

 ウィキペディア
 GCatholic.com

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』

記載日

 2011年4月25日