Raffaele Girolami

ラッファエーレ・ジローラミ

生没:1472年3月8日~1532年11月24日
出身:フィレンツェ
没地:ピサ
在位:正義の旗手 1530年
父:フランチェスコ・ジローラミ
母:マッダレーナ・マッツィンギ
妻:アレッサンドラ・デ・ネルリ
子:フランチェスコ・ジローラミ
  ツァーノビ・ジローラミ
  ジュリアーノ・ジローラミ
  ベルナルド・ジローラミ
  マルゲリータ・ジローラミ
  マッダレーナ・ジローラミ
  コーザ・ジローラミ
  ディアノーラ・ジローラミ
  コンテッシナ・ジローラミ

概要

 ラッファエーレ・ジローラミは、イタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。

年表

1529年8月30日
カール5世はジェノヴァを発ちピアチェンツァに向かう。彼を追ったフィレンツェの使節ラッファエーレ・ジローラミ、ルイジ・ディ・ピエロ・アラマンニに対して、クレメンス7世の使節と合意の上、1529年8月24日の第一回会見の主張を繰り返す。
1529年8月17日
特別諮問会議は、ジェノヴァのカール5世のもとに使節団、前正義の旗手で親カール5世派のニッコロ・カッポーニ、親フランソワ1世派のトンマーゾ・ディ・パオラントーニオ・ソデリーニラッファエーレ・ジローラミ、マッテオ・ストロッツィを送ることを決める。
1530年1月3~7日
フィレンツェは、前年末マラテスタ・バリオーニから勧奨されたクレメンス7世への使節派遣問題が、特別諮問会議では意見が分かれたためシニョーリアによってコンシーリオ・マッジョーレの審議に付され、承認される。特別諮問会議もこれを承認し、さらに使節にクレメンス7世との交渉権も与える。
1530年1月中旬/下旬
前年12月、軍最高司令官就任を契約しながら父アルフォンソ1世・デステカール5世への接近、同盟策によってその契約の実行を阻まれ、ついに着任しないエルコーレ2世・デステに代えて、フィレンツェはマラテスタ・バリオーニを本人の強い意向に従い軍最高司令官に就任させる。
1530年1月下旬~3月初頭
フィレンツェで、メディチ派との嫌疑による市内有力者たちの審問ないし逮捕が、断続的に繰り返される。
1530年2月7日
使節ルイジ・ソデリーニとAndreuolo Niccoliniボローニャから虚しく帰着。
1530年2月8日
特別諮問会議は、平和的交渉で成果を得られる展望はないとしてクレメンス7世との和解を断念。しかしカール5世及びフィリベルト・デ・シャロンとの接触は求め続ける。
1530年4月20日~5月初旬
内外の状況が緊迫の度を深める中、フィレンツェは神と信仰のみに従うべきであり、民衆は神の遣いであり、それに敵対するものは暴君であるとの声高まり、神に対する裁判でもあったジローラモ・サヴォナローラに対する恥ずべき裁判(1498年)を再審議せよとの首長が公的にもなされる。
1530年
久しぶりの目覚しい勝利をもたらしたFrancesco Ferrucciへの評価と期待、フィレンツェで一気に高まる。
1530年
市内と領外は無論領内各地との交通・通信もほぼ途絶し、物価の急騰、飢餓の深刻化、軍需品の欠乏、などにより状況が緊迫する中、市内に狼狽・絶望感、広まる。
1530年6月9日
向こう3年間、市民の金銀の所有を一切禁止し、全ての金銀を貨幣鋳造用に供出するよう命ずる布告が出される。市民は敏速かつ熱心にこれに従う。
1530年6月9日
1529年12月Ottoからボローニャにおけるクレメンス7世の側近としての言動などを説明するよう召喚されながら書面で弁明し、1530年3月諸島に叛徒と宣告されていたフランチェスコ・グィッチャルディーニが改めて叛徒として全財産の没収を宣告されたのを初めフランチェスコ・ヴェットーリIacopo Tornabuoni(1472年~1543年)も同じ宣告を受ける。
1530年6月半ば
食糧の調達・配給のための特別委員会が設置されるが、飢餓はさらに深刻化し、ぬかパンと水しか得られなくなった市民は猫、鼠まで食べ始める。栄養不良と悪疫による死者はすでに日に2百名にのぼる。
1530年6月14日
フランソワ1世の2人の子息が釈放され帰国したらしいとの報が届き、自由な行動が可能となったフランソワ1世の支援が得られるとの希望が強まると共にしないに歓喜の波、一気に広がる。
1530年6月
ヴォルテッラ防衛戦でFrancesco Ferrucciは負傷。しかしヴォルテッラを死守した彼への市民の評価と期待、いっそう、高まる。
1530年7月初旬~10日
包囲を突破して活路を開く唯一の策として、ヴォルテッラを死守しているFrancesco Ferrucciが軍を率いて外から包囲軍を攻め、それに呼応して市内から市民軍を含む全軍が出撃して包囲軍を挟撃する作戦が立てられる。これを苦心の末Francesco Ferrucciに伝えると共に市民軍を拡充。
1530年7月15~18日
Francesco Ferrucci、指令通り市外から包囲軍を攻撃すべく守備隊を残してヴォルテッラを出発し、リヴォルノを経てピサに着く。
1530年7月29日
この日?、正義の旗手ラッファエーレ・ジローラミ、最後まで戦い抜く決意を披瀝すると共に市民を督励。
1530年8月
フランソワ1世の支援への期待が虚しいことを感得しつつあった市民の希望を繋ぐ唯一の存在Francesco Ferrucciの死と共に、活路を開く最後の切り札的な決死の試み、壊滅。
1530年8月6日
フランソワ1世に支援を求め続けてきたBaldassarre Carducci、もはやフィレンツェに展望はないことを痛感しながらアングレームで客死(1456年~)。
1530年8月~10月31日
メディチ派が制した新体制の中で、クレメンス7世の全権代理バッチオ・ヴァローリが事実上、支配権を握り、彼をロベルト・アッチャイウオリフランチェスコ・ヴェットーリフランチェスコ・グィッチャルディーニらが補佐。以後、彼らによりフィレンツェ市民軍九人委員会の廃止、全市民の武装解除、共和政下最後の正義の旗手ラッファエーレ・ジローラミ、その前の正義の旗手で熱烈な共和政派のフランチェスコ・カルドゥッチら48名の共和政派の逮捕、拷問、内フランチェスコ・カルドゥッチ(1465年~)ら6名の処刑などが次々に断行される。共和政の指導者及びその下での反メディチ行為については不問とするとの和平(降伏)協定は早くも踏みにじられる。
1532年11月22~24日
ピサにて、死。

別表記

 ラファエロ、Raffaello Girolami

外部リンク

 Treccani

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『Lost Girls

記載日

 2011年9月22日