Raimondo di Cardona

ライモンド・ディ・カルドーナ

生没:1467年~1523年3月10日

概要

 ライモンド・ディ・カルドーナは、15世紀~16世紀の男性。

年表

1511年10月4日
対フランス神聖同盟。教会防衛、フェッラーラ、ボローニャなど教会領の確保を狙うユリウス2世、北イタリア各地の確保を狙うヴェネツィア、イタリアにおけるフランスの優位の排斥とルイ12世の配下からのナヴァーラ王国の奪取を狙うフェルナンド2世・デ・アラゴン、蛮族排斥をスローガンに対フランス同盟を締結し、翌1511年10月5日公表。1511年11月17日ヘンリー8世が加盟し、間もなくスイス連邦も加盟。マクシミリアン1世は態度を保留。
フェルナンド2世・デ・アラゴンは、ナポリに新たな軍を送り、総督ライモンド・ディ・カルドーナ(?~1522年)にこれを率いてロマーニャで教皇軍、ヴェネツィア軍と合流するよう指示。
1511年12月半ば
この頃、フェルナンド2世・デ・アラゴンのナポリ総督ライモンド・ディ・カルドーナ指揮の軍、フォルリに到着し、ユリウス2世軍と合流してボローニャ及びフェッラーラの包囲を目指す。
1512年1月26日
ライモンド・ディ・カルドーナ指揮の神聖同盟軍(フェルナンド2世・デ・アラゴン軍及び教皇代理ジョヴァンニ・デ・メディチ枢機卿と傭兵隊長マルカントーニオ・コロンナ(1450~1460年~1520年)、ファブリツィオ・コロンナらを含むユリウス2世軍)、ボローニャを包囲。
1512年4月11日
ガストン・ド・フォワ指揮のルイ12世軍とアルフォンソ1世・デステ指揮のフェッラーラ軍、ラヴェンナ近郊でイタリア史上稀に見る大激戦の末ライモンド・ディ・カルドーナ指揮の神聖同盟軍を破り、翌1512年4月12日、ラヴェンナに入城。軍、未曾有の略奪、暴行、虐殺を欲しいままにする。
完敗した同盟軍はライモンド・ディ・カルドーナがチェゼーナへ、マルカントーニオ・コロンナはリーミニへ逃げ、ジョヴァンニ・デ・メディチはフランス軍の、ファブリツィオ・コロンナはフェッラーラ軍の捕虜となり、完勝したルイ12世軍もガストン・ド・フォワを戦死させた(1489年~)他、軍に多大の損失を被る。
ラヴェンナ占領におけるルイ12世軍の実態に対する恐怖広まり、イーモラ、ファエンツァ、フォルリ、チェゼーナ、リーミニなど次々にルイ12世軍に降伏し、数日でロマーニャのほぼ全域が支配下に入る。
ナヴァーラの領有を目論むフェルナンド2世・デ・アラゴンは、ガストン・ド・フォワの死により、その姉である自分の妻ジェルメーヌ・ド・フォワにナヴァーラの王位請求権が生じたと主張。
1513年2月20~21日
数日前から病床についていたユリウス2世、死。
フェルナンド2世・デ・アラゴンマクシミリアン1世は、前年8月のマントヴァ会議でユリウス2世がパルマ、ピアチェンツァをも得たことに不満を抱いていたが、フェルナンド2世・デ・アラゴンのナポリ総督でミラノに陣を敷いていたライモンド・ディ・カルドーナが、ユリウス2世の死を機として軍を率いて両市を襲い、ミラノ公マッシミリアーノ・スフォルツァへの服従を誓わせる。
アルフォンソ1世・デステユリウス2世に奪われたチェント、ルーゴ、バニャカヴァッロなど自領を奪回し、レッジョをも奪回しようとするが内部に自分を迎える動き生じず、撤退。
1513年
この頃?、レオ10世ルイ12世とヴェネツィアのブロワ協定及びそれによって釈放されたバルトロメオ・ダルヴィアーノを指揮官とするヴェネツィア軍の強化などを挙げてマッシミリアーノ・スフォルツァを脅かし、ライモンド・ディ・カルドーナが彼に服従させたパルマ、ピアチェンツァを取り上げる。
1513年6月6日
ルイ12世は、ノヴァーラで大激戦の末ミラノ側のスイス連邦軍に完敗するなど、各地で敗退。バルトロメオ・ダルヴィアーノ指揮のヴェネツィア軍もローディでライモンド・ディ・カルドーナ指揮のフェルナンド2世・デ・アラゴン軍に阻まれてルイ12世軍を支援できず。ルイ12世軍は、間もなくイタリアから撤退。
1513年6月17日
オッタヴィアーノ・フレゴーソ(1470年~1524年)、ライモンド・ディ・カルドーナから与えられた軍を率いてジェノヴァに入り、ルイ12世の総督Antoniotto Adornoを追放してドージェに就任。
1513年9月17日
ライモンド・ディ・カルドーナ、ヴェネツィアを全面的に屈服させるべく神聖同盟軍を率いてヴェローナを出、パドヴァを攻撃し、その周辺地域で略奪、放火を欲しいままにすると共にヴェネツィア市内をも砲撃するが、バルトロメオ・ダルヴィアーノ指揮のヴェネツィア軍に阻まれて撤退。
1513年10月7日
ライモンド・ディ・カルドーナ指揮の神聖同盟軍が、ヴィチェンツァ近郊Olmoでバルトロメオ・ダルヴィアーノ指揮のヴェネツィア軍を大激戦の末、破る。ヴェネツィア軍総指揮官ジャンパオロ・バリオーニなど捕虜となる。
ライモンド・ディ・カルドーナはなおパドヴァを攻撃し続け、ヴェネツィアは戦闘態勢を再整備。
1515年10月13日
マリニャーノの戦におけるフランソワ1世の勝利後直ちにカルロ・ディ・サヴォイアを介してフランソワ1世との和平協定締結を策していたレオ10世、彼と、メディチ家のフィレンツェ支配の承認、ウルビーノなど教会領の奪回に際しての彼の中立、自ら制圧しているパルマ、ピアチェンツァの彼への返還などを協定。
ライモンド・ディ・カルドーナレオ10世にこの協定について異議を述べるが無視される。
1522年3月10日
ライモンド・ディ・カルドーナ、死。彼に代わってCharles de Lannoy(1488年?~)、カール5世のナポリ総督となる。
1512年8月下旬
ボローニャに結集していたライモンド・ディ・カルドーナ指揮のスペイン軍は、ジョヴァンニ・デ・メディチジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ兄弟らを伴って南下。市民軍の結集していたフィオレンツオーラを避け、1512年8月21日バルベリーノ・ディ・ムジェッロに到着。
1512年8月26日
領内に侵攻してきたライモンド・ディ・カルドーナのもとへ使節を派遣し、フェルナンド2世・デ・アラゴンの要求は可能な限り受け入れることを伝える。しかしライモンド・ディ・カルドーナからは神聖同盟全体の要求としてピエロ・ソデリーニの解任、メディチ家の復帰を求められる。第2点は承諾し、第1点は拒否。
1512年9月3日
ライモンド・ディ・カルドーナのもとへBaldassarre Carducci(1456年~)、Ormannozzo Deti(1464年~1531年以降)、Niccolò del Neroニッコロ・ディ・バルトロメオ・ヴァローリコジモ・デ・パッツィヤコポ・ディ・ジョヴァンニ・サルヴィアーティパオロ・ヴェットーリを送り、メディチ家とその郎党の私人としての市内復帰、神聖同盟への加入、フェルナンド2世・デ・アラゴン及びライモンド・ディ・カルドーナへの献金、ライモンド・ディ・カルドーナの占領したフィレンツェ領の返還と彼の軍の撤退について合意すると共に、フェルナンド2世・デ・アラゴンとの相互防衛協定を結んで彼の傭兵200名分の賃金の支払いを引き受ける。
1512年9月14日
ジョヴァンニ・デ・メディチライモンド・ディ・カルドーナの指揮するフェルナンド2世・デ・アラゴン軍に守られて市内に入る。メディチ家は、他の市民と同等の政治的権利を有する私人として公式に復帰。
1512年9月19日
軍資金を受け取ったライモンド・ディ・カルドーナは、軍を従えてフィレンツェを離れ、ロンバルディアに向かう。

別表記

 ライモンド・ダ・コルドーナ、Ramón Folch de Cardona

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『君主論』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの華』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

記載日

 2005年5月29日以前