Ramiro de Lorqua

ラミロ・デ・ロルカ

生没:?~1502年

概要

 ラミロ・デ・ロルカは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。チェーザレ・ボルジアの部下でロマーニャ総督の地位を与えられるが、処刑される。

性格

 無慈悲。厳格。

年表

1499年5月初旬
チェーザレ・ボルジアを用いてのロマーニャ制圧と教会国家再建に対するルイ12世の支援がより確実なものとなったと判断したアレクサンデル6世は、ルイ12世とヴェネツィアの対ミラノ同盟を強く支持し、かつミラノからのスフォルツァ家の完全放逐に全面的に同意することを表明。さらにルイ12世にミラノ攻撃を督促するため使節ラミロ・デ・ロルカを派遣するが、使節はミラノ側に捕らえられる。
1500年1月
チェーザレ・ボルジアにより、ロマーニャ総督に任命される。
1501年7月16日
チェーザレ・ボルジアにより、カステル・ボロニェーゼの要塞を解体作業員1千で解体するよう命じられる。この日、カステル・ボロニェーゼで評議会を召集し、受令に参加。評議会から教皇とチェーザレ・ボルジアに嘆願するため時間の猶予を求められたが、使者を送るのは無駄としてこれを拒絶。
1501年7月21日
カステル・ボロニェーゼの要塞の解体が完了。
1502年1月29日
ファエンツァで犯罪者2名を絞首刑に処す。内1名の縄が生きている間外れ、男は群衆に慈悲を懇願し、哀れに思った人々は警吏の引き渡し要求を振り切って彼を救おうとする。チェルヴィティ?の教会に匿い、ファエンツァの代官が身柄引渡の要求をしに来た時、教会長が聖域を盾にこれを拒絶。しかしながら、当時はもはや聖域に超法規性はなかった。
1502年
イーモラのラミロ・デ・ロルカにこの知らせがもたらせると、すぐさまファエンツァに向かい、実力行使をもって再逮捕し、ポデスタ宮殿の窓から吊るす。同時に、警吏から男を守った者たちの首謀者数名を逮捕。ファエンツァ市民に逮捕者たちの命と引き換えに1万ドゥカートを1か月以内に支払うことを要求。
ファエンツァから使節が送られるも、ラミロ・デ・ロルカは面会を拒絶。
ファエンツァ議会は大使をローマに派遣し、教皇アレクサンデル6世チェーザレ・ボルジアに罰金の減額を嘆願し、許可される。
1502年9月上旬~10月
チェーザレ・ボルジアロマーニャにおける人心の収攬と統一的支配体制の整備のため、この頃、統一的司法組織Rota(司法・治安官)を設置し、ロマーニャで人望を集めていた法律家アントーニオ・チョッキ・デル・モンテを長官に任命。さらに彼に行政上の最高権限をも与えて、新官職Presidente di Romagnaロマーニャ(地方)統領)に就任させる。苛烈な支配を行って人心を離反させる傾向の強かったラミロ・デ・ロルカには軍事上の指揮権のみを認める。
同時にチェーザレ・ボルジア、スペイン人ミケーレ・ダ・コレーリアを用いて領民の徴発及びその軍事訓練を精力的に続け、自分自身の領民からなる徴兵軍を自分の軍事、政治行動の基盤とする態勢を固める努力を続ける。
1502年12月22日
ペーザロよりチェゼーナに到着。直ちにチェーザレ・ボルジアにより塔の最下層に投獄される。国民の栄養補給のための新鮮な食料を不正に売却することで自身の利益とし、公爵に重い負担を強いたとして告発される。ボローニャのフィレーノ・デッラ・トゥアーテはラミロ・デ・ロルカが「公爵に対して、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ、オルシーニ、ヴィテロッツォ・ヴィテッリと秘密協定を結んだ」と書く。
1502年12月26日
朝、チェーザレ・ボルジアにより処刑され、死体がチェゼーナの広場に晒される。

別表記

 ロミーロ、リミッロ、レミッロ・デ・オルコ卿、ラミーロ、レミージョ・ド・ロルクァ、レミーロ・デ・ロルカ、Remigio di Lorqua

外部リンク

 チェーザレ・ボルジアとその周辺
 Condottieri di ventura
 THE BORGIAS wiki
 Wikipedia

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『君主論』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年5月29日以前