Ridolfo Baglioni

リドルフォ・バリオーニ

生没:1518年7月1日~1554年3月24日
出身:ペルージア
没地:キウージ
父:マラテスタ・バリオーニ
母:モナルデスカ・モナルデスキ
妻:コスタンツァ・ヴィテッリ
子:ジャンパオロ2世・バリオーニ
  リドルフォ3世・バリオーニ

概要

 リドルフォ・バリオーニはイタリアの傭兵隊長。

年表

1532年5月27日
クレメンス7世、故マラテスタ・バリオーニの子リドルフォ・バリオーニ(1518年~1554年)と甥ジャンパオロ・バリオーニをペルージアから追放した上、叛徒と宣告し、その封土、城塞を全て没収して教会領とする。
1534年11月1日
従兄弟リドルフォ・バリオーニとジャンパオロ・バリオーニ、クレメンス7世の死を機に小軍を率いてペルージアを襲撃し、教皇使節・テッラチーナ司教Cinzio Filomardi(?~)を殺害し政庁宮を占拠。
1535年9月10日
ペルージアに軍を送ってリドルフォ・バリオーニと従兄弟ジャンパオロ・バリオーニを放逐したパウルス3世、この日、自らペルージアに入りバリオーニ家を領外追放、封土、城塞没収に処すと共に領内統治のため自身の代理を置く。以後リドルフォ・バリオーニはフィレンツェでアレッサンドロ・デ・メディチに臣従。
1540年5月16日
メディチ家に臣従していた(1535年~)リドルフォ・バリオーニコジモ1世・デ・メディチの許可を得てペルージアに帰り、「救世主」として迎え入れられる。
1540年6月1日
パウルス3世と決定的に対立することを避けたいカール5世の制約の下、領国境界まで軍を進めながら対教皇軍戦の支援に踏み切れないメディチ家を初めコロンナ家や諸都市からも期待した支援を得られずに孤立し、資金と食糧の欠乏したペルージアの代表リドルフォ・バリオーニは、教皇軍のジローラモ・オルシーニに、市民の安全及び移転の自由などを条件として市の明け渡しを認める。
1546年8月7日
カール5世軍、パウルス3世が派遣したオッタヴィオ・ファルネーゼ総指揮の大援軍とランツフートで合流することに成功。以後さらにコジモ1世・デ・メディチからリドルフォ・バリオーニ指揮の援軍、エルコーレ2世・デステからの援軍などをも加え、大幅に増強される。

別表記

 Rodolfo

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

記載日

 2006年10月27日以前