Rinaldo degli Albizzi

リナルド・デリ・アルビッツィ

生没:1370年~1442年2月2日
父:マーゾ・デリ・アルビッツィ
妻:アレッサンドラ・デ・リッチ
子:オルマンノ・デリ・アルビッツィ

概要

 リナルド・デリ・アルビッツィは、14世紀~15世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の外交官、政治家。

年表

1370年
誕生。
1392年
アレッサンドラ・デ・リッチと結婚。
1398年
チッタ・ディ・カステッロのポデスタ。
1399年11月
アッシジ長官。
1400年
ディコマーノのポデスタ。
1400年
リーミニへ使節として派遣される。
1403年
リーミニのポデスタ。
1403年
チッタ・ディ・カステッロ、ペルージア、ファブリアーノ、ウルビーノへ使節として派遣される。
1403年
カステル・フィオレンティーノのポデスタ。(1404年)
1405年
チッタ・ディ・カステッロのポデスタ。
1406年
チッタ・ディ・カステッロ、ペルージア、ファブリアーノ、ウルビーノへ使節として派遣される。
1408年
ルッカへ使節として派遣される。
1411年
軍事八人委員会を務める。
1411年
ヴェネツィアへ使節として派遣される。
1413年
リーミニへ使節として派遣される。
1414年5月
シエナへ使節として派遣される。
1415年
ナポリへ使節として派遣される。
1416年
プリオーリ・デッレ・アルティに選ばれる。
1418年4月14日
騎士の称号を授与される。
1427年5月22日
増大する戦費のために国庫の疲弊をきたし、新財源を求めざるを得なくなったシニョーリアは、リナルド・デリ・アルビッツィの提案に従い、ヴェネツィアに倣ってカタストを導入。
この新税制は、巨富を貯え、中・下層市民の支持を巧みに調達しながら急速に政治力を強めてきたメディチ家に対し、旧寡頭勢力の中心であるアルビッツィ家の対抗の意図も込められており、フィレンツェ共和国の内外に論争を誘発する。
1428年4月18日
フェッラーラにて、ヴェネツィア・フィレンツェ同盟軍とフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティは、相互に占領地を返還することで和約。(1428年4月19日)
1429年3~4月
カタストへの不満、市の内外、とりわけ支配領の小都市で高まる中、ヴォルテッラでこれに反対する反乱、発生。フィレンツェ共和国は、1428年4月の和により戦線から戻った傭兵隊長ニッコロ・フォルテブラッチョ指揮の軍を鎮圧に向かわせる。
1429年11月
ヴォルテッラ反乱平定後間もなくミラノやヴェネツィアのように支配領を拡大、強化する必要性が認識されてきたフィレンツェで、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティがトスカーナへの不介入を約したために孤立しているルッカを、今こそ制圧せよとの声が急速に高まる。
1429年12月15日
この日頃、ルッカ制圧戦の断行が決められ、軍事指揮の全権を持つ外交・軍事十人委員会が編成される。名門有力貴族がこれの委員となり、Astorre Gianniと共に前線総監となる。こうしてフィレンツェ共和国を挙げての戦争態勢が整えられる。
大義名分をでっち上げてルッカを攻撃するようニッコロ・フォルテブラッチョを煽り、ニッコロ・フォルテブラッチョ指揮のフィレンツェ軍が、ルッカの領内で略奪など秩序攪乱を始める。
この従軍中、略奪によって富を増やそうと試みたとの嫌疑により、前線総監を解任され、フィレンツェに呼び戻される。
1432年
ローマの議員を務める。
1432年
シエナへ使節として派遣される。
1433年4月26日
フェッラーラにて、ヴェネツィア・フィレンツェ同盟とフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティは、相互に占領地を返還することで和約。フィレンツェの使節はコシモ・イル・ヴェッキオ。間もなくフィレンツェ内部でこの和への不満が高まる。
1433年9月
強い反メディチ感情を抱くベルナルド・グァダーニの借金を肩代わりし、1433年9月~10月期の正義の旗手に就任させる。
1433年9月初め
着実に人望を深め威信を高めながら政治力を増してきたコシモ・イル・ヴェッキオに警戒を強めていたリナルド・デリ・アルビッツィは、ベルナルド・グァダーニと6名の反メディチ派プリオリと共に、1433年4月26日のフェッラーラでの和への不満を、この和の調印者であったコシモ・イル・ヴェッキオに転嫁することによって一挙にメディチ一族を排斥する企図の実行に立つ。
1433年9月29日
バーリアは、メディチ家の追放を具体的に決め、一族全員を永久公職追放とする。しかし、企図していたメディチ一族の処刑をバーリアに決めさせることに失敗。
1434年8月28日
ニッコロ・ピッチニーノ指揮のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍とヴェネツィア・フィレンツェ同盟軍は、イーモラ近郊で大激戦。同盟軍が大敗を喫する。
1434年9月初め
大敗を機にフィレンツェ共和国内にシニョーリアへの憤懣と反感が急速に高まり、新シニョーリアのプリオリはメディチ派が多数を占める。
1434年9月25日
自派の没落の危機を痛感し武装蜂起によって一気に状況を逆転しようと狙ってきたが、自身の親衛隊に政庁舎占拠態勢を取らせながら実行の機を捉えられずにいる内、フィレンツェに政治亡命していた親メディチのエウゲニウス4世が、サンタ・マリーア・ノヴェッラ教会から司教ジョヴァンニ・ヴィテレスキを遣わして調停、事態収拾工作に乗り出す。アルビッツィは窮地に追い込まれることになる。
1434年9月26日
シニョーリアによって、エウゲニウス4世の下で武器を置くよう説得を受けていたリナルドを除くアルビッツィ家の家族が逮捕される。
1434年9月28日
シニョーリアは、パルラメントを招集し、プリオリが選出する350名からなる国制改革のためのバーリアの編成を承認させる。
1434年9月29日
バーリアは、前年追放されたコシモ・イル・ヴェッキオを初めとするメディチ一族及び同派の貴族たちの帰還、その財産の返還、名誉の復活を決める。
1434年
コシモ・イル・ヴェッキオはヴェネツィアを出発。
1434年10月2日
バーリアによって、リナルドはナポリ領Traniに、子オルマンノ・デリ・アルビッツィはガエータにそれぞれ8年間追放することを決まる。加えて以後、翌1435年にかけてアルビッツィ一族と同派の有力者たち総計100名近くの追放を決める。
但し、間もなく禁を破って子オルマンノ・デリ・アルビッツィと共に追放地からミラノに行き、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティにフィレンツェ復帰への支援を求めると共にメディチ勢力下のフィレンツェへの戦闘を勧奨。
1435年1月初め
コジモ・イル・ヴェッキオ、1月~2月期の正義の旗手に就任し、リナルド・デリ・アルビッツィおよびオルマンノ・デリ・アルビッツィ父子を初めとする宿敵アルビッツィ家を叛徒とするなど、アルビッツィ派の一掃をさらに厳しく進める。
1435年12月13日
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの支配に対し、ジェノヴァがかねてから鬱積していた憤懣を爆発させて反乱。その代官たちを追放して、共和政を復活。
1436年5月
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの支配を脱したジェノヴァは、ヴェネツィア・フィレンツェ同盟に加わる。
ジェノヴァ奪還を策し続けるフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティに対し、リナルド・デリ・アルビッツィ、オルマンノ・デリ・アルビッツィ父子はジェノヴァ問題を契機に対フィレンツェ戦争を展開するよう進言。
1436年10月3日頃
ニッコロ・ピッチニーノ指揮のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍が、トスカーナに進撃し、ルッカ領に入る。
1437年頭
依然としてニッコロ・ピッチニーノ指揮のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍がルッカ領に留まっている事態に対処すべく、フィレンツェは新十人委員会を編成。
1438年4月18日
フィレンツェ共和国は、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティがルッカ領に小軍を留めるがそこで奪った城塞はフィレンツェに返還し、以後トスカーナには介入しないことなどで合意。ルッカも渋々これを認める。
1440年6月29日
▼アンギアリの戦
トスカーナの東端サン・セポルクロ周辺を占領していたニッコロ・ピッチニーノ指揮のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍が、アンギアリに集結していたフィレンツェ軍を攻撃し、4時間の戦闘の後敗れる。
1440年
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの陣営にあってその勝利を機にフィレンツェに復帰することを狙っていたリナルド・デリ・アルビッツィ、1440年6月29日のアンギアリの戦の敗戦で断念を強いられ、アンコーナに移り住む。
リナルド父子は、アンギアリの戦の勝利を機にフィレンツェに復帰することを狙っていたが、敗戦で断念を強いられ、アンコーナに移り住む。
1442年2月2日
アンコーナで客死。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『ルネサンスの歴史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

記載日

 2005年5月29日以前