Roberto Acciaiuoli

ロベルト・アッチャイウオリ

生没:1467年~1547年
父:ドナート・ディ・ネリ・アッチャイウオリ
妻:ルクレツィア・ストロッツィ
子:マルゲリータ・アッチャイウオリ
  ドナート・アッチャイウオリ
  カルロ・アッチャイウオリ
  フランチェスカ・アッチャイウオリ
  ディアノーラ・アッチャイウオリ

概要

 ロベルト・アッチャイウオリは、15世紀~16世紀のフィレンツェの男性。

年表

1505年
フィレンツェは彼をナポリのゴンザロ・デ・コルドバの元に派遣してバルトロメオ・ダルヴィアーノを支援せぬよう工作し了承を得るが、ゴンザロ・デ・コルドバからピサ攻撃を中止するよう求められる。
1526年4月20日
クレメンス7世は、フィレンツェ人ロベルト・アッチャイウオリをフランソワ1世の宮廷駐在大使に任命し、フランソワ1世との関係の緊密化を図る。
1505年5月4日
フィレンツェは、マントヴァ候フランチェスコ2世・ゴンザーガを傭兵隊長に雇うべく候のもとにニッコロ・マキアヴェッリを派遣して交渉するが失敗に終わる。
この頃?、ロベルト・アッチャイウオリをナポリのゴンザロ・デ・コルドバのもとに派遣してバルトロメオ・ダルヴィアーノを支援せぬよう工作し了承を得るが、彼からピサ攻撃を中止するよう求められる。
1523年
ジューリオ・デ・メディチの教皇即位の祝賀行事、市を挙げて盛大かつ華麗に繰り広げられる。
新教皇クレメンス7世に祝意と恭順の意を表する使節を派遣することにし、フランチェスコ・ミネルベッティフランチェスコ・ヴェットーリロレンツォ・モレッリヤコポ・ディ・ジョヴァンニ・サルヴィアーティ、ジョヴァンニ・トルナブオーニ、ロレンツォ・ストロッツィ、パッラ・ルチェッライ、ロベルト・アッチャイウオリ、アントーニオ・デ・パッツィ、ガレオット・メディチ、アレッサンドロ・プッチの11名が選出される。
1529年9月下旬~末
1529年9月21日ミケランジェロ、1529年9月24日フランチェスコ・グィッチャルディーニが市内から逃亡したのを初め、アレッサンドロ・デ・パッツィ、ロベルト・アッチャイウオリ、トンマーゾ・ディ・パオラントーニオ・ソデリーニヤコポ・ディ・ジョヴァンニ・サルヴィアーティ、ルイジ・リドルフィ、バッチオ・カッポーニ、アゴスティーノ・デル・ネッロなどメディチ派と目された要人多数、状況の緊迫化と共にパニック状態に陥りつつある市内から、身の危険を覚えて逃亡。
逃亡者は直ちに帰国しなければ追放に処すとの帰国命令が出されるが大部分の者が従わず。ミケランジェロは1529年11月21日ようやく帰る。
1530年8月~10月31日
メディチ派が制した新体制の中で、クレメンス7世の全権代理バッチオ・ヴァローリが事実上、支配権を握り、彼をロベルト・アッチャイウオリ、フランチェスコ・ヴェットーリフランチェスコ・グィッチャルディーニらが補佐。以後、彼らによりフィレンツェ市民軍九人委員会の廃止、全市民の武装解除、共和政下最後の正義の旗手ラッファエーレ・ジローラミ、その前の正義の旗手で熱烈な共和政派のフランチェスコ・カルドゥッチら48名の共和政派の逮捕、拷問、内フランチェスコ・カルドゥッチ(1465年~)ら6名の処刑などが次々に断行される。共和政の指導者及びその下での反メディチ行為については不問とするとの和平(降伏)協定は早くも踏みにじられる。
1532年4月4日
バーリア、クレメンス7世の命に従い、12名(フランチェスコ・グィッチャルディーニフランチェスコ・ヴェットーリ、ロベルト・アッチャイウオリ、マッテオ・ストロッツィ、バッチオ・ヴァローリMatteo NiccoliniRobert Pucciパッラ・ルチェッライヤコポ・ジャンフィリアッツィ(1470年~1549年)、Agostino Diniジョヴァンニ・リドルフィGiuliano Capponi)のRiformatori(改革者)を選出し、政体変改の権限を与える。この12名と現正義の旗手Gianfrancesco de' Nobili、新政体について協議を開始。
1532年4月27日
君主政体の成立:Riformatori(改革者)により、シニョーリア及び正義の旗手の廃止、民事訴訟などに関する僅かな権限を持つConsiglio del Dugento(二百人評議会)及びSenatoとしての政治的権限を持つConsiglio de' Quarantotto(四十八人評議会)の設置(共に委員は終身)、アレッサンドロ・デ・メディチの終身Doge della Repubblica Fiorentinaフィレンツェ共和国統領)就任、アレッサンドロ・デ・メディチと彼の3ヶ月任期の4名のConsiglieri(助言者:四十八人評議会の成員ロベルト・アッチャイウオリ、Prinzivalle della Stufaフィリッポ・ディ・フィリッポ・ストロッツィ、ルイジ・リドルフィ)による執政府の構成が宣言される。
コジモ・イル・ヴェッキオ以来、形式上は伝統的なComuneの制度に従って形式上共和政を保持しつつ実質上、君主政的支配体制を敷こうとしてきたメディチ家、公然と共和政を葬りPrincipato(君主国)の確立を目指す。
以後アレッサンドロ・デ・メディチは、限られた側近を私的顧問として重用し、中下層市民を引きつける施策を続けながら貴族の特権を制限ないしは排除し、自身の独裁権の確立、強化に励む。それと共に私的専横も目立ち始め、最有力者フィリッポ・ディ・フィリッポ・ストロッツィを初め有力貴族が離反、抵抗し始める。
1534年
アレッサンドロ・デ・メディチクレメンス7世死後の支配体制を固めるためルイジ・グイッチャルディーニフランチェスコ・グィッチャルディーニ兄弟、ロベルト・アッチャイウオリ、フランチェスコ・ヴェットーリを側近としてフィレンツェに集める。
1537年1月9日
早朝、四十八人評議会召集、開催され、フランチェスコ・グィッチャルディーニらの主導によりコジモ1世・デ・メディチを、Ducaとしてではなく、カール5世によってアレッサンドロ・デ・メディチに承認された(1531年)Capo della Repubblica Fiorentinaの正統後継者として承認。同時にそのConsigliereとしてフランチェスコ・グィッチャルディーニフランチェスコ・ヴェットーリ、マッテオ・ストロッツィ、ロベルト・アッチャイウオリ、Matteo Niccoliniヤコポ・ジャンフィリアッツィGiuliano CapponiRaffaello de' Mediciの8名を指名。

別表記

 Ruberto di Donato di Neri Acciajuoli

外部リンク

 Google Books
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

記載日

 2005年5月29日以前