Rodorigo d'Aragona

ロドリゴ・ダラゴーナ

生没:1499年10月31日~1512年8月28日
出身:ローマ
没地:バーリ
在位:セルモネータ公 1501年9月17日~1504年1月24日
    次代:グリエルモ・カエターニ
   ビシェリエ公 1502年1月7日~
   コラート領主 1502年1月7日~
父:アルフォンソ・ダラゴーナ
母:ルクレツィア・ボルジア

概要

 ロドリゴ・ダラゴーナは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

年表

1499年10月31日
夜から1499年11月1日にかけて、ローマで生。
1499年11月11日
洗礼式:16名の枢機卿とヨハン・ブルカルトサンタ・マリア・イン・ポルティコ宮殿に参集。アレッサンドリーノ式と呼ばれていた薄青いアネモネ色のビロードで飾られた部屋の、金糸の浮き模様を打ち出したサテン張りのベッドに母ルクレツィア・ボルジアは上半身を起こし、緋と青色の服を着ている。40名余の貴婦人、大公使、高位聖職者、友人らが居並ぶ。
館の礼拝堂から隣のシスティーナ礼拝堂へ移る。今日では『最後の審判』が掛けられている仕切り壁は、この日、金色の教会旗で覆われ、その前には金色の錦を掛けられた特別席が設けられる。床には、大きな絨毯が何枚も敷かれる。教皇の親衛隊、薔薇色のラシャの服を纏った侍従たち、鼓手、横笛吹きの楽士などがまず進み出る。その後、白貂の裏皮のついた金糸の錦に包まれた嬰児を腕に抱いたフアン・セルヴィロンが進む。2人ずつ組になって、金や宝石からなる聖器を捧げた従者らが続き、ローマの知事、各国の大公使、そして2列になった高位聖職者の列が長く延びる。祭壇の前に達すると、フアン・セルヴィロンは嬰児を代父のコゼンツァ大司教フランチェスコ・ボルジアに渡す。大司教は嬰児を銀の洗礼盤に近づけ、オリヴィエーロ・カラーファ枢機卿の手で洗礼を授けられ、祖父と同じくロドリゴ・ダラゴーナと名づけられる。儀式には、多数の夫人や淑女たちが参列していて、嬰児をよく見ようとして最前列の枢機卿席まで進み出ていたため、自分の席を占領されてしまった枢機卿たちは後列に下がり、厳しい寒さの中でむき出しの土間に立っていなければならなかった。
式が終わると、ロドリゴ・ダラゴーナは、教皇アレクサンデル6世オルシーニ家のより緊密な友情の新たな印としてパオロ・オルシーニに預けられる。それまで静かだったが、パオロ・オルシーニの腕の中にいる間中泣き続けた。
1501年9月17日
教皇アレクサンデル6世によりセルモネータ公に封ぜられる。
1502年1月7日
フェルナンド2世・デ・アラゴンイサベル1世・デ・カスティーリャのローマ駐在大使フランチェスコ・デ・ロクサスにより、ビシェリエ公とコラートの領主として承認される(1502年5月20日)。
1503年8月18日
教皇アレクサンデル6世死。
ナポリに残る。おそらく、伯母サンチャ・ダラゴーナに育てられる。
1505年3月26日
ルクレツィア・ボルジアの家計簿に「公妃はバーリのご子息ロドリゴに、贈り物としてダマスク織と絹織の服1着を送られた」と記載がある。
この時にはバーリにて、イザベッラ・ダラゴーナに育てられている。
1505年4月3日
ルクレツィア・ボルジアが、ナポリに来ていた家庭教師バルタッサーレ・ボンフィーリオを自分のもとへ返す。
1505年9月
ペドロ・ルイス・ランソル枢機卿とフランシスコ・デ・レモリンス枢機卿の管理の下、スペイン王フェルナンド2世・デ・アラゴンに忠誠の誓いを立てる。
1512年8月28日
バーリで死(1512年12月)。

チェーザレ・ボルジア数

 母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

別表記

 Roderigo

外部リンク

 世界帝王事典
 そらのお城
 チェーザレ・ボルジアとその周辺
 Genealogy.EU
 kleio.org
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2006年10月27日以前