Silvio Passerini

シルヴィオ・パッセリーニ

生没:1459年~1529年
在位:枢機卿 1517年7月1日~1529年
       任命した教皇:レオ10世

概要

 シルヴィオ・パッセリーニは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、聖職者。

年表

1524年5月
この月?、クレメンス7世は、コルトーナの枢機卿シルヴィオ・パッセリーニ(1459年~1529年)にフィレンツェの直接の統治を委ね、彼を介して間接的にフィレンツェを支配。この措置にメディチ派の貴族にも不満生ずる。
1524年7月30日
クレメンス7世は、前ヌムール公故ジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチの庶子イッポーリト・デ・メディチにフィレンツェの統治に関する全権を与えた上、シルヴィオ・パッセリーニの保護と指導の下で統治の任に当たらせるべく彼をローマからフィレンツェに送る。貴族たちの不満強まる。
1527年
この頃、クレメンス7世の命にのみ従うシルヴィオ・パッセリーニの統治に不満、反感を強めていたニッコロ・カッポーニら貴族及び市民、特にその青年層が、カール5世軍の侵攻に対処するため市民に武器を貸与し市民軍を復活するよう要求。シルヴィオ・パッセリーニは暴動、反乱の発生を恐れてこの要求を拒否。
1527年4月26日
「金曜日の騒乱」
午前:反メディチ派が、シニョーリア広場に集合し、市民への武器貸与を求めて気勢を上げる。正義の旗手フランチェスコ・グィッチャルディーニの兄ルイジ・グィッチャルディーニは、市民が午後に規律を保ってシニョーリア広場に集まるなら武器を貸与すると布告。
コニャック同盟軍がフィレンツェ郊外に近づいたとの報が広まる。
正午:シルヴィオ・パッセリーニは、自身と同じくクレメンス7世の代理的地位を占める2人の枢機卿ニッコロ・ディ・ピエロ・リドルフィインノチェンツォ・チーボイッポーリト・デ・メディチを同道して市外の同盟軍のもとに駆けつけ支援を求める。
午後:市内にシルヴィオ・パッセリーニが逃亡したとの噂広まり、急進的な青年ら数百名に続いて多数の市民が政庁宮を急襲。
ニッコロ・カッポーニピエロ・サルヴィアーティらに率いられた市民の威圧の下で召集されたシニョーリアは、メディチ家の追放、全政治犯の赦免、解放、1512年以前の共和政への復帰を決議し布告。
夕刻~夜:1527年4月23日にフィレンツェに戻っていたフランチェスコ・グィッチャルディーニは、教皇の全権委員として、まず、同盟軍導入、叛徒攻撃の強硬意見を主張するFederico da Bozzoloに、強硬方針は事態をクレメンス7世にも同盟軍にも不利に導くと説き、人心を鎮静化する策をとることを認めさせる。次いで、彼と共にシルヴィオ・パッセリーニにも同様に説き、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレら同盟軍指揮官らの協力も得て、シルヴィオ・パッセリーニに人心鎮静策を認めさせる。
フランチェスコ・グィッチャルディーニが作成し、フランチェスコ・ヴェットーリが手を加えた、降伏を申し出る叛徒はその罪を問われないとする条項を、市外に待機する圧倒的に強大な同盟軍の前に非力さを覚える反乱貴族、市民も受諾し、ヴェッキオ宮殿から退出。市民の武装蜂起を恐れるメディチ派も条項を受諾。シルヴィオ・パッセリーニや同盟軍指揮官らが条項に署名。
シニョーリアは午前の決議、布告を取り消し、共和政はあえなく終息。
1527年5月12日
前日届いたローマからの報、全市に広まり、反メディチ派貴族、市民が、自由を叫んで再び決起。シルヴィオ・パッセリーニらメディチ支配執行者の処遇が論議の的となる。
1527年5月15日
有力者たちから市民が反乱、暴動を起こさぬうちに支配権を蜂起しフィレンツェを退去するよう勧奨されたシルヴィオ・パッセリーニ、自身の処遇をシニョーリアに一任。
1527年5月16日
シルヴィオ・パッセリーニ、支配権の放棄・フィレンツェ退去を受諾。1527年3月1日にシニョーリアが設置したバーリアは、新政体について、コンシーリオ・マッジョーレを復活し1527年6月21日に招集すること、その組織、権限を明確にするための20名の委員をシニョーリアなど現統治機関が選出すること、百人委員会およびコンシーリオ・デ・セッタンタを4ヶ月代行する120名のArroti(補佐官)を同じく現統治機関が選出し、4ヵ月後にはそれに代わるコンシーリオ・デリ・オッタンタをコンシーリオ・マッジョーレが選出、設置することを決議。
1527年
同盟軍指揮官フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、ミケーレ・アントーニオ、Federico da Bozzoloらに導かれてシルヴィオ・パッセリーニニッコロ・ディ・ピエロ・リドルフィインノチェンツォ・チーボイッポーリト・デ・メディチ(1511年~1535年:枢機卿在位1529年~1535年)がフィレンツェ市内に入り、クレメンス7世の要請で数日前から市内に駐屯していた同盟軍兵士に守られて政庁宮に向かう。メディチ派は勢いを得、同盟軍指揮官たちは騒乱鎮圧のために同盟軍をフィレンツェ市内に導入することを決意。

外部リンク

 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

記載日

 2005年5月29日以前