
- 生没
- 1458年頃~1502年12月31日
- 出身
- チッタ・ディ・カステッロ
- 没地
- セニガッリア
- 父
- ニッコロ・ヴィテッリ
- 母
- ペンテジーレア・アッボッカテッリ
- 妻
- ポルツィア・オルシーニ
- 子
- ニコラ・ヴィテッリ
概要
ヴィテロッツォ・ヴィテッリはチッタ・ディ・カステッロ出身の傭兵隊長。チェーザレ・ボルジアに仕えるが、反乱を企てたためセニガッリアで処刑される。
年表
1498年5月
1499年9月
1499年9月28日
1499年9月30日
1499年10月1日
1500年4月末
チェーザレ・ボルジアと傭兵契約。
1500年11月7日
ラモーネ川の流れる谷を下り、ブリジゲッラ占領。
1501年4月
カステル・サン・ピエトロ・テルメ、カザルフィウマネーゼ、カステル・グエルフォ・ディ・ボローニャ、メディチーナ占領。メディチーナにて、きょうだいパオロ・ヴィテッリの復讐のためピエトロ・ダ・マルチアーノを殺害。
1501年
ヴィテロッツォ・ヴィテッリとパオロ・オルシーニは、チェーザレ・ボルジアにフィレンツェ領を通過するよう嘆願。ヴィテロッツォ・ヴィテッリは、故パオロ・ヴィテッリの書記官チェルボーネ・ダ・カステッロの解放だけを要求し、メディチ家事情に関与せず、武力は用いないとして、嘆願。
1501年5月
チェーザレ・ボルジアの尽力により、チェルボーネ・ダ・カステッロが釈放される。
1501年5月
1501年6月末
ヴィテロッツォ・ヴィテッリとジャンパオロ・バリオーニは、ピオンビーノを完全に包囲。
1501年9月3日
ヴィテロッツォ・ヴィテッリとジャンパオロ・バリオーニは、ピオンビーノを占領。君主ヤコポ4世・ダッピアーノはフランスへ逃亡。
1502年5月
アレッツォで暴動を扇動。
1502年6月4日
1502年6月7日
1502年6月
1502年6月14日
ジャンパオロ・バリオーニもこれに参画。
1502年6月
数日の内にヴァル・ディ・キアーナ全域を制圧。
1502年6月17日
アレッツォの要塞を得る。
1502年7月15日
この日までにチェーザレ・ボルジア、ヴィテロッツォ・ヴィテッリらに対しアレッツォから撤退するよう指示。ヴィテロッツォ・ヴィテッリらはこの指示に異議を唱えて撤兵せず。
チェーザレ・ボルジア、ヴィテロッツォ・ヴィテッリらに対し、アレッツォを撤退しなければ彼の領国チッタ・ディ・カステッロを占拠すると脅迫。
1502年7月29日
ヴィテロッツォ・ヴィテッリとジャンパオロ・バリオーニは、アレッツォをルイ12世軍に手渡して撤退。
1502年9月末
マジョーネの会合に出席。
1502年10月9日
マジョーネの会合、反ボルジア一族で共同行動を取ることなどを約定、攻守同盟を締結(1502年10月8日)。
1502年10月
チェーザレ・ボルジアに自分が忠実であるが、確実な安全を求めることを伝える。
1502年10月11日
槍騎兵を指揮し、カステル・デュランテに進軍。
1502年10月
グイドバルド・ダ・モンテフェルトロのフォッソンブローネ、ペルゴーラ、カーリ奪還のため、歩兵と大砲を貸す。
1502年11月初め
騎乗して、「フェルトロ、ヴィテッリ」の叫びの中、グイドバルド・ダ・モンテフェルトロと共にウルビーノ入城。
1502年11月
奪還したばかりのモンテフェルトロ派、和解の不確かなベンティヴォーリオを見捨てることは恥ずべき行為である。ロマーニャ攻撃が困難であればウルビーノ公国だけでも自ら単独で守れるものと信じており、ヴィテロッツォ・ヴィテッリの隊長ジョヴァンニとヤコポ・デル・ロッセットは「全世界が敵となろうとも」冬が味方するだろうと言う。再び配下となるのに、安全保障は信頼だけである。チェーザレ・ボルジアがフィレンツェ共和国と友好関係を築いたため、故パオロ・ヴィテッリの復讐、ボルゴ・サン・セポルクロ獲得は絶望的である。以上が署名拒絶の理由。
1502年12月8日
しかし、サン・レオとマイウオーロとモンテクッコロとサン・マリーノの城にヴィテロッツォ・ヴィテッリの兵が依然占拠。自分の家に滞在しているグイドバルド・ダ・モンテフェルトロの安全のため、もしくはチェーザレ・ボルジアとの交渉材料にするつもりと言われる。
1502年12月
ヴィテロッツォ・ヴィテッリと甥、パオロ・オルシーニと息子ファビオ・オルシーニ、フランチェスコ2世・オルシーニもそれぞれの軍を率いてセニガッリアに集結。ジャンパオロ・バリオーニは病気を理由にチェーザレ・ボルジアの招集を拒絶。
1502年12月30日
セニガッリア到着。チェーザレ・ボルジアの命令により、オルシーニとヴィテッリは周辺の城に軍を撤退。
1502年12月31日(土)
セニガッリアの罠:ベルナルディーノ・クアルターリ邸に入ったところを、チェーザレ・ボルジアに拘束される。
1503年1月1日(日)
肖像
チェーザレ・ボルジア数
妻ポルツィア・オルシーニ→父パオロ・オルシーニ→父ラティーノ・オルシーニ→きょうだいエレーナ・オルシーニ→子ルドヴィーコ・ミリオラーティ→妻アドリアーナ・デル・ミラ→父ペレ・デル・ミラ→母カテリーナ・デ・ボルハ→きょうだいイサベル・デ・ボルハ・イ・マルティ→子アレクサンデル6世→子チェーザレ・ボルジア
別表記
ヴィテッロッツォ・ヴィテッリ、ヴィッテロッツォ・ヴィッテッリ、Vittelozzo Vittelli
外部リンク
ウィキペディア
Find A Grave
Condottieri di ventura
Google Books
Treccani.it
Wikipedia - Strage di Senigallia
参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
記載日
2005年5月29日以前