- 所在地
- イタリア共和国ラツィオ州ローマ県ローマ
- 地区
- モンティ
概要
サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会は、ローマにある建物。
名前
サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会の名前は、教会の主祭壇におさめられた鎖(ヴィンコリ)に由来する。
正面
ファサード的な装飾は見られず、サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会の正面はポルティコから入る。1475年、ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿がバッチョ・ポンテッリに依頼し、正面の柱廊が付け加えられた。
身廊
内部は、白い柱と天井が印象的。フランチェスコ・フォンターナによって18世紀に再建された時、ドーリア式の柱頭と白いバロック様式風天井となった。
天井に刻まれた紋章
枝をくわえた鳩、3つの百合。パンフィーリ家の紋章だと思われる。
主祭壇
サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会は、何度となく建て替えられているが、元は5世紀に遡る。5世紀ともなると、すでに、ローマ帝国は東西に分離しており、西ローマ帝国ウァレンティニアヌス3世(在位425年~455年)の時代に入っている。このウァレンティニアヌス3世帝の皇后エウドシアの実家である東ローマ帝国より送られてきた、または自身が持って帰ってきた鎖。これが、聖ペテロを拘束していた鎖だというわけである。聖なる遺物として大切に保管し、奇跡の鎖を収めるため教会を建立したと言われている。
主祭壇、天蓋の下に、その鎖は祀られている。聖人ペテロが、キリスト教の聖地エルサレムで繋がれていたという鎖が1本。ローマのフォロ・ロマーノ、現在の市庁舎の地下にあるマメルティーノ牢獄で、聖ペテロが繋がれていたという鎖が1本。この鎖2本。教皇レオ1世(在位440年~461年)のもとで出会った途端に、合体して1本となったと伝えられている。現在、このサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会の祭壇の下に、1本になって、大切に保存されている。
鎖
主祭壇と天蓋の下に聖遺物が収められている。主祭壇は5世紀のもの。
半円形の後陣アプス(アプシス)のフレスコ画
右袖廊
突き当たりにユリウス2世の墓がある。
袖廊にある礼拝堂
ユリウス2世の墓
教皇ユリウス2世(在位1503年~1513年)に墓を依頼され、その墓の装飾としてミケランジェロがモーセ像を制作。ミケランジェロが制作したのは、モーセ像とその両脇のラケルとレアで、しかしラケルとレアを仕上げたのは弟子だと言われている。ミケランジェロの手による下の部分と、上の部分では、全く出来栄えが異なっている。墓の規模は、モーセ像を見れば明白だが、もっと大きなものを予定していた。モーセ像の上に横たわる像がユリウス2世。しかし、教皇自身が墓の制作に興味を失い、ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂に没頭していたようで、そのまま未完で終わった。弟子により、1545年に完成した。
モーセ像
イスラエル人の予言者モーセは、紀元前15世紀頃ファラオの支配するエジプトより、迫害されていたユダヤ教徒を引き連れ、神との約束の地カナンへと、砂漠を横切り、紅海を渡り、シナイ山へと向かい40年間も放浪。そして、シナイ山で神から十戒を授かりイスラエルの律法を制定することになる。モーセ像はその戒律が刻まれた石版を右手に持っている。
また、モーセ像には角が2本生えている。これは12世紀から16世紀に見られる図像で、聖人ヒエロニムスがラテン語に訳したウルガタ聖書の誤訳のためだとか。12世紀の宗教劇で、角をはやしたモーセが現れたのを、写本挿絵画家が真似て以来こんな風に角が生えた姿で描き出されたという。
レアとラケル
共にラバンの娘で、レアは「雌牛」、ラケルは「雌羊」という意味。創世記29章に、アブラハムの孫であるヤコブがラバンの家にて7年間労働し、妹であるラケルを娶りたいと思っていたのだが、結婚式当日、姉と妹がすり替わり、姉のレアを娶っていたというお話である。
ユリウス2世
ユリウス2世の墓の天井
ユリウス2世の墓の左手にあるオルガン
袖廊の飾り窓
左袖廊奥
たぶん洗礼式中。
チンツィオ・パッセーリ・アルドブランディーニ霊廟
キリストの埋葬
回廊の天井
鎖がモチーフに使われている。
所蔵品
被葬者
別表記
Basilica Eudossiana
外部リンク
とんでもとらべる
Anna Zelli
Google Maps
Wikipedia
記載日
2006年10月27日以前
更新日
2020年2月13日