Artista

美術家 15世紀

ベノッツォ・ゴッツォーリ Benozzo Gozzoli

生没
1420年~1497年10月4日
出身
フィレンツェ
没地
ピストイア
師匠
フラ・アンジェリコ
概要

 ベノッツォ・ゴッツォーリは、15世紀のイタリアの男性、画家。

作品

別表記

 ベノッツォ・ゴッツォリ、ベノッツオ・ゴッツォリ

外部リンク

 ウィキペディア
 Art cyclopedia
 Web Gallery of Art

参考文献

 『快楽の中世史』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネサンス百科事典』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

カルロ・クリヴェッリ Carlo Crivelli

生没
1430年~1493年
出身
ヴェネツィア
没地
アスコリ・ピチェーノ
師匠
フランチェスコ・スクァルチョーネ
概要

 カルロ・クリヴェッリは、15世紀のイタリアの男性、画家。

作品

年表

1430~1435年
ヴェネツィアにて、生。
1493~1500年
マルケのアスコリ・ピチェーノで死。

別表記

 クリヴェリ

外部リンク

 アート at ドリアン
 ウィキペディア
 Treccani.it

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネッサンスの光と闇』

コズメ・トゥーラ Cosmè Tura

生没
1430年~1495年4月
出身
フェッラーラ
没地
フェッラーラ
師匠
フランチェスコ・スクァルチョーネ
弟子
フランチェスコ・デル・コッサ
フランチェスコ・ビアンキ
概要

 コズメ・トゥーラは、15世紀のイタリアの男性、画家。

作品

年表

1430年
フェッラーラにて、生。
1456年
フェッラーラの宮廷画家となる。
1469年6月2日
オルガン扉絵」の代金を受け取る。
1485年12月24日
ベアトリーチェ・デステの顔と胸部の肖像画に対する支払いとして4金フィオリーノフェッラーラエルコーレ1世・デステからもらう。この絵は彼女の婚約者バーリルドヴィーコ・イル・モーロへカルロ・コンティンガが届けた。現存せず。
1495年4月
フェッラーラにて、死。

別表記

 コスメツーラ、Cosimo

外部リンク

 ウィキペディア
 Treccani.it
 Web Gallery of Art

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia

フラ・アンジェリコ Fra Angelico

生没
1400年?~1455年2月18日頃
出身
ヴィッキオ
没地
ローマ
概要

 フラ・アンジェリコは、15世紀のイタリアの男性、画家。

作品

本名

 グイード・ディ・ピエトロ(Guido di Pietro)

別表記

 ベアート・アンジェリコ、Fra Giovani da FiesoleFra Beato Angelico

外部リンク

 ウィキペディア
 歴史データベース
 Art cyclopedia
 Web Gallery of Art

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家の人びと』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』

フランチェスコ・デル・コッサ Francesco del Cossa

生没
1435年~1477年
出身
フィレンツェ
没地
ボローニャ
師匠
コズメ・トゥーラ
概要

 フランチェスコ・デル・コッサは、15世紀のイタリアの男性、画家。

作品

年表

1435年
この年頃、フィレンツェに生(1436年)。
1477年
ボローニャで死(1478年頃)。

外部リンク

 ウィキペディア
 Art cyclopedia
 Art Renewal Center
 CGFA
 Olga's Gallery
 Treccani.it
 Web Gallery of Art

参考文献

 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンス百科事典』
 『ルネッサンス夜話』

メロッツォ・ダ・フォルリ Melozzo da Forlì

生没
1438年頃~1494年11月8日
出身
フォルリ
没地
フォルリ
概要

 メロッツォ・ダ・フォルリは、15世紀のイタリアの画家。

作品 絵画

作品 設計

年表

1438年
フォルリに生。
1494年11月8日
この日?、フォルリで死。

本名

 Melozzo di Giuliano degli Ambrosi

外部リンク

 ウィキペディア
 Art cyclopedia
 Web Gallery of Art

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

パオロ・ウッチェロ Paolo Uccello

生没
1397年~1475年12月10日
出身
プラートヴェッキオ
没地
フィレンツェ
師匠
ロレンツォ・ギベルティ
概要

 パオロ・ウッチェロは、14世紀~15世紀のイタリアの男性、画家。

作品

別表記

 パオロ・ウッチェッロ

本名

 Paolo di Dono

外部リンク

 ウィキペディア
 Art cyclopedia
 Web Gallery of Art

参考文献

 『世界大百科事典』
 『戦闘技術の歴史2 中世編』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『メディチ家』
 『傭兵の二千年史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ルネサンス百科事典』
 『ルネッサンス夜話』

ピエロ・デッラ・フランチェスカ Piero della Francesca

生没
1420年?~1492年10月12日
出身
ボルゴ・サン・セポルクロ
没地
ボルゴ・サン・セポルクロ
師匠
ドメニコ・ヴェネツィアーノ
弟子
ペルジーノ
ルカ・シニョレッリ
概要

 ピエロ・デッラ・フランチェスカは、15世紀のイタリアの男性、画家。

作品

別表記

 ピエロ・ディ・フランチェスカ

外部リンク

 アレッツォ再発見
 ウィキペディア
 Art cyclopedia
 Mark Harden's Artchive
 Web Gallery of Art
 Olga's Gallery
 WebMuseum

参考文献

 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『傭兵の二千年史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンス百科事典』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『ルネッサンスの光と闇』
 『ルネッサンス夜話』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

ピエロ・デル・ポッライオーロ Piero del Pollaiolo

生没
1441年頃~1496年
出身
フィレンツェ
没地
ローマ
概要

 ピエロ・デル・ポッライオーロは、画家。アントーニオ・デル・ポッライオーロの弟、共同制作者。

作品

年表

1441年頃
フィレンツェに生(1443年)。
1496年
ローマで死。

別表記

 ピエトロ・ポライウォーロ、ピエーロ・ポッライウオーロ

外部リンク

 ウィキペディア
 Web Gallery of Art

参考文献

 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

ピサネッロ Pisanello

生没
1395年頃~1455年頃
出身
ヴェローナ近郊
没地
ローマ
概要

 ピサネッロは、14世紀~15世紀のイタリアの男性、画家、メダル作家。

作品

本名

 Antonio Pisano

別表記

 ピザネロ、Antonio Pisanello

外部リンク

 ウィキペディア
 Art cyclopedia
 Treccani.it
 Web Gallery of Art

参考文献

 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』

ヤコポ・デル・セライオ Jacopo da Sellaio

生没
1441年頃~1493年
出身
フィレンツェ
師匠
フィリッポ・リッピ
概要

 ヤコポ・デル・セライオは、イタリアの画家。

作品

別表記

 ヤコボ・デル・セライオ

外部リンク

 Art cyclopedia
 Web Gallery of Art
 Wikipedia

ロヒール・ファン・デル・ウェイデン Rogier van der Weyden

生没
1400年頃~1464年
概要

 ロヒール・ファン・デル・ウェイデンは、初期フランドル派の画家。

作品

外部リンク

 ウィキペディア
 Web Gallery of Art

サノ・ディ・ピエトロ Sano di Pietro

生没
1405年~1481年
出身
シエナ
没地
シエナ
概要

 サノ・ディ・ピエトロは、15世紀のイタリアの男性、画家。

作品

よき政府のアレゴリー
シエナのカンポ広場で説教する聖ベルナルディーノ

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス百科事典』

ペセッリーノ Pesellino

生没
1422年頃~1457年7月29日
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ
ステファノ・ディ・フランチェスコ
師匠
フィリッポ・リッピ
概要

 ペセッリーノは、イタリアの画家。

作品

本名

 Francesco di Stefano

別表記

 ヤコポ・ペセリーノ、Francesco Pesellino

外部リンク

 Art cyclopedia
 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ロ・スケッジア Lo Scheggia

生没
1406年~1486年
出身
サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノ
没地
フィレンツェ
概要

 ロ・スケッジアは、イタリアの画家。

作品

外部リンク

 Wikipedia

ボニファチオ・ベンボー Bonifacio Bembo

生没
1420年~1480年
出身
ブレッシア
没地
ミラノ
ジョヴァンニ・ベンボー
概要

 ボニファチオ・ベンボーは、15世紀のイタリアの男性、画家。

作品

外部リンク

 Art cyclopedia
 Treccani
 Web Gallery of Art
 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』

ドメニコ・ヴェネツィアーノ Domenico Veneziano

生没
1410年頃~1461年5月15日
出身
ヴェネツィア
没地
フィレンツェ
弟子
ピエロ・デッラ・フランチェスカ
概要

 ドメニコ・ヴェネツィアーノは、15世紀のイタリアの男性、画家。遠近法の大家。

作品

年表

1400年以降
ヴェネツィアで生(1410年頃)。
1461年5月15日

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

エルコーレ・デ・ロベルティ Ercole de' Roberti

生没
1450年頃~1496年
出身
フェッラーラ
没地
フェッラーラ
概要

 エルコーレ・デ・ロベルティは、画家。

作品

年表

1450年
この年頃、フェッラーラに生(1451年)。
1496年6月

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』

ヨース・ファン・ワッセンホフ Joos van Wassenhove

生没
1410年頃~1480年頃
概要

 ヨース・ファン・ワッセンホフは、初期フランドル派の画家。

作品

別表記

 ガンのユストゥス、ユストゥス・ファン・ヘント、ユスト・ディ・ガン、ジュスト・ダ・ガン

外部リンク

 ウィキペディア
 Art cyclopedia
 Привет.ру
 Web Gallery of Art

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』

レオン・バッティスタ・アルベルティ Leon Battista Alberti

生没
1404年2月18日~1472年4月25日
出身
ジェノヴァ
没地
ローマ
ロレンツォ・アルベルティ
概要

 レオン・バッティスタ・アルベルティは、15世紀のイタリアの男性、庶子、建築家、画家、芸術理論家、人文主義者

在職

 教皇書記官 1432年~1464年

著作

 建築論

設計

 サンタンドレア聖堂

作品

年表

1404年2月18日
ジェノヴァ?に生(1404年2月14日)。
1434年
教皇書記官としてエウゲニウス4世に従ってフィレンツェに入る。
1435年9月26日
コジモ・イル・ヴェッキオやその庇護を受ける文人、芸術家と交流を重ねながらDe pictura(絵画論)を執筆、公表。
1436年7月17日
De pictura(1435年)のイタリア語訳Della pitturaを公表。この中で線遠近法の理論を展開。
1436年
De statua(彫刻論)を執筆。
1437年9月30日
De jure(法について)をボローニャで執筆。(1499年頃フィレンツェで刊)
1439~1443年
Teogenio(市民生活論)を執筆。
1441年
この頃までに、Della famiglia(家族論)全4篇を完成。
1452年
建築論』10篇を完成し、ニコラウス5世に献呈。
1472年4月25日
ローマで死。
1485年
遺作『建築論』、アンジェロ・ポリツィアーノの序文を付してフィレンツェで初めて刊行され、ロレンツォ・イル・マニーフィコに献呈される。
1490年
この年?、遺作Teogenio(市民生活論)が、De republica, de vita civile et rusticana et de fortuna(国家、都市及び田園生活、富について)と改題され、フィレンツェで刊。(但し異説多し)

別表記

 レオン・バティスタ、レオン・バチスタ、レオン・バッチスタ・アルベルティ

外部リンク

 ウィキペディア
 trionfi
 Treccani.it

参考文献

 『イコノロジー研究
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『快楽の中世史』
 『逆光のメディチ』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネサンス百科事典』
 『ルネッサンスの光と闇』

バルトリーノ・ダ・ノヴァーラ Bartolino da Novara

生没
~1410年
出身
ノヴァーラ
没地
フェッラーラ
概要

 バルトリーノ・ダ・ノヴァーラは、14世紀~15世紀のイタリアの男性、軍事建築家、技師。

設計

年表

1406年~1410年
フェッラーラにて、死。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』

アントーニオ・デル・ポッライオーロ Antonio del Pollaiolo

生没
1433年1月17日~1498年2月4日
出身
フィレンツェ
没地
ローマ
弟子
ボッティチェッリ
概要

 アントーニオ・デル・ポッライオーロは画家、版画家、彫刻家。

作品

年表

1433年1月17日
フィレンツェにて、生(1429年、1431年、1432年)。
1498年2月4日
ローマにて、死。

別表記

 アントニオ・ボライオーロ、ポッラユウォーロ

本名

 Antonio di Iacopo Benci

外部リンク

 ウィキペディア
 Web Gallery of Art

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Lucretia Borgia

ベルナルド・ロッセリーノ Bernardo Rossellino

生没
1409年~1464年9月23日
出身
セッティニャーノ
没地
フィレンツェ
概要

 ベルナルド・ロッセリーノは、15世紀のイタリアの男性、彫刻家、建築家。

作品

設計

年表

1409年
フィレンツェ郊外セッティニャーノに生。
1452年
ニコラウス5世により、ローマサン・ピエトロ大聖堂の改築を命じられる。
1464年9月23日

本名

 ベルナルド・ディ・マッテオ・ディ・ドメニコ・ガンバレッリ、Bernardo di Matteo di Domenico Gambarelli

外部リンク

 ウィキペディア
 Art cyclopedia

参考文献

 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネッサンス夜話』

フィラレテ Il Filarete

生没
1400年頃~1469年
出身
フィレンツェ
没地
ローマ
師匠
ロレンツォ・ギベルティ
著作
建築論
概要

 フィラレテは、15世紀頃のイタリアの男性、建築家、彫刻家。

作品

年表

1464年
理想都市Sforzindaを描いた作品『建築論』を完成し、フランチェスコ1世・スフォルツァに献呈。
1469年
この年頃、ローマで死。

本名

 アントーニオ・アヴェルリーノ(Antonio Averlino)

別表記

 アントーニオ・フィラレテ、アントニオ・フィラレーテ

外部リンク

 ウィキペディア
 Art cyclopedia

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

ロレンツォ・ギベルティ Lorenzo Ghiberti

生没
1378年頃~1455年12月1日
出身
ペラーゴ
没地
フィレンツェ
バルトロ・ディ・ミケーレ
ヴィットーリオ・ギベルティ
師匠
バルトロ・ディ・ミケーレ
弟子
ドナテッロ
ミケロッツォ
パオロ・ウッチェロ
フィラレテ
概要

 ロレンツォ・ギベルティは、14世紀~15世紀のイタリアの男性、卓越した想像力と技術を備えた彫刻家。
 作風は、簡潔ながら要を得た物語構成力、人物や衣襞の肉付けと流麗なリズム感、絵画的処理、細部の入念な写実主義、そして古代彫刻の見事な消化に特徴がある。これはアンドレア・ピサーノの伝統と当時流行の国際ゴシック様式、そして新しいリアリズムを完璧に総合している。
 ロレンツォ・ギベルティの工房は15世紀前半の最大の金工、彫刻工房として、ドナテッロミケロッツォパオロ・ウッチェロフィラレテなど次代の芸術家の一大養成所となった。

作品

著作

 『芸術論覚書(Commentari)』

年表

1378年頃
ペラーゴ(フィレンツェ)に生。
幼い頃から金工や鋳造の修行を積む。
1401年
サン・ジョヴァンニ洗礼堂の第2門扉の制作競技に参加。
1402年末~1403年初め
門扉競技委員会はロレンツォ・ギベルティとフィリッポ・ブルネッレスキを優勝とするが、後の自著『芸術論覚書』で「栄誉は満場一致で私に与えられ、いかなる異議もなかった」と記す。
1403年11月23日
大商人組合からロレンツォ・ギベルティと父バルトロ・ディ・ミケーレに第2門扉制作が依頼され、契約を交わす。
1407年6月
両者による第2門扉制作の遅延のため、ロレンツォ・ギベルティだけと契約が更新される。
1409年8月3日
金細工師組合に登録。
1414年12月1日
羅紗製造業組合からオル・サン・ミケーレ聖堂の外壁壁龕に設置するための洗礼者ヨハネの像を依頼される。
1416年
「洗礼者ヨハネ」完成。
1419年8月
オル・サン・ミケーレ聖堂の聖マタイの像を依頼されるが、あまり出来のよいものではなく、作者がロレンツォ・ギベルティかドナテッロか明白でない。
1422年
銀行組合のためのオル・サン・ミケーレ聖堂の「聖マタイ」制作。
1423年
画家組合に登録。
1424年4月19日
完成した第2門扉がサン・ジョヴァンニ洗礼堂の東に設置される。
1425年1月2日
大商人組合により、サン・ジョヴァンニ洗礼堂の第3門扉を依頼される。
1425年
羊毛組合からオル・サン・ミケーレ聖堂の聖ステファノ像を依頼される。
1428年
レオナルド・ブルーニらの意見を取り入れつつ、第3門扉「天国の門」制作を開始。
1428年頃
コジモ・イル・ヴェッキオの依頼で「ネロの印璽」に金製の枠を取り付ける(『芸術論覚書』)。
1429年
羊毛組合のためのオル・サン・ミケーレ聖堂の「聖ステファノ」制作。
1432年頃
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラ建設にも参加し、フィリッポ・ブルネッレスキ、バッティスタ・ダントーニオと共に造営にあたる。ロレンツォ・ギベルティは円蓋の下部構造であるカテーナの建設に失敗し、莫大な損失を与えたため1432年には工事監督の任から降りたと考えられるが、大聖堂の造営から外されることはなかった。
1432年3月18日
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂後陣内部の聖ザノービの棺を依頼される。
1439年
聖ザノービの棺の契約がロレンツォ・ギベルティの契約不履行で破棄され、1439年に期限付きでの再契約が結ばれる。
1447年以降
3巻からなる『芸術論覚書』を執筆。
1452年6月
天国の門」完成。
145?年
この扉の壮麗さを目の当たりにした大商人組合は、この門扉の取り付け位置を、本来の北側から東側に変更し、第2門扉を北側に移動させる。
大商人組合により、第1門扉の枠の制作を依頼される。ロレンツォ・ギベルティの死後、彼の息子ヴィットーリオ・ギベルティによって1463年に完成する。
1455年12月1日
フィレンツェで死。

ロレンツォ・ギベルティ邸

伊語
Casa di Lorenzo Ghiberti
住所
Piazza dei Ciompi 11
銘文
DI LORENZO GHIBERTI DELLE PORTE QUESTA FU LA CASA
外部リンク
Wikipedia
埋葬地

 サンタ・クローチェ聖堂

外部リンク

 ウィキペディア
 Art cyclopedia

参考文献

 『イコノロジー研究
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネサンス百科事典』

ミケロッツォ Michelozzo

生没
1396年~1472年
ニッコロ・ミケロッツィ
ベルナルド・ミケロッツィ
概要

 ミケロッツォは、14世紀~15世紀のイタリアの男性、彫刻家、建築家。

作品

年表

1444年
コジモ・イル・ヴェッキオに雇われ、サン・マルコ修道院・聖堂の再建を設計、指揮。
1444年
コジモ・イル・ヴェッキオに雇われ、ニッコロ・ニッコリの遺した古典書とコジモ・イル・ヴェッキオが収集した古典書(計800余巻?)収蔵の間をサン・マルコ修道院に設計。
1459年
コジモ・イル・ヴェッキオに雇われ、フィレンツェ市内の中心ラルガ通りに邸宅メディチ宮殿を完成(1444年~)。

別表記

 ミケロッツォ・ミケロッツィ、ミケロッツォ・ディ・バルトロメオ、Michelozzo Michelozzi

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』

ヴェロッキオ Verrocchio

生没
1435年~1488年10月7日
出身
フィレンツェ
没地
ヴェネツィア
師匠
ジュリアーノ・ヴェロッキ
弟子
ペルジーノ
レオナルド・ダ・ヴィンチ
フィリッピーノ・リッピ
ロレンツォ・ディ・クレディ
概要

 ヴェロッキオは、15世紀のイタリアの男性、画家、彫刻家。

作品

年表

1435年
フィレンツェに生。
1466年
この年頃、レオナルド・ダ・ヴィンチがアトリエに入る。
1488年10月7日
ヴェネツィアで死。

舞台

 宝塚歌劇団宙組『異人たちのルネサンス―ダ・ヴィンチが描いた記憶』

本名

 アンドレア・ディ・ミケーレ・デ・チオーニ(Andrea di Michele Cioni

別表記

 アンドレア・デル・ヴェロッキオ、ヴェッロッキョ、アンドレーア・ディ・チョーネ、Andrea del Verrocchio

外部リンク

 アーティストリアン
 ウィキペディア
 Art cyclopedia
 Web Gallery of Art

参考文献

 『イコノロジー研究
 『逆光のメディチ』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『中世の食卓から』
 『メディチ家』
 『傭兵の二千年史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ルネサンス百科事典』
 『ルネッサンスの光と闇』
 『ルネッサンス夜話』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

アゴスティーノ・ディ・ドゥッチョ Agostino di Duccio

生没
1418年~1481年頃
出身
フィレンツェ
没地
ペルージア
概要

 アゴスティーノ・ディ・ドゥッチョは、彫刻家。

作品

外部リンク

 Art cyclopedia
 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』

ベルトルド・ディ・ジョヴァンニ Bertoldo di Giovanni

生没
1435~40年~1491年12月28日
概要

 ベルトルド・ディ・ジョヴァンニは、彫刻家、メダル作家。

作品

外部リンク

 Art cyclopedia
 Wikipedia

参考文献

 『メディチ家』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

ジュリアーノ・ダ・マイアーノ Giuliano da Maiano

生没
1432年~1490年10月17日
出身
マイアーノ
レオナルド・ディ・アントーニオ
概要

 ジュリアーノ・ダ・マイアーノは、15世紀の男性、彫刻家、建築家。

作品

本名

 Giuliano di Leonardo d'Antonio

別表記

 ジュリアーノ・ダ・マヤーノ、ジュリアーノ・ダ・マリアーノ、Giuliano da Majano

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネッサンスの光と闇』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

アントーニオ・フェデリギ Antonio Federighi

生没
1411年~1490年頃
出身
シエナ
没地
シエナ
概要

 アントーニオ・フェデリギは、イタリアの彫刻家、建築家。

作品

別表記

 アントニオ・フェデリギ

外部リンク

 Wikipedia

デジデリオ・ダ・セッティニャーノ Desiderio da Settignano

生没
1428年頃~1464年1月16日
出身
セッティニャーノ
没地
フィレンツェ
概要

 デジデリオ・ダ・セッティニャーノは、15世紀のイタリアの男性、彫刻家。

作品

外部リンク

 ウィキペディア
 Art cyclopedia
 Art Renewal Center
 Web Gallery of Art

参考文献

 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネッサンス夜話』

アントーニオ・ロッセリーノ Antonio Rossellino

生没
1427年~1479年
出身
セッティニャーノ
没地
フィレンツェ
概要

 アントーニオ・ロッセリーノは彫刻家。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

バロンチェリ Baroncelli

生没
~1453年
出身
フィレンツェ
没地
フェッラーラ
師匠
フィリッポ・ブルネッレスキ
概要

 バロンチェリは、イタリアの彫刻家。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『傭兵の二千年史』
 『ルネサンス宮廷大全』

フランチェスコ・フェルッチ Francesco Ferrucci

生没
1437年~1493年3月24日
出身
フィエーゾレ
没地
フィレンツェ
シモーネ・フェルッチ
概要

 フランチェスコ・フェルッチは、15世紀のイタリアの男性、彫刻家。デジデリオ・ダ・セッティニャーノヴェロッキオに影響を受けている。

作品

登場舞台

 宝塚歌劇団宙組『異人たちのルネサンス―ダ・ヴィンチが描いた記憶』

別表記

 Francesco di Simone Ferrucci

外部リンク

 Wikipedia

ベネデット・ダ・マイアーノ Benedetto da Maiano

生没
1442年~1497年5月24日
レオナルド・ディ・アントーニオ
出身
マイアーノ
没地
フィレンツェ
概要

 ベネデット・ダ・マイアーノは建築家、彫刻家。

外部リンク

 ウィキペディア
 Art cyclopedia

参考文献

 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』

ポッライオーロ Pollaiolo

別表記

 Pollaiuolo、ポライウロ、ポライウォーロ

フランチェスコ・スクァルチョーネ Francesco Squarcione

生没
1397年頃~1468年
出身
パドヴァ
弟子
コズメ・トゥーラ
アンドレア・マンテーニャ
カルロ・クリヴェッリ
概要

 フランチェスコ・スクァルチョーネはイタリアの画家。

外部リンク

 ウィキペディア
 Treccani.it

参考文献

 『世界大百科事典』

ヤコポ・ベッリーニ Jacopo Bellini

生没
1400年~1470/71年
出身
ヴェネツィア
師匠
ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ
ニコロジア・ベッリーニ
  ジェンティーレ・ベッリーニ
  ジョヴァンニ・ベッリーニ
概要

 ヤコポ・ベッリーニは、イタリアの画家。

外部リンク

 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『世界大百科事典』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの歴史』

アントネッロ・ダ・メッシーナ Antonello da Messina

生没
1430年頃~1479年2月14日
出身
メッシーナ
没地
メッシーナ
概要

 アントネッロ・ダ・メッシーナは、15世紀のイタリアの男性、画家。

作品

年表

1430年
この年頃、シチリアのメッシーナに生。
14??年
ナポリの画家コラントーニオ?のもとで修業。
1475年8月
ヴェネツィア貴族のピエトロ・ボンから、サン・カッシアーノ聖堂のための祭壇画制作の依頼を受け、ヴェネツィアに滞在。
147?年
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの招聘を受けてミラノ宮廷を訪れる。祭壇画の注文主であるピエトロ・ボンの意向により、作品が完成するまで招聘を延期せざるを得ない旨を伝える。
1476年
祭壇画完成。
1476年9月
娘の結婚式のためにメッシーナに帰る。
1476年12月26日(木)
1479年2月14日
シチリアのメッシーナで死(1479年2月15日)。

別表記

 アントネッロ・ダ・メッシナ、アントネロ・ダ・メッシーナ、アントネッロ・デッラ・メッシーナ

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『世界大百科事典』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス百科事典』

マザッチオ Masaccio

生没
1401年12月21日~1428年秋
出身
サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノ(旧カステル・サン・ジョヴァンニ)
没地
ローマ
概要

 マザッチオは、15世紀のイタリアの男性、画家。

作品

別表記

 マザッチョ、マサッチオ、マサッチョ

本名

 トンマーゾ・ディ・セル・ジョヴァンニ・ディ・モーネ・カッサーイ、Tommaso di ser Giovanni di Mone Cassai

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』
 『The Life of Cesare Borgia

アンドレア・デル・カスターニョ Andrea del Castagno

生没
1421年頃~1457年8月19日
出身
カスターニョまたはコレッラ
没地
フィレンツェ
概要

 アンドレア・デル・カスターニョは、15世紀のイタリアの男性、画家。

年表

1421年
フィレンツェ近郊ムジェッロ地区のカスターニョまたはコレッラに生まれる。(1423年)
1457年8月19日
フィレンツェで死。

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『メディチ家』
 『傭兵の二千年史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』

フラ・カルネヴァーレ Fra Carnevale

生没
1420/1425年頃~1484年
出身
ウルビーノ
没地
ウルビーノ
概要

 フラ・カルネヴァーレは、イタリアの画家。

外部リンク

 Wikipedia

ジョヴァンニ・サンティ Giovanni Santi

生没
1435年頃~1494年8月1日
ラッファエッロ
概要

 ジョヴァンニ・サンティは、15世紀のイタリアの画家。

別表記

 ジョヴァンニ・サンツィ

外部リンク

 Art cyclopedia
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

ルチアーノ・ラウラーナ Luciano Laurana

生没
1420年頃~1479年
出身
ダルマチア、ザーラ
没地
ペーザロ
概要

 ルチアーノ・ラウラーナは、15世紀の建築家。

設計

 コスタンツァ要塞
 ロヴェレスカ要塞

年表

1420~1425年
ダルマチアのザーラに生まれる。
1479年
ペーザロにて、死。

別表記

 ルチャーノ

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

アントーニオ・ミッサーリア Antonio Missaglia

生没
1416年~1496年
出身
ミッサーリア
トンマーゾ・ミッサーリア
ジョヴァンナ・ダ・ヴェネーゴノ
アンジオーラ・ピアッティ
スザンナ・スタンパ
ジャナンジェロ・ミッサーリア
セバスティアーノ・ミッサーリア
トンマーゾ・ミッサーリア
フランチェスカ・ミッサーリア
概要

 アントーニオ・ミッサーリアは、15世紀のイタリアの男性、甲冑師。

作品

年表

1416年
ミッサーリアにて、生(1417年)。
1496年
死(1495年)。

別表記

 Antonio II MissàgliaAntonio Negroni

外部リンク

 刀剣ワールド
 Geneanet
 Google Books
 Google Books - The Armourer and His Craft
 Treccani
 Wikipedia

フィリッポ・ブルネッレスキ Filippo Brunelleschi

生没
1377年~1446年4月15日
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ
弟子
バロンチェリ
概要

 フィリッポ・ブルネッレスキは、14世紀~15世紀のイタリアの男性、建築家、彫刻家。
 1401年、フィレンツェで羅紗製造組合が大掛かりな美術競技を行う。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の西側にある、サン・ジョヴァンニ洗礼堂第2門扉の制作を誰に依頼するかを決めるためである。
 審査の結果、最後まで勝負を争ったのはロレンツォ・ギベルティとフィリッポ・ブルネッレスキの作品であった。どちらも優劣つけがたい出来ばえだが、繊細かつ工芸的で未だ中世ゴシック芸術の雰囲気を伝えるロレンツォ・ギベルティと激しくドラマティックでより「近代的な」フィリッポ・ブルネッレスキといった作風の違いは明らかであった。
 一般には、フィリッポ・ブルネッレスキがロレンツォ・ギベルティに敗れたと言われることが多いが、それは正確ではない。当初、門扉はこの両者の平等な共同作業とすることが決められた。フィリッポ・ブルネッレスキは共作を辞退したため、ロレンツォ・ギベルティ1人に制作が委ねられることになったのである。2人の作風の違いから考えると、彼の辞退は当然と言えよう。


 この時フィリッポ・ブルネッレスキが単独で優勝していたら、あるいは彼は生涯彫刻家として活躍していたかもしれない。しかし、優勝を返上があったからこそ、建築家としてのフィリッポ・ブルネッレスキが誕生するのである。
 もともと金銀細工師であったフィリッポ・ブルネッレスキだが、美術競技の後、親友のドナテッロと一緒にローマへ旅に出かけ、古代の彫刻と遺跡を研究し、建築家を志すようになったと言われている。この逸話の確証はないが、後にフィレンツェを舞台として実現される建築家としての彼の作風は、古代都市ローマとの出会いなくしては語れないことは確かである。
 ところで、当時のフィレンツェの建築界における最も重要な問題は、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の造営事業であった。13世紀の末にアルノルフォ・デル・カンビオによって始められた大がかりな大聖堂新築計画は、15世紀には最後の仕上げを待つばかりになっていた。その最後の仕上げというのが、全体の建築計画の中でも最も困難なクーポラの造営であった。
 それは、十字架形の大聖堂の縦と横の腕の交わる部分の正方形の上に円形の丸天井を載せるという、とてもやっかいな課題であった。
 1418年、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の造営委員会によって大円蓋の建設方法を競うことが公示される。さまざまな案の中からフィリッポ・ブルネッレスキの案だけが唯一実現可能なものであった。
 しかし、ここでまた17年前の宿命の対決が再現されることになった。建築の専門的知識のあまりなかった造営委員会は、当時フィレンツェ芸術界において最も名高いロレンツォ・ギベルティを、フィリッポ・ブルネッレスキと同じ資格で造営責任者に任命したのである。ロレンツォ・ギベルティは彫刻や金工制作においては確かに当代並ぶ者のない名手であったが、こと建築に関しては素人も同然であった。
 紆余曲折を経た後、ロレンツォ・ギベルティは実質的に建設工事から手を引き、ようやくフィリッポ・ブルネッレスキが一人で現場の総指揮を任せられることになった。
 直径42メートルにも及ぶ巨大な空間を、正方形から円形に移行しながら完全に覆うという難しい課題を、2つのお椀をすっぽり重ねたような二重構造とすることによってフィリッポ・ブルネッレスキは見事に克服し、1436年に大円蓋は完成する。
 そしてこの偉業によって、建築家としてのフィリッポ・ブルネッレスキの名声は不動のものとなったのである。
 この大円蓋の建設の他に、捨て子保育院やサン・ロレンツォ教会、サント・スピリト教会、サンタ・クローチェ聖堂パッツィ家礼拝堂など、数多くの革新的な作品をフィレンツェで見ることができる。
 完全な円形アーチを細い円柱で受け止め、アーチの直径と円柱の高さを同じにするなど、いずれも建物全体を明快な数学的規則に還元し、各部分の形態や大きさ、比例関係などを、単純で基本的なものに統一しているところがその特徴である。これらの諸要素は古代建築から学んだ形式を取り入れながらも、ルネサンスのみの持つ新しい力強さがみなぎっている。
 1401年の第1の美術競技は、若き彫刻家フィリッポ・ブルネッレスキを建築家に変え、1418年の第2の美術競技は初期ルネサンス最大の偉業達成への道を彼に開いた。これらの2回の美術競技が、フィリッポ・ブルネッレスキの人生の転機となったのである。
 今もサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の脇からフィリッポ・ブルネッレスキの像が誇らしげに見上げており、地下にはフィリッポ・ブルネッレスキの墓がある。そして徒歩2分のところには、このルネサンスの偉人の名を冠した四つ星のホテルがあるのであった。

作品

設計

年表

1401年
サン・ジョヴァンニ洗礼堂の第2門扉の制作競技に参加。
1410年頃
線遠法発見。
1446年4月15日

肖像

埋葬地

別表記

 フィリッポ・ブルネレスキ、ブルネレスコ

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『世界・美術の旅ガイド3 北イタリア』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

ドナテッロ Donatello

生没
1382年~1466年12月13日
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ
ニッコロ・バルディ
師匠
ロレンツォ・ギベルティ
概要

 ドナテッロは、14世紀~15世紀のイタリアの男性、フィレンツェの彫刻家。
 ドナテッロは本名をドナート・バルディといい、1382年頃、梳き毛工の息子として生まれた。バルディ家とは関係がない。父ニッコロ・バルディは、1378年に起こった下層職人のチオンピの乱の首謀者の1人で死罪の判決を受けて一時亡命していたが、その後赦免されて帰国し、職人の仕事を続けていた。生粋のフィレンツェ職人としての父の激しい反骨精神や下層市民という出自は、ドナテッロの性格や思想形成に少なからぬ影響を与えたであろうことは、容易に想像できる。
 親友のフィリッポ・ブルネッレスキが1401年のコンクール課題作品で見せた激しく力強い表現を、ドナテッロは彫刻の世界で受け継ぎ、彼の厳格な写実主義、表現主義はもはや時代様式すら超越している。15世紀初頭の彫刻革命において、独創的な個性と桁外れの才能を持つ、偉大な天才芸術家と言えよう。
 しかしながら彼の激しい新しさは、やはりフィリッポ・ブルネッレスキが同時代のフィレンツェ市民たちの無理解と嫉妬に苦しんだのと同様、フィレンツェにおいて十分にその力量を評価されることはなかった。しかも、フィリッポ・ブルネッレスキサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の大円蓋造営事業に相当するような大事業をついに与えられることもなかったのである。それは彫刻の分野ではロレンツォ・ギベルティをはじめとして多くの天才たちがひしめき合っていたことにもよる。
 ドナテッロの天才を正当に評価し、それに相応しい作品を生み出させたのはむしろパドヴァ人たちで、それは「ガッタメラータ騎馬像」やサン・タントニオ教会の主祭壇などの記念すべき作品に見て取れる。
 さて、9歳年上のフィリッポ・ブルネッレスキとドナテッロは兄弟のように強い友情で結ばれており、フィリッポ・ブルネッレスキが1401年のコンクール優勝を「辞退」したあと、2人でローマに旅行し、古代遺跡の研究に没頭したというのは有名な話である。
 また、ジョルジョ・ヴァザーリは2人に関して、次のようなエピソードも伝えている。
 若いドナテッロがサンタ・クローチェ聖堂のために木彫りの十字架像を作った。彼がこの自信作をフィリッポ・ブルネッレスキに見せて評価を乞うと、フィリッポ・ブルネッレスキは「このイエス・キリストは野暮でまるで百姓のようだ。」と酷評した。
 怒ったドナテッロは「それなら自分で作ってみたらいい。」とやり返すと、フィリッポ・ブルネッレスキは何も言わずにその場を立ち去り、それから数ヶ月間、自分の家に閉じこもってひそかに木彫りの十字架像の制作に没頭した。
 やがて作品が完成すると、フィリッポ・ブルネッレスキはドナテッロを夕食に招待し、2人で一緒に市場で食材を仕入れた後、ドナテッロに食料を持って一足先に帰るように頼んだ。
 ドナテッロがフィリッポ・ブルネッレスキの家に着くと、見事な十字架像が飾られており、そのあまりの見事さに感嘆して思わず両手を広げたドナテッロは、せっかく買った卵やチーズが床に落ちて砕け散ったことにも気づかず、その場に立ちつくしていた。
 そこへ帰ってきたフィリッポ・ブルネッレスキが笑いながら「おやおや、一体僕たちは夕食に何を食べればいいのかね。」と言うと、ドナテッロは「僕はもうたくさんだ。・・・確かに君の言うとおりだ。君はキリストを彫ることができるが、僕には百姓しか彫れないのだ。」と興奮して答えたという。
 このエピソードの真偽はともかく、このような「腕くらべ」の逸話は、実力主義の当時のフィレンツェ人たちが大好きなものだった。
 これらの十字架像は現在でもドナテッロの作品はサンタ・クローチェ聖堂で、フィリッポ・ブルネッレスキの作品はサンタ・マリア・ノヴェッラ教会で実際に見ることができる。無骨で朴訥な感じのドナテッロのキリスト像とすらりと引き締まったフィリッポ・ブルネッレスキキリスト像、と確かにその違いは明らかなようである。これも物の本によると、上層知識人階級出身のフィリッポ・ブルネッレスキと下層職人階級出身のドナテッロとの人間解釈の差異の現れだ、と言われている。
 また、ドナテッロの才能はコジモ・イル・ヴェッキオに深く愛され、2人で彫刻や詩や哲学を論じて1日を過ごすこともあった。コジモ・イル・ヴェッキオの注文によってたくさんの仕事をし、コジモ・イル・ヴェッキオは制作費としてたっぷりと謝礼を渡したが、ドナテッロはその金を工房の天井からつり下げた籠に無造作に放り込んでいたので、誰もが使うことができた。
 さらにコジモ・イル・ヴェッキオの息子ピエロ・イル・ゴットーソにも保護され、別荘地を与えられて晩年を保証してもらった。しかしドナテッロは1年もしないうちに別荘地の管理というやっかいな仕事にすっかり参ってしまい、返却を申し出ている。そこでピエロ・イル・ゴットーソはその別荘地から上がるのと同じくらいの金額を、毎週ドナテッロが自由に銀行から引き出せるようにしてやった。ドナテッロは大いに喜んで、幸せな晩年を送ったという。
 フィレンツェ市民に正当に評価されなかったとはいえ、メディチ家の庇護を受けたドナテッロは幸せである。オルサンミケーレ聖堂の外壁には「聖マルコ像」や「聖ゲオルギウス像」、大聖堂付属美術館には「エレミヤ」「ハバスク」などの預言者像や大聖堂の「聖歌壇(カントリーア)」の浮き彫り、バルジェッロ国立美術館には「少年の洗礼者ヨハネ像」そして、「ダヴィデ像」など、80年に及ぶ長い生涯で制作された作品は、今でもフィレンツェの街のそこここで見ることができるのである。

作品

年表

1382年
フィレンツェで生(1383年、1386年)。
1466年12月13日

住居

 サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂近くのマルテッリ家所有の家。ドナテッロが20歳の時、ここに工房も持っていたとの記録がある。現在バルジェッロ国立美術館に所有されている、洗礼者ヨハネの彫像、胸像、ダヴィデ像は、3体ともそこにあったもの。

別表記

 ドナテルロ、ドナテロ、ドナート・デ・ベット・バルディ

本名

 ドナート・ディ・ニッコロ・ディ・ベット・バルディ、Donato di Niccolò Betto di Bardi

関連項目

 チオンピの乱

外部リンク

 ウィキペディア
 Art cyclopedia
 Firenze美術めぐり
 Web Gallery of Art

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『逆光のメディチ』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『傭兵の二千年史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネサンス百科事典』
 『ルネッサンス夜話』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

ルカ・デッラ・ロッビア Luca della Robbia

生没
1399年~1482年2月2日
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ
概要

 ルカ・デッラ・ロッビアは、14世紀~15世紀のイタリアの男性、フィレンツェの彫刻家。1399年か1400年頃、フィレンツェの富裕な羊毛業者の三男として生まれた。富裕な市民の子として、良識に富み、知的な人であったとの証言もある。ジョルジョ・ヴァザーリによると、ルカは最初、金細工師の工房で訓練を受けたという。実際、ロレンツォ・ギベルティか、ナンニ・ディ・バンコのもとで彫刻を学んだことは間違いないようだ。
 1431年にサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂管理組合から大聖堂の聖歌隊席の発注を受けた翌年、石工・木工師組合に入会している。この制作中の大作に圧倒されたレオン・バッティスタ・アルベルティが『絵画論』の序文を記したのである。
 聖歌隊席と並んでルカの名声を確かなものにしたのは、彼が創始した彩釉テラコッタ芸術である。単にテラコッタに顔料をつけるだけでなく、像の縮みを計算に入れた上で粘土像を焼き上げ、マルツァコット(融解性の高い透明なガラス性の物質)で覆った後、さらに釉薬を重ねて、低い温度で再び焼き上げるという技術を開拓した。
 このような技法は、フィレンツェで当時目にすることができたマヨルカ陶器やイスパノ・モレスク陶器、アラブ・イスラム陶器などに似たようなものがあったが、彫刻に応用し、独創的なものとして芸術性を高めたのはルカの功績である。
 大聖堂の聖具室扉の上を飾る「キリストの復活」「キリストの昇天」をはじめ、「りんごの聖母」「薔薇園の聖母」など、1440年代にたくさんの名作を作っている。
 ルカの作品にあふれる清新で明澄な世界は、フィレンツェ芸術の独創性を代表するものといえよう。

作品

年表

1399年
フィレンツェにて、生(1400年)。
1482年2月2日
フィレンツェにて、死。

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』

ザネット・ブガット Zanetto Bugatto

生没
1433年~1476年3月
概要

 ザネット・ブガットは、15世紀のイタリアの男性、宮廷肖像画家。

作品

年表

1460年~1463年
ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティによりブリュッセルに派遣され、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの工房で過ごす。
1468年
フランスへ行き、ボーナ・ディ・サヴォイアの肖像画を描く。

別表記

 ブガッティ

外部リンク

 kleio.org
 Wikipedia

参考文献

 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

ハンス・メムリンク Hans Memling

生没
1436年頃~1494年8月11日
概要

 ハンス・メムリンク、15世紀のフランドルの画家。

作品

外部リンク

 ウィキペディア

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2021年4月10日