Beatrice d'Este

ベアトリーチェ・デステ

生没
1475年6月29日~1497年1月2日
出身
フェッラーラ
没地
ミラノ公国ミラノ
エルコーレ1世・デステ
エレオノーラ・ダラゴーナ
ルドヴィーコ・イル・モーロ
マッシミリアーノ・スフォルツァ
フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ

概要

 ベアトリーチェ・デステは、15世紀のイタリアの女性。

年表

1475年6月29日

フェッラーラにて、生(1475年6月28日)。

1485年8月

ナポリからフェッラーラに戻る。

1489年5月10日

エステンセ城にて、ルドヴィーコ・イル・モーロとの結婚証書が結ばれる。

1490年12月29日

エレオノーラ・ダラゴーナと叔父シジスモンド・デステと共に、結婚のためフェッラーラを出発。

1491年1月12日

ピアチェンツァ到着。バルトロメオ・スコッティ伯に歓待される。

1491年1月

ルドヴィーコ・イル・モーロとの結婚が祝われる。

1491年1月16日(日)

午後4刻半、パヴィア到着(1491年1月14日)。コペルト橋のたもとで船を降りる。

1491年1月17日(月)

パヴィアのヴィスコンティ城にて、ルドヴィーコ・イル・モーロと結婚(1490年12月、1491年1月16日)。

1491年1月21日(金)

パヴィア出発。ビナスコのヴィスコンティ城に宿泊。

1491年1月22日(土)

ミラノへ入城。

1491年2月17日

イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。現存せず。

1491年3月

ルドヴィーコ・イル・モーロ、ベアトリーチェ・デステ、ガレアッツォ・ヴィスコンティは、ヴィジェヴァーノに行く。

1491年3月18日

ヴィッラノーヴァにて、イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。

 私は今ここヴィッラノーヴァにいて、田舎の心地よさとうららかな空気の甘さがすでに5月であるかのような気にさせ、暖かく素晴らしいお天気を堪能しています。毎日犬と鷹を連れて馬で出かけ、夫と私は鷺や水鳥の狩りを十分に楽しまずに帰ることはありません。獲物があまりにも豊富であちこちで野兎が飛び跳ねるので、一番いい獲物を見つけるのにどちらを向けばいいのか分からないほどで、追跡の危険さについてはさほど述べられません。実際、見たいものに目が追い付きませんし、この辺りで発見できる獣を数えるのもやっとというほどです。夕食後にガレアッツォ・ヴィスコンティと1、2人の宮廷人と共に球技を楽しんでいるということを言い忘れてはなりませんね。殿下のことがよく話題に上り、もしいらっしゃればと願っています。このように全てお話しするのは、ここで発見するだろうことを言ってしまうことによってお越しになった時のお楽しみを半減させるためではなく、私がどんなに健やかで幸せか、夫がどんなに親切でやさしいかを知ってもらうためなのです。あなたと共有しない限りは、喜びや幸福を十分に噛みしめることができないのですから。おいでになったらあなたの好物の料理をたくさん一緒に食べられるよう、にんにくを一面に植えたということもお伝えしておかなければ。

1491年9月

病に伏せる。

1491年10月

お忍びでジェノヴァに滞在。ジャン・クリストフォロ・ロマーノが随行。

1491年12月

ミラノにて、義兄フランチェスコ2世・ゴンザーガを歓待。

1492年夏

パヴィアで夏を過ごす。

1493年1月25日

4刻、ミラノスフォルツェスコ城にて、マッシミリアーノ・スフォルツァを出産。

1493年2月4日(月)

大使、評議員、治安判事、役人、大勢のミラノの貴婦人たちが、ベアトリーチェ・デステにお祝いを贈るようにスフォルツェスコ城に招待される(日曜日)。

夜、贈り物は宝物の部屋で公開される。

1493年2月20日(水)

エレオノーラ・ダラゴーナ、義姪イザベッラ・ダラゴーナ、義妹アンナ・マリーア・スフォルツァ、義姪ビアンカ・マリーア・スフォルツァ、継子ビアンカ・スフォルツァ、伯母ベアトリーチェ・デステカミッラ・ダ・マルツァーノと共に、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会を訪問(1493年2月24日水曜日)。

1493年2月21日(木)

ベアトリーチェ・デステスフォルツェスコ城の彼女の部屋にて、饗宴を主催。

1493年2月22日(金)

ベアトリーチェ・デステ、アンナ・マリーア・スフォルツァビアンカ・マリーア・スフォルツァら、若い貴人、貴婦人が狩りを行い、雄鹿3頭を仕留める。

エレオノーラ・ダラゴーナは、ボーナ・ディ・サヴォイアと室内で過ごす。

1493年2月23日(土)

ガスパーレ・ディ・プステルラの邸宅で饗宴が開かれる。

全宮廷がサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の荘厳ミサに参列。

1493年2月24日(日)

トッレ家で饗宴が開かれる。イザベッラ・デステはヤコポ・スアルドを名代として派遣。

1493年2月

ベアトリーチェ・デステがスフォルツェスコ城ロッチェッタにて饗宴を主催。

1493年4月16日

ヴィッラノーヴァにて、母エレオノーラ・ダラゴーナ宛てに直筆で手紙を書く。

 最も誉れある婦人、親愛なるお母様へ
 お手紙が遅れたことをお許しください。毎日画家がエルコーレ(マッシミリアーノ・スフォルツァ)の肖像画を届けることを願っていたためで、夫と私はただいまこの郵便と共に送りました。描かれてからすでに1週間以上経ちますので、絵に見受けられるよりも大きいと断言致します。でも、身長は記しません。身長を測るといつまで経っても成長しないと言われるものですから。そうでさえなければ間違いなくお知らせしたでしょう。夫と私共々よろしくお願いいたします。手に接吻を、親愛なる母上様。

言及のマッシミリアーノ・スフォルツァの肖像画は現存しておらず、作者も不明。

1493年5月18日

ルドヴィーコ・イル・モーロマッシミリアーノ・スフォルツァと共に、フェッラーラ到着。

1493年5月25日(土)

10刻半、母エレオノーラ・ダラゴーナ、弟アルフォンソ1世・デステ、義妹アンナ・マリーア・スフォルツァ、並びにガレアッツォ・ヴィスコンティヴィンチェンツォ・コッリジローラモ・トゥッタヴィッラ、アンジェロ・タレンティ、ピエトロ・ランドリアーニ、コモ司教アントーニオ・トリヴルツィオ、フランチェスコ・スフォルツァとその妻が随行し、1千2百名以上の随行員を率いて、ヴェネツィアへ向けフェッラーラ出発。

1493年5月26日(日)

キオッジャ到着。ベアトリーチェ・デステはヴェネツィア貴族の家に宿泊。

1493年5月27日(月)

朝、リード島到着。

昼5刻頃、マラモッコ要塞到着。大砲が撃たれる。24名のヴェネツィア貴族の代表団に迎えられ、フランチェスコ・カッペッロによる演説を聞く。

ヴェネツィア船団に導かれてサン・クレメンテ島到着。ドージェのアゴスティーノ・バルバリーゴと義兄フランチェスコ2世・ゴンザーガに迎えられる。

フォンダコ・デイ・トゥルキに宿泊。

ヴェネツィアにて、夫ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙をしたためる。

 最も誉れ高き王子様、名君、最愛なる夫へ。
 キオッジャに到着したことを昨日書きました。今朝は宿泊した家の礼拝堂にてミサ曲を聞きました。歌手が手伝い、精神的な喜びをとても感じました。昨日の朝もそうであったように、コルディエール氏は彼の声部をとても上手に歌っていました。間違いなく彼の歌は可能な限り最高と慰めです。それから朝食をとり、10刻にブチェンタウロに、中型と小型のブチェンタウロとゴンドラに分かれて乗り込みました。天気がまだ荒れていたので、安全のため準備されたのです。最も誉れ高きお母様エレオノーラ・ダラゴーナアルフォンソ1世・デステアンナ・マリーア・スフォルツァはごく少数の召使と共に小型のブチェンタウロに、他の紳士淑女は大きめのブチェンタウロか小さなゴンドラに、私はジローラモ・トゥッタヴィッラ殿、ガレアッツォ・ヴィスコンティらと共に他のゴンドラに乗りました。小型のブチェンタウロを軽くし、より快適に旅行するためだと思われます。出発し、キオッジャの港に着いたところで、船が踊り始めました。私は上下に揺られることを大いに楽しみ、ありがたいことにほとんど害はなかったのです。しかし、騎士ウルシーノ(ロベルト・オルシーニ?)、ニッコロ・デ・ネグリ、エレオノーラ・ダラゴーナをはじめとする多くの方々は非常に心配していたと言えます。ジローラモ・トゥッタヴィッラ殿でさえ、とても少食であったもののご気分を悪くされました。けれども、エレオノーラ・ダラゴーナと騎士ウルシーノを除いて、キオッジャ港のゴンドラは誰も本当に具合を悪くした者はおりませんでした。その他のほとんど、特に女性はかなり良くありませんでした。天気が回復したので、マラモッコには予定通り到着しました。ここで、約24名の紳士がいて、立て付けが良くて装飾された艀が3艘あり、その内の1艘に乗りました。可能な限り多くの席があり、光栄にも船首に座りました。数人のヴェネツィア紳士が私たちが乗っている艀に入ってきました。あなたも持っているような、大きな金の模様が刺繍された白い錦の長い外套を着たフランチェスコ・カッペッロ氏が、次の旨の演説を述べました。この誉れ高きシニョーリアがあなたがフェッラーラに滞在していることを聞いて愛情を示すため大使2名を送り、そして今お母様と私のヴェネツィア訪問を聞き、紳士たちにキオッジャで出迎えさせ、さらに愛情を示すべく、シニョーリアが私たちの訪問により大きな喜びを感じたことを表現し、シニョーリアと既婚女性たちと共にドージェ自身が歓迎し、でき得る限り敬意を表するつもりだと伝えるため、マラモッコに送ったのです、と。母はいつもの慎ましさで私に返事を頼みましたが、少し何か仰るよう促したところ、話し始めました。ですが、お母様が話し終わる前に、私が話し出すよりも早く、以前にもそうしたように紳士たち全員が駆け寄って手に接吻したので、恭しい身振りだけで気持ちを表すことしかできませんでした。
 それから、ヴェネツィアへ向け出発し、ドージェが待つサン・クレメンテ島に到着する前に、2枚の筏が近づき、喇叭と銃の発砲の音で挨拶し、続いて戦闘準備を整えた2隻のガレー船と帆船が庭園のように飾られ、本当にきれいでした。大勢の紳士淑女を乗せた無数の舟が取り囲み、サン・クレメンテ島まで先導してくれました。ここで上陸し、織物が掛けられた広々とした日陰棚に案内されました。そこでシニョーリアを率いたドージェ・アゴスティーノ・バルバリーゴが会って歓迎し、どれほど熱心に訪問を望んでいたか念押しし、愛する娘たちとみなしている私たちを父とあなたが寄越してくださること以上の喜びはないと言いました。この全てと私たちに抱いている父親的な愛に関し、将来の機会においても表すことができるよう望んでいました。そして、母上を彼の右に、私が左に、アンナ・マリーア・スフォルツァを私の隣に、母の隣にドージェと共に来ていたマントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガアルフォンソ1世・デステを並ばせ、ブチェンタウロへ誘導しました。途中ドージェの後ろに2列になって立ち上がった女性たち全員と握手し、同じ順番で座りました。全ての淑女との握手の後、再び航行し、無数の飾られたガレー船、舟、帆船を見ました。とりわけ、ネプトゥヌスミネルウァの扮装をした筏があり、三つ又の矛と槍で武装して、教皇と私たちの主君の腕で完成される丘の両端に、あなたとヴェネツィア共和国シニョーリアと共に座していました。最初にネプトゥヌスが踊り跳ねまわり、太鼓とタンバリンの音に合わせて球を投げ、ミネルウァが同じようにしました。その後2人は手を取って一緒に踊りました。次にミネルウァが山を槍で突くと、オリーヴの木が現れました。ネプトゥヌスが矛で同様にすると馬が飛び出ました。開いた本を手にした他の人物たちが山に登場し、山上の都市に与えられる名前を決めに来たことを示し、ミネルウァに有利な判断を下しました。平和条約に基づいて各国が存在し、ミネルウァアテナにしたようにその基礎を築いた者は未来の王国を名付けるだろうことを、この演出は表しているのだと言っておりました。
 航行中、他多数の全て豪華に飾られた帆船とガレー船を見ました。その中に武装したミラノ人のガレー船1隻があり、槍と、あなたと公爵の紋章が上下に付けられた盾をを装備したモーロが中央にいました。このモーロの周りには、笏を手にした剛毅、節制、正義、知恵がいて、全員が素晴らしい野外劇を生み出し、銃と大砲の同時発砲はとても素敵に聞こえました。
 加えて、様々なヴェネツィアの芸術品や工芸品を展示した帆船がたくさん見られ、とても美しい光景でした。そうしてカナル・グランデに入ると、ドージェが最大限親しみやすく優しくお話しなさり、この高貴な街の主要な宮殿を見せてくださり、すでに同じブチェンタウロに供している約130名の随行員の他、露台や窓辺に出ている宝石で輝く淑女たちを紹介されました。全ての宮殿が華麗に飾られ、実に壮観でした。宿泊する父の宮殿に着くまで、ドージェは運河沿いの主なものを案内してくださいました。ドージェも上陸し部屋まで付き添おうとなさいましたが、母と私はご迷惑をおかけできないとお断り申し上げました。宮殿は全て綴織で装飾され、寝台は公爵とあなたの紋章の付いた繻子の天蓋で覆われています。部屋と玄関はスフォルツァ家の色で彩られているので、良き娯楽、良き話し相手、良き生活の点においてこれ以上は望めないでしょう。今宵、3人の紳士がシニョーリアの名代として訪ねてきて、私の楽しみと便宜のために、予想できる以上の全く素晴らしい申し出をしてくださいました。明日、謁見が行われましたならば、もっとお話しすることになるでしょう。閣下のお気に召しますよう。

1493年5月28日(火)

朝、紳士3名が訪れ、ベアトリーチェ・デステが直接シニョーリアに謁っしたいという要求を承諾。

ヴェネツィアにて、夫ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙をしたためる。

 今朝着替えるとすぐ、ミサ曲が私の部屋に聞こえてきました。コルディエール氏がいつも通り見事に声部を歌っていました。彼の才能がもたらす貴重な喜びのため、またドージェに送られてきた紳士がその時にいて彼の歌唱をとても褒めていたため、大変うれしかったのでございます。

広場で競争が行われる。

1493年5月29日(水)

昼、リーヴァにて、レガッタ(船の競技)が行われる。ピエトロ・ベンボーによると、女性4名が漕ぐ船が参加してその斬新さで大いに盛り上がった。エレオノーラ・ダラゴーナへの賛辞として、母親と2人の娘と1人の嫁が漕ぐ帆船が優勝したという。

1493年5月30日(木)

サン・マルコ寺院とその宝物庫を訪問。

ヴェネツィアにて、夫ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙をしたためる。





 最も秀でたる誉れ高き君主、最愛なる夫へ。
 日々ここで何が起こっているかの物語を続けるためには、今朝エレオノーラ・ダラゴーナアルフォンソ1世・デステアンナ・マリーア・スフォルツァは全随行員と共にサン・マルコ寺院に向かい、ドージェ・アゴスティーノ・バルバリーゴが私たちと私たちの歌手も招いてくださってミサ曲を歌い、宝物庫も見せてくださったことをお話ししなければなりません。ですが、サン・マルコ寺院に到着する前に少し戻ります。リアルト橋で上陸してメルチェリエと呼ばれる通りを歩いていくと、香辛料や絹その他のお店が質と量共に豊富で多彩な品々を売っていました。工芸品もきれいに陳列されていたため、あれを見ては立ち止まりこれを見ては立ち止まり、サン・マルコ寺院に辿り着いてしまったのがとても残念でした。サン・マルコ寺院正面の露台から喇叭が鳴らされ、ドージェが扉で私たちに向かって近づき、以前のようにお母様と私の間に立って、司教が待つ祭壇の方へ導かれました。ドージェと一緒に跪いて告解を述べ、用意された席に座ってミサ曲を聞きました。司教と助手たちは非常に厳かに歌い、私たちの歌手も声部を担当し、彼らと特に閣下の名誉のためにいつも腐心しているコルディエール氏の歌はドージェ並びにその場にいた全ての人を満足させるものでした。ミサの後、宝物庫を見に行かれるドージェについていきましたが、その場と通りにも集まった群衆のせいで進むことが極めて困難で、道を作ろうと皆さんがしてくれていたものの、ドージェでさえ大声で道を開けようとなさいました。人ごみの圧迫のためドージェは退くことを余儀なくされ、ごく少数の者と私たちだけで入ることになり、それでも大変苦労致しました。宝物庫の中で安全が確保されると全てを見まして、最も美しい宝石や豪華な杯や聖爵が途方もなくあり、とても喜びました。宝物庫を出て、サン・マルコ広場に行き、まだ出ていた昇天節のお店の間を通っていると、美しいヴェネツィア製ガラスの素晴らしい見世物が行われていて、驚いて、長い間動けなくなりました。そうして、店から店へと歩いていると、私が身に着けているビロードの帽子の宝石、ジェノヴァ港の塔が刺繍された胴着の宝石、特に胸についている大きな金剛石に誰もが振り向きました。「ルドヴィーコ様の奥方だよ。着けているすごい宝石をご覧。何て素晴らしい紅玉や金剛石をお持ちなの」と言っているのが聞こえました。
 ようやく遅かったので、帰って食事をしましたが、その時にはもう2刻近くでございました。

1493年5月31日(金)

ヴェネツィアにて、夫ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙をしたためる。

 夕食をとり少し休んだ後、大勢の紳士が迎えに来て、ドージェ宮殿での饗宴に連れて行ってくれました。艀で移動し、宮殿に着くと大広間に案内されました。広間の奥の壁一面に2列の席が設けられており、中央には舞踏や演劇のための正方形の舞台がありました。席に上がっていくと、宝石で着飾った1百32人のヴェネツィアの貴婦人がいました。入って右翼には、ヴェネツィアの最も裕福で有名な若者たちも成員とするラ・カルツァの有名な商社の一群である、ポテンティ商社社長が金の錦の天蓋付きの席に座し、アルフォンソ1世・デステがその成員として彼の右手に座りました。私たちは左翼の席に着き、アンナ・マリーア・スフォルツァを社長の隣にさせました。老衰しこのような疲れる娯楽に参加できないドージェ・アゴスティーノ・バルバリーゴは来ていませんでしたが、コンスタンティーノ・プリヴォーロ氏がシニョーリアの最長老としてドージェの席を占めていました。宴の主催者たちが婦人たちに2、3曲躍らせ、私たちの内の誰かも踊りませんかと尋ねに来ました。友好を示すために同意し、ジローラモ・ダ・フィジーノ伯と他数人が踊りました。女性陣は、フランチェスコ・スフォルツァ伯の妻、シジスモンド氏とライナルド氏の娘たち他も踊りました。舞踏の間、部屋が暑すぎたことが原因で頭痛がし始め、喉も少し痛くなったので、広間を出て別室で1時間休みました。戻るとすでに暗くなっていました。百の松明が天井から吊るされ、舞台で演劇が催されており、大きな角が付いた大きな動物2頭が登場し、黄金の球と緑の花輪が付いた杯を持った2名の人物が乗っていました。2人の後ろに凱旋車が続き、コンコルディアの格言が刻まれた剣を手に持ち、椰子とオリーヴの花輪をした正義が座っていました。その二輪戦車に、聖マルコと毒蛇に足をかけた雄牛がいました。これは、閣下なら容易に理解されるように、同盟の象徴でありまして、演説でドージェと紳士たちがイタリアの平和と平穏の作り手として閣下のことを話していたように、掛けられた凱旋門の上にあなたの頭を載せているのです。戦車の背後に、初めの人物たちのような恰好をした2人の若者が乗った2匹の蛇が来ました。全登場人物は広間の中央の台に乗って正義の周りで踊り、暫く踊った後持っていた球が爆発し、その炎から雄牛、獅子、毒蛇、モーロの頭が突然現れ、全員が正義の周りを踊りました。そして晩餐会がそれに続き、様々な料理と糖菓が喇叭の演奏に載せて運ばれ、無数の松明が燃やされました。初めに、各々や閣下の紋章を身に着けた教皇、ドージェ、ミラノ公、そして聖マルコと毒蛇や金剛石その他多くのものが、色付けや金箔を付けた砂糖として全部で3百個も作られており、多彩なケーキと菓子類全部と一緒に、それに金と銀の杯、これら全てが広間に広げられて素晴らしい見世物が作られたのです。とりわけ10人の枢機卿に囲まれた教皇の人形が目につきまして、明日アレクサンデル6世聖下が枢機卿を10名ご任命される予言なのだと聞きました。ごちそうが舞台の上に広げられ、たくさんのその砂糖人形と共に料理が配られ、教皇とミラノ公夫妻が私のものになりました。宴会が終わった時、別の劇が始まり、蛇に乗った2人の若者が主役を演じました。舟に載せられた凱旋車に乗った使者が現れ、隠しに入れていた手紙を社長に渡し、社長が開封して読むと使者に返しました。使者は舟に再び乗って広間を去り、蛇の上の他の者もそれに続きました。この最後の人物は同盟の宣言を公表するために送られた先触れなのだと聞き、同盟の凱旋車の少し後、上記のようにまた登場し、4人の巨人がついてきました。最初の者は葉と果実の角を、次の2名は金銀の球または投石器の付いた棍棒を、最後の者は最初の巨人のものと同様のコルヌコピア(豊穣の角)を持って来ました。それから、キマイラの形をした4頭の動物がやって来て、4人の裸のモーロが乗っており、タンバリンやシンバルを鳴らすか、手を叩いていました。4台の凱旋車がそれに続き、ディアナ、死、メレアグロスの母を載せていて、4、5名ずつ戦車に乗った武装兵がいました。全てがメレアグロスの物語を表現することを意図して、誕生から死まで、舞踊の幕間を交えながら完全に披露されました。話の全部を書くには長くなりすぎますが、お聞きになりたいならジャン・ヤコポ・ジッリーノが始まりから終わりまで語ることができるでしょう。これが饗宴の最後でした。舟に乗り、家に帰る前に時計が1刻を打っていました。今晩中コモ司教アントーニオ・トリヴルツィオは私の隣に座っていましたが、長い演芸で疲労困憊し、混雑した広間での暑さを嫌がっている彼を見て、初めて笑ってしまいました。彼をからかってもっと楽しめるように、祭りはまだまだもっとあるし、あの演劇は明朝まで続くでしょうと言ってやりました。面白いことに、片方の足を伸ばし、反対の足を伸ばした後、「足が疲れました。このお祭りはいったいいつになったら終わるのでしょう。もう2度とお祭りには参加しません」と、愚痴をこぼしました。彼のため息とうめき声は饗宴と同じくらい楽しめました。ようやく家に着くともう3刻になっていたので、簡単に食事して眠りました。夕食後に着ていた長衣は真紅と金色の絹でできていて、頭には宝石の付いた帽子、マローネの付いた真珠の首飾りをしていました。殿下のお気に召しますように。閣下の最も愛情深い妻より。

1493年6月1日(土)

ヴェネツィアにて、夫ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙をしたためる。

 今日の夕食後、大評議会出席のため大勢のヴェネツィア紳士が敬意をもって臨席するドージェ宮殿を訪問し、大広間に通されました。広間の中央にはドージェ・アゴスティーノ・バルバリーゴがいて、出迎えるために降りてきてくださり、席に案内され、私たちはいつもの順番で座ると、評議会は2つの異なる役職の選出のため投票を始めました。それが終わった時、お母様は私たちに対する尊重をドージェに感謝し、ご退席なさいました。母上が話し終えると、私も同様に感謝を述べ、そしてあなたからの手紙でくださったご指示に沿って、娘としてドージェのご要望全てにお応えすることを伝えました。ドージェは、愛娘のために父親がするようなことしかしていないのだから感謝は必要ないと答えられ、もしやり残していることがあれば、ご自身の欠点にせいではなく部下が職務を果たせていないものと思ってほしいと仰り、私に最大限心を砕いていると念押しされました。最も輝かしいミラノ公と殿下と私への父性愛をもう1度表されました。ドージェと政府は閣下に役立てると、たくさんの優しい表現で、殿下への敬意の表明と勇気を持って欲しいと伝えるよう仰いました。シニョーリアは私の提案を全て受け入れ、もし必要ならあなたの助けをありがたく利用させていただくつもりだとのことです。これに私が似た言葉で返答すると、あなたによろしく伝えておいて欲しいと繰り返し、ご健勝を願われておりました。私たちの評議員が今度は前に出て、コモ司教アントーニオ・トリヴルツィオ猊下が非常に丁重に感謝を述べました。便宜に対する謝意を繰り返した後、私たちは退出しました。猊下はドージェが私に仰ったことへの返答を適切な言葉で返しましたが、閣下がお疲れになられる恐れがありますので、その発言を書くことはやめておきます。それで、ドージェが立ち上がり、大階段の下まで私たちを導き、そこで握手をして別れました。その後、ムラーノ島のキプロス女王カテリーナ・コルナーロを訪問いたしますと、大変な名誉をもって迎えられ、素晴らしい娯楽をご提供くださいました。聖ルチアの教会も訪れまして、そこで今日のお話はお終いでございます。明朝、どうか8刻に出発できるようにと願っています。閣下のお気に召しますように。

1493年6月2日(日)

フェッラーラへ向け、ヴェネツィア出発。

1493年6月5日

フェッラーラ到着。息子マッシミリアーノ・スフォルツァと合流。

1493年6月7日

ベルリグアルドの別荘にて、イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。

 望んでいたように、知ってのとおりまだ願っていますが、マントヴァであなたに会って、田舎で数日あなたと一緒に楽しみたかったのですが、夫が私の帰国を非常に心配しているのです。そのため、ブチェンタウロの中で殿下のお姿を見せてくださるよう、この度は私が陸に上がることをお誘いなさらぬよう、お願い申し上げなければなりません。

1493年6月

レーヴェレにて、姉イザベッラ・デステと会う。

1493年10月11日

エレオノーラ・ダラゴーナ、死。

1493年10月

帽子の飾りのみが白で他は全部黒一色の喪服で、自分の部屋に引きこもる。ルドヴィーコ・イル・モーロがほとんどの時間付き添う。ベアトリーチェ・デステ、ルドヴィーコ・イル・モーロガレアッツォ・ヴィスコンティは、各々の部屋で1人で食事をとる。

1493年11月12日

イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。

 以前一緒にいた時ニッコロ・ダ・コッレッジョ殿が提案したはざま飾りがつながった模様の創意を、殿下が実行されたかどうか覚えておりません。まだこの意匠で注文されていないのであれば、ビアンカ・マリーア・スフォルツァ様の結婚式当日に着用するために紫色のビロードのカモーラに金で付けたいと考えています。喪中ですけれども夫がその日だけ全宮廷が色を身に着けるように望んでいるからです。このようなわけで、親愛なるお母様の死により新しいものに対する興味はあまり湧きませんが、色のある服を着ないわけには参りません。しかし必要であるからには、殿下がまだお作りになられていないなら、この意匠を試してみることに決めました。急使を送りますので、どうか彼を引き留めず、新しい創意をお試しになられたのかどうかすぐにお知らせください。

1493年12月29日

ヴィジェヴァーノにて、姉イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。

 最も誉れ高き淑女、最愛のお姉さまへ。
 神聖ローマ王妃ビアンカ・マリーア・スフォルツァ陛下の結婚式という、ミラノで開催された堂々たる式典の全容をお知らせするとしばらく前に言い、確かに書記官に書くよう望みました。しかし全く届いていないとのことですので、書記官のせいであり、この明らかな怠慢について私をお許しください。
 先月末日に婚礼は行われ、この儀式の準備としてミラノ大聖堂の正面にポルティコが建てられ、鳩の刺繍がされた紫色の天蓋を両側の柱が支えていました。ミラノ大聖堂内では、通路は聖歌隊席まで錦が吊るされ、その正面には巨大な柱が支える凱旋門が建てられていました。全て彩色されて、中央には馬に乗ったフランチェスコ1世・スフォルツァ公の肖像が描かれ、公爵とローマ王の紋章が付けられていました。凱旋門は正方形で、古の祝祭の絵で装飾され、皇帝の記章と夫の紋章が主祭壇側の面にありました。門の向こうには、主祭壇の前に設けられた大きな長椅子に至る階段がありました。左側に金の錦を垂らした小さな長椅子があり、そこから聖歌が歌われました。右側も同様で銀の錦で飾られていました。そしてこれらの長椅子の後ろには、評議員や封建領主や紳士のための、順番に並べられ織物で覆われた席がありました。聖歌隊席の一番端には2つの舞台があり、1つは歌手用、1つは喇叭用です。その間に法律家と医師が座り、階級に応じたビレッタ帽と毛皮で裏打ちされたケープを着けていました。肝心の祭壇は、あなたがミラノにいた時にロッチェッタでご覧になった、銀の花瓶や聖人の絵で豪華に飾られていました。
 大聖堂に続く道は美しく飾られていました。スフォルツェスコ城の稜堡から広場の奥まで蔦が這った柱があり、柱の間は古代の図案や帝国と当家の紋章を載せた枝の花綱装飾で、城から大聖堂までずっと通りの上にスフォルツァ家の織物が掛けられていました。扉の多くに蔦や緑の枝で覆われた柱があったので、季節は11月ではなく5月のように見えました。道の両側には壁に繻子織が掛けられていましたが、最近フレスコ画で装飾した家はそうせず、けれども同じように美しかったです。
 当日朝9刻頃、エルメス・スフォルツァ侯、カイアッツォ伯ジャンフランチェスコ・サンセヴェリーノ、フランチェスコ・スフォルツァ伯、メルツォ伯ガレアッツォ・スフォルツァ、ルドヴィーコ・ダ・フォイアーノを従えた、ローマ王の大使たちが教会へ馬に乗ってお越しになり、金の布で覆われた小さな長椅子のそばの、入って左手の大きな長椅子にお座りになりました。聖歌隊席側の最も名誉ある席です。10刻に、幸せな記憶の中のお母様から私がフェッラーラにいた時頂戴した、4頭の白馬が引く凱旋車に王妃がお上がりになられました。王妃は、金糸で刺繍が施され宝石で覆われた、真紅の繻子織の胴着をお召しでした。お引き摺りはとてつもなく長く、袖は2枚の翼に見えるように仕立てられ、非常に美しい装いでした。頭には豪華な金剛石や真珠の飾りをお付けになっていました。この式典の荘厳さを増すように、ガレアッツォ1世・パッラヴィチーニ殿がお引き摺りを持ち、コンラード・デ・ランド伯とマンフレド・トルニエッロ伯が袖を1枚ずつ支えました。花嫁の前を、侍従、宮廷人、役人、紳士、封建領主の全てと、最後に全評議員が歩きました。車の真ん中に王妃がお座りになり、イザベッラ・ダラゴーナ公妃が右側に、私が左側に座りました。その公妃は真紅の繻子織のカモーラに、覚えておいでのように私の灰色のカモーラに似た、金色の紐を巻きつけていました。そして私は紫のビロードのカモーラで、繋ぎ模様は金と緑と白のエナメルで作られており、身頃の前後と両袖の6インチほどのところにありました。カモーラは金色の布で裏打ちされ、大きな真珠で作られた聖フランチェスコのガードルを履き、留め金は美しく鮮やかな紅玉でした。車の反対には、フランチェスコ1世・スフォルツァ公の非嫡出子でスフォルツェスコ城にお住いのフィオルデリーザ・スフォルツァ様と、ガレアッツォ・サンセヴェリーノ殿の妻ビアンカ・スフォルツァ様と、フランチェスコ・スフォルツァ伯の奥様が座っていました。車の後ろに、婚礼に敬意を表するためフランスのキリスト王シャルル8世から派遣された大使たち、イタリアの領主の特使たちが地位に応じて、そしてミラノ公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァと夫ルドヴィーコ・イル・モーロが馬に乗って続きました。12台ほどの馬車が式典に特別に選ばれて出席するよう招待されたミラノで最も高貴な乙女たちを載せて来て、王妃の女官たちが淡黄色のカモーラに明るい緑の繻子織の外套という全員同じお仕着せを着ていました。イザベッラ・ダラゴーナ公妃と私の女官も、これらの車に乗っていました。この行列が大聖堂に向かっていると、通りの全てのお店や窓には繻子織が掛けられ、男女で込み合っており、路上の群衆を数えることは不可能でした。
 大聖堂の門に到着して馬車から降りると、大勢の貴婦人たちを従えたベアトリーチェ様がお待ちでした。長椅子の階段まで進むと、ローマ王の大使たちが歩み出て王妃を迎え、主祭壇正面の大きな長椅子にご案内しました。そして、私たちも各々の場所に行きました。つまり、大使は金の布で覆われた長椅子に、王妃はフランス大使たちの間の銀色の錦の席へ、後ろには領主の特使たち、公爵、夫、イザベッラ・ダラゴーナ公妃と私が着席しました。花嫁のその他の高貴なご親類は低い段の席を占め、長椅子の真ん中には大勢の貴婦人がいました。王妃の側には、評議員、封建領主や他国の宮廷人、役人、侍従が残りの席に座りました。その他の人々は、大聖堂は大変広いものの、入りきることができませんでした。
 全員が着席し終えると、ミラノ大司教グイダントーニオ・アルチンボルディ猊下が常任の司祭たちと共に正式の法衣でご入場なさいまして、喇叭と横笛とオルガンと、猊下の間に合わせた礼拝堂付き聖歌隊の声にのせて、最高の華麗さと厳粛さでミサをお始めになりました。聖歌が歌われてる時、大聖堂の常任司教2名が香を持ち、1人はマクシミリアン1世王の大使たちの方へ、1人は王妃、公と公妃、反対側の夫と私の方へ向かいました。平和の挨拶が行われ、順番が回ってくると、ピアチェンツァ司教ファブリツィオ・マルリアーニから王の親族へ、私たち他には別の長椅子に座っていたコモ司教アントーニオ・トリヴルツィオから与えられました。最高の厳粛さでもってミサが行われた後、王妃がフランス王陛下の大使たちの間から立ち上がり、公爵と夫、イザベッラ・ダラゴーナ公妃と私が付き添って、また全ての血縁の王子がついて、祭壇へ進みました。マクシミリアン1世王の大使たちは彼らの側を進み、祭壇の前に皆さん立ちました。大司教猊下が婚儀を宣言し、ブリクセン司教メルヒオール・フォン・メッカウがまず指輪を王妃に渡し、大司教に介助されながら冠を頭に載せました。これは喇叭が吹かれ、鈴が響き、銃と砲弾が発砲される中行われました。王冠は紅玉と真珠と金剛石で飾られた金でできており、半円が十字型に交差し、頂点に球体がありました。その球体には、大使たちにより王の指示に従った見本が示されて、小さな帝国の十字架の付けられていました。
 その後、上記のお引き摺りと袖を持つ封建領主の皆さんが行列となって大聖堂の門へ歩きました。ご婦人も殿方も馬に乗り、オコジョの毛皮で裏打ちされた白いダマスク織の天蓋が用意され、その下を王妃が乗馬して、公爵と夫を先頭として大使や全宮廷人が先導しました。王妃の隣には王であるご主人様の大使たちが乗馬し、天蓋の外でブリクセン司教が左手にいました。そのように長い行列はスフォルツェスコ城へ向かいました。ミラノの街の聖職者たちが豪華な装いをし非常に敬虔な姿で、城と大聖堂の間の行きと帰り両方に列をなしました。ジャンフランチェスコ1世・パッラヴィチーニ殿とフランチェスコ・ベルナルディーノ・ヴィスコンティ殿が王妃の杖持ちとして、大聖堂から城に向かいました。天蓋は上記の方式で外衣を着た博士たちによってずっと運ばれ、王妃の後ろは公妃と私がいて、親族、宮廷人、招待客が全員馬に乗って続きました。そして、王妃と公妃と私の女官が来て、全員が豪華に着飾り素晴らしい見栄えで、最も見事だったのは帝冠を被った王妃でした。金と銀の錦以外は見られず、身なりの悪い人でも真紅のビロードでしたので、騎士などが着用する金の鎖もたくさん加わり、衣装は素敵な光景でした。列席した皆さんが、これほど輝かしい光景を見たことがないと称賛しました。観客の中にいたロシアの大使は、こんなに並外れた豪華さは見たことがないと仰いました。教皇聖下の使節も同じことを仰い、教皇と自国の王と王妃の即位式にも出席したフランス大使さえ、ここまで華麗な光景は見たことがないと仰いました。このことから結婚式がどれほど喜びと栄光に満ちているかを殿下はご判断されるでしょう。皆さんが歓喜を叫び、やがてスフォルツェスコ城に到着し、行列が解散して群衆も散り散りになりました。式典の間中あなたがいてくださることを望みましたが、叶うはずはありませんでしたので、せめて直筆でお伝えしたいと考えました。殿下にお気に召されますよう、妹より。

1494年1月3日

ヴィジェヴァーノにて、姉イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。第1子エレオノーラ・ゴンザーガの誕生を祝う。

1494年1月28日

ヴィジェヴァーノにて、ルドヴィーコ・イル・モーロによりクザーゴと、ノヴァーラパヴィアの一部地域をもらう。

1494年9月11日

音楽隊を引き連れアンノーナに行く。フランス王シャルル8世が到着するが、体調が悪く訪問されず。

1494年9月12日

シャルル8世を歓迎。シャルル8世はベアトリーチェ・デステとビアンカ・スフォルツァをはじめとして、その場にいる夫人全員に接吻。

アンノーナにて、姉イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。

 正午頃フランス王がここにお着きになり、宮廷人を連れて親善訪問され、私及び女官と3時間ほどお過ごしになって、とても親しく優しく会話しました。世界中のどんな君主よりも感じが良かったことを請け負います。婦人たちが踊ることを希望され、次に王より前に私が踊ることをお求めになり、とてもお楽しみになられたようです。

1495年2月4日

ミラノにて、フランチェスコ・マリーア・スフォルツァを出産。

1495年8月25日

義兄フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。

 今日、閣下の急使からフランス王シャルル8世が所有していた垂れ幕1枚を受け取りました。アンドレア・コッサがもう4枚をすでに届けており、大変感謝しております。しかしながら、事情が事情でございますし、私が持つべきものではないと存じます。そのようなわけで、全部を一時に拝見できとても楽しみましたので、閣下はイザベッラ・デステ侯妃にお返しになることができます。

1496年11月23日

イザベッラ・デステ宛てに手紙を直筆で書く。

 夫の娘でガレアッツォ・サンセヴェリーノの奥様でいらしたビアンカ・スフォルツァ様の早すぎる死について夫からすでにお聞き及んでいるとは思いますけれども、自らの手で書き、どれほど悲嘆と苦痛をもたらしたかをお伝えいたしましょう。親しい間柄でしたし、彼女の存在は私の心の一部を占めていたために、その喪失は言い表しがたいほどです。彼女の魂が神と共にあらんことを。

1497年1月2日(月)

午前、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会へ行く。

午後、スフォルツェスコ城に帰り、ロッチェッタの自分の部屋で舞踏会を行う。

8刻、突然痛みを訴える。

11刻、息子を死産。

12刻半、ミラノにて、死。

1497年1月3日(火)

葬儀。遺体が代わる代わるスフォルツェスコ城からサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に運ばれる。

1497年1月

サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に埋葬される。

肖像

埋葬地

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 Find A Grave
 Google Books
 Google Books
 Google Books - Archivio storico lombardo, 17
 JDA's Family Tree
 kleio.org
 Project Gutenberg - Beatrice d'Este, Duchess of Milan by Julia Mary Cartwright Ady
 Treccani

参考文献

 『愛の年代記』
 『イタリア史』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネッサンス百科事典』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『フィレンツェ史』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2019年12月6日