Francesco I Sforza

フランチェスコ1世・スフォルツァ

生没:1401年7月23日~1466年3月8日
出身:サン・ミニアート
没地:ミラノ
父:ムッツォ・アッテンドロ・スフォルツァ
母:ルチア・テルツィアーニ
妻:ポリッセーナ・ルッフォ
  ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ
子:トリスターノ・スフォルツァ
  ポリッセーナ・スフォルツァ
  スフォルツァ・セコンド・スフォルツァ
  ドルシアーナ・スフォルツァ
  ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ
  イッポーリタ・ディ・フランチェスコ・スフォルツァ
  フィリッポ・マリーア・スフォルツァ
  スフォルツァ・マリーア・スフォルツァ
  ルドヴィーコ・イル・モーロ
  アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ
  オッタヴィアーノ・マリーア・スフォルツァ

概要

 フランチェスコ1世・スフォルツァは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

年表

1401年7月23日
サン・ミニアートのチゴリにて、生。
1425年
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティと傭兵契約を結び、その旗下に入る。
1427年10月12日
ニッコロ・ピッチニーノら歴戦の傭兵隊長と共にフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍を率いるが、そのため統制が取れないことも手伝い、フランチェスコ・ブッソーネ総指揮のヴェネツィア軍に、この日ブレッシャ領内Maclodioで惨敗。
1430年5月~1430年6月
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティから、ヴィスコンティとの傭兵契約が切れたためナポリ領内の自領に帰るとの口実の下で軍を率いてトスカーナに入り、ルッカを救援するよう指示される。
1430年7月
4千5百の兵と共にトスカーナに入り、各地を占領しながらルッカに至る。このためフィレンツェ軍、ルッカ包囲網を大幅に後退させる。
敵し得ないと判断したフィレンツェ共和国は、多額の資金の提供を条件に撤兵を提案、懇願。これを受け、ルッカをルッカ人の手に戻さないことを約して撤兵。
1431年5月22日~1431年5月23日
クレモーナ近郊のポー川で、ニッコロ・ピッチニーノらとフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍を指揮し、ヴェネツィア軍と大激戦、大勝する。
ヴェネツィア軍総指揮官フランチェスコ・ブッソーネは近くに陣を敷いていながらこの戦闘に駆けつけず、ヴェネツィアで、フランチェスコ・ブッソーネはフランチェスコ・スフォルツァと通謀しているのではないかとの疑念と不信広まる。
1432年2月23日
フランチェスコ・スフォルツァを自軍に固く留めておきたいフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティは、この日?自分の7歳の庶出の一人娘ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティとの婚約を渋々認める。
1433年11月
エウゲニウス4世の自分への対応に不満を強めてきたフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティから、ナポリ領内の自身の領地の防衛という名目で出陣しロマーニャの教会領を攻撃するよう指示される。ニッコロ・フォルテブラッチョには、ローマ近郊の攻撃を指示。
軍と共にマルケに入って各地を占領し、アンコーナを制圧。ニッコロ・フォルテブラッチョはローマ周辺を攻略。
1434年3月25日
ニッコロ・フォルテブラッチョ指揮のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍がローマの門前に迫る中で、エウゲニウス4世から、マルケを封与され、その候位を与えられると共に、教会の旗手に任命される。
1434年10月
エウゲニウス4世の逃亡後、無秩序状態が続き教皇帰還を求める動きが活発化したローマに、エウゲニウス4世の使節ジョヴァンニ・ヴィテレスキが到着し、市民に歓呼をもって迎えられる。以後ジョヴァンニ・ヴィテレスキは、教会支配の復活を準備。
1434年夏以降敗戦の続くフィレンツェ、大金を払ってフランチェスコ1世・スフォルツァと傭兵契約を交わし、彼とその軍をヴェネツィア・フィレンツェ同盟軍に加える。
ジギスムント・フォン・ルクセンブルク、16か条からなる帝国改革計画を公表して帝国諸身分の意見を求めると共に、次の帝国議会で帝国改革について議決するよう提案。
しかし、諸侯も都市の意見が対立し、帝国改革計画は実行を挙げ得ずに終わる。
1435年5月
ヴェネツィアとフィレンツェ、同盟を10年更新。
ヴェネツィア・フィレンツェ同盟のフランチェスコ1世・スフォルツァ軍とフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティニッコロ・フォルテブラッチョ軍、教会領で対決。スフォルツァ軍が完勝し、アッシジなどを制圧。ニッコロ・フォルテブラッチョは重傷を負い、間もなく死。
1437年2月
フランチェスコ1世・スフォルツァ指揮のフィレンツェ軍、ニッコロ・ピッチニーノ指揮のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍をルッカ領内Bargaで破る。
1437年9月20日
ニッコロ・ピッチニーノ指揮のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍、ロンバルディアでまたヴェネツィア軍を大破。
打ち続く敗戦でヴェネツィアの各層に総指揮官ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガの忠誠を疑う声、高まり、Senato(元老院)でその解任を求める声が出、フィレンツェフランチェスコ1世・スフォルツァの移籍を求める。
1438年4月28日
フィレンツェフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティフランチェスコ1世・スフォルツァの仲介により、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティルッカ領に小軍を留めるがそこで奪った城塞はフィレンツェに返還し、以後トスカーナには介入しないことなどで合意。ルッカもしぶしぶこれを認める。
1439年2月18日
ヴェネツィアフィレンツェロンバルディア各地で攻勢を強めるフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティに対抗するためヴェネツィアの発案により、(1)戦費の3分の2をヴェネツィア、3分の1をフィレンツェが負担し、(2)フランチェスコ1世・スフォルツァを両者の総指揮官として雇用し、(3)彼の領国を両者で確保することを改めて盟約。10日後、エウゲニウス4世ニッコロ3世・デステジェノヴァもこれに加盟。以後も各地で両陣営軍の間で激戦、続く。
1440年3月4日
1440年2月フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティが派遣したニッコロ・ピッチニーノ指揮の軍が、ボローニャに到着。間もなくトスカーナに入る。
この軍の接近の報にフィレンツェは、急ぎ軍を整えると共にヴェネツィアにはフランチェスコ1世・スフォルツァのフィレンツェ軍への復帰を、エウゲニウス4世には支援を求める。前者には無視され、後者には受託される。
1440年6月末
この頃、ロンバルディアとナポリで戦闘激化。前者ではフランチェスコ1世・スフォルツァ指揮のヴェネツィア軍がフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍を破ってブレッシャを制圧し、後者ではルネ・ダンジューアルフォンソ5世・デ・アラゴン軍の戦いが続き、アルフォンソ5世・デ・アラゴンフランチェスコ1世・スフォルツァの勢力失墜を願うフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティと結んでナポリ王国内部のフランチェスコ1世・スフォルツァの所領を占領すると共にナポリ市内を包囲。ルネ・ダンジューは急ぎエウゲニウス4世に支援を求める。
1441年8月1日
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの依頼を受けたニッコロ3世・デステの仲介により、1432年の約定通り娘ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティフランチェスコ1世・スフォルツァに与えると共に、婚資としてクレモーナを与えることで合意。
1441年8月
この月?、マントヴァ近郊カヴリアーナに使節を遣わし、フランチェスコ1世・スフォルツァは自身で赴いて、1441年8月1日の合意などにつき、エウゲニウス4世、ヴェネツィア及びフィレンツェの使節の前で協定。1441年11月20日公表。
しかし、両者の関係、フランチェスコ1世・スフォルツァに全領国の継承の可能性を匂わせながらも約定しなかったことなどにより、以後も複雑に展開。
1441年10月24/25日
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティを依然、信用しきれないフランチェスコ1世・スフォルツァは、1441年8月?のカヴリアーナでの協定の公表前に、早くもこの日クレモーナでビアンカ・マリーア・ヴィスコンティとの結婚式を盛大に挙行。
1442年1月
フランチェスコ1世・スフォルツァアルフォンソ5世・デ・アラゴンに占領された自領を奪還し、さらにナポリを制圧すべくフィレンツェとヴェネツィアから資金を得て進軍態勢を整える。
この進軍を止めたいアルフォンソ5世・デ・アラゴンと、フランチェスコ1世・スフォルツァの勢力のこれ以上の増大を止めたいフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティは、エウゲニウス4世フランチェスコ1世・スフォルツァからマルケを奪うよう働きかけ、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティニッコロ・ピッチニーノ指揮の軍を提供。
1442年3月3日
ニッコロ・ピッチニーノ指揮の軍は、ボローニャに到着。さらに南下し、フランチェスコ1世・スフォルツァの領有するトーディを占領。
エウゲニウス4世は、間もなくニッコロ・ピッチニーノ教会の旗手に任命し、アルフォンソ5世・デ・アラゴンの側に立つ。
フランチェスコ1世・スフォルツァは、ナポリ遠征を断念。
1442年11月30日
この日?、アルフォンソ5世・デ・アラゴンフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ及びニッコロ・ピッチニーノ、反フランチェスコ1世・スフォルツァ・ヴェネツィア・フィレンツェの同盟を締結。
1443年2月26日
ナポリ全土を制圧したアルフォンソ5世・デ・アラゴン、配下の主な領主たちを従え、改めてナポリ市に凱旋。
間もなく、アルフォンソ5世・デ・アラゴンニッコロ・ピッチニーノフランチェスコ1世・スフォルツァの領国マルケの攻略を目指して共に戦うことで合意。
1443年6月14日
フランチェスコ1世・スフォルツァからマルケを奪還するためにアルフォンソ5世・デ・アラゴンを利用したいエウゲニウス4世と、フランチェスコ1世・スフォルツァ追討に加えてエウゲニウス4世からのナポリの正式封与を実現したいアルフォンソ5世・デ・アラゴンアルフォンソ5世・デ・アラゴンエウゲニウス4世を正統な教皇と認め、エウゲニウス4世アルフォンソ5世・デ・アラゴンを正統なナポリ王と認めること、などを協定。
間もなくフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティは、エウゲニウス4世にマルケ攻撃のための援軍を送る。
1443年8月~1443年9月
ナポリアルフォンソ5世・デ・アラゴンの軍とニッコロ・ピッチニーノ指揮の教会軍、マルケを攻撃し、フランチェスコ1世・スフォルツァを圧倒してフェルモ、アスコリ、Rocca Contrada(現アルチェーヴィア)などを除くほぼ全域を制圧。
1443年9月8日
マルケにおけるフランチェスコ1世・スフォルツァ軍のあまりの劣勢を見、フランチェスコ1世・スフォルツァがマルケ全領土を失うことは自身にとっても危険だと判断したフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ、この日頃ヴェネツィアに使者を送り、ヴェネツィア及びフィレンツェと共にフランチェスコ1世・スフォルツァを支援することを提案。
他方でこの頃フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティアルフォンソ5世・デ・アラゴンにも使者を送り、フランチェスコ1世・スフォルツァ攻撃の中止を提案。
1443年10月18日
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティヴェネツィア及びフィレンツェヴェネツィアフランチェスコ1世・スフォルツァ支援の協定を締結。間もなくこれにリーミニ、ファーノ、セニガッリアの君主でフランチェスコ1世・スフォルツァの女婿、傭兵隊長シギスモンド・マラテスタ(1417年~1468年:リーミニの君主在位1429年~1468年:ファーノ・セニガッリアの君主1429年~1463年)も加わる。
1443年11月8日
ヴェネツィア及びフィレンツェからの援軍で増強されたフランチェスコ1世・スフォルツァ軍は、ペーザロとリーミニの間にあったニッコロ・ピッチニーノ指揮の教皇軍を襲撃して大破。間もなくマルケに進撃。
1444年8月半ば
エウゲニウス4世自身とアルフォンソ5世・デ・アラゴンから兵と資金を得て増強されながらも指揮官ニッコロ・ピッチニーノフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティによりミラノに呼び戻されたため、その子フランチェスコ・ピッチニーノ(?~1449年)が指揮を執る教会軍、モントルモでフランチェスコ1世・スフォルツァ軍の攻撃を受け、完敗。
フランチェスコ1世・スフォルツァ軍の反撃、続く。
1444年10月10日
エウゲニウス4世、ヴェネツィア及びコジモ・イル・ヴェッキオの推奨と仲介によりフランチェスコ1世・スフォルツァと和を結び、アンコーナ、オージモ、レカナーティ及びファブリアーノを除くマルケ全域を封与してフランチェスコ1世・スフォルツァをその候と認める。しかし両者の関係、以後も曲折を経て複雑に展開。
1444年10月15/16日
ニッコロ・ピッチニーノ、子フランチェスコ・ピッチニーノが自分の宿敵フランチェスコ1世・スフォルツァに完敗との報に接した後、ミラノ近郊クザーゴで死(1386年~)。
1445年8月10日
アスコリがフランチェスコ1世・スフォルツァの支配に反乱を起こし、教会の支配を受容。
エウゲニウス4世アルフォンソ5世・デ・アラゴンはマルケ奪還、制圧の好機と見て大軍をマルケに送り始め、これに呼応してフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティも軍を送ってフランチェスコ1世・スフォルツァを挟撃する態勢をとる。
1445年10月半ば~1445年11月
1445年10月15日Rocca Contradaが、1445年11月20/26日フェルモが、フランチェスコ1世・スフォルツァの支配に反乱を起こし、エウゲニウス4世アルフォンソ5世・デ・アラゴン軍を受け入れるなど、フランチェスコ1世・スフォルツァの支配、マルケ全域で動揺。
1445年11/12月
フランチェスコ1世・スフォルツァ、自らフィレンツェに赴き、コジモ・イル・ヴェッキオら首脳に援助を求め、多額の軍資金を得る。
1445年
ガレアッツォ・マラテスタからペーザロを2万フィオリーノで購入。弟で、ガレアッツォ・マラテスタの姪の夫アレッサンドロ・スフォルツァに封土として与える。
1446年5月初め
フランチェスコ1世・スフォルツァ、娘ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティの婚資としてフランチェスコ1世・スフォルツァに与えたクレモーナを奪うべく、フランチェスコ・ピッチニーノルイジ・ダル・ヴェルメ指揮の軍を送る。
これを知ったヴェネツィアは、フランチェスコ1世・スフォルツァに抗議の使者を送るが無視され、ミケーレ・アッテンドロ(1390年以前~1451年)指揮の軍をクレモーナ防衛に送る。
1446年11月6日
クレモーナ周辺からフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍を掃討したヴェネツィア軍、ソンチーノとカラヴァッジョを押さえた後アッダ河を渡り、迎撃してきたフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍を再び大破し、ミラノ城門近くに迫るが程なく撤退。
しかしマルケでのフランチェスコ1世・スフォルツァの劣勢、なお顕著となる。
1447年1月
1446年秋以降、窮地に立たされたフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティフランチェスコ1世・スフォルツァに支援を懇請し、フランチェスコ1世・スフォルツァも支援の条件についての協議に応ずる姿勢を示す。
1447年3月4日
フランチェスコ1世・スフォルツァフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティへの接近の動きに不信を募らせ、両者が結んだ場合はフランチェスコ1世・スフォルツァからクレモーナを奪うことでフィレンツェと合意していたヴェネツィア、この日、クレモーナにミケーレ・アッテンドロ指揮の軍を送る。
1447年3月6日
枢機卿トンマーゾ・パレントゥチェリ(1397年~1455年:在位1446年~1447年)、教皇に即位し、ニコラウス5世を名乗る(在位1447年~1455年)。
ニコラウス5世、直ちに、ヴェネツィア、フィレンツェフランチェスコ1世・スフォルツァフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティアルフォンソ5世・デ・アラゴンらに和平を提唱。
1447年3月
1445年来のマルケでの劣勢、窮地に支援を与えようとしないヴェネツィアに不満を強めていたフランチェスコ1世・スフォルツァ、1447年のヴェネツィアの動きに不信を募らせ、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティと、(1)ヴェネツィアと同額の傭兵契約金を支払うこと、(2)ミラノの軍総司令官の称号を与えること、を認めさせてヴェネツィア・フィレンツェ同盟陣営を離れ、明確にフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの側に立つ。
間もなく、自分の支配への反乱の止まないマルケ全土をニコラウス5世に返還。
1447年8月9日
フランチェスコ1世・スフォルツァペーザロを発ちフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ支援のためミラノに向かう。
1447年8月14日
ミラノの反ヴィスコンティ派有力貴族・市民、自由を叫んで反乱。ジョルジョ・ランプニャーニ、アントーニオ・トリヴルツィオInnocenzo CottaTeodoro Bassiらを中心に臨時政府を樹立。
1447年8月15日
ミラノに向かっていたフランチェスコ1世・スフォルツァ、ファエンツァ近郊コティニョーラでフェッラーラ候レオネッロ・デステにより、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ急死の密報を得る。
1447年8月18日
内部で君主政維持派と共和政樹立派の対立していたミラノ臨時政府は、後者の優勢下でアンブロジアーナ共和国の樹立を宣言(~1450年)。
しかしこの頃フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ死の報が広まるに連れ、領内のコモ、アレッサンドリア、ノヴァーラ、パルマ、トルトーナなどの都市がミラノへの服属を拒否して独立の動きを見せ、領国解体の兆しが見え始める。
この混乱を好機としてヴェネツィアはローディ、ピアチェンツァなどを配下に入れ、さらに広くミラノ領を制圧する気配を見せる。
フランチェスコ1世・スフォルツァは無論アルフォンソ5世・デ・アラゴンフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティから後継者として指名するとの遺言を得ていたとしてミラノの制圧を狙い、加えてサヴォイア公ルドヴィーコ・ディ・サヴォイアフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの寡婦マリーア・ディ・サヴォイアが自分の妹であることを、シャルル1世・ド・ヴァロワ(1394年~1465年:オルレアン公在位1407年~1465年)は自分の母ヴァレンティーナ・ディ・ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ(1366年~1408年)がフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの姉であることを、モンフェッラート候ジョヴァンニ(?~1465年:在位1445年~1465年)はサヴォイア公ルドヴィーコ・ディ・サヴォイアの娘マルゲリータ・ディ・サヴォイア(1439年~1483年)が妻であることを理由にそれぞれミラノの継承権を主張。
1447年8月~1447年9月
ミラノアンブロジアーナ共和国は、ヴェネツィアに和平を提案して一蹴され、軍と共にクレモーナにあったフランチェスコ1世・スフォルツァに軍総司令官として共和国の自由の擁護に当たるよう要請。密かにミラノ制覇を狙うフランチェスコ1世・スフォルツァ、共和国への恭順の意を表し、その要請を受け入れる。
直ちにフランチェスコ1世・スフォルツァ、故フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの配下のフランチェスコ・ピッチニーノヤコポ・ピッチニーノ(1423年~1465年)兄弟を味方につけ、その軍を自軍に加える。
1447年10月初め
フランチェスコ1世・スフォルツァ総指揮のアンブロジアーナ共和国軍は、ヴェネツィアの制圧下のピアチェンツァを水陸両面から包囲。
1447年11月16日
フランチェスコ1世・スフォルツァ総指揮のミラノアンブロジアーナ共和国軍、水陸両面からピアチェンツァに激しい攻撃を加え、制圧。市内に突入し略奪、蛮行の限りを尽くす。
1448年春~夏
フランチェスコ1世・スフォルツァは自分たちの軍資金を用いてヴェネツィアを撃退した後は自分たちを配下に置こうとしているとの不信を拭いきれないミラノアンブロジアーナ共和国、ヴェネツィアに繰り返し和議を申し入れるが、ヴェネツィアは巧みにこれを拒絶。
のみならずヴェネツィアは、マントヴァ候ルドヴィーコ3世・ゴンザーガの援軍などを加えて増強した軍をもってミラノ領に未曾有の大攻勢をかけ、フランチェスコ1世・スフォルツァ総指揮のアンブロジアーナ共和国軍と各地で激戦を続ける。
1448年7月16日
フランチェスコ1世・スフォルツァ総指揮のアンブロジアーナ共和国軍、カザルマッジョーレでヴェネツィア軍を破り撃退。
1448年7月29日
勢いづくフランチェスコ1世・スフォルツァ、自軍にカラヴァッジョを包囲させる。
1448年9月14~15日
カラヴァッジョで1448年8月15日及び1448年8月30日と激戦を繰り返したフランチェスコ1世・スフォルツァ総指揮のアンブロジアーナ共和国軍とヴェネツィア軍、この日の明け方、3度目の激戦の後、フランチェスコ1世・スフォルツァが大勝利を収める。
しかしフランチェスコ1世・スフォルツァアンブロジアーナ共和国フランチェスコ1世・スフォルツァは自分にヴェネツィアと戦わせながらそのヴェネツィアに和議を申し入れてきたアンブロジアーナ共和国に、アンブロジアーナ共和国は自分たちへの支配欲を抱き続けるフランチェスコ1世・スフォルツァに、それぞれ不信を強める。
1448年10月18日
アンブロジアーナ共和国への不信を強めるフランチェスコ1世・スフォルツァ、ヴェネツィアが軍を格段に増強しさらにフィレンツェからの援軍を得るかもしれないと知り、ヴェネツィアに密使を送って折衝し、この日、(1)自分はヴェネツィアにブレッシャ領を譲り、(2)その他のミラノ領はヴェネツィアの軍と資金を得て自分が獲得、支配することを協定。
以後フランチェスコ1世・スフォルツァアンブロジアーナ共和国を捨て、ヴェネツィアの軍と資金をもってミラノ領の制圧を精力的に進める。
1448年12月
フランチェスコ1世・スフォルツァ、フィレンツェに使節を送り、シニョーリア及びコジモ・イル・ヴェッキオに資金援助を要請。翌1449年にかけて両者から、ことにコジモ・イル・ヴェッキオから多額の資金を得る。以後もコジモ・イル・ヴェッキオは、彼への支援を続ける。
1449年4月初め
この頃、フランチェスコ1世・スフォルツァ配下にあったフランチェスコ・ピッチニーノヤコポ・ピッチニーノ兄弟は、自軍と共にアンブロジアーナ共和国の陣に移り、大歓迎を受ける。
1449年9月29日
アンブロジアーナ共和国とヴェネツィア、アンブロジアーナ共和国はベルガモ、ブレッシャ、トレヴィーリオおよびカザルマッジョーレを領有し、ヴェネツィアはアンブロジアーナ共和国が自由を保持しつつローディ、コモ及びアッダ河以北のミラノ全土を保持すること、フランチェスコ1世・スフォルツァにノヴァーラ、アレッサンドリア、パヴィア、クレモーナ及びパルマのみの領有を認めることを協定。
フランチェスコ1世・スフォルツァはこれを認めず、アンブロジアーナ共和国とヴェネツィア両者への戦闘態勢を取る。
1449年10月20日
フランチェスコ1世・スフォルツァ軍は、単独でアンブロジアーナ共和国への攻撃、兵糧攻めの態勢を取る。
1449年12月28日
この日頃、フランチェスコ1世・スフォルツァ軍、ヴェネツィア軍がアンブロジアーナ共和国支援のために送ったシギスモンド・マラテスタ指揮の軍を撃破。
1449年12月末
フランチェスコ1世・スフォルツァ、ミラノ継承請求者の一人ルドヴィーコ・ディ・サヴォイアと和をもって後方の安全を確保した上でミラノ包囲、兵糧攻め態勢を固め狭めようと図る。
1450年1月20日
この日までにフランチェスコ1世・スフォルツァ、ミラノの包囲、兵糧攻めをますます狭める一方、ルドヴィーコ・ディ・サヴォイアと、パヴィア、アレッサンドリア及びノヴァーラの城塞を譲ることなどを約して協定し、後方の安全を確保。
1450年2月26日
アンブロジアーナ共和国で極度の飢餓に耐えかねた市民は、反乱を起こし、フランチェスコ1世・スフォルツァを公と呼ぶことを決める。直ちに代表者が、近郊にあったフランチェスコ1世・スフォルツァのもとに向かう。アンブロジアーナ共和国、崩壊(1447年~)。
ミラノの代表がまず協定の締結を求めるのを押さえてフランチェスコ1世・スフォルツァ、市内への食糧の搬入を指示すると共に自らはミラノに向かい、市内に入る。市民の大歓呼をもって迎えられる。
1450年3月25日
フランチェスコ1世・スフォルツァ、妻ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ、子ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ(1444年~1476年:ミラノ公在位1466年~1476年)及び弟、ペーザロの君主アレッサンドロ・スフォルツァ(1409年~1473年:在位1445年~1473年)を伴い、改めてミラノに入城。市民の大歓声の中、正式にミラノ公位に就く(在位~1466年)。
この就任式典に、フランチェスコ1世・スフォルツァを支援してきたフィレンツェを初め、ヴェネツィアとアルフォンソ5世・デ・アラゴンを除くイタリアの主な都市、君侯の祝賀使節が参列。
ヴェネツィア・フィレンツェ同盟、事実上、破れ(1425年~)、両国は同盟関係の全面的転換を図る。
1451年12月
フィレンツェ、フランチェスコ1世・スフォルツァ、ジェノヴァ及びマントヴァ候ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ、同盟を締結。さらにフランス王シャルル7世に、対ヴェネツィア戦終結後はルネ・ダンジューの対アルフォンソ5世・デ・アラゴン戦、ナポリ奪還を支援することなどを挙げて同盟加入を働きかける。
1452年2月21日
シャルル7世、1451年12月以来のフィレンツェの呼びかけに応じ、(1)フィレンツェがその対ヴェネツィア戦争終了後ルネ・ダンジューの対アルフォンソ5世・デ・アラゴン戦、ナポリ奪還に協力することを条件にフィレンツェ・フランチェスコ1世・スフォルツァ・ジェノヴァ・マントヴァ同盟に加わり、(2)自分の対イングランド戦終了後ルネ・ダンジュー軍をイタリアに送ることを約束。1452年4月9日公表。
1452年3月15/16日
フリードリヒ3世フランチェスコ1世・スフォルツァの反対の意を無視したニコラウス5世によりローマのサン・ピエトロ大聖堂でロンバルディア王の冠を受け、3日後(1452年3月18/19日)神聖ローマ皇帝の冠を受ける。ローマで戴冠の最後の皇帝となる。
1452年5月16日
ヴェネツィアとその同盟者は、フランチェスコ1世・スフォルツァに宣戦し、ローディ方面から攻撃を始める。
1452/1453年
メディチ銀行、ミラノ公フランチェスコ1世・スフォルツァの求めによりミラノに支店を開設。
1454年1月初め
ルネ・ダンジューは、イタリアでの生活に絶えられず、フランチェスコ1世・スフォルツァに申し出た上、軍と共にフランスに帰る。来るべき春にルネ・ダンジュー軍を加えてヴェネツィアに総反撃をとの企図崩れる。
1454年4月9日
ローディの和ニコラウス5世の召集したイタリア諸国、諸君主の和平交渉がローマで続けられながらも成果を得られないでいる中、ニコラウス5世の使節アウグスティヌス会修道士シモーネ・ダ・カメリーノの精力的な仲介によってフランチェスコ1世・スフォルツァとヴェネツィアの交渉が妥結し、この間の戦争で奪い合った領地を相互に返還すること、各自の同盟者をこの同意に加えていくことなどを、コジモ・イル・ヴェッキオフィレンツェ首脳を除く他の戦争当事者も存知するに至らない内、この日ローディで協定。5日後、フィレンツェが加入すると共に、この和が公表される。
突然、和平の成立を知らされたアルフォンソ5世・デ・アラゴン、これに加わることを強く拒否し、戦闘継続を宣言。
1454年8月30日
イタリア同盟:1454年4月9日のローディの和による和平の更なる強化をフィレンツェの支援の下で試みてきたフランチェスコ1世・スフォルツァ、この日、自身とフィレンツェとヴェネツィアによる25年間の同盟をヴェネツィアで締結することに成功。さらにこの同盟への加盟をイタリア各国、各権力者に求める。ボルソ・デステおよびサンテ・ベンティヴォーリオが直ちに加盟。
間もなくニコラウス5世は、このイタリア同盟に加盟。さらに使節として枢機卿ドメニコ・カプラーニカ(1400年~1458年:在位1430年~1458年)をアルフォンソ5世・デ・アラゴンの元に送り、ヴェネツィア、フィレンツェなどの使節と共に、同盟への加盟を強く勧奨、説得させる。
1456年
フランチェスコ1世・スフォルツァ、1455年10月4日までに娘イッポーリタ・ディ・フランチェスコ・スフォルツァ(1445年~1488年)とアルフォンソ5世・デ・アラゴンの庶子フェッランテ・ダラゴーナの子アルフォンソ2世・ダラゴーナ(1448年~1495年:ナポリ王1494年~1495年)の結婚を整えた(1465年結婚)のに続き、この年、第三子スフォルツァ・マリーア・スフォルツァ(1451年~1479年:バーリ公在位1464年~1479年)とフェッランテ・ダラゴーナの娘エレオノーラ・ダラゴーナを結婚させ、ナポリとの連携を強める。
ミラノ、ナポリの二大権力結合の動きにカリストゥス3世初めヴェネツィア、フィレンツェなど諸国、諸権力者は強い懸念を抱く。
1458年7月14日
カリストゥス3世ナポリは正統継承権を欠きその支配領は全て教会の属すると宣言すると共にナポリ領民にフェッランテ・ダラゴーナへの一切の忠誠誓約を禁ずる勅書を発する。同時に、イタリア諸国、諸権力者にフェッランテ・ダラゴーナに対して戦うよう呼びかける。
しかしアンジュー家及びフランス王家のナポリへの野心を警戒するフランチェスコ1世・スフォルツァが勅書への不同意を宣言したのに続き、コジモ・イル・ヴェッキオフェッランテ・ダラゴーナナポリ王位継承を承認。
1458年8月1日
ピッティらメディチ派、1434年9月以来召集されたことのないパルラメントを利用してのバーリアを設置、バーリアによる共和政の変改、の強硬手段を取る方途を選び、この日、プラティカ(特別諮問会議)でパルラメントの召集、開催を辛うじて認めさせる。
表面的には常に中立的態度を取り続けメディチ派内部で不満さえ抱かれていたコジモ・イル・ヴェッキオは、この日のプラティカの開催に先立ち、朝、フランチェスコ1世・スフォルツァの使節と極秘裏に会い、不測の事態の際のフランチェスコ1世・スフォルツァの軍事的支援について打診。
1458年8月10日
フランチェスコ1世・スフォルツァからコジモ・イル・ヴェッキオに、でき得る限りの軍事的支援を惜しまないとの返書、届く。
1459年4月25日
マントヴァに向かうピウス2世、フィレンツェ市内に入り、富を尽くした大歓迎を受ける。
滞在中、リーミニのシギスモンド・マラテスタら諸君主にまじりフランチェスコ1世・スフォルツァの長子ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが騎兵350を率いて表敬に現われ、以後マントヴァまでピウス2世を先導。
1459年9月26日
1459年9月半ば過ぎ再三の招請に応えてフランチェスコ1世・スフォルツァがようやくマントヴァに現われたのに続き、イタリアの大小の君主ないしはその使節及びヴェネツィア、フィレンツェ、シエナ、ボローニャ、フェッラーラなどの使節が到着し、この日、開会宣言後3ヵ月半余を経てようやくキリスト教君主会議第一回会議を開催。
冒頭ピウス2世、オスマン・トルコに対するキリスト教世界の防衛を熱烈に訴え、その聖戦の遂行を決議させる。
1459年10月3日
フランチェスコ1世・スフォルツァは、マントヴァを去る。
1460年1月
ナポリ全土でアンジュー家系領主の反乱、発生。窮地に立たされたフェッランテ・ダラゴーナ、以後ヴェネツィア、フィレンツェなどイタリア同盟(1454年)諸国に支援を求める。しかし両国ともシャルル7世との対決を回避すべく中立を保持。対オスマン・トルコ聖戦への参加、協力を拒み続けるシャルル7世に敵対心を募らせるピウス2世と、シャルル7世のイタリアにおける勢力拡大がシャルル1世・ド・ヴァロワの自領ミラノへの要求を復活させることを恐れるフランチェスコ1世・スフォルツァは、援軍を派遣。
1460年7月7日
ピウス2世及びフランチェスコ1世・スフォルツァからの援軍を含むフェッランテ・ダラゴーナ指揮の軍、ジャン・ダンジュー指揮の軍とナポリ近郊サルノで激戦の後、完敗。フェッランテ・ダラゴーナは辛うじてナポリ市内に逃げ帰る。
1460年7月22/27日
この日頃、フランチェスコ1世・スフォルツァの弟アレッサンドロ・スフォルツァ及びウルビーノ・モンフェッラート伯フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ(1422年~1482年:在位1444年~1474年)の指揮するフェッランテ・ダラゴーナ軍と傭兵隊長ヤコポ・ピッチニーノ指揮のジャン・ダンジュー軍、ナポリ領北部アブルッツォのジュリアノーヴァ近郊サン・ファブリアーノで激戦を交わす。勝敗の決着着かぬまま、フェッランテ・ダラゴーナ軍退却。
間もなく、ジャン・ダンジュー軍の総指揮官ヤコポ・ピッチニーノは教会領攻撃に向かい、ローマ近郊リエティに到着。ローマに不安、募る。
1461年3月12日
プロスペロ・アドルノが、ジェノヴァのドージェに選出される。
パオロ・フレゴーソ、自らミラノに赴いてフランチェスコ1世・スフォルツァに支援を求め、ジェノヴァからシャルル7世の勢威を排したいフランチェスコ1世・スフォルツァから十分な支援の約束を得る。
1461年7月前半
シャルル7世の送った軍が陸路、ルネ・ダンジュー指揮の水軍が海路ジェノヴァに到着し、総攻撃。フランチェスコ1世・スフォルツァ軍と共にジェノヴァ市民、反撃。
1461年7月17日
フランチェスコ1世・スフォルツァから新たに支援の将軍3名が到着してフランチェスコ1世・スフォルツァの全面支援を信じたパオロ・フレゴーソ・プロスペロ・アドルノ指揮のジェノヴァ市民、総反撃しフランス軍を撃退。シャルル7世のジェノヴァ支配、事実上、終わる(1458年~1461年)。
間もなくフレゴーソ、アドルノ両家の対立、激化。前者が主導権を握り、元ドージェ(在位1448年~1450年)ルドヴィーコ・フレゴーソ(1406年頃~1489年)がドージェに復帰(在位1461年~1463年)。
1462年5月~1462年6月
フレゴーソ家陣営の内紛などで混乱:1462年5月15日、ルドヴィーコ・フレゴーソに代わってドージェとなったパオロ・フレゴーソ、1462年6月8日、ルドヴィーコ・フレゴーソに取って代わられる。
フランチェスコ1世・スフォルツァは、止むことのないこの混乱に乗じてジェノヴァを制する機を窺う。
1463年12月22日
ブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボンら諸侯の抗争に難渋するルイ11世は、フランチェスコ1世・スフォルツァの求めに応じてジェノヴァの支配権を委譲。
1464年4月13日
ドージェ・大司教パオロ・フレゴーソの恣意的圧政から生じたジェノヴァ内部の粉砕、混乱に乗じてその不満派と呼応しながら軍を送っていたフランチェスコ1世・スフォルツァ、この日頃までに、ジェノヴァの事実上の支配権を掌握。パオロ・フレゴーソとその一派は船で逃亡。
1465年6月24日
フェッランテ・ダラゴーナ軍の総指揮官に任じられ(1463年)ながらもその意図に不安と恐れを抱いて、1464年ミラノに入り、フランチェスコ1世・スフォルツァに保護を求め、その庶出の娘ドルシアーナ・スフォルツァ(1437年~1474年)を得ていた(1464年8月14日~)ヤコポ・ピッチニーノは、彼の勧めに従って1465年5月ナポリに帰りフェッランテ・ダラゴーナの大歓迎を受けていたが、この日、カステル・ヌオーヴォで扼殺される。フェッランテ・ダラゴーナフランチェスコ1世・スフォルツァによる謀殺と広く信じられる。
1466年3月8日
ミラノにて、死。長子ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ、ミラノ公となる。
1466年3月
シニョーリアは、フランチェスコ1世・スフォルツァの弔問使節をミラノに派遣。故コジモ・イル・ヴェッキオによるフランチェスコ1世・スフォルツァのミラノ制圧(1450年)過程での支援以来、最大の同盟者だったフランチェスコ1世・スフォルツァの死により、ピエロ・イル・ゴットーソは領外の最強の支柱を失う。

在位

 教会の旗手 1434年3月25日~1442年、1455年頃
 第4代ミラノ公 1450年3月25日~1466年3月8日
  先代:フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ
  次代:ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ
 パヴィア伯 1450年~1466年
  先代:フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ
  次代:フィリッポ・マリーア・スフォルツァ

献呈された著作

 フィラレテ著『建築論

関連項目

 ローディの和
 イタリア同盟

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 歴史データベース
 Condottieri di ventura
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 kleio.org
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 RootsWeb.com
 Treccani

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『君主論』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』
 『マキアヴェリ』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『傭兵の二千年史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『ルネッサンス夜話』
 『ルネサンス百科事典』
 『ルネサンスの歴史』
 『April Blood
 『Lucretia Borgia

記載日

 2006年2月11日以前