Ferrante d'Aragona

フェッランテ・ダラゴーナ





生没
1423年6月2日~1494年1月25日
アルフォンソ5世・デ・アラゴン
グエラルドーナ・カルリーノ
イザベッラ・ディ・キアロモンテ
フアナ・ダラゴーナ
ディアーナ・グアルダート
ジョヴァンネッラ・カラッチオーロ
エンリコ・ダラゴーナ
マリーア・ダラゴーナ
アルフォンソ2世・ダラゴーナ
エレオノーラ・ダラゴーナ
フェデリーコ・ダラゴーナ
ジョヴァンナ・ダラゴーナ
ジョヴァンニ・ダラゴーナ
ベアトリーチェ・ダラゴーナ
フランチェスコ・ダラゴーナ
カルロ・ダラゴーナ
マリーア・チェチーリア・ダラゴーナ
ジョヴァンナ・ダラゴーナ
フェッランテ・ダラゴーナ
マリーア・ダラゴーナ
ジョヴァンナ・ダラゴーナ
アルフォンソ・ダラゴーナ
フェッランテ・ダラゴーナ
チェーザレ・ダラゴーナ
エレオノーラ・ダラゴーナ
ルクレツィア・ダラゴーナ

概要

 フェッランテ・ダラゴーナは、15世紀の男性、ナポリ王

在位

 ナポリ王 1458年~1494年

容姿

 がっしりした体格と、堂々たる顎を持つ。

性格

 見せ掛けと空惚けの技術に熟達していることで有名で、感情を露わにすることは決してなかった。
 敵対者への無慈悲なる振る舞いで知られ、敵の死体に防腐処理を施してアンジュー城の地下牢に保管していると噂された。

年表

1423年6月2日

生(1423年7月2日)。

1445年5月28日

イザベッラ・ディ・キアロモンテと結婚(1445年5月30日)。

1447年3月24日

ニコラウス5世により、ナポリ王位継承権を承認される。

1458年6月27日

アルフォンソ5世・デ・アラゴン、死。

遺言により、ナポリ王位は先にエウゲニウス4世及びニコラウス5世から正統継承者として認承された(1444年、1447年)庶出の長子フェッランテ・ダラゴーナに、アラゴン、シチリア、サルデーニャ王位は次弟ナヴァーラ王フアン2世・デ・アラゴンに継承される。

1458年7月14日

カリストゥス3世、ナポリは正統継承権を欠きその支配領は全て教会の属すると宣言すると共にナポリ領民にフェッランテ・ダラゴーナへの一切の忠誠誓約を禁ずる勅書を発する。同時に、イタリア諸国、諸権力者にフェッランテ・ダラゴーナに対して戦うよう呼びかける。

しかしアンジュー家及びフランス王家のナポリへの野心を警戒するフランチェスコ1世・スフォルツァが勅書への不同意を宣言したのに続き、コジモ・イル・ヴェッキオもフェッランテ・ダラゴーナのナポリ王位継承を承認。

1458年8月20日

まずナポリを巡る争乱を鎮めることが緊要と見てピウス2世、フェッランテ・ダラゴーナをその正統王とみなし、教皇庁における彼の使節を王国使節と見なすことに決意。

1458年10月17日

ピウス2世とフェッランテ・ダラゴーナ、それぞれの代理の間で、前者は後者にナポリを封与後者をその王に叙任すること、後者は前者に忠誠を尽くすこと、を本旨とする前者に有利な協定をローマで締結。

1459年10月5日

シャルル7世のジェノヴァ総督ジャン・ダンジューは、ナポリ王国内部のアンジュー家系領主たちの反フェッランテ・ダラゴーナの動向と呼応しつつ、この日頃、水軍を率いてナポリ湾に現われる。

1460年1月

ナポリ全土でアンジュー家系領主の反乱、発生。窮地に立たされたフェッランテ・ダラゴーナ、以後ヴェネツィア、フィレンツェなどイタリア同盟(1454年)諸国に支援を求める。しかし両国ともシャルル7世との対決を回避すべく中立を保持。対オスマン・トルコ聖戦への参加、協力を拒み続けるシャルル7世に敵対心を募らせるピウス2世と、シャルル7世のイタリアにおける勢力拡大がシャルル1世・ド・ヴァロワの自領ミラノへの要求を復活させることを恐れるフランチェスコ1世・スフォルツァは、援軍を派遣。

1460年7月7日

ピウス2世及びフランチェスコ1世・スフォルツァからの援軍を含むフェッランテ・ダラゴーナ指揮の軍、ジャン・ダンジュー指揮の軍とナポリ近郊サルノで激戦の後、完敗。フェッランテ・ダラゴーナは辛うじてナポリ市内に逃げ帰る。

1460年7月22/27日

この日頃、アレッサンドロ・スフォルツァ及びフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの指揮するフェッランテ・ダラゴーナ軍と傭兵隊長ヤコポ・ピッチニーノ指揮のジャン・ダンジュー軍、ナポリ領北部アブルッツォのジュリアノーヴァ近郊サン・ファブリアーノで激戦を交わす。勝敗の決着着かぬまま、フェッランテ・ダラゴーナ軍退却。

間もなく、ジャン・ダンジュー軍の総指揮官ヤコポ・ピッチニーノは教会領攻撃に向かい、ローマ近郊リエティに到着。ローマに不安、募る。

1461年7月2日

フェッランテ・ダラゴーナ軍、シジスモンド・マラテスタ指揮の軍とジャン・ダンジュー軍に敗れる。

この後も劣勢が続くフェッランテ・ダラゴーナ軍にアレッサンドロ・スフォルツァ指揮の援軍、到着。

1461年8月上旬

この頃?、スカンデルベグ指揮のアルバニア騎兵隊、ピウス2世の指示により対オスマン・トルコ戦からフェッランテ・ダラゴーナ支援にナポリに到着。

1462年8月14日

アンジュー陣営の支援にナポリに出撃しようとしたシジスモンド・マラテスタ、自領セニガッリアの近くでフェッランテ・ダラゴーナ陣営のフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ軍に襲撃され、完敗。

1462年8月18日

フェッランテ・ダラゴーナ及びアレッサンドロ・スフォルツァ指揮の軍、フォッジャ近郊トローイアでジャン・ダンジュー軍を撃破。

1463年8月10日

ジャン・ダンジュー陣営の敗退が続く中でその総指揮官ヤコポ・ピッチニーノは、アレッサンドロ・スフォルツァと交渉し、その非難と説得に従って、ジャン・ダンジューを離れ自軍と共にフェッランテ・ダラゴーナに従うことを約定。フェッランテ・ダラゴーナはヤコポ・ピッチニーノを自軍の総指揮官として受け入れながらも信用せず。

1465年5月

ナポリに帰ってきたヤコポ・ピッチニーノを大歓迎する。

1465年6月24日

ヤコポ・ピッチニーノ、カステル・ヌオーヴォで扼殺される。

フェッランテ・ダラゴーナとフランチェスコ1世・スフォルツァによる謀殺と広く信じられる。

1465年3月20日

イザベッラ・ディ・キアロモンテが亡くなる。

1467年1月4日

バルトロメオ・コッレオーニ指揮のフィレンツェ被追放者軍のフィレンツェ攻撃態勢を支援し続けるヴェネツィアに対し、フィレンツェ、ナポリ王フェッランテ・ダラゴーナ及びミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ、25年間の防衛同盟を結ぶ。

間もなくこの防衛同盟は、最高指揮官にフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロを据える。以後、フェッランテ・ダラゴーナは援軍を送り、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァは自ら軍を率いて戦陣に加わる。

1467年7月23日

バルトロメオ・コッレオーニ指揮のフィレンツェ被追放者軍とフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ指揮のフィレンツェ・フェッランテ・ダラゴーナ・ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ同盟軍は、イーモラ領モリネッラの近郊で激戦を交わすが決着せず。以後、両軍の戦闘、断続的に続く(1467年~68年)。

1468年10月9日

シジスモンド・マラテスタ、死。

1468年10月

パウルス2世、リーミニの教会帰属を宣言。

フェッランテ・ダラゴーナは、ロベルト・マラテスタと密議。

1469年7月

アレッサンドロ・スフォルツァ指揮の教皇軍・ヴェネツィア軍、リーミニ周辺に進撃。

これに対し、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ、フェッランテ・ダラゴーナ及びフィレンツェ、ロベルト・マラテスタに援軍を送る。

1470年12月22日

1470年8月以降、繰り返しイタリア内の和平と一致した反オスマン・トルコ行動とを説いてきたパウルス2世の主導の下、ようやく、ナポリのフェッランテ・ダラゴーナ、ミラノのガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ、モデナ・レッジョ・フェッラーラのボルソ・デステ及びフィレンツェ、ローディの和・イタリア同盟(1454年~1455年)を基にした対オスマン・トルコ共同防衛同盟を締結。

1474年11月2日

ヴェネツィア、フィレンツェのロレンツォ・イル・マニーフィコ及びミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァは、25年間の共同防衛同盟を締結。

加盟を呼びかけられるが、これに警戒心を強める。

1475年1月上旬

この頃?、シクストゥス4世とフェッランテ・ダラゴーナ、1474年のミラノ・ヴェネツィア・フィレンツェ同盟に対抗してローマで同盟を結ぶ。以後イタリアはしばらくこの二大同盟に分かれる。

1476年10月5日

フアナ・ダラゴーナと結婚。

1478年2月8日

シエナが教皇とナポリ王の同盟に加盟。

1478年4月1日

サルノで公式書簡をしたためる。1478年3月27日のヴァティカン宮殿での会合に関すること。

1478年6月25日

シクストゥス4世とフェッランテ・ダラゴーナは、ミラノのフィレンツェ支援を阻止する策の一つとして、ミラノ配下のジェノヴァに乱を起こすべくプロスペロ・アドルノにミラノに対する反乱を起こさせる。

1478年7月13日

教皇シクストゥス4世の最後通牒を携えた使者を送る。パッツィ戦争始まる。

1478年7月半ば

この頃までに、シクストゥス4世とフェッランテ・ダラゴーナは、フィレンツェに宣戦。フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ指揮の教会軍とカラブリア公アルフォンソ2世・ダラゴーナ指揮のフェッランテ・ダラゴーナ軍、モンテプルシアーノ方面からフィレンツェ領内に侵攻。なお戦闘態勢の整わないフィレンツェ軍を圧して各地の城塞を占領。

1478年8月15日

ナポリミラノ公宛書簡をしたためる。ミラノの摂政チッコ・シモネッタを罵倒する悪意に満ちた長文。

1479年1月12日

ナポリミラノ公宛書簡をしたためる。チッコ・シモネッタを罵倒する。

1479年8月10日

教皇・ナポリ軍の陣営でフィレンツェを攻撃していたルドヴィーコ・イル・モーロ、この日、突如ミラノ領トルトーナに入る。間もなくこの地を制圧、占領。

この事態にボーナ・ディ・サヴォイアは、エルコーレ1世・デステに支援を求め、エルコーレ1世・デステはフィレンツェの陣の指揮を弟シジスモンド・デステに任せてトルトーナに向かう。

エルコーレ1世・デステの突如の戦線離脱にフィレンツェ陣営が愕然としている中、教会・ナポリ軍の猛進撃が始まる。

1479年9月7日

教皇・ナポリ軍は、フィレンツェ近郊ポッジョ・インペリアーレの丘を制圧。間もなくポッジボンシも制圧。

1479年11月14日

教皇・ナポリ軍、フィレンツェ近郊Colle Valdelsaを制圧。以後、戦闘少なくなり、休戦状態に入る。

1480年3月6日

ロレンツォ・イル・マニーフィコはポッジボンシ、Colle Valdelsaなどを回復するがロマーニャの諸領を放棄し、対フィレンツェ攻撃軍を指揮してきたアルフォンソ2世・ダラゴーナに年貢を支払い、かつ両者は相互防衛、友好を維持することなどの条件で和平に合意。7日後、両者の代理人により協定書に署名される。

1482年5月3日

ヴェネツィアがフェッラーラに宣戦。ヴェネツィアにシクストゥス4世、リーミニのロベルト・マラテスタ、ジェノヴァなどが、フェッラーラにナポリのフェッランテ・ダラゴーナ、ミラノのルドヴィーコ・イル・モーロ、ウルビーノのフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ、ボローニャのジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ及びフィレンツェが加勢し、ほぼイタリア全土に戦線が拡大する。

1482年12月12日

ヴェネツィアと同盟して他のイタリア諸国と戦うことがヴェネツィアを強大化する結果に終わることを懸念するに至ったシクストゥス4世、ローマでフェッランテ・ダラゴーナ、ルドヴィーコ・イル・モーロ及びフィレンツェと20年間の講和を結ぶ。2週間後のクリスマスを期してこれを公表。

これへのヴェネツィアの加入はその意思に任せられたがヴェネツィアはこれを無視し、フェッラーラに対する戦闘を続行。

1485年6月~秋

インノケンティウス8世との対立が公然化するまでに深まる中、戦闘に備えて軍事費を調達すべく苛斂誅求を続けるフェッランテ・ダラゴーナ、アルフォンソ2世・ダラゴーナ親子への家臣及び領内諸侯の反発、反抗が強まる。

家臣や諸侯の中に反乱の陰謀があると知ったフェッランテ・ダラゴーナは、アクイラにあって陰謀を率いていると見なしたモントリオ伯ピエトロ・ダッレ・カンポネスキを謀略によって捕らえ、ナポリに連行させる。

この動きにアクイラ市民、各地の諸侯及びフェッランテ・ダラゴーナの側近ら、一斉に決起。アクイラ市民はインノケンティウス8世に特使を送り、その統治に服することを伝えて支援を求め、インノケンティウス8世の心を動かす。

1485年10月14日

インノケンティウス8世、フェッランテ・ダラゴーナ・アルフォンソ2世・ダラゴーナに宣戦布告する勅書を発す。

ルドヴィーコ・イル・モーロとフィレンツェは躊躇いながらフェッランテ・ダラゴーナ・アルフォンソ2世・ダラゴーナに与し、ヴェネツィアは積極的に教皇に与して傭兵隊長ロベルト・サンセヴェリーノをローマに派遣。両陣営、ローマ周辺で戦闘を始め、間もなくローマはナポリ陣営の軍に包囲される。

1486年8月9日

アクイラで教会支配への反乱を生じさせ、自軍をローマに迫らせるなど戦闘で優位に立ちながら、一方では密かにインノケンティウス8世との和を策してきたフェッランテ・ダラゴーナは、この日、インノケンティウス8世と、アクイラの統合はその住民の選ぶ方式に従うこと、フェッランテ・ダラゴーナは至高の存在たるインノケンティウス8世に服すること、フェッランテ・ダラゴーナに反抗した諸侯は再び彼に服すれば罪を問われないこと、など不利な状況に置かれていたインノケンティウス8世に全面的に有利な内容の和を、スペイン両王フェルナンド2世・デ・アラゴンイサベル1世・デ・カスティーリャルドヴィーコ・イル・モーロ及びフィレンツェのそれぞれの使節を証人として締結(1486年8月11日)。

1486年8月13日

フェッランテ・ダラゴーナ、サルノ伯フランチェスコ・コッポラら反乱に起こった諸侯と子息、家臣らをナポリに招待し、城内大広間に導いたところで逮捕し投獄すると共に直ちにその私財を没収。その他の反乱諸侯も各地で逮捕ないし殺害し、2~3日前の和を公然と破棄。

1486年9月末

この頃までにフェッランテ・ダラゴーナ、アルフォンソ2世・ダラゴーナの軍をアクイラに侵攻させ、教皇軍を一掃させる。

1486年10月12日

フェッランテ・ダラゴーナ、アルフォンソ2世・ダラゴーナの軍をしてアクイラの教皇総督を殺害させてアクイラの支配権を奪還し、ここでも2ヶ月前の和を公然と破棄。

1487年2月下旬

インノケンティウス8世ヴェネツィア共和国と同盟。

1487年5月11日

フェッランテ・ダラゴーナは、1486年8月奸策により捕らえられたフランチェスコ・コッポラら反乱諸侯の大部分を処刑。

1487年7月4日

フェッランテ・ダラゴーナ、Giovannni CaraccioloGeronimo Sanseverinoら反乱貴族、家臣の残りの者たちを新たに捕らえ投獄。

1489年6月30日

インノケンティウス8世により、滞納している貢税を納入しなければ破門すると宣言される。

フェッランテ・ダラゴーナはこれを無視。

1489年9月11日

インノケンティウス8世により、フェッランテ・ダラゴーナ・アルフォンソ2世・ダラゴーナ親子の反教会的言動、とりわけフェッランテ・ダラゴーナの貢税納入拒否を理由に、両名からナポリ領を没収し境界の直轄領とすると宣言される。

しかし両名はさらに反インノケンティウス8世の姿勢を強める。

1491年11月

アンジュー家ナポリ王位要求権を継承しているとして当の王位を狙うシャルル8世インノケンティウス8世との関係が親密化しつつあるとの報を得たフェッランテ・ダラゴーナは、特使ジョヴァンニ・ポンターノをローマに派遣し、インノケンティウス8世との関係改善を目指す。

1492年1月27日

インノケンティウス8世とフェッランテ・ダラゴーナの間に、ロレンツォ・イル・マニーフィコの仲介により和が成立したことがこの日の枢機卿会議で公表される。

この和でフェッランテ・ダラゴーナ、インノケンティウス8世への貢税と軍事協力、1486年から1487年に捕縛した反乱諸侯の釈放などを約しながら、ナポリ王としての正式叙任を得ることには失敗。

1492年1月

ルドヴィーコ・イル・モーロシャルル8世と防衛同盟を結ぶ。

1492年6月4日

インノケンティウス8世、フェッランテ・ダラゴーナをナポリ王に叙任しその子アルフォンソ2世・ダラゴーナを王位継承権者と認める勅書を、シャルル8世のローマ教皇庁駐在大使に反論の機会を与えずに発する。

1492年9月3日

インノケンティウス8世の死後、フィレンツェの義兄ピエロ・イル・ファトゥオのもとに身を寄せていたフランチェスケット・チーボ、父から与えられた教会領の戦略上の拠点ローマ近郊AnguillaraとCervetriを、ピエロ・イル・ファトゥオとフェッランテ・ダラゴーナの仲介と尽力により、フェッランテ・ダラゴーナの隊長でローマの反アレクサンデル6世勢力の中心であるオルシーニ一族のヴィルジーニオ・オルシーニに売却。この費用を受け持ったフェッランテ・ダラゴーナは教会領の拠点を押さえ、自分への包囲網を敷かれたと感じたアレクサンデル6世は強く警戒。

この後、ピエロ・イル・ファトゥオは、父ロレンツォ・イル・マニーフィコの方針(=フェッランテ・ダラゴーナ・アルフォンソ2世・ダラゴーナ父子とスフォルツァ家を仲介し両者の均衡を保持する)を転換し、オルシーニ家を介してフェッランテ・ダラゴーナ、アルフォンソ2世・ダラゴーナ父子の側に立つ。これに対しルドヴィーコ・イル・モーロは、一掃シャルル8世に期待し傾斜。

1493年

この頃までにアレクサンデル6世、教皇選出過程以来の自分への執拗な敵対者であるローマの貴族勢力の掃蕩を決意。これに対しオルシーニ家コロンナ家、枢機卿ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ及びフェッランテ・ダラゴーナら、結束。

1493年4月25日

アレクサンデル6世ルドヴィーコ・イル・モーロ及びヴェネツィア、ルドヴィーコ・イル・モーロとその弟、枢機卿アスカーニオ・マリーア・スフォルツァの主導により、前年のフェッランテ・ダラゴーナとピエロ・イル・ファトゥオの連携に抗すべく防衛同盟を締結。ルドヴィーコ・イル・モーロとヴェネツィアはヴィルジーニオ・オルシーニが取得したチェルヴェーテリとアングイララの奪回のための軍事負担に同意し、アレクサンデル6世の身辺警護の軍を派遣。

間もなくこの同盟にシエナのパンドルフォ・ペトルッチ、ヤコポ・ペトルッチ兄弟、フェッラーラのエルコーレ1世・デステ、マントヴァのフランチェスコ2世・ゴンザーガも加わる。

1493年5月22日

ジョヴァンニ・スフォルツァからの手紙を受け取る。ルクレツィア・ボルジアと結婚すること。

1493年6月7日

スペイン大使宛てに手紙をしたためる。教皇アレクサンデル6世の策謀に対する、スペイン王フェルナンド2世・デ・アラゴンイサベル1世・デ・カスティーリャの保護を求める。アレクサンデル6世のことを、その政治行動からではなく普段の品行から、「忌まわしい」と形容。

1493年6月12日

アレクサンデル6世は、愛人ジューリア・ファルネーゼの兄アレッサンドロ・ファルネーゼを枢機卿に指名していたが、ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿の率いる枢機卿団に反対されていた。これを支援するため、この日、反対している枢機卿たちが使えるように軍を配置する。

1493年6月15日

カプアにてジョヴァンニ・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。彼の結婚に対する祝いの言葉。

1493年6月末

フェッランテ・ダラゴーナ、次男フェデリーコ・ダラゴーナをローマに送り、シャルル8世の側からのアレクサンデル6世への工作を阻みつつアレクサンデル6世を自分の側に引き寄せるべく硬軟両様の工作を始める。その一環として子アルフォンソ2世・ダラゴーナの庶出の娘サンチャ・ダラゴーナアレクサンデル6世の末子ホフレ・ボルジアとの結婚をも提案。

この頃フェルナンド2世・デ・アラゴン、自分の叔父の娘、寡婦マリーア・エンリケスアレクサンデル6世の子、ガンディア公フアン・ボルジアとの結婚を提案。

1493年7月下旬

アレクサンデル6世ヴィルジーニオ・オルシーニ及びジュリアーノ・デッラ・ローヴェレとの和解に成功。続いて、この両者の背後にいるフェッランテ・ダラゴーナからの1493年6月の提案及びフェルナンド2世・デ・アラゴンからの同時期の提案を入れるなど、自己防衛を着々と進める。

これらにより、1493年4月のアレクサンデル6世ルドヴィーコ・イル・モーロ及びヴェネツィアなどの対ナポリ・フェッランテ・ダラゴーナ同盟、空に帰し、ルドヴィーコ・イル・モーロはさらにシャルル8世に傾斜。

1493年9月20日

アレクサンデル6世が枢機卿を任じる。イタリア及びヨーロッパの主要国、君主の配下の者がもれなく含まれていながら、フェッランテ・ダラゴーナの配下の者だけは含まれず。このため和解して2ヶ月足らずでアレクサンデル6世とフェッランテ・ダラゴーナの関係、再び悪化の兆しを見せる。

1494年1月25日

死。

肖像

関連項目

 1467年1月4日の同盟
 リーミニ攻囲戦
 対オスマン・トルコ共同防衛同盟
 The Borgias: 103, 104, 105, 106, 107, 201

別表記

 フェルナンド1世、フェルランド、フェルディナンド1世、フェランテ、Ferrando

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 歴史データベース
 Famille de Carné
 Genealogy.EU
 kleio.org
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 THE BORGIAS wiki
 Treccani

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ボルジア家の黄金の血』
 『マキァヴェッリ 忘恩、運命、野心、好機』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『傭兵の二千年史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの歴史』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2022年4月29日