——Alfonso II d'Aragona——
アルフォンソ2世・ダラゴーナ
生没年:1448年11月4日〜1495年12月18日
在位:ナポリ王 1494年〜1495年
    先代:フェッランテ・ダラゴーナ
    次代:フェッランディーノ・ダラゴーナ
父:フェッランテ・ダラゴーナ
母:イザベッラ・ディ・キアロモンテ
妻:イッポーリタ・スフォルツァ
女:トルージア・ガッツェッラ
子:フェッランディーノ・ダラゴーナ
  イザベッラ・ダラゴーナ
  サンチャ・ダラゴーナ
  アルフォンソ・ダラゴーナ
記載日:2006年10月27日以前

年表
 1456年 フランチェスコ1世・スフォルツァ、1455年10月4日までに娘イッポーリタ・スフォルツァ(1445年〜1488年)とアルフォンソ5世・ダラゴーナの庶子フェッランテ・ダラゴーナの子アルフォンソ2世・ダラゴーナ(1448年〜1495年:ナポリ王1494年〜1495年)の結婚を整えた(1465年結婚)のに続き、この年、第三子スフォルツァ・マリーア・スフォルツァ(1451年〜1479年:バーリ公在位1464年〜1479年)とフェッランテ・ダラゴーナの娘エレオノーラ・ダラゴーナを結婚させ、ナポリとの連携を強める。
      ミラノ、ナポリの二大権力結合の動きにカリストゥス3世初めヴェネツィア、フィレンツェなど諸国、諸権力者は強い懸念を抱く。
 1478年7月半ば この頃までに、シクストゥス4世フェッランテ・ダラゴーナは、フィレンツェに宣戦。フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ指揮の教会軍とカラブリア公アルフォンソ2世・ダラゴーナ指揮のフェッランテ・ダラゴーナ軍、モンテプルシアーノ方面からフィレンツェ領内に侵攻。なお戦闘態勢の整わないフィレンツェ軍を圧して各地の城塞を占領。
 1478年7月半ば頃までに 教皇シクストゥス4世ナポリフェッランテ・ダラゴーナは、フィレンツェに宣戦。
               フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ指揮の教会軍とカラブリア公アルフォンソ指揮のナポリ軍は、モンテプルシアーノ方面からフィレンツェ領内に侵攻。まだ戦闘態勢の整わないフィレンツェ軍を圧して各地の城塞を占領。

 1479年9月20〜22日 シクストゥス4世、自陣の指揮官カラブリア公アルフォンソ2世・ダラゴーナフェデリーゴ・ダ・モンテフェルトロへの書簡で、ロレンツォ・イル・マニーフィコのフィレンツェからの追放をこれまでにも増して強く主張。
 1479年12月4日 ピサでロレンツォ・イル・マニーフィコ宛書簡をしたためる。ガレー船2隻の準備ができたのでいつでもナポリに向けて出港可能だと伝える。

 1480年3月6日 ロレンツォ・イル・マニーフィコはポッジボンシ、Colle Valdelsaなどを回復するがロマーニャの諸領を放棄し、対フィレンツェ攻撃軍を指揮してきたアルフォンソ2世・ダラゴーナに年貢を支払い、かつ両者は相互防衛、友好を維持することなどの条件で和平に合意。7日後、両者の代理人により協定書に署名される。
           ほぼ手中にしたと思っていた対ロレンツォ・イル・マニーフィコ・フィレンツェ戦の勝利を彼の姿勢の急変により逃したシクストゥス4世は、フェッランテ・ダラゴーナロレンツォ・イル・マニーフィコの和平協定に不満と怒りを露にしながらも、単独では戦うことができないため沈黙を余儀なくされる。以後シクストゥス4世は、ようやくオスマン・トルコ対策に意を向ける。

 1481年5月3日 マホメッド2世、死。子バヤジット2世(1447年頃〜1512年)、オスマン・トルコのスルタンとなる(在位1481年〜1512年)。
           バヤジット2世と弟ジェーム(1459年〜1495年)との激しい後継争いのため弱体化したオトラントのオスマン・トルコ陣営を、未だその原因を知らぬカラブリア公アルフォンソ2世・ダラゴーナ軍・教皇軍、ジェノヴァ軍、激しく攻撃し始める。
 1481年8月10日/9月10日 オトラントのオスマン・トルコ軍、降伏。アルフォンソ2世・ダラゴーナ、オトラントを再占領。

 1482年8月15〜20日 ロベルト・マラテスタ指揮の教皇軍・ヴェネツィア軍とカラブリア公アルフォンソ2世・ダラゴーナ指揮のフェッラーラ加勢軍、ローマ近郊ヴェッレトリの山地Campomortoで激戦。教皇軍・ヴェネツィア軍の完勝に終わる。しかし数日後、指揮官ロベルト・マラテスタ死(毒殺か?:1440年/1441年〜)。

 1484年11月21日 教皇インノケンティウス8世、イタリア及びヨーロッパの諸国、諸権力者に対し、対オスマン・トルコ問題に関する全権大使をローマに送るよう勅書を発する。
            しかしすでにフェッランテ・ダラゴーナ及びアルフォンソ2世・ダラゴーナとの対立が深まり始め、教皇はこのナポリ問題に最大の関心を払い始める。

 1485年2月28日 1484年秋以降フェッランテ・ダラゴーナ及びアルフォンソ2世・ダラゴーナとの関係が悪化し、彼らに対抗する同盟相手を求めてきたインノケンティウス8世、前教皇シクストゥス4世によるヴェネツィアの聖務禁止処分(1483年)を解くとの勅書を発す。ヴェネツィアもこれを歓迎し、教皇に恭順の意を表する使節団を派遣。
 1485年6月〜秋 インノケンティウス8世との対立が公然化するまでに深まる中、戦闘に備えて軍事費を調達すべく苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)を続けるフェッランテ・ダラゴーナアルフォンソ2世・ダラゴーナ親子への家臣及び領内諸侯の反発、反抗が強まる。
           家臣や諸侯の中に反乱の陰謀があると知ったフェッランテ・ダラゴーナは、アクイラにあって陰謀を率いていると見なしたモントリオ伯ピエトロ・ダッレ・カンポネスキを謀略によって捕らえ、ナポリに連行させる。
           この動きにアクイラ市民、各地の諸侯及びフェッランテ・ダラゴーナの側近ら、一斉に決起。アクイラ市民はインノケンティウス8世に特使を送り、その統治に服することを伝えて支援を求め、インノケンティウス8世の心を動かす。
 1485年10月14日 フェッランテ・ダラゴーナアルフォンソ2世・ダラゴーナに宣戦布告する勅書を発す。
            ルドヴィーコ・イル・モーロとフィレンツェは躊躇いながらフェッランテ・ダラゴーナアルフォンソ2世・ダラゴーナに与し、ヴェネツィアは積極的に教皇に与して傭兵隊長ロベルト・サンセヴェリーノ(1418年〜1487年)をローマに派遣。両陣営、ローマ周辺で戦闘を始め、間もなくローマはフェッランテ・ダラゴーナアルフォンソ2世・ダラゴーナ陣営の軍に包囲される。

 1486年9月末 この頃までにフェッランテ・ダラゴーナアルフォンソ2世・ダラゴーナの軍をアクイラに侵攻させ、教皇軍を一掃させる。
 1486年10月12日 フェッランテ・ダラゴーナアルフォンソ2世・ダラゴーナの軍をしてアクイラの教皇総督を殺害させてアクイラの支配権を奪還し、ここでも2ヶ月前の和を公然と破棄。

 1489年2月17日 ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァナポリフェッランテ・ダラゴーナの孫、アルフォンソ2世・ダラゴーナの娘イザベッラ・ダラゴーナ(1470年〜1524年)との結婚が決まり、この日、イザベッラ・ダラゴーナナポリから海路ジェノヴァに到着。間もなくミラノに向かう。
            この結婚を取りまとめるなど甥ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァに忠節を尽くしているとの表見の下でルドヴィーコ・イル・モーロは、ミラノ領内での自分の支配権を軍事、政治両面でさらに強める。
 1489年9月11日 インノケンティウス8世フェッランテ・ダラゴーナアルフォンソ2世・ダラゴーナ親子の反教会的言動、とりわけフェッランテ・ダラゴーナの貢税納入拒否を理由に、両名からナポリ領を没収し境界の直轄領とすると宣言。しかし両名はさらに反インノケンティウス8世の姿勢を強める。

 1492年6月4日 インノケンティウス8世フェッランテ・ダラゴーナナポリ王に叙任しその子アルフォンソ2世・ダラゴーナを王位継承権者と認める勅書を、シャルル8世のローマ教皇庁駐在大使に反論の機会を与えずに発する。
 1492年9月3日 父インノケンティウス8世の死後、フィレンツェの義兄ピエロ・イル・ファトゥオのもとに身を寄せていたフランチェスケット・チーボ、父から与えられた教会領の戦略上の拠点ローマ近郊AnguillaraとCervetriを、ピエロ・イル・ファトゥオフェッランテ・ダラゴーナの仲介と尽力により、フェッランテ・ダラゴーナの隊長でローマの反アレクサンデル6世勢力の中心であるオルシーニ一族のヴィルジーニオ・オルシーニ(?〜1496年)に売却。この費用を受け持ったフェッランテ・ダラゴーナは教会領の拠点を押さえ、自分への包囲網を敷かれたと感じたアレクサンデル6世は強く警戒。
           この後、ピエロ・イル・ファトゥオは、父ロレンツォ・イル・マニーフィコの方針(=フェッランテ・ダラゴーナアルフォンソ2世・ダラゴーナ父子とスフォルツァ家を仲介し両者の均衡を保持する)を転換し、オルシーニ家を介してフェッランテ・ダラゴーナアルフォンソ2世・ダラゴーナ父子の側に立つ。これに対しルドヴィーコ・イル・モーロは、一掃シャルル8世に期待し傾斜。

 1493年6月末 フェッランテ・ダラゴーナ、次男フェデリーコ・ダラゴーナ(1451年〜1504年)をローマに送り、シャルル8世の側からのアレクサンデル6世への工作を阻みつつアレクサンデル6世を自分の側に引き寄せるべく硬軟両様の工作を始める。その一環として子アルフォンソ2世・ダラゴーナの庶出の娘サンチャ・ダラゴーナ(1478年〜?)とアレクサンデル6世の末子ホフレ・ボルジア(1481年頃〜1516/1517年)との結婚をも提案。
         この頃フェルディナンド・ダラゴーナ、自分の叔父の娘、寡婦マリーア・エンリケスアレクサンデル6世の子、ガンディア公フアン・ボルジア(1476年〜1497年:在位1488年〜1497年)との結婚を提案。

 1494年1月25日 父フェッランテ・ダラゴーナ死。ナポリ王に即位。
            フェッランテ・ダラゴーナの死後ナポリ王位継承を承認するよう求めるシャルル8世に対して態度を保留していた教皇アレクサンデル6世により、この要求を退けて継承を承認される。
 1494年3月14日 派遣した大使が教皇アレクサンデル6世に忠誠を誓う。
 1494年3月22日 アレクサンデル6世と、1493年8月の教皇と前ナポリ王、故フェッランテ・ダラゴーナの和解に基づき協定を締結。
 1494年5月8日 フアン・ランソル・イ・ボルハの手で戴冠される(1494年5月7日)。
 1494年7月14日 ティヴォリ近郊ヴィコヴァーロにて、チェーザレ・ボルジアを伴ったアレクサンデル6世と会見し、シャルル8世の侵攻に備えてナポリとの軍事的結束を強化(1494年7月15日)。

 1495年1月23日 ナポリ王退位し、子フェッランディーノ・ダラゴーナが即位。
 1495年1月25日 シチリアへ逃亡。

肖像
 フェッランテ・ダラゴーナ

チェーザレ・ボルジア
 子フェッランディーノ・ダラゴーナ→妻ジョヴァンナ・ダラゴーナ→母フアナ・ダラゴーナ→母フアナ・エンリケス→きょうだいエンリケ・エンリケス→子マリーア・エンリケス→夫フアン・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア
 子アルフォンソ・ダラゴーナ→妻ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

別表記
 カラーブリア公、カラブリア公アルフォンソ

関連項目
 リーミニの戦い
 The Borgias: 103, 104, 106, 107, 201

外部リンク
 ウィキペディア
 世界帝王事典
 Genealogy.EU
 kleio.org
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 THE BORGIAS wiki

参考文献
 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家の黄金の血』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『マキァヴェッリ 忘恩、運命、野心、好機』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Lucretia Borgia
トラスタマラ家
歴史人物辞典
そこそこアレな感じで