メソポタミア Μεσοποταμία
概要
メソポタミアは、チグリス川とユーフラテス川の間の沖積平野である。現在のイラクの一部にあたる。ギリシャ語で「複数の河の間」の意味。
世界最古の文明が発祥した地であり、メソポタミアに生まれた文明を古代メソポタミア文明と呼ぶ。文明初期の中心となったのは民族系統が不明のシュメール人である。シュメールの後も、アッカド、バビロニア、アッシリアなどに代表される国々が興亡を繰り返した。やがて周辺勢力の伸張とともに独立勢力としてのメソポタミアの地位は低下していき、紀元前4世紀、アレクサンドロス3世の遠征によってヘレニズムの世界の一部となった。
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バビロニア Babylonia
概要
メソポタミア南部のシュメールとその上流域アッカドを含む一つの歴史的な世界。中心市バビロン。
歴史
南部のシュメールでは、紀元前3400年頃からウルやラガシュなどの諸都市が形成され、紀元前2800年頃初期王朝時代に入った。紀元前24世紀、上流域のアッカド人が全メソポタミアを統一(アッカド王国)。次いで紀元前22世紀末に始まるウル第三王朝時代を経て紀元前2000年頃からアムル人が活躍し、そのうちハンムラビ王のバビロン第一王朝が紀元前18世紀にメソポタミアの支配者となった(バビロニア王国)。その後の変転を経て紀元前7世紀後半には、南部のセム系カルデア人がアッシリアの支配を覆し、バビロンを首都に新バビロニア(カルデア王国)を建てた。
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新バビロニア帝国
概要
新バビロニア帝国は、紀元前626年から紀元前539年までバビロニアを中心に存在した国。キュロス2世により征服されるまで、地中海沿岸地域に至る広大な領土を支配した帝国。首都はバビロン。
新バビロニア王
ナボポラッサル
ネブカドネザル2世
アメル・マルドゥク
ネリグリッサル
ラバシ・マルドゥク
ナボニドゥス
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バビロン Babylon
概要
バビロンは、メソポタミア地方の古代都市。紀元前1792年から紀元前1750年にハンムラビ王が最初の黄金時代を築いてからは、アッシリア、バビロニアなど、支配者は次々と変わり、7世紀にイスラムの時代に入って以降、衰退した。
紀元前19世紀にバビロン第1王朝が台頭したことで、小さな独立した都市国家の一部になった。紀元前18世紀にアモリ人の王ハンムラビは、古バビロニア帝国を興した。彼はバビロンを大都市に造り替え、自らをその王と宣言した。メソポタミア南部はバビロニアとして知られるようになり、バビロンはこの地域の聖地として、ニップルをも凌ぐようになった。だが、この帝国はハンムラビの息子サムス・イルナの下で衰退し、その後長い間、バビロンはアッシリア人、カッシート人、エラム人の支配下にあった。アッシリア人が破壊・再建した後、紀元前609年から紀元前539年まで、バビロンは新アッシリア帝国の後継である新バビロニア帝国の首都となった。バビロンの空中庭園は、古代世界の七不思議の一つとして位置づけられた。新バビロニア帝国の崩壊後はアケメネス朝ペルシア、セレウコス朝、パルティア、ローマ帝国、そしてサーサーン朝ペルシアなどの諸帝国の支配下に置かれた。
名称
アッカド語で「神の門」を意味するバーブ・イリ(ム)に由来する。バビロニアの語はバベルにもとづく。
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シュメール سومر
概要
シュメールは、古代文明、その文明を築いた人々、またはその文明が栄えたイラク南部地方を指す歴史地理的な名称である。
メソポタミアの南部はバビロニアと呼ばれ、さらにバビロニアのうち古代都市ニップル近辺よりも北側をアッカド、南側をシュメールと呼ぶ。
別表記
Sumer、Shumer、Sumeria、Shinar
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アッシリア اشور
概要
アッシリアは、古代オリエント初の統一帝国を建てたセム族の国家。北メソポタミアのアッシュールを中心にして紀元前2000年頃から盛衰を繰り返していたが、紀元前8世紀後半のティグラト・ピレセル3世から大遠征を進め、属州には総督を置き中央集権をかためた。紀元前7世紀半ば、アッシュールバニパルの父王の時にはエジプトも征服して、オリエント世界を統一。広大な領域の支配は軍事力に頼るところが大きく、被征服民の反乱が繰り返された。紀元前612年、カルデアとメディアの連合軍に首都ニネベを落とされて滅亡。工芸や彫塑などのアッシリア美術は、古代メソポタミア美術の完成期とされる。
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ペルシア帝国 فارس
概要
ペルシア帝国とは、現在のイランを中心に成立していた歴史上の国家。一般的にはアケメネス朝、アルサケス朝、サーサーン朝に対する総称である。
アケメネス朝は、キュロス2世により、メディア王国、リディア王国、新バビロニア王国を滅ぼし、新バビロニア王国により移住させられたユダヤ人を解放し、バビロン捕囚を終焉させた。キュロス2世の息子カンビュセス2世により、エジプトを併合して、古代オリエント世界を統一した。ダレイオス1世がペルシア戦争を起こしたが敗北した。ダレイオス3世のときマケドニアのアレクサンドロス3世により征服され滅亡した。
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フェニキア Φοινίκη
概要
フェニキアは、古代の地中海東岸に位置した歴史的地域名。シリアの一角であり、北は現シリアのタルトゥースのあたりから、南はパレスチナのカルメル山に至る海岸沿いの南北に細長い地域であって、およそ現在のレバノンの領域にあたる。
フェニキアという名前は、フェニキア人の居住地がギリシャ語でポイニケーと呼ばれたことに由来しており、そのもともとの語源は不明である。一説によると、フェニキアが貝から取れる紫色の染料を特産としていたことから、「紫色」という意味のギリシア語を語源とする。
住民はフェニキア人と呼ばれる人々で、紀元前15世紀頃から紀元前8世紀頃にティルス、シドン、ビュブロス、アラドゥスなどの都市国家を形成して海上交易に活躍し、のちにはカルタゴなどの海外植民地を建設して地中海沿岸の広い地域に広がった。
フェニキア人は系統的には様々な民族と混交していたが、アフロ・アジア語族セム語派に属するフェニキア語を話し、言語的に見ればヘブライ人同様カナン人の系統にある民族である。彼らがフェニキア語を書き表すために発明したフェニキア文字は、ギリシャ文字・アラム文字・アラビア文字・ヘブライ文字など、ヨーロッパ・西アジアの多くの言語で用いられる文字の起源となった。
歴史
フェニキア人は、エジプトやバビロニアなどの古代国家の狭間にあたる地域に居住していたことから、次第にその影響を受けて文明化し、紀元前15世紀頃から都市国家を形成し始めた。紀元前12世紀頃から盛んな海上交易を行って北アフリカからイベリア半島まで進出、地中海全域を舞台に活躍。また、その交易活動にともなってアルファベットなどの古代オリエントで生まれた優れた文明を地中海世界全域に伝え、古代ギリシア・古代ローマの発展を促した。
しかし、紀元前9世紀から紀元前8世紀に、内陸で勃興してきたアッシリアの攻撃を受けて服属を余儀なくされ、フェニキア地方(現在のレバノン)の諸都市は政治的な独立を失っていった。アッシリアの滅亡後はアケメネス朝(ペルシア帝国)に服属するが、海上交易ではギリシアの都市国家と競合しつつ繁栄を続けた。しかし、アケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス3世によってテュロスが征服されると、完全にギリシャ系の勢力に取り込まれてヘレニズム世界の一部となり、ついに歴史の影に埋没してしまった。
一方、紀元前9世紀に北アフリカに建設された植民都市カルタゴは、フェニキア本土の衰退をよそに繁栄を続けていたが、3度にわたるポエニ戦争の結果、共和政ローマに併合されて滅んだ。カルタゴの人々の話していたフェニキア語はポエニ語と呼ばれてローマ時代にも存続したが、やがて北アフリカ土着のベルベル語や、イスラム教とともにやってきたアラビア語に飲み込まれ、消滅していった。
別表記
Phoenicia
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カルタゴ قرطاج
概要
カルタゴは、フェニキア人が創った北アフリカの古代都市、国家。地理的には、現在のチュニジア共和国の北側を中心とした。強大な海軍を持ち、地中海貿易で栄える。
もともとはベルベル人が住んでいたが、紀元前9世紀頃に、地中海東岸のティルスを本拠地としていたフェニキア人によって、地中海内の植民都市の1つとして建設された。本国のティルスがアッシリアに支配されてからは、フェニキア人にとってはカルタゴのほうが本拠地となり、ここを拠点として西地中海の貿易を支配していくことになった。
ローマに敗れ滅亡。
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ミュケナイ Μυκηναι
概要
ミュケナイは、紀元前1600年から紀元前1200年にアカイア人が形成した王国で、現在のアルゴリダ県アルゴス=ミキネスに位置した。
別表記
ミュケーナイ、ミケーネ、Μυκήνες、Mycenae、Mikenes
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アテナイ Ἀθῆναι
概要
アテナイは、古代ギリシアのイオニア人が形成した都市国家で、現在のアテネに位置した。
別表記
アテーナイ
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テーバイ Θῆβαι
概要
テーバイは、古代ギリシアにあった都市国家の1つ。現在の中央ギリシャ地方ヴィオティア県の県都ティーヴァにあたる。
別表記
テバイ、テーベ
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コリントス Κόρινθος
概要
コリントスは、古代ギリシアのドーリス人が形成した都市国家で、現在のコリンティア県の同名の自治体に位置した。
別表記
Corinth
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スパルタ Σπάρτα
概要
スパルタは、古代ギリシアのドーリス人が形成した都市国家で、現在のペロポネソス半島南部スパルティに位置した。
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スタゲイロス Στάγειρα
概要
スタゲイロスは、カルキディケ半島の東海岸に位置した、イオニア人が紀元前655年に興した古代ギリシアの町。アリストテレスがここで誕生した当時はマケドニア王国の支配下にあった。
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アテネ公国 Δουκάτον Αθηνών
概要
アテネ公国は、第4回十字軍による東ローマ帝国の占領後に建国された十字軍国家の1つ。アッティカ及びボイオーティアを領土としており、15世紀にオスマン帝国に併合されるまで存続していた。
アテネ公
オトン・ド・ラ・ロッシュ
ギー1世・ド・ラ・ロッシュ
ジャン1世・ド・ラ・ロッシュ
ギヨーム1世・ド・ラ・ロッシュ
ギー2世・ド・ラ・ロッシュ
ゴーティエ5世・ド・ブリエンヌ
ジャンヌ・ド・シャティヨン
ゴーティエ6世・ド・ブリエンヌ
イザベル・ド・ブリエンヌ
ソイエール・ダンギャン
ゴーティエ4世・ダンギャン
ルイ・ダンギャン
ロヘリオ・デスロール
マンフレド、ベレンゲル・エスタニョール
ギジェルモ2世、アルフォンソ・フレデリーコ
ジョアン2世
フェデリーコ1世
フェデリーコ2世
マリア、アラゴン王ペドロ4世
マテオ・ド・モントカーダ
ロヘリオ・ド・ルリア
マテオ・ド・ペラルタ
ルイス・フェデリーコ
ダルマオ4世ロカベルティ
ベルナート・ド・コルデーリャ
ネーリオ1世・アッチャイウオリ
アントーニオ1世・アッチャイウオリ
ヴェネツィア共和国領
アントーニオ1世・アッチャイウオリ
ネーリオ2世・アッチャイウオリ
アントーニオ2世・アッチャイウオリ
ネリオ2世・アッチャイウオリ
クレール・ジョルジョ・アッチャイウオリ、バルトロマオ・コンタリーニ
フランチェスコ1世・アッチャイウオリ
フランチェスコ2世・アッチャイウオリ
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デルポイ Δελφοι
概要
デルポイは、古代ギリシアのポーキス地方にあった聖域。パルナッソス山の西南麓にあるこの地は、古代ギリシア世界においては世界の臍と信じられており、ポイボス・アポロンを祀る神殿で下されるデルポイの神託で知られていた。
別表記
ピュートー、Delphoi
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テッサリア Θεσσαλία
概要
テッサリアは、ギリシャ中部の地域名であり、ギリシャ共和国の広域自治体であるペリフェリア(地方)の1つ。テッサリア平原の広がるこの地方は、ギリシャの穀倉地帯である。
歴史
紀元前2500年頃の新石器時代の遺跡がある。ヴォロス近郊のイオルコスやディミニ、セスクロなどからはミュケナイ文明の遺跡が見つかっている。ギリシア古典時代には、ラリサのアレウアス家やクランノンのスコパス家といった貴族が栄えた。
紀元前4世紀にはフェライのイアソンがあらわれてテッサリアを軍事的な強国とし、ペルシア戦争ではアケメネス朝側について戦った。まもなく、マケドニア王国のピリッポス2世がテッサリアのアルコンに選ばれ、以後の数世紀にわたってテッサリアはマケドニアに服属した。
ローマ帝国に征服されると、マケドニア属州の一部となった。
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クレタ島 Κρήτη
概要
クレタ島は、ギリシャ共和国南方の地中海に浮かぶ同国最大の島。古代ミノア文明が栄えた土地で、クノッソス宮殿をはじめとする多くの遺跡を持つ。
クレタ島は島全体で、ギリシャ共和国の広域自治体であるペリフェリア(地方)を構成する。
別表記
クレーテー、Crete
外部リンク
アテネ Αθήνα
- 所在地
- ギリシャ共和国アッティカ地方中央アテネ県
概要
アテネは、ギリシャ共和国の首都。
英語
Athens
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アルカディア県 Νομός Αρκαδίας
- 所在地
- ギリシャ共和国ペロポネソス地方
概要
アルカディア県は、ギリシャ共和国のペロポネソス地方を構成する行政区の1つ。
ディモス
外部リンク
アルケイディア、アーカディア、アーケイディア、Arcadia、Arkadia
外部リンク
トリポリ Τρίπολη
- 所在地
- ギリシャ共和国ペロポネソス地方アルカディア県
概要
トリポリは、ギリシャ共和国にある都市。
外部リンク
ペラ Πέλλα
- 所在地
- ギリシャ共和国中央マケドニア地方ペラ県
概要
ペラは、ギリシャ共和国のディモス。マケドニア王国の首都だった都市。
紀元前5世紀末、マケドニア王のアルケラオス1世によって建てられ、旧都アイガイ(ヴェルギナ)から遷都された。三大悲劇詩人のエウリピデスもこの地で晩年を送ったように、古代ギリシアの文化を積極的に吸収した。マケドニア王国の歴史に深く名を刻むピリッポス2世や、アレクサンドロス3世も、この都市で生まれている。紀元前2世紀、共和政ローマによって征服され、さらに地震の被害を受けてその繁栄を失った。古代ギリシアの歴史家ヘロドトスやトゥキュディデスの著作にもペラについて記述を残している。
別表記
Pella
外部リンク
ペロポネソス半島 Πελοπόννησος
概要
ペロポネソス半島は、ギリシャの大陸部分南端に広がる半島である。
別表記
Peloponnese
外部リンク
ロードス島 Ρόδος
- 所在地
- ギリシャ共和国南エーゲ地方ロドス県
概要
ロードス島は、エーゲ海南部のアナトリア半島沿岸部に位置するギリシャ領の島。ドデカネス諸島に属し、ギリシャ共和国で4番目に大きな面積を持つ。
外部リンク
パルナッソス山 Παρνασσός
- 所在地
- ギリシャ共和国中央ギリシャ地方フティオティダ県
概要
パルナッソス山は、中央ギリシャの山。コリンティアコス湾の北、デルポイの上にそびえ、不毛の石灰岩で構成されている。標高は2,457メートルで、ギリシャで最も高い山の1つである。頂上からはオリーブの木立と田園風景が展望できる。
アポロンとコリキア洞窟に住んでいたコリキアのニュンペーに捧げられ、ムーサイも住んでいるという。
語源
パルナッソスという名前は先ギリシアの基層言語、すなわちペラスゴイ人が話していた言語から来ているという。接尾辞「-ssos」は地名に頻繁に用いられていたからである。また、「Parna-」は言語的に同じルーツを持つヒッタイト語で「家」を意味する。
ギリシア神話によると、デウカリオンの洪水によって破壊された都市を山の上に建てた英雄パルナッソスに由来。
歴史
北からの侵略者に対する南ギリシャの砦であり、最も重要な出来事はペルシャ人との紀元前480年のテルモピュライの戦いだった。
題材作品
外部リンク
オリュンポス Όλυμπος
概要
オリュンポスは、ギリシア神話で、主神ゼウスをはじめ十二神が住んだという山。テッサリア地方とマケドニア地方の境にあるギリシャの最高峰で、標高2,917メートル。1年の大半は雪をいただく。
別表記
オリンポス、Olympus
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マケドニア Μακεδονία
概要
マケドニアは、ギリシャの地理的、歴史的な地方の1つ。ギリシャ全土を9つに分けた「地理な地方」のうちで最大の面積を持ち、人口は2番目に多い。テッサリア、および西トラキアと共に、北部地方と呼ばれる。
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トラキア Θράκη
概要
トラキアは、バルカン半島南東部の歴史的地域名。現在は3か国に分断され、西トラキアがブルガリアの南東部とギリシャ北東部の一部に、東トラキアがトルコのヨーロッパ部分となっている。
別表記
Thracia、Thrace、Trakya
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神聖ローマ帝国 Heiliges Römisches Reich
概要
神聖ローマ帝国は、800年から1806年に中央ヨーロッパに存在した国家。原理上の起源はカール1世の戴冠で、962年にオットー1世によって正式に成立。当初はドイツ王国、ブルグント王国、イタリア王国を含んでいたが、その後皇帝の支配力はドイツ王国に限定されるようになる。
1183年にフリードリヒ1世とロンバルディア同盟との間で結ばれたコンスタンツの和約において、北イタリアの都市が皇帝の名目上の主権を認める代わりに都市自治権を維持するという条約が交わされた。これによって、皇帝のイタリアにおける直接的な支配は弱まり、特にアルプス以南における影響力は大きく後退した。
ローマ王
ローマ王は、教皇による戴冠によってローマ皇帝に正式に即位する前の君主が名乗った称号。また、皇太子の称号としても使用され、近世以降はこの意味に特化している。
ドイツ王
ドイツ王は、後世に使われた称号で、教皇からローマ皇帝に推戴されない場合や対立王として立てられた場合を表す。
神聖ローマ皇帝
カール1世
ルートヴィヒ1世
ロタール1世
ルートヴィヒ2世
カール2世
カール3世
グイド
ランベルトゥス
アルヌルフ
ルートヴィヒ3世
ベレンガーリオ1世
オットー1世
オットー2世
オットー3世
ハインリヒ2世
コンラート2世
ハインリヒ3世
ハインリヒ4世
ハインリヒ5世
ロタール3世
コンラート3世
フリードリヒ1世
ハインリヒ6世
オットー4世
フリードリヒ2世
コンラート4世
ヴィルヘルム
リヒャルト
アルフォンス
ルドルフ1世
アドルフ
アルブレヒト1世
ハインリヒ7世
ルートヴィヒ4世
カール4世
ヴェンツェル
ループレヒト
ジギスムント・フォン・ルクセンブルク
アルブレヒト2世
フリードリヒ3世
マクシミリアン1世
カール5世
フェルディナンド1世
マクシミリアン2世
ルドルフ2世
マティアス
フェルディナント2世
フェルディナント3世
レオポルト1世
ヨーゼフ1世
カール6世
カール7世
フランツ1世
ヨーゼフ2世
レオポルト2世
フランツ2世
外部リンク
エトルリア Etruria
概要
紀元前8世紀から紀元前1世紀頃にイタリア半島中部にあった都市国家群。
各都市国家は宗教、言語などの面で共通点があり、統一国家を形成することはなかったものの、12都市連盟と呼ばれる緩やかな連合を形成し、祭祀、軍事で協力することもあった。
外部リンク
中世イタリア地図 Carta geografica dell'Italia medievale
950年頃のイタリア王国
11世紀
1494年
イタリア王国 Regnum Italiae
概要
イタリア王国は、774年から1801年まで中北部イタリアに存在した国家で、神聖ローマ帝国の一部。
774年6月に前身であるランゴバルド王国の首都パヴィアをフランク王カール1世が征服し、800年に教皇レオ3世によりローマ皇帝として戴冠。ランゴバルド王の称号を用いていたものの、これがイタリア王国の実質的な起源である。名目上は帝国の中核であったが、実際にはフランク王国や東フランク王国の従属国だった。
オットーネ1世が神聖ローマ皇帝に即位した962年から、イタリア王の称号は皇帝位に統合された。オットーネ3世の死後、諸侯の支持を得て独立したイタリア王が再び誕生したが、アルドゥイーノがエンリコ2世に敗北し1014年に退位した後は、イタリアの王冠は事実上東フランク王又はローマ王のものとなった。
ランゴバルド王
カルロ1世
ベルナルド
ルドヴィーコ1世
イタリア王
ロターリオ1世
ルドヴィーコ2世
カルロ2世
カルロマンノ
カルロ3世
ベレンガーリオ1世
グイド
アルヌルフォ
ラトルド
ランベルト
ベレンガーリオ1世
ルドヴィーコ3世
ルドルフォ
ウーゴ
ロターリオ2世
ベレンガーリオ2世
アダルベルト
オットーネ1世
オットーネ2世
オットーネ3世
アルドゥイーノ
エンリコ2世
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サヴォイア公国 Ducato di Savoia
概要
サヴォイア公国は、神聖ローマ帝国の領邦国家。神聖ローマ皇帝ジギスムント・フォン・ルクセンブルクによりアメーデオ8世・ディ・サヴォイアが辺境伯から公爵に陞爵され、1416年に成立し1720年まで存在した公爵領。首都はサヴォイア伯爵領の頃からシャンベリであったが、1563年にトリノに遷都された。
版図は現イタリア共和国ヴァッレ・ダオスタ州、ピエモンテ州西部、フランス共和国東部サヴォワ地方、アルプ=マリティーム県、スイス連邦ジュネーヴである。
サヴォイア公 Duca di Savoia
アメーデオ8世・ディ・サヴォイア
ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア
アメーデオ9世・ディ・サヴォイア
フィリベルト1世・ディ・サヴォイア
カルロ1世・ディ・サヴォイア
カルロ2世・ディ・サヴォイア
フィリッポ2世・ディ・サヴォイア
フィリベルト2世・ディ・サヴォイア
カルロ3世・ディ・サヴォイア
エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア
外部リンク
ミラノ公国 Ducato di Milano
概要
ミラノ公国は、神聖ローマ帝国の領邦国家。ローマ王ヴェンツェルによりジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティが公爵の位を授けられ、1395年に成立し1797年まで存在した、首都をミラノとする公爵領。
ミラノ領主
パガーノ1世・デッラ・トッレ
パガーノ2世・デッラ・トッレ
マンフレディ・ランチア
マルティーノ・デッラ・トッレ
オベルト2世・パッラヴィチーニ
フィリッポ・デッラ・トッレ
ナポ・デッラ・トッレ
オットーネ・ヴィスコンティ
マッテオ1世・ヴィスコンティ
グイド・デッラ・トッレ
マッテオ1世・ヴィスコンティ
ガレアッツォ1世・ヴィスコンティ
アッツォーネ・ヴィスコンティ
ルキノ・ヴィスコンティ
マッテオ2世・ヴィスコンティ
ガレアッツォ2世・ヴィスコンティ
ベルナボ・ヴィスコンティ
ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ
ミラノ公 Duca di Milano
ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ
ジョヴァンニ・マリーア・ヴィスコンティ
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ
アンブロジアーナ共和国
フランチェスコ1世・スフォルツァ
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ
ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ
ルドヴィーコ・イル・モーロ
ルイ12世
ルドヴィーコ・イル・モーロ
ルイ12世
マッシミリアーノ・スフォルツァ
フランソワ1世
フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ
スペイン支配
フェリペ2世
フェリペ3世
フェリペ4世
カルロス2世
フェリペ5世
外部リンク
ウィキペディア
ウィキペディア - ミラノの支配者一覧
Wikipedia - Golden Ambrosian Republic
モンフェッラート公国 Ducato di Monferrato
概要
モンフェッラート侯国は、神聖ローマ帝国の領邦国家。958年にイタリア王ベレンガーリオ2世がアレラーモ・アレラーミチに与えたアレラーミカ辺境伯領の分割により成立し、1574年までピエモンテ南部とトリノ東部にあった侯爵領。
モンフェッラート公国は、神聖ローマ帝国の領邦国家。神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世によりグリエルモ・ゴンザーガが侯爵から公爵に陞爵され、1574年から1708年まで存在した公爵領。
モンフェッラート侯 Marchese del Monferrato
テオドーロ2世・パレオロゴ
ジャン・ヤコポ・パレオロゴ
ジョヴァンニ4世・パレオロゴ
グリエルモ8世・パレオロゴ
ボニファチオ3世・パレオロゴ
グリエルモ9世・パレオロゴ
ボニファチオ4世・パレオロゴ
ジャンジョルジョ・パレオロゴ
フェデリーコ2世・ゴンザーガ
フランチェスコ3世・ゴンザーガ
グリエルモ・ゴンザーガ
モンフェッラート公国
グリエルモ・ゴンザーガ
ヴィンチェンツォ・ゴンザーガ
フランチェスコ・ゴンザーガ
外部リンク
ヴェネツィア共和国 Repubblica di Venezia
概要
ヴェネツィア共和国は、ヴェネツィアを首都とし、7世紀末期から1797年までイタリアの東北に存在した国家。
ヴェネツィア共和国ドージェ
クリストフォロ・モーロ
ニッコロ・トロン
ニッコロ・マルチェッロ
ピエトロ・モチェニーゴ
アンドレア・ヴェンドラミン
ジョヴァンニ・モチェニーゴ
マルコ・バルバリーゴ
アゴスティーノ・バルバリーゴ
レオナルド・ロレダン
アントーニオ・グリマーニ
アンドレア・グリッティ
ピエトロ・ランド
フランチェスコ・ドナート
マルカントニオ・トレヴィザン
外部リンク
マントヴァ公国 Ducato di Mantova
概要
マントヴァ侯国は、神聖ローマ帝国の領邦国家。神聖ローマ皇帝ジギスムント・フォン・ルクセンブルクによりジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガが侯爵の位を授けられ、1433年に成立し1530年まで存在した、首都をマントヴァとする侯爵領。
マントヴァ公国は、神聖ローマ帝国の領邦国家。神聖ローマ皇帝カール5世によりフェデリーコ2世・ゴンザーガが侯爵から公爵に陞爵され、1530年から1708年まで存在した公爵領。
マントヴァ領主
ルドヴィーコ1世・ゴンザーガ
グイド1世・ゴンザーガ
ルドヴィーコ2世・ゴンザーガ
フランチェスコ1世・ゴンザーガ
ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ
マントヴァ侯
ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
フェデリーコ1世・ゴンザーガ
フランチェスコ2世・ゴンザーガ
フェデリーコ2世・ゴンザーガ
マントヴァ公
フェデリーコ2世・ゴンザーガ
フランチェスコ3世・ゴンザーガ
グリエルモ・ゴンザーガ
ヴィンチェンツォ・ゴンザーガ
外部リンク
教皇領 Stato Pontificio
概要
教皇領は、聖座が756年から1870年まで世俗的な権力を行使した領土である。754年にローマ公国(ラツィオ、ラヴェンナ)、781年にサビーナ(テヴェレ川からファルファまで)、1052年にベネヴェント、1229年にアヴィニョンとコンタルド・ヴェネッシーノ、1278年にロマーニャとボローニャ、1278年にマルカ・アンコティアーナ(ほぼ現マルケ州)とスポレート公国、1424年にウンブリア、1532年にアンコーナ共和国、1649年にカストロ公国が加わった。
外部リンク
ウルビーノ公国 Ducato di Urbino
概要
ウルビーノ伯国は、神聖ローマ皇帝オットー4世によりボンコンテ1世・ダ・モンテフェルトロが伯爵の位を授けられ、1210年頃に成立し1443年まで存在した伯爵領。
ウルビーノ公国は、1443年から1631年まで、現在のイタリア共和国マルケ州北部に存在した、教皇領内の公爵領。
モンテフェルトロ伯
ウルビーノ伯
ボンコンテ1世・ダ・モンテフェルトロ
モンテフェルトラーノ2世・ダ・モンテフェルトロ
グイド1世・ダ・モンテフェルトロ
教皇領
フェデリーコ1世・ダ・モンテフェルトロ
ノルフォ・ダ・モンテフェルトロとグイド2世・ダ・モンテフェルトロ
教皇領
フェデリーコ2世・ダ・モンテフェルトロ
アントーニオ2世・ダ・モンテフェルトロ
教皇領
グイダントーニオ・ダ・モンテフェルトロ
ウルビーノ公
オッダントーニオ・ダ・モンテフェルトロ
フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ
グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ
チェーザレ・ボルジア
グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ
フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ
ロレンツォ・デ・メディチ
フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ
グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ
フランチェスコ・マリーア2世・デッラ・ローヴェレ
フェデリーコ・ウバルド・デッラ・ローヴェレ
フランチェスコ・マリーア2世・デッラ・ローヴェレ
教皇領
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ナポリ王国 Regno di Napoli
概要
ナポリ王国は、1282年から1816年までイタリアに存在していた国。版図は概ね現在のカンパーニア州、カラブリア州、プーリア州、アブルッツォ州、モリーゼ州、バジリカータ州、ラツィオ州のガエータ、カッシーノである。
ナポリ王
カルロ1世・ダンジオ
カルロ2世・ダンジオ
ロベルト・ダンジオ
ジョヴァンナ1世・ダンジオ
カルロ3世・ダンジオ
ラディスラオ1世・ダンジオ
ジョヴァンナ2世・ダンジオ
ルネ・ダンジュー
アルフォンソ5世・デ・アラゴン
フェッランテ・ダラゴーナ
アルフォンソ2世・ダラゴーナ
フェッランディーノ・ダラゴーナ
フェデリーコ・ダラゴーナ
ルイ12世
フェルナンド2世・デ・アラゴン
カール5世
フェリペ2世
フェリペ3世
ナポリ総督
カラブリア公 Duca di Calabria
カラブリア公はナポリ王位継承者の称号。
ロベルト・ダンジオ
カルロ・ダンジオ
アンドレア・ドゥンゲリア
カルロ・マルテッロ・ダンジオ
ジャウメ4世・デ・マリョルカ
ルイ1世・ダンジュー
ルイ2世・ダンジュー
ルイ3世・ダンジュー
ジャック2世・ド・ブルボン
アルフォンソ5世・デ・アラゴン
ルイ3世・ダンジュー
ルネ・ダンジュー
ジャン・ダンジュー
フェッランテ・ダラゴーナ
アルフォンソ2世・ダラゴーナ
ニコラ1世・ダンジュー
シャルル5世・ダンジュー
ルネ2世・ド・ロレーヌ
アントワーヌ・ド・ロレーヌ
フェッランディーノ・ダラゴーナ
フェルディナンド・ダラゴーナ
フェルナンド2世・デ・アラゴン
フアナ1世・デ・トラスタマラ
カール5世
フェリペ2世
フランソワ・ド・ロレーヌ
シャルル・ド・ロレーヌ
カルロス・デ・アブスブルゴ
フェルナンド・デ・アブスブルゴ
カルロス・ロレンツォ・デ・アブスブルゴ
ディエゴ・フェリックス・デ・アブスブルゴ
フェリペ3世
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アッピア街道 Via Appia
概要
現存するローマ街道の中でも最も有名なもののひとつで「街道の女王」の異名を持つ。新しいアッピア街道が1784年に旧道に平行して敷設されたため、アッピア旧街道とも呼ばれる。
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テヴェレ川 Tevere
概要
テヴェレ川は、イタリアで3番目に長い川。エミリア・ロマーニャ州のアペニン山脈からトスカーナ州、ウンブリア州を経由し、ラツィオ州でティレニア海に注いでいる。
別表記
テヴェレ河、テベレ河、Tiber
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ヴァレンシア Valencia
- 所在地
- スペイン王国ヴァレンシア州ヴァレンシア県
概要
ヴァレンシアは、スペイン王国のムニシピオ。1237年から1707年までヴァレンシア王国の王都。
建築物
ヴァレンシア王
ジャウマ1世
ペレ1世
アルフォンス1世
ジャウマ2世
アルフォンス2世
ペレ2世
ジュアン1世
マルティー1世
フェラン1世
アルフォンス3世
ジュアン2世
フェラン2世
カルロス5世
ファリープ1世
ファリープ2世
ファリープ3世
ヴァレンシア司教
ヴァレンシア大司教
ロドリゴ・ボルジア
チェーザレ・ボルジア
ペレ・リュイス・リャンソル
アロンソ・デ・トラスタマラ
別表記
ヴァレンシア
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ガンディア Gandia
- 所在地
- スペイン王国ヴァレンシア州ヴァレンシア県
概要
ガンディアは、スペイン王国のムニシピオ。最初にキリスト教の文書に登場するのは1249年で、1707年までヴァレンシア王国領。
建築物
ガンディア公
ペドロ・ルイス・デ・ボルハ
フアン・ボルジア
フアン・デ・ボルハ・イ・エンリケス
フランシスコ・デ・ボルハ
カルロス・デ・ボルハ
フランシスコ・トーマス・デ・ボルハ
カルロス・フランシスコ・デ・ボルハ
フランシスコ・ディエゴ・パスクアル・デ・ボルハ
フランシスコ・カルロス・デ・ボルハ
パスクアル・フランシスコ・デ・ボルハ
ルイス・イグナシオ・フランシスコ・フアン・デ・ボルハ
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アルバイダ Albaida
- 所在地
- スペイン王国ヴァレンシア州ヴァレンシア県
概要
アルバイダは、スペイン王国のムニシピオ。
建築物
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アンナ Anna
- 所在地
- スペイン王国ヴァレンシア州ヴァレンシア県
概要
アンナは、スペインのムニシピオ。現在のアンナの町の起源は、ムーア人の時代よりも前に遡るが、最初の文献上の言及は13世紀半ばになる。1244年9月22日、ビアール包囲戦での協力に対する報酬として、ハイメ1世がサンティアゴ騎士団にアンナの町を与えた。1332年には、モンタルヴァン司令官による資産の一部押収によりムーア人が反乱を起こしたが、町の人口減少の進行を止めるためにアルフォンソ・エル・ベニーニョはムーア人を赦免した。数年後、町はペドロ・デ・ビラノバの手に渡った後、ボルハ家の所有となる。フェリペ3世は1604年に、フェルナンド・プハデス・デ・ボルハによって受け継がれるアンナ伯爵領を創設し、最終的にはセルベジョン伯爵に帰属することとなった。
アンナ領主 Señor de la Baronía de Anna
アンナ伯爵 Condes de Anna
フェルナンド・プハデス・デ・ボルハ
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リェイダ Lleida
- 所在地
- スペイン王国カタルーニャ州リェイダ県
概要
リェイダは、スペイン王国のムニシピオ。
リェイダ司教
アントーニオ・セルダ
リュイス・ジョアン・デル・ミラ
別表記
レリダ
外部リンク
アスパ Aspa
- 所在地
- スペイン王国カタルーニャ州リェイダ県
概要
アスパは、スペイン王国のムニシピオ。
建築物
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ジローナ Girona
- 所在地
- スペイン王国カタルーニャ州ジローナ県
概要
ジローナは、スペイン王国のムニシピオ。
ジローナ司教、教区長
別表記
ヘローナ
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カスティーリャ王国 Reino de Castilla
概要
カスティーリャ王国は、1035年から1715年までイベリア半島中央部にあった王国である。キリスト教国によるレコンキスタにおいて主導的役割を果たし、後のスペイン王国の中核となった。
フェリペ5世の時代に遅まきながら国内の中央集権化が実施されるまで、カスティーリャ王国はスペインを構成する国の1つとして政治的独立性を保持し続けた。
カスティーリャ王 Rey de Castilla
フアン1世・デ・カスティーリャ
エンリケ3世・デ・カスティーリャ
フアン2世・デ・カスティーリャ
エンリケ4世・デ・カスティーリャ
イサベル1世・デ・カスティーリャ
フェルナンド5世
フアナ1世・デ・トラスタマラ
カルロス1世
別表記
カスティリャ、カスティリヤ、カスティリア、カスティーリア
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フランス王国 Royaume de France
概要
フランス王国は、987年から1789年まで存在したヨーロッパの王国。
フランス王 Roi de France
シャルル6世
シャルル7世
ルイ11世
シャルル8世
ルイ12世
フランソワ1世
アンリ2世
フランソワ2世
シャルル9世
アンリ3世
アンリ4世
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ベリー公爵領 Ducado de Berry
概要
ベリー公爵領は、フランス中央部の所領。13世紀からフランス王国に帰属し、1360年に伯爵領から公爵領へ昇格した。親王采地で、公爵位は世襲はされず、その時々の国王の近親者に与えられた。
ベリー公 Duc de Berry
ジャン・ド・ヴァロワ
ジャン・ド・ヴァロワ
シャルル・ド・ヴァロワ
シャルル・ド・フランス
フランソワ・ド・ヴァロワ
ジャンヌ・ド・ヴァロワ
マルグリット・ド・ナヴァル
マルグリット・ド・ヴァロワ
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ヴァレンティノワ Valentinois
- 所在地
- フランス共和国オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏ドローム県
概要
ヴァレンティノワは、ヴァランス市を取り囲む地域。
別表記
ヴァレンチノワ
外部リンク
ラグサ共和国 Repubblica di Ragusa
概要
ラグサ共和国は、1358年から1808年に現在のクロアチア共和国ダルマチア地方のドゥブロヴニクに存在した都市共和国。
ラグサ大司教
別表記
ラグーザ
外部リンク
パフォス Πάφος
- 所在地
- キプロス共和国パフォス地区パフォス
概要
パフォスは、キプロス共和国南西海岸の都市。ギリシャ神話においては、ピグマリオンとガラテイアの子パポスにちなんで命名されたとされる。かつては旧パフォス(パレパフォス)と新パフォスの2つの地区をまとめてパフォスと呼んでいたが、現在は住民がいる新パフォス地区のみを指す。
ペトラ・トゥ・ロミウのパレパフォスは愛と美を司るギリシア神話の女神アプロディテ生誕の伝説の地で、新石器時代から中世にかけて女神の神殿を中心とした港湾都市として繁栄した。クークリアのアプロディテの聖域、カト・パフォスのネア・パフォス、カト・パフォスのネクロポリスなどの神殿跡や都市遺跡がある。
新パフォスにはローマ帝国属州行政官の住居跡にモザイクタイルの床が今でも残っている。
司教座
パフォスは、現在も存在するキプロス独立教会の古代の司教座であり、サラミス大司教区の支部教区である。
12世紀末、十字軍によって島が征服された際、教皇ケレスティヌス3世の承認を得て、西方教会の制度が導入される。パフォスがローマ・カトリック教会の司教座となり、ニコシア大司教区の支部に組み込まれた結果、以前の東方教会の司教とその後継者たちは、西方教会の司教の下位に置かれ、アルシノエに追いやられた。
西方教会大分裂時代、キプロスの西方教会はアヴィニョンの対立教皇を支持した。
島における西方教会の存在は、1571年オスマン帝国軍によってファマグスタが陥落したことで終わる。逃れることができなかった人々はトルコ人によって虐殺され、キリスト教の礼拝所はほとんど破壊されるか、モスクに変えられた。
パフォスの最後の司教は、トリエント公会議に参加したヴェネツィア人のフランチェスコ・コンタリーニで、1570年にトルコ人に殺害された。
パフォス司教
グリエルモ ゴメティ
アントーニオ・マッソーニオ
ピエトロ・ランディ
ドメニコ・グリマーニ
ヤコポ・ペーザロ
ジョヴァンニ・マリア・ピサウロ
ピエトロ・コンタリーニ
フランチェスコ・コンタリーニ
外部リンク
記載日
2008年12月20日
更新日
2024年7月6日