- 生没
- 1527年5月21日~1598年9月13日
- 父
- カール5世
- 母
- イサベル・デ・アヴィシュ
- 妻
- メアリー1世
マリーア・マヌエラ・デ・ポルトガル
エリザベート・ド・ヴァロワ
アナ・デ・アウストリア - 子
- カルロス・デ・アブスブルゴ
イザベル・デ・アブスブルゴ
カタリナ・デ・アブスブルゴ
フェルナンド・デ・アブスブルゴ
カルロス・ロレンツォ・デ・アブスブルゴ
ディエゴ・フェリックス・デ・アブスブルゴ
フェリペ3世
マリア・デ・アブスブルゴ
概要
フェリペ2世は、16世紀の男性、スペイン王。
在位
カラブリア公 1527年5月21日~1554年7月25日
スペイン王 1556年~1598年
ポルトガル王フェリペ1世
年表
1540年10/11月
カール5世、この領有をめぐって長年、紛争が続いてきたミラノを子フェリペ2世(1527年~1598年:在位1556年~1598年)に封与。長年イタリアの覇権をめぐって争奪の的となってきたミラノのこの封与により、ニースの和(1538年)の破綻、明白化する。
1542年7月10/12日
カール5世による子フェリペ2世へのミラノ封与(1540年)及び自身の2名の使節のミラノ領における暗殺(1541年)などからカール5世に不満を強め、オスマン・トルコと提携を図るなど戦争態勢を整えてきたフランソワ1世、この日、カール5世に対して宣戦を布告し、ピエモンテで攻勢に出る(第4次カール5世・フランソワ1世戦争(~1544年)。
1543年5月
カール5世、フェリペ2世を自分がスペインに不在の時の摂政に任命。
1543年6月22/23~24/25日
パウルス3世とカール5世、パウルス3世の申し込みによりパルマ近郊ブッセートで会見し、(1)ミラノ領有問題、(2)トレント公会議開催問題、などについて討議。しかし(1)についてはパウルス3世は自家ファルネーゼ家の威勢拡大を企図しながら自身の孫・カール5世の娘婿オッタヴィオ・ファルネーゼへの封与を提案し、カール5世は自身の子フェリペ2世による領有の現状維持を目論み、カール5世(2)についてパウルス3世はカール5世・フランソワ1世戦の終結までの延期を図り、カール5世は自身とフランソワ1世の間で中立を装うパウルス3世に不満を抱きながら自派の枢機卿の増員・トレントでの早期開催を主張するなど、懸案のいずれについても合意できずに終わる。
1543年11月
フェリペ2世、スペイン・サラマンカで従姉妹・ポルトガル王ジョアン3世の娘マリーア・マヌエラ・デ・ポルトガル(?~1545年)と結婚。
1548年11月22日
帝国内のみならず支配圏全域に長子を自らの後継者として認知させようと目論む父カール5世の指示に従いスペインを発ったフェリペ2世、アンドレア・ドーリアの艦隊でこの日ジェノヴァに着き、アンドレア・ドーリアの館に入る。イタリアの各諸侯、自ら、あるいは特使を送ってフェリペ2世に貢納。フェリペ2世は後パヴィアを経てミラノに向かう。
1548年
コジモ1世・デ・メディチ、Giordano Orsiniを名代としてトリノに送り、フェリペ2世アンリ2世に表敬。
1549年1月8日
1549年4月1日
フェリペ2世、マントヴァ、トレント、及びドイツ各地を経てネーデルラントに入り、この日カール5世に迎えられてブリュッセルに着く。以後、ネーデルラント各地を巡行。
1551年3月9日
カール5世、フェルディナンド、両名の妹でネーデルラント総督・前ハンガリー・ボヘミア王妃マリア・フォン・ハプスブルク及びフェリペ2世の4者、アウグスブルクで長い協議を続けた末、神聖ローマ皇帝位をハプスブルク家のドイツ、スペイン両系統が交互に継承すること、すなわちカール5世の後を弟フェルディナンドが継いで帝位に就き、フェルディナンドの後をカール5世の子フェリペ2世が継いでローマ人の王となり、その後をフェルディナンドの子マクシミリアン2世が継ぐことを、マリア・フォン・ハプスブルクの懸命な仲介によってようやく取り決める。
1552年
ニッコロ・マキアヴェッリのDiscorsi、おそらく1540年11月Comin de Trino版を底本として、Iuan Lorenço Oteuantiによってスペイン語に翻訳され、訳者の「スペインの君主フェリペ殿下」への献辞を付されてスペイン北西部メディーナ・デル・カンポのGuillermo de Millis書房より刊。
1553年12月
ネーデルラント支配の安定化、イングランドにおけるカトリックの復活及びイングランドのスペイン=ハプスブルク帝国への併呑を狙うカール5世の主導の下、フェリペ2世とメアリー1世、婚約。
従兄弟フェリペ2世は同信カトリック教徒で良き相談相手である上、そのフェリペ2世にイングランドにとって経済的に重要なネーデルラントをドイツから分離して委ねるとの好餌を与えられたメアリー1世、カール5世のこの政略に喜んで服従。
しかしこの婚約成立過程ですでに、これをスペイン=ハプスブルク帝国への屈服とみる貴族及び民衆の間に広まり深まった反スペイン感情、反ローマ教会感情、及び両者の重畳する中で生じたナショナリズムの感情を背景として、婚約阻止を目指す反乱の動き顕在化する。この1つの首謀者・デヴォンシャーの軍人Peter Carew(1514年~1575年)、計画が発覚しヴェネツィアに逃亡。
1553年末
1553年9月デヴォンシャー伯に任じられたばかりの故Edward IVの曾孫・好男子Edward Coutenay(1526年頃~1556年)と彼に気をひかれているエリザベスを結婚させ、2人をメアリー1世とフェリペ2世に代えて王位に就けようとする陰謀、固まる。
1554年1月14/15日
メアリー1世とフェリペ2世の婚約、正式に調印され、公表される。
1554年4月22日
メアリー1世、初めてフェリペ2世に手紙を書き、1554年4月2日以後開会されている議会(~1554年5月5日)で両者の結婚は承認されたと伝える。
この承認の過程でS. Gardiner、議会に対し、スペイン=ハプスブルク帝国によるイングランド支配を可能ならしめないためのあらゆる対策が講じられたと懸命に説明。
1554年7月20日
フェリペ2世、Southumptonに上陸しイングランドに入る。
1554年7月25日
メアリー1世とフェリペ2世の結婚式、ウィンチェスターの大聖堂で挙行される。
挙式直前、カール5世の特使Suárez de Figueroa(1500年代初頭?~1571年)、カール5世がフェリペ2世にナポリを委譲したと公表。
1554年11月25日
1554年11月20日フェリペ2世・メアリー1世両王の差し向けた多数の貴族や聖職者に迎えられてドーヴァーに上陸しイングランドに入ったユリウス3世の全権特使Reginald Pole、イングランド議会が行うべきローマ教会との和解の方法についてS. Gardinerと協議。1554年11月26日これについて両王と約定。
1554年11月30日
イングランド議会、王宮大広間に召集される。その場でフェリペ2世・メアリー1世両王、教会分離をもたらしたことについてReginald Poleに赦免を願い出、Reginald Poleは教皇全権特使としてイングランドの教会のローマカトリック教会の下への再帰属を神に感謝する演説を行い、両王初め出席者全員、跪いて赦免を拝受。
議会の議決を通じてローマ教会からの分離を実現してきたイングランド教会、また議会の議決によりローマ教会への再帰属を実現。ローマ教会も同じく、イングランド議会の議決により失ったイングランドにおける権力を当の議会の議決により回復。
1554年12月25日
メアリー1世とフェリペ2世、クリスマスの祝いの席にエリザベスを招待。
1555年9月4日
フェリペ2世、カール5世の譲位式に出席のため、ドーヴァーからイングランドを離れブリュッセルに向かう。
1555年10月25日
ネーデルラントに半ば引退(1553年)後もフェリペ2世・メアリー1世の結婚を実現させて(1554年)普遍的帝国実現の希望を蘇らせたカール5世、その結婚から期待した子を得られずに希望が潰え、アンリ2世とパウルス4世の接近(1555年8月~)を知り、宗教問題もフェルディナンドに委ねて敗北し(1555年9月)、ついにブリュッセルで譲位式を挙げ、ネーデルラント及びイタリアを列席のフェリペ2世に正式に委譲。
1555年12月25日
アンリ2世とフェリペ2世、カンブレーの南方Vaucellesの修道院で休戦交渉を開始。
この交渉にあたってReginald Pole、メアリー1世の承認を得た上、書簡などでアンリ2世とフェリペ2世に和平を強く働きかけた他、特使・ベネディクト会修道士Vincenzo Parpaglioに和平実現のために尽力させる。
1555年
ニッコロ・マキアヴェッリのDiscorsi、1552年スペイン語訳版が訳者Iuan Lorenço Oteuantiの「イングランド王、ナポリ王にしてスペインの君主フェリペ殿下」への献辞を付されて、同じメディーナ・デル・カンポのGuillermo de Millis書房より刊。
1556年1月16日
カール5世、スペイン王位とスペイン領及び新大陸などその植民地をフェリペ2世に委譲(スペイン王カルロス1世在位1516年~)。
これによりフェリペ2世、スペイン王となりフェリペ2世を名乗る(在位~1598年)。
1556年2月5日
アンリ2世とフェリペ2世のVaucellesでの休戦交渉(1555年~)、アンリ2世は(1)メス、トゥール、ヴェルダンの3司教領を領有、(2)オスマン・トルコやイタリアの君主を相手とする全ての同盟を維持、(3)ピエモンテの現状を維持、フェリペ2世は(1)北フランス・テルアーヌ、エダンを領有の上、5年間休戦、を約定し、フェリペ2世及びカール5世の実質的敗北裏に妥結(Vaucellesの休戦協定)。
これにより、カール5世の退位を機にイタリアをスペイン=ハプスブルク帝国から解放しようとのパウルス4世の企図、中断される。
1556年6月27日
パウルス4世、フェリペ2世のナポリ王廃位を宣言する理由を探し始める。
これを察知したフェリペ2世、コジモ1世・デ・メディチとオッタヴィオ・ファルネーゼの支持を確保すべく工作を開始。
1556年9月1日
フェリペ2世のナポリ総督・アルバ公Fernando Álvares de Toledo(1507年~1582年)、パウルス4世が抱いているイタリアからの、とりわけナポリからのスペイン=ハプスブルク勢力駆逐の企図を砕くべく、大軍を率い、Marcantonio Colonnaら反パウルス4世の貴族も同道してナポリを発ち、教会領に向かう。
以後、1556年9月半ばまでにフロジノーネ、アラトリ、アナーニなどCampagna Romanaの教会領各地を次々と占領しローマに迫る。ローマ市内に包囲・劫掠の恐れ、強まる。
1556年9月12日
カール5世、パウルス4世を無視して神聖ローマ皇帝位(在位1519年~)と帝国版図を弟フェルディナンドに委譲。この委譲と、1556年1月のスペイン王位及びその領土・直轄地のフェリペ2世への委譲とにより、ハプスブルク家の分裂とそのスペイン王朝化、明白となる。
これに対しパウルス4世、教皇の承認なき帝位の委譲を無効とし、この旨を厳しく伝える書簡を選帝侯たちに送る。
1556年9月15日
フェリペ2世、オッタヴィオ・ファルネーゼにピアチェンツァを返還。後ノヴァーラも返還。但し両地の城塞はなおスペイン軍の配下に置く。これによりオッタヴィオ・ファルネーゼ、パウルス4世・アンリ2世に対抗するフェリペ2世支持に大きく傾く。
1556年9月16日
フェリペ2世のナポリ総督Fernando Álvares de Toledo、占領した教会領各地は枢機卿会議の名で保有し、将来の教皇に返還すると声明。
これに対しパウルス4世、これらの地の全面返還がなされない限り一切の交渉を拒絶する意を固め、側近枢機卿たちの交渉促進の勧告を斥ける。
1556年10月
オッタヴィオ・ファルネーゼ、フェリペ2世支持を明確化する。
1557年
40日間の休戦協定(1556年11月27日)の期限が切れた後、ローマにあったピエロ・ストロッツィの指揮するパウルス4世軍、オスティア、ティヴォリ、ヴィコヴァーロなど1556年Fernando Álvares de Toledo指揮のフェリペ2世軍に占領された各地を次々と奪回。
1557年5月9日
フェリペ2世、エルバ島を含むピオンビーノ領をコジモ1世・デ・メディチから返還させ、本来の領主ヤコポ4世・ダッピアーノに再び領有させることを承認。但しコジモ1世・デ・メディチが要塞化した(1548年)ポルトフェッライオのみはコジモ1世・デ・メディチに引き続き領有を認める。
1557年6月7日
メアリー1世、フェリペ2世の要請をいれ、Reginald Poleの制止勧告を無視してアンリ2世に宣戦布告。10日後ペンブルック伯William Herbert(1501年?~1570年:在位1551年~1570年)指揮の軍を、フェリペ2世がサヴォイア公エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアの指揮のネーデルラントに結集した大軍に合流させる。
1557年7月3日
シエナがカラーファ一族ないしファルネーゼ一族に委譲されるとの噂に危機感を覚え、フェリペ2世に対して、これまでの巨額の貸し付けを仄めかすと共にパウルス4世・アンリ2世からの同盟加入の勧誘と彼らへの接近の必要性とを示唆しながらシエナ委譲を迫ってきたコジモ1世・デ・メディチ、ようやくフェリペ2世と、(1)シエナを受領する(但しタラモーネ、ポルト・エルコーレ、オルベテッロなど海岸地帯はフェリペ2世の直轄領とする)、(2)ピオンビーノをフェリペ2世に返還する(但しエルバ島のポルトフェッライオは引き続き領有する)、(3)フェリペ2世に対する債権は全て放棄することを協定。
1557年8月10日
フランドルからフランスに侵攻したエマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア指揮下5万7千のフェリペ2世の大軍、パリ北東百キロ余りのサン・カンタンに籠るアンヌ・ド・モンモランシー指揮の2万4千のアンリ2世軍を包囲し大破。2日後サン・カンタンに入ったWilliam Herbert指揮のメアリー1世軍、アンヌ・ド・モンモランシー自身とその子らを捕囚とする。
1557年10月初旬
フェリペ2世、パウルス4世・アンリ2世同盟軍の総指揮官として敵対してきたエルコーレ2世・デステに復讐すべくオッタヴィオ・ファルネーゼ指揮の軍を差し向ける。「Caveの和」から漏れた形のエルコーレ2世・デステ、孤立。
コジモ1世・デ・メディチなどからの援軍よりなるオッタヴィオ・ファルネーゼ指揮のフェリペ2世軍、モンテッキオ、サン・ポーロ、カノッサ、スカンディアーノなどを次々と占領。これに対しエルコーレ2世・デステ軍も反撃し、パルマの市の城門にまで迫る。
1557年初冬
孤立感を深めるエルコーレ2世・デステ、コジモ1世・デ・メディチを介してフェリペ2世との和解の方途を探り始める。
1558年1月7日
François I de Lorraine指揮のアンリ2世軍、メアリー1世・フェリペ2世軍を破りカレーを制圧。1558年1月8日François I de Lorraine、カレーに入る。イングランドは大陸における拠点を失う(1347年~)。
1558年初旬
この頃?、エルコーレ2世・デステの長男アルフォンソ2世・デステ(1533年~1597年:フェッラーラ・モデナ・レッジョ公1559年~1597年)指揮の軍、1557年秋オッタヴィオ・ファルネーゼ軍に占領されたサン・ポーロ、カノッサ、グァルダゾーネとその城塞、などを奪回すると共に繰り返しパルマの市の城門に迫る。
これに対しオッタヴィオ・ファルネーゼ軍、ミラノのフェリペ2世陣営から軍を、コジモ1世・デ・メディチから戦費を得て反撃し、グァルダゾーネの城塞を取り戻す。
1558年5月18日
フェリペ2世、1557年末からのFernando Álvares de Toledoを介してのコジモ1世・デ・メディチの働きかけに応じ、パウルス4世・アンリ2世陣営を離れて中立を維持することを条件にエルコーレ2世・デステを赦免。両者和解しエルコーレ2世・デステはフェリペ2世に占領された(1557年)領地を回復。
1558年6月18日
コジモ1世・デ・メディチ、フェリペ2世とエルコーレ2世・デステの和解(1558年5月)の保障として娘ルクレツィア・デ・メディチ(1545年~1561年)をエルコーレ2世・デステの長男アルフォンソ2世・デステに与え、この日、その結婚式をフィレンツェで盛大に挙行。
1558年6月20~22日
メス近郊ティオンヴィルを包囲していた(1558年6月~)François I de Lorraine指揮のアンリ2世軍、これを奪回しフェリペ2世軍を追放。
この戦闘の中でピエロ・ストロッツィ戦死(1510年頃~)。この報を得たアンリ2世、宮廷内を喪に服させる。
1559年4月3日
アンリ2世とフェリペ2世、この8年間に征服・奪取した領地を相互に返還する(但しアンリ2世はメス、トゥール、ヴェルダンの3司教領は領有する)ことを基本として(1)アンリ2世はコルシカをジェノヴァに、モンタルチーノをフィレンツェに、トリノ、キエーリ、ピネローロ、キヴァッソ及びヴィッラノーヴァ・ダスティを除くピエモンテとサヴォイアをサヴォイア公エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアにそれぞれ返還し、イタリアに対する要求を全て放棄すること、(2)フェリペ2世はアスティとヴェルチェッリを領有し、アンリ2世の娘Elisabeth de France(1545年~1568年)と結婚すること、(3)エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアは両者の間で中立を保ち、2か月以内にアンリ2世の妹マルグリット・ド・ヴァロワ(1523年~1574年)と結婚すること、などを協定。
この和により対外的配慮・戦闘態勢の持続から解放された両者、それぞれの領国における信仰問題に最優先的に取り組み始める。とりわけアンリ2世は、ナポリ、ミラノに続いてこの和によりコルシカ、サヴォイア、ピエモンテを失いかつイタリア制覇の企図の全面的破綻・全ヨーロッパにおける影響力の著しい減少が明白化したことに対する憤激と悲嘆が領国内部に深まる中、異端の撲滅・信仰の単一化による国家的統一の推進を目指す。
シャルル8世の侵攻(1494年)以来の絶えざる戦乱で疲弊したイタリア、この和を歓迎しながら、スペイン=ハプスブルク帝国の覇権下に陥る。
フランス軍庇護下でシエナ亡命者たちが保ってきたモンタルチーノ小共和政、モンタルチーノがコジモ1世・デ・メディチの領有下に入ったことにより、崩壊(1555年~)。1559年7月までにモンタルチーノは全面的にコジモ1世・デ・メディチに服属。
1559年8月20日
カール5世からのネーデルラント委譲の式典(1555年)以降ネーデルラントにあったフェリペ2世、ヨーロッパにおける覇権を目指すべくスペインに向かう。
ネーデルラントについてはフェリペ2世、異母姉マルゲリータ・ディ・パルマ(パルマ公・ピアチェンツァ公オッタヴィオ・ファルネーゼの妃)を摂政に任じ(在位~1567年)、警察・裁判、財務、国務の3顧問会議と王室顧問会議を設けて統治の実務に当たらせる。以後、王室顧問会議の最高顧問A. P. de Granvelle(在位~1564年)の過酷なプロテスタント弾圧に対する政治的・宗教的不満、高じ、反抗運動、芽生える。
1560年
1565年6月14日~7月2日
カトリーヌ・メディシス、シャルル9世を伴い、スペインとの領国境界に近いバイヨンヌでフェリペ2世の2人の代理、彼の妻で自身の娘Elisabeth de France及びFernando Álvares de Toledoと会談。フェリペ2世側から異端の徹底弾圧を求められそれに対する支援を申し出られるが、何ら言質を与えずに会談を終える。しかしこの会談自体にユグノーは弾圧強化の危惧の念を強める。
1565年9月7日
オスマン・トルコの大水軍、フェリペ2世軍やコジモ1世・デ・メディチの小水軍の救援を得たマルタ島を攻略しきれず、撤退を始める。
1565年10月
フェリペ2世、ネーデルラントにおける統治改革の要求を全て拒否すると共に異端をさらに厳しく取り締まるよう命ずる通達を発する。
1565年11月
フェリペ2世の通達、ブリュッセルに届く。以後、この年末にかけて中小貴族ら、盟約(Compromiss(妥協))を結び、異端審問の廃止を求めるなどプロテスタント迫害に対する抗議行動を始める。
1566年8~9月
1566年4月の請願もフェリペ2世にいれられないまま経済危機・物価高騰に見舞われたネーデルラントで、生活を脅かされた中・北部地方の民衆、カルヴィン派を中心に教会略奪・聖像破壊などの暴動を続ける。
1570年3月5日
ピウス5世、この日のために1570年2月18日ローマに入ったコジモ1世・デ・メディチに、システィーナ礼拝堂でトスカーナ大公の冠を授与。
これに対し、当初は静観していたフェリペ2世が教皇の世俗権力への介入・干渉とコジモ1世・デ・メディチの権力の増大を懸念してナポリ王・ミラノ公の名で反対に回ったのを初め、1570年3月29日マクシミリアン2世も重ねて反対の意を表明。
1570年秋
アンダルシア・アルプハラス地方のMoro人反乱(1568年~)、フェリペ2世の異母弟・(故カール5世の庶出の子)フアン・デ・アウストリア(1545年~1578年)指揮のフェリペ2世軍に鎮圧され、Moro人は強制移住・分散させられる。
1570年
フェリペ2世、マクシミリアン2世の長女アナ・デ・アウストリア(1549年~1580年)と結婚。
1571年5月20日
対トルコ十字軍の理念を唱えるピウス5世を中心に、ヴェネツィア、フェリペ2世の三者、対オスマン・トルコ神聖同盟をローマで秘密裏に締結。
この神聖同盟とトスカーナ大公コジモ1世・デ・メディチ、サヴォイア公エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア、パルマ・ピアチェンツァ公オッタヴィオ・ファルネーゼ、ウルビーノ公グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ、ジェノヴァ、マルタ騎士団とが提携し、直ちに共に同盟軍の編成に着手。
1571年10月7日
レパント沖の海戦:結集していたシチリア島メッシーナを出てイオニア海諸島に向かったフアン・デ・アウストリア指揮の神聖同盟軍(200隻余のガレー船、1800門余の大砲、8万前後の兵員)、マホメッド・アリ・パシャ指揮のオスマン・トルコ水軍(280隻余のガレー船、750門余の大砲、8万8千余の兵員)がレパントに結集していると知って急襲し、激戦の末、大勝利を収める。しかしこれを壊滅させるまでには至らずに終わる。
この勝利によりイタリア、当面オスマン・トルコの直接の脅威からは解放されたものの、神聖同盟軍の半数を占めたフェリペ2世の専制支配の下にさらに深く陥る。
1572年
1571年からこの頃までに(?)コジモ1世・デ・メディチ、自身のトスカーナ大公位をなお承認しないフェリペ2世とマクシミリアン2世への反発を根にし、ピウス5世の支持を背にして使者をフランスに送り、まずLa RochelleでLodewijkに、トスカーナ大公である自分とシャルル9世による反フェリペ2世・マクシミリアン2世同盟を提示。次いでこの同盟案をG. de Colignyを介してシャルル9世に提示して同意を得るが、カトリーヌ・ド・メディシスの同意を得られる見込みがないとみて、最終的に撤回。
1573年3月7日
レパント沖の海戦(1571年)による勝利後、一方で同盟国スペイン・フェリペ2世と東地中海における相互の地位などを巡って両立困難な状態に陥り、他方で、水軍を再建して再び立ち向かう姿勢を見せるオスマン・トルコの前に孤立し始めたヴェネツィア、カトリーヌ・メディシスの仲介でオスマン・トルコと、オスマン・トルコのキプロス島及びダルマシアの領有(1540年~)の継続、相互の特権付与、などを含む単独講和をイスタンブール(コンスタンティノープル)で締結。
1573年10月
フアン・デ・アウストリア指揮のフェリペ2世軍、オスマン・トルコに占領されていた(1569年~)チュニスを奪回。
1573年11月17日
1572年フェリペ2世によりネーデルラント総督に任命されたミラノ総督Luis de Requesens y Zúñiga(1528年~1576年)、この日ブリュッセルに到着。以後、騒乱対策委員会(血の法廷:1567年~)を廃止するなど、Fernando Álvares de Toledoの強圧策に代えて融和策を実施(在位~1576年)。
以後、融和主義者Luis de Requesens y Zúñigaの死(1576年3月)後のフェリペ2世軍の暴虐に抗してネーデルラント南北両部諸州、1576年11月8日平和協定を結んで団結(ヘントの和約)したものの、南部諸州は後任総督・(前摂政マルゲリータ・ディ・パルマの子)アレッサンドロ・ファルネーゼ(1545年~1592年:ネーデルラント総督在位1578年~1586年:パルマ・ピアチェンツァ公在位1586年~1592年)の工作に乗って、1579年1月6日フェリペ2世とカトリック擁護・フェリペ2世への服従を約定し(アラス同盟)、これに対して北部7州が1579年1月23日スペインへの抵抗を約定し(ユトレヒト同盟)、ネーデルラントは南北に分裂。
さらに北部7州は、1581年7月26日フェリペ2世への服従拒否・スペインからの独立を宣言し、ネーデルラント共和国(オランダ共和国)を創立。1648年10月国際的に承認される(ヴェストファーレン条約)。
1574年8月
ウルグ・アリ(?~1587年)指揮のオスマン・トルコ水軍、1573年10月フェリペ2世軍により奪還されたチュニスを再奪還。以後、オスマン・トルコのチュニス支配続く(~1881年)。
別表記
フェリーペ2世、フィリップ
異名
慎重王(el Prudente)
外部リンク
ウィキペディア
Find A Grave
Genealogy.EU
The Medici Archive Project
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『西洋拷問刑罰史』
『世界悪女大全』
『世界大百科事典』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『ハプスブルク家』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『魔女狩り』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの歴史』
『ルネサンス百科事典』
『ルネサンス舞踊紀行』
記載日
2005年5月29日以前