Julius III

ユリウス3世

生没
1487年9月10日~1555年3月23日
出身
ローマ
没地
ローマ

概要

 ジョヴァンニ・マリーア・チオッキ・デル・モンテは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、第221代教皇ユリウス3世。

在位

 枢機卿 1536年12月22日~1550年
 サンタ・プラッセーデ司祭枢機卿 1542年~1543年
 第221代教皇 1550年~1555年

年表

1545年3月15日

この日、トレントで開催予定の公会議、パウルス3世の特使・枢機卿Reginald Pole、ジョヴァンニ・マリーア・チオッキ・デル・モンテ、マルチェロ・チェルヴィーニの他数名の司教・枢機卿しか集まらず、開催できずに終わる。

1547年3月11日

パウルス3世の特使ジョヴァンニ・マリーア・チオッキ・デル・モンテらトレント公会議の多数派、パウルス3世の意を付度し、シュマルカルデン戦争における勝利を確定的にしたカール5世の圧力を回避すべく、発疹チフスの流行で会議参加者にも罹患・死亡が相次いでいることを理由に会議のボローニャ移転を決議。少数反対派はトレントに残留することを決め、これを支持するカール5世は以後、威嚇してボローニャ会議での決議宣言を阻止し続ける。

1550年2月8日

枢機卿ジョヴァンニ・マリーア・チオッキ・デル・モンテ(1487年~:在位1536年~)、教皇に即位し、ユリウス3世を名乗る(在位~1555年)。

教皇選出枢機卿会議、カール5世派の枢機卿が推すReginald Poleを再三、首位に立てながら決定できず、対立するカール5世アンリ2世両派に中立的なジョヴァンニ・マリーア・チオッキ・デル・モンテを立てることでようやく決着。

教皇ユリウス3世、コジモ1世・デ・メディチの使節団全員にCavaliere(騎士)の称号を与えて歓迎し、コジモ1世・デ・メディチがアレッツォ近くのモンテ・サン・サヴィーノをdel Monte家に委譲するよう求める。ユリウス3世の自家勢力拡大策(nepotismo)、早くも始まる。

1550年2月17日

ユリウス3世、教皇選出枢機卿会議における選挙協約に従い、オッタヴィオ・ファルネーゼパルマを封与。1550年2月25日オッタヴィオ・ファルネーゼパルマに入る。

1550年2月17日

ユリウス3世、コロンナ家を赦免。

1550年3月20日

ユリウス3世、兄Baldovino del Monte(1485年~1556年)にスポレートを封与。

1550年

ジョアン・マヌエル・デ・ポルトゥガルに黄金の薔薇を授与。

1550年

コジモ1世・デ・メディチ、新教皇ユリウス3世のもとにGirolamo GuicciardiniPiero Salviatiら6名の貴族からなる使節団を送り、教皇即位への祝意を表明。

1550年7月2日

ユリウス3世、女乞食の捨て子で自分が育てて兄Baldovino del Monteの養子としたInnocenzo del Monte(1533年頃?~1577年)を、秘密枢機卿会議で強い反対を押し切って枢機卿に叙任。しかし以後も極めて強い非難・反発が続く。

1550年7月26日

ユリウス3世、甥(兄Baldovino del Monteの子)Giovan Battista del Monte(1518年~1552年)にフェルモを封与。

1550年7月

コジモ1世・デ・メディチ、ユリウス3世にモンテ・サン・サヴィーノを無条件で委譲。これをユリウス3世、兄Baldovino del Monteに封与。

1550年8月30日

ユリウス3世、甥Giovan Battista del Monteネピを封与。

1550年8月

ユリウス3世、兄Baldovino del Monteにカメリーノを封与。

1550年11月14日

ユリウス3世、教皇選出会議における選挙協約に従い、この日、秘密枢機卿会議で1551年5月1日トレントに公会議を招集することを決める。1550年11月15日、勅書を発して公表。

1550年

この年、イタリア全土で大飢饉。ローマなどで多数の餓死者が出る。

1551年

サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂黄金の薔薇を授与。

1551年5月1日

トレント公会議、ユリウス3世の下での第1回会議を開くが、開会の教皇勅書などを朗読後、カール5世の威勢によりドイツ人の、とりわけプロテスタントの散会が実現する時を待つべく、閉会。

1551年5月22日

ユリウス3世、他の王侯を奉じあるいはその軍を招くことを1551年2月以来しばしば禁じてきたにもかかわらず、パルマミラノに併合しようと狙うカール5世に抗すべくアンリ2世と同盟締結の協議を続けるオッタヴィオ・ファルネーゼに関し、この日の枢機卿会議で、叛徒とみなして教会の旗手の任を解き(1548年~)、封土パルマでの全権を剥奪することを決める。

1551年5月27日

オッタヴィオ・ファルネーゼアンリ2世と同盟を結んで軍資金と武器の援助を約束される。

これに憤激したカール5世、直ちにオッタヴィオ・ファルネーゼから、自らがその父ピエル・ルイジ・ファルネーゼに封与した(1538年)ノヴァーラなどを取り上げ、ユリウス3世の甥Giovan Battista del Monteに封与。

1551年6月12日

オッタヴィオ・ファルネーゼ軍とフェッランテ・ゴンザーガ指揮のユリウス3世軍、戦闘を開始。ユリウス3世軍はすぐパルマを包囲するが、後ピエロ・ストロッツィ指揮のアンリ2世軍に解かれる。

1551年9月4日

すでに深刻な財政危機に陥っているのみならず戦闘の公会議への計り知れない影響を懸念するユリウス3世、アンリ2世に和平を求める書簡を送り、4日後、さらに特使を送る。

1551年12月半ば

ユリウス3世、カール5世に、財政上の理由から北部イタリアにもはや軍を維持することはできないと伝え、数日後、アンリ2世との和平交渉の状況を伝える。この頃カール5世も資金欠乏のため兵の補充に甚だしく難渋。

1552年1月24日

1552年1月ようやくドイツからカトリック、プロテスタント両派の出席を得たトレント公会議、Moritzの使節が主張する、教皇に対する公会議優位説を否認。

1552年2月5日

アンリ2世の特使・枢機卿François de Tournonローマに入り、直ちにユリウス3世に和平条件——(1)パルマオッタヴィオ・ファルネーゼのもとに残す、(2)2年間休戦する、(3)休戦期間経過後の協定についてはオッタヴィオ・ファルネーゼに一任する、など——を提示。

1552年4月14日

教会の旗手・フェルモとネピとノヴァーラの君主Giovan Battista del Monte、ミランドラ包囲戦で死(?~:教会の旗手在位1551年~:フェルモ・ネピの君主在位1550年~:ノヴァーラの君主在位1551年~)。ユリウス3世、フェルモとネピを故人の父Baldovino del Monteに封与。

1552年4月24日

シャンボール同盟の対カール5世戦争が続く中、ユリウス3世、教会改革(教皇至上権の弱化・司教権の弱化)を狙うスペイン人司教たちの反対を抑えてトレント公会議の延期を決定。4日後、その勅書を発する。

1552年4月29日

ユリウス3世、1552年2月に提示された条件を飲み、アンリ2世と休戦協定を結ぶ。両者、カール5世のこの協定への加入については彼自身の判断に任せる。これによりオッタヴィオ・ファルネーゼパルマ領有、再確認される。

1552年5月10日

ユリウス3世とアンリ2世の和平協定を阻止したかったカール5世、軍資金の欠乏とドイツ領内での反乱に見舞われ、やむなくこの協定を承認。

1552年8月13日

シエナからのアンリ2世軍の駆逐・シエナ奪還のためナポリで進軍の準備を始めたペドロ・デ・トレドがその途上ローマ劫掠を狙うとの噂が流れる中、1551年のパルマ争奪戦ですでに財政危機に陥っていたユリウス3世、コジモ1世・デ・メディチの勧奨をいれて、シエナ出身の枢機卿Fabio Mignanelliを特使としてシエナに送り、アンリ2世軍の領内からの撤退・外国勢力の介入防止とそれによるシエナの自立と平穏の確保を勧告するが、失敗に終わる。

この頃?、コジモ1世・デ・メディチDiego Hurtado de MendozaFransicso Albaからシエナの反乱・離反はひとえにコジモ1世・デ・メディチの責任であるとの報告を受けていたカール5世のもとに特使Ippolito da CorreggioLeone Santiを送り、嫌疑を晴らすべく事態を説明すると共にいずれ無謀なシエナに制裁を加えると誓約。

1552年8月31日

ユリウス3世、イグナティウス・デ・ロヨラの発案によるドイツ語圏の司祭の教育のためのCollegium Germanicum(ドイツ学院)の設立を認可。

1552年9月末

ユリウス3世、カール5世アンリ2世の仲介を目指し、そのための方策を策定するよう4名の枢機卿からなる委員会に命ずる。

1552年11月末

ユリウス3世、ナポリペドロ・デ・トレドのもとに特使ベルナルド・デ・メディチを送り、シエナへの進軍を待つよう説得。

1552年12月末

シエナを目指すペドロ・デ・トレド指揮のカール5世軍(スペイン軍)によるローマ劫掠の不安が強まる中、ユリウス3世、再びナポリペドロ・デ・トレドのもとに特使Achille de' Grassiを送って和平を説くが失敗に終わる。

1553年頭

ペドロ・デ・トレド、30隻のガレー船を率いてチヴィタヴェッキア経由リヴォルノに向かう。同時に子ガルシア・デ・トレドを軍と共に教会領経由コルトーナに向かわせる。ユリウス3世は中立保持の姿勢を保ちながらガルシア・デ・トレドとその軍の教会領通過を許可。

1553年2月上旬

この頃?、ガルシア・デ・トレド指揮のカール5世軍(スペイン軍)、イタリアにおけるカール5世軍の指揮官の1人(1552年~)でペドロ・デ・トレドによりシエナ攻撃イタリア人歩兵隊指揮官に任じられたユリウス3世の甥Ascanio della CorniaCorgna:1513年~1571年)がコジモ1世・デ・メディチの同意を得て集めた歩兵隊と合流し、シエナ領に入る。

1553年

熱心なカトリック信徒メアリー1世のイングランド王即位を伝えられたユリウス3世、即日、枢機卿会議を開き、彼女の従兄弟・枢機卿Reginald Poleを自身の全権特使として彼女のもとに送ることを決める。

1554年11月25日

1554年11月20日フェリペ2世メアリー1世両王の差し向けた多数の貴族や聖職者に迎えられてドーヴァーに上陸しイングランドに入ったユリウス3世の全権特使Reginald Pole、イングランド議会が行うべきローマ教会との和解の方法についてS. Gardinerと協議。1554年11月26日これについて両王と約定。

1554年12月25日

フェリペ2世祝福された剣と帽子を授与(1550年)。

1555年

メアリー1世黄金の薔薇を授与。添付の小勅書に1月26日の日付。

1555年3月23日

死。

本名

 ジョヴァンニ・マリーア・チオッキ・デル・モンテ、Giovanni Maria de' Ciocchi del Monte

別表記

 ジューリオ3世

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
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 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church

参考文献

 『メディチ家の人びと』
 『ルネサンスの歴史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『Lucretia Borgia

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2023年9月24日