Julius III

ユリウス3世

生没:1487年~1555年
在位:枢機卿 1536年12月22日~1550年
       任命した教皇:パウルス3世
   第221代教皇 1550年~1555年
    先代:パウルス3世
    次代:マルケルス2世

概要

 ジョヴァンニ・マリーア・チオッキ・デル・モンテは、15世紀~16世紀の男性、聖職者、第221代教皇ユリウス3世。

年表

1545年3月15日
この日、トレントで開催予定の公会議、パウルス3世の特使・枢機卿Reginald Poleジョヴァンニ・マリーア・チオッキ・デル・モンテ(1487年~1555年:在位1536年~:教皇在位1550年~1555年)、マルチェロ・チェルヴィーニ(1501年~1555年:在位1539年~:教皇在位:1555年)の他数名の司教・枢機卿しか集まらず、開催できずに終わる。
1547年3月11日
パウルス3世の特使ジョヴァンニ・マリーア・チオッキ・デル・モンテらトレント公会議の多数派、パウルス3世の意を付度し、シュマルカルデン戦争における勝利を確定的にしたカール5世の圧力を回避すべく、発疹チフスの流行で会議参加者にも罹患・死亡が相次いでいることを理由に会議のボローニャ移転を決議。少数反対派はトレントに残留することを決め、これを支持するカール5世は以後、威嚇してボローニャ会議での決議宣言を阻止し続ける。
1550年2月8日
枢機卿ジョヴァンニ・マリーア・チオッキ・デル・モンテ(1487年~:在位1536年~)、教皇に即位し、ユリウス3世を名乗る(在位~1555年)。
教皇選出枢機卿会議、カール5世派の枢機卿が推すReginald Poleを再三、首位に立てながら決定できず、対立するカール5世アンリ2世両派に中立的なジョヴァンニ・マリーア・チオッキ・デル・モンテを立てることでようやく決着。
教皇ユリウス3世コジモ1世・デ・メディチの使節団全員にCavaliere(騎士)の称号を与えて歓迎し、コジモ1世・デ・メディチがアレッツォ近くのモンテ・サン・サヴィーノをdel Monte家に委譲するよう求める。ユリウス3世の自家勢力拡大策(nepotismo)、早くも始まる。
1550年2月17日
ユリウス3世、教皇選出枢機卿会議における選挙協約に従い、オッタヴィオ・ファルネーゼパルマを封与。1550年2月25日オッタヴィオ・ファルネーゼパルマに入る。
1550年2月17日
ユリウス3世コロンナ家を赦免。
1550年3月20日
ユリウス3世、兄Baldovino del Monte(1485年~1556年)にスポレートを封与。
1550年
コジモ1世・デ・メディチ、新教皇ユリウス3世のもとにGirolamo GuicciardiniPiero Salviatiら6名の貴族からなる使節団を送り、教皇即位への祝意を表明。
1550年7月2日
ユリウス3世、女乞食の捨て子で自分が育てて兄Baldovino del Monteの養子としたInnocenzo del Monte(1533年頃?~1577年)を、秘密枢機卿会議で強い反対を押し切って枢機卿に叙任。しかし以後も極めて強い非難・反発が続く。
1550年7月26日
ユリウス3世、甥(兄Baldovino del Monteの子)Giovan Battista del Monte(1518年~1552年)にフェルモを封与。
1550年7月
コジモ1世・デ・メディチユリウス3世にモンテ・サン・サヴィーノを無条件で委譲。これをユリウス3世、兄Baldovino del Monteに封与。
1550年8月30日
ユリウス3世、甥Giovan Battista del Monteネピを封与。
1550年8月
ユリウス3世、兄Baldovino del Monteにカメリーノを封与。
1550年11月14日
ユリウス3世、教皇選出会議における選挙協約に従い、この日、秘密枢機卿会議で1551年5月1日トレントに公会議を招集することを決める。1550年11月15日、勅書を発して公表。
1550年
この年、イタリア全土で大飢饉。ローマなどで多数の餓死者が出る。
1551年5月1日
トレント公会議、ユリウス3世の下での第1回会議を開くが、開会の教皇勅書などを朗読後、カール5世の威勢によりドイツ人の、とりわけプロテスタントの散会が実現する時を待つべく、閉会。
1551年5月22日
ユリウス3世、他の王侯を奉じあるいはその軍を招くことを1551年2月以来しばしば禁じてきたにもかかわらず、パルマミラノに併合しようと狙うカール5世に抗すべくアンリ2世と同盟締結の協議を続けるオッタヴィオ・ファルネーゼに関し、この日の枢機卿会議で、叛徒とみなして教会の旗手の任を解き(1548年~)、封土パルマでの全権を剥奪することを決める。
1551年5月27日
オッタヴィオ・ファルネーゼアンリ2世と同盟を結んで軍資金と武器の援助を約束される。
これに憤激したカール5世、直ちにオッタヴィオ・ファルネーゼから、自らがその父ピエル・ルイジ・ファルネーゼに封与した(1538年)ノヴァーラなどを取り上げ、ユリウス3世の甥Giovan Battista del Monteに封与。
1551年6月12日
オッタヴィオ・ファルネーゼ軍とフェッランテ・ゴンザーガ指揮のユリウス3世軍、戦闘を開始。ユリウス3世軍はすぐパルマを包囲するが、後ピエロ・ストロッツィ指揮のアンリ2世軍に解かれる。
1551年9月4日
すでに深刻な財政危機に陥っているのみならず戦闘の公会議への計り知れない影響を懸念するユリウス3世アンリ2世に和平を求める書簡を送り、4日後、さらに特使を送る。
1551年12月半ば
ユリウス3世カール5世に、財政上の理由から北部イタリアにもはや軍を維持することはできないと伝え、数日後、アンリ2世との和平交渉の状況を伝える。この頃カール5世も資金欠乏のため兵の補充に甚だしく難渋。
1552年1月24日
1552年1月ようやくドイツからカトリック、プロテスタント両派の出席を得たトレント公会議、Moritzの使節が主張する、教皇に対する公会議優位説を否認。
1552年2月5日
アンリ2世の特使・枢機卿François de Tournonローマに入り、直ちにユリウス3世に和平条件——(1)パルマオッタヴィオ・ファルネーゼのもとに残す、(2)2年間休戦する、(3)休戦期間経過後の協定についてはオッタヴィオ・ファルネーゼに一任する、など——を提示。
1552年4月14日
教会の旗手・フェルモとネピとノヴァーラの君主Giovan Battista del Monte、ミランドラ包囲戦で死(?~:教会の旗手在位1551年~:フェルモ・ネピの君主在位1550年~:ノヴァーラの君主在位1551年~)。ユリウス3世、フェルモとネピを故人の父Baldovino del Monteに封与。
1552年4月24日
シャンボール同盟の対カール5世戦争が続く中、ユリウス3世、教会改革(教皇至上権の弱化・司教権の弱化)を狙うスペイン人司教たちの反対を抑えてトレント公会議の延期を決定。4日後、その勅書を発する。
1552年4月29日
ユリウス3世、1552年2月に提示された条件を飲み、アンリ2世と休戦協定を結ぶ。両者、カール5世のこの協定への加入については彼自身の判断に任せる。これによりオッタヴィオ・ファルネーゼパルマ領有、再確認される。
1552年5月10日
ユリウス3世アンリ2世の和平協定を阻止したかったカール5世、軍資金の欠乏とドイツ領内での反乱に見舞われ、やむなくこの協定を承認。
1552年8月13日
シエナからのアンリ2世軍の駆逐・シエナ奪還のためナポリで進軍の準備を始めたペドロ・デ・トレドがその途上ローマ劫掠を狙うとの噂が流れる中、1551年のパルマ争奪戦ですでに財政危機に陥っていたユリウス3世コジモ1世・デ・メディチの勧奨をいれて、シエナ出身の枢機卿Fabio Mignanelliを特使としてシエナに送り、アンリ2世軍の領内からの撤退・外国勢力の介入防止とそれによるシエナの自立と平穏の確保を勧告するが、失敗に終わる。
この頃?、コジモ1世・デ・メディチDiego Hurtado de MendozaFransicso Albaからシエナの反乱・離反はひとえにコジモ1世・デ・メディチの責任であるとの報告を受けていたカール5世のもとに特使Ippolito da CorreggioLeone Santiを送り、嫌疑を晴らすべく事態を説明すると共にいずれ無謀なシエナに制裁を加えると誓約。
1552年8月31日
ユリウス3世イグナティウス・デ・ロヨラの発案によるドイツ語圏の司祭の教育のためのCollegium Germanicum(ドイツ学院)の設立を認可。
1552年9月末
ユリウス3世カール5世アンリ2世の仲介を目指し、そのための方策を策定するよう4名の枢機卿からなる委員会に命ずる。
1552年11月末
ユリウス3世ナポリペドロ・デ・トレドのもとに特使ベルナルド・デ・メディチを送り、シエナへの進軍を待つよう説得。
1552年12月末
シエナを目指すペドロ・デ・トレド指揮のカール5世軍(スペイン軍)によるローマ劫掠の不安が強まる中、ユリウス3世、再びナポリペドロ・デ・トレドのもとに特使Achille de' Grassiを送って和平を説くが失敗に終わる。
1553年頭
ペドロ・デ・トレド、30隻のガレー船を率いてチヴィタヴェッキア経由リヴォルノに向かう。同時に子ガルシア・デ・トレドを軍と共に教会領経由コルトーナに向かわせる。ユリウス3世は中立保持の姿勢を保ちながらガルシア・デ・トレドとその軍の教会領通過を許可。
1553年2月上旬
この頃?、ガルシア・デ・トレド指揮のカール5世軍(スペイン軍)、イタリアにおけるカール5世軍の指揮官の1人(1552年~)でペドロ・デ・トレドによりシエナ攻撃イタリア人歩兵隊指揮官に任じられたユリウス3世の甥Ascanio della CorniaCorgna:1513年~1571年)がコジモ1世・デ・メディチの同意を得て集めた歩兵隊と合流し、シエナ領に入る。
1553年
熱心なカトリック信徒メアリー1世のイングランド王即位を伝えられたユリウス3世、即日、枢機卿会議を開き、彼女の従兄弟・枢機卿Reginald Poleを自身の全権特使として彼女のもとに送ることを決める。
1554年夏
ルネ・ド・フランスJ. Calvinの教説を信仰しフェッラーラをイタリアにおけるプロテスタンティズム信仰の中心地と化しつつあったのに対しエルコーレ2世・デステアンリ2世ユリウス3世の怒りを招くのを恐れ、フェッラーラからプロテスタントを追放した上アンリ2世に異端審問官の派遣を要請していたが、この頃、アンリ2世より派遣された審問官Mathieu Ory (Oriz)、到着。
1554年11月25日
1554年11月20日フェリペ2世メアリー1世両王の差し向けた多数の貴族や聖職者に迎えられてドーヴァーに上陸しイングランドに入ったユリウス3世の全権特使Reginald Pole、イングランド議会が行うべきローマ教会との和解の方法についてS. Gardinerと協議。1554年11月26日これについて両王と約定。
1555年3月23日
ユリウス3世死(1487年~:在位1550年~)。

本名

 ジョヴァンニ・マリーア・チオッキ・デル・モンテ、Giovanni Maria de' Ciocchi del Monte

別表記

 ジューリオ3世

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
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 The Cardinals of the Holy Roman Church

参考文献

 『メディチ家の人びと』
 『ルネサンスの歴史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『Lucretia Borgia

記載日

 2005年5月29日以前