ヘンリー7世 Henry VII
- 生没
- 1457年1月28日~1509年4月21日
- 妻
- エリザベス・オブ・ヨーク
- 子
- アーサー・チューダー
マーガレット・チューダー
ヘンリー8世
エリザベス・チューダー
メアリー・チューダー
エドマンド・チューダー
エドワード・チューダー
キャサリン・チューダー
概要
ヘンリー7世は、15世紀から16世紀のイングランドの男性。
年表
1492年11月13日
シャルル8世、1492年10月フランスに侵攻してきたイングランド王ヘンリー7世とフランス北部パ=ド=カレーのエタープルで協定を結び、大金を供してヘンリー7世のブルターニュ公領への介入を止める(エタープル協定)。以後も、周辺の列強と和を結びイタリア侵攻の態勢を整える。
1498年6月24日
この日?、ルイ12世、ヘンリー7世とのElaplesの協定(1492年)を更新。
1508年12月10日
カンブレー同盟:ユリウス2世の呼びかけでマクシミリアン1世とルイ12世、それぞれ代理として娘マルグリット・ドートリッシュ、宰相ジョルジュ・ダンボワーズをカンブレーに送り、表向き対オスマン・トルコを装って対ヴェネツィア同盟を締結。
後にフェルナンド2世・デ・アラゴン、イングランド王ヘンリー7世、ハンガリー王ウラースロー2世・ヤギェウォ、フェッラーラ公アルフォンソ1世・デステ、マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガ、サヴォイア公カルロ2世も加盟。ユリウス2世は翌1509年ようやく正式に加盟。
1509年4月21日
ヘンリー7世、死。——子ヘンリー8世、イングランド王に即位。
外部リンク
参考文献
『世界悪女大全』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンスの華』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
ヘンリー8世 Henry VIII
- 生没
- 1491年6月28日~1547年1月28日
- 父
- ヘンリー7世
- 母
- エリザベス・オブ・ヨーク
- 女
- エリザベス・ブラント
- 妻
- カテリーナ・ダラゴーナ
アン・ブーリン
ジェーン・シーモア
アン・オブ・クレーヴ
キャサリン・ハワード
キャサリン・パー - 子
- メアリー1世
ヘンリー・フィッツロイ
エリザベス1世
エドワード6世
概要
ヘンリー8世は、15世紀から16世紀のイングランドの男性、イングランド王。
在位
イングランド王 1509年4月22日(戴冠6月24日)~1547年1月28日
アイルランド王(自称) 1541年~1547年
年表
1509年4月21日
ヘンリー7世、死。——子ヘンリー8世(1491年~1547年)、イングランド王に即位(在位1509年~1547年)。
1509年6月3日
イングランド王ヘンリー8世、スペインとの同盟政策を堅持するため、スペイン両王の末娘で亡兄アーサー(1486年~1502年)の寡婦カテリーナ・ダラゴーナ(1485年~1536年)と結婚(1509年~1533年)。
1510年3月下旬
この頃?、ユリウス2世、ルイ12世に敵対させるべく、ヘンリー8世に秘密裡に働きかけるが失敗。
1510年6月
ルイ12世軍、マクシミリアン1世軍、フェッラーラ軍のヴェネツィア領攻撃、奪還続く。
ヴェネツィアは、軍備を増強すると共に教皇による状況の転換を期待。
すでに実質上カンブレー同盟を破棄しているユリウス2世、ルイ12世の孤立化を図ってアルフォンソ1世・デステにルイ12世からの離反を指令すると共に、マクシミリアン1世、ヘンリー8世及びジェノヴァに反ルイ12世の行動を取らせるべく画策。
1511年8月17~28日
ヘンリー8世らと対ルイ12世・対フランス同盟の結成について合意を得つつあったユリウス2世、繰り返し高熱に襲われ倒れる。
周辺の誰もが高齢の教皇の再起不能を信じ、枢機卿らと彼らからの報を受けた諸国、諸権力者の間で後継選出争いの動きの強まる中で奇跡的に回復したユリウス2世、対フランス同盟を目指して活動を再開。
1511年10月4日
対フランス神聖同盟。教会防衛、フェッラーラ、ボローニャなど教会領の確保を狙うユリウス2世、北イタリア各地の確保を狙うヴェネツィア、イタリアにおけるフランスの優位の排斥とルイ12世の配下からのナヴァーラ王国の奪取を狙うフェルナンド2世・デ・アラゴン、蛮族排斥をスローガンに対フランス同盟を締結し、翌1511年10月5日公表。1511年11月17日ヘンリー8世が加盟し、間もなくスイス連邦も加盟。マクシミリアン1世は態度を保留。
フェルナンド2世・デ・アラゴンは、ナポリに新たな軍を送り、総督ラモン・デ・カルドナ(?~1522年)にこれを率いてロマーニャで教皇軍、ヴェネツィア軍と合流するよう指示。
1511年12月20日
フェルナンド2世・デ・アラゴン、ヘンリー8世と協定。
1512年
1512年5月3~17日
ユリウス2世は、16名の枢機卿などを率いてローマのラテラーノ大聖堂で公会議を開催。1512年5月10日、1512年5月17日と会議続行。ピサ分離公会議を無効と確認し、ユリウス2世はその勅書を発する。
ヘンリー8世は、ユリウス2世の勧奨も受けて大軍をフランス領に接したスペインのオンダリビアに上陸させ、フェルナンド2世・デ・アラゴン軍と共にギュイエンヌ攻撃態勢を整えさせる。
このためルイ12世は、兵の新たな徴集、ギュイエンヌと接するナヴァーラ王国のジャン・ダルブレとの協調などの対策を講じざるを得なくなり、以後イタリアの覇権獲得に全力を集中できなくなる。
ユリウス2世とヴェネツィアから資金を得たスイス連邦は、ようやく軍のイタリア南下、ミラノ攻撃態勢を整える。
ルイ12世は、ロマーニャの自軍を、ボローニャ防衛のための少数の兵を除いてミラノ防衛に回すよう指示。
1512年6月
ヘンリー8世軍とフェルナンド2世・デ・アラゴン軍は、ナヴァーラへのルイ12世の支援を阻むためギュイエンヌに侵攻。
1513年4月5日
神聖同盟(1511年)の更新:新教皇レオ10世、マクシミリアン1世、ヘンリー8世、及びフェルナンド2世・デ・アラゴンが、ネーデルラントのメヘレンで対フランス神聖同盟を更新することにつき協定。但し、レオ10世は同盟とルイ12世の間で中立的な姿勢を、フェルナンド2世・デ・アラゴンは、1513年4月1日のルイ12世との協定を優先的に遵守する姿勢を保ち続ける。
1513年6月30日
ヘンリー8世、大軍を率いてフランスに侵入。
1513年8月16日
拍車の戦い(Guinegatteの戦)で、弓兵を側面に配置することで、フランス軍に勝利。
1513年夏~1513年秋
ルイ12世軍がイタリアから撤退し、かつフランス本国がヘンリー8世軍やスイス連邦軍の攻撃を受けてルイ12世が軍をイタリアに新たに侵攻させることは不可能になったために孤立したヴェネツィア軍は、神聖同盟軍(マクシミリアン1世軍、フェルナンド2世・デ・アラゴン軍、及びスイス連邦軍を中心とするミラノ軍)とヴェローナ、ヴィチェンツァ、パドヴァなどを巡って戦闘を続けていたが、パドヴァに撤収して防備を固める。
レオ10世、神聖同盟陣営に小軍を送って同盟側に断つ態度をようやく明確に示し始めると共に、ヴェネツィアに対しフランスとの同盟を破棄するよう工作するが失敗。
1513年以降
1514年8月6/7日
ルイ12世とヘンリー8世は、ロンドンで相互防衛協定を結び、ルイ12世はヘンリー8世の妹メアリー・チューダー(1496年~1533年)と婚約。1514年10月9日結婚。
1515年3月~1515年4月
イタリア侵攻、ミラノ奪還を企図して軍を大幅に増強、結集しながら、1515年3月24日、1515年1月5日より叔母マルグリット・ドートリッシュの後見を排して独立したネーデルラントの君主カール5世(在位1506年~)と、1515年4月5日、ヘンリー8世とそれぞれ協定して背後を固める。
1516年10月19日
マクシミリアン1世、カルロス1世、ヘンリー8世の三者は、レオ10世の勧奨により対フランス協定を締結。
1518年3月6日
オスマン・トルコのスルタンセリム1世の目覚しい軍備強化の動きを知ってそのキリスト教世界への侵攻を恐れるレオ10世、フランソワ1世、マクシミリアン1世、カルロス1世、ヘンリー8世などキリスト教諸国、諸権力者に勅書を送り、相互の一切の対立、紛争を5年間急死し、共に対トルコ防衛体制をとるよう訴える。
しかしヴェネツィアを初めとする諸国、諸権力者は、教皇の狙いはメディチ家の権勢拡大だとの不信と各自の権勢、権益の維持、拡大の野心とから、教皇の訴えを聞きながらそれぞれの策を進める。
1518年10月2日
ロンドン協定:1518年8月のフランソワ1世主導の協定を見たイングランドの大法官・枢機卿トマス・ウルジー、ヘンリー8世とフランソワ1世の間に平和協定を成立させ、ヘンリー8世の幼い娘メアリー1世(1516年~1558年:イングランド王1553年~1558年)とフランソワ1世の王太子フランソワ(1518年~1536年)の結婚を取り決めると共に、この協定へのマクシミリアン1世、カール5世の加入の道を開く。これによりトマス・ウルジーは、レオ10世主導ではないヘンリー8世ないし自分主導のキリスト教諸国、諸権力者糾合をも視野に置く。
1520年6月7日~1520年6月24日
フランソワ1世、カール5世に対抗する同盟者を得るべく、Calais近郊Ardresの豪華な装飾を施した陣屋(「金襴の陣屋」)に参議会員トマス・モアらを従えたヘンリー8世を招いて会見し、盟約を求めるが合意に達せずに終わる。
1520年7月10日~1520年7月14日
フランソワ1世から対カール5世同盟を求められていたヘンリー8世、スペインからネーデルラントへの帰途上のカール5世をCalais近郊Gravelinesに訪ねて会見し、対フランソワ1世同盟を秘密裡に協定。
1521年
1521年7/8月
ヘンリー8世、トマス・モアの助力を得てマルティン・ルターのDe captivitate Babylonica ecclesiae praeludium(教会のバビロニア捕囚)を反駁するAssertio septem sacramentorum(七秘蹟擁護論)を執筆。これにより1521年10月、レオ10世より信仰の擁護者(Fidei defensor)の称号を受ける。
1521年8月25日
カール5世とヘンリー8世、Brugesでカール5世はヘンリー8世の娘メアリー1世と結婚すること、1523年3月に共にフランソワ1世に宣戦を布告すること、を盟約。
1522年6月19日
カール5世とヘンリー8世、Windsorで協定を結び、前年8月の協定を改めて確認。これに従いヘンリー8世は、フランソワ1世に宣戦布告。
1523年5月
トマス・モア、ヘンリー8世のAssertio septem sacramentorum(1521年)を擁護すべく匿名の論文Responsio da Lutherum(ルター駁論)をロンドンで刊行。
1523年8月3日
イタリアにおける戦闘の終息及びオスマン・トルコの攻撃に対するキリスト教世界の防衛を期するハドリアヌス6世、イタリア侵攻、ミラノ奪還の意図を捨てようとしないフランソワ1世に対抗すべく、カール5世、ヘンリー8世、フェルディナンド、フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ、フィレンツェ、シエナ、ジェノヴァなどと同盟を締結。
1524年
1524年6月
カール5世、ヘンリー8世、シャルル・ド・ブルボンの三者は、カール5世とヘンリー8世から軍や資金を得てシャルル・ド・ブルボンが1524年7月から12月の間にフランスに侵攻することを協定。
1525年3月7日~半ば頃
パヴィアでの敗戦、フランソワ1世の捕囚の報が伝えられたフランス王宮は、シャルル・ド・ブルボン軍とヘンリー8世軍の侵入の恐れも覚えて混乱。母后、摂政ルイーザ・ディ・サヴォイアはカール5世のもとに使節を送ってミラノ及びナポリ継承請求権の放棄、ブルボン公領の返還、カール5世のブルゴーニュ公就任の承認などを伝えると共に、クレメンス7世とヴェネツィアにも使節を送ってフランソワ1世の身柄の安全を懇願。
1525年8月30日
ルイーザ・ディ・サヴォイア、フランソワ1世の名でヘンリー8世と対カール5世協定を結ぶことに成功し、フランスの支配領はたとえフランソワ1世の救出・解放のためでもカール5世に委譲しないことを条件として、ヘンリー8世からフランソワ1世の救出・解放に尽力するとの約束を得る。
1527年4月30日
この日?、ヘンリー8世とフランソワ1世、娘メアリーとフランソワ1世ないしはフランソワ1世の第二子アンリとの結婚、ヘンリー8世のコニャック同盟及びフランソワ1世が7月に予定している対カール5世戦への加入、カール5世に対するフランソワ1世の子息の釈放要求などをロンドン・ウェストミンスターで協定。
1527年5月初頭
この頃?、ヘンリー8世、教皇特使(1524年~)としての(自分の大法官)トマス・ウルジーに、妻カテリーナ・ダラゴーナとの婚姻不成立を承認、宣言するよう求める。
1527年5月18日
ヘンリー8世とフランソワ1世は、クレメンス7世の救出、解放を目指すことで合意し、ヘンリー8世は以後6ヶ月間フランソワ1世に軍資金を提供することを約定。フランソワ1世は間もなくオデ・ド・フォワ指揮の大軍(フランス人、スイス人、イタリア人兵)をアスティに結集。
1527年8月3~18日
ヘンリー8世の代理トマス・ウルジーと自ら登場してきたフランソワ1世は、フランス・ピカルディのAmiensで、フランソワ1世の2名の子息の釈放、クレメンス7世の釈放、教会領の保全、イタリア諸国の旧状復帰などを条件とする和解をカール5世に要求することを協定。しかしカール5世にこの要求を拒絶され、1527年8月18日に協定を公表すると共に、クレメンス7世の釈放、対カール5世戦争の完遂を改めて約定。
1528年6月
前年ヘンリー8世から出された妻カテリーナ・ダラゴーナとの婚姻不成立確認の訴えについて、カテリーナ・ダラゴーナの甥カール5世の監視下で自由な判定をなし得ないまま逃避的な態度を取り続けてきたクレメンス7世、ヘンリー8世の執拗な要求の前に、イングランドで教皇使節法廷を開いて問題を審議、判定することをやむなく認め、使節として枢機卿ロレンツォ・カンペッジオを任命。
1529年5月31日
ヘンリー8世から出された彼とカテリーナ・ダラゴーナとの婚姻不成立の訴えを審議するロンドンの教皇特使法廷が、ロレンツォ・カンペッジオ、トマス・ウルジーの主導下で開催される。
1529年7月16日
バルセロナ協定によってカール5世との関係を確立したクレメンス7世、婚姻不成立の訴えに関してヘンリー8世とカテリーナ・ダラゴーナをローマに召喚する令状に署名。
1529年7月23日
クレメンス7世、ヘンリー8世の婚姻不成立の訴えを審議するロンドンの教皇使節法廷を休廷させ、審議の場をローマに移す。
列強の王たちの中でただ一人、一貫してローマ教会、教皇に忠節を尽くし、その守護に励んで信仰の擁護者の称号を与えられ(1521年)ていたヘンリー8世、自身の婚姻不成立の訴えに関するクレメンス7世の一連の対応に激しく反発し、敵意を燃やす。民心も、これまで反発していた婚姻不成立問題を超えてローマ教会、クレメンス7世の態度に反発し、ヘンリー8世の下に集まる。
1529年10月17日
ヘンリー8世の婚姻不成立の訴えをクレメンス7世に認めさせることに失敗したトマス・ウルジー、イングランド法管轄下の訴訟を外国で行なうことを禁じたActs of Praemunire(上訴禁止法:1393年)に違反したかどで訴追され、失脚(在位1515年~)。
1529年10月26日
トマス・モア、ヘンリー8世より、貴族でも聖職者でもないものとしては初めて大法官に任命される。(在位~1532年)。
1529年11月3/4日
宗教改革議会:ヘンリー8世、議会の反ローマ教会的立法によってクレメンス7世を脅かし、カテリーナ・ダラゴーナとの婚姻不成立を承認させるべく、第五議会を招集。トマス・モアが開会の辞を述べる。以後、この議会は彼の当初の目的を超えた立法を重ね、イングランドの主権国家としての自立の、さらには宗教改革の幕を開く。
1530年6月1日
ヘンリー8世、大陸で出版された英語の一切の作品の輸入及び公認されない聖書の諸事を禁ずると布告。
1530年6月下旬
クレメンス7世を自陣に引き入れてカール5世に対抗させたいフランソワ1世、子息が釈放されたから約束のフィレンツェ支援をと催促するBaldassarre Carducciに、カール5世の全ヨーロッパ制覇を防ぐために自分とクレメンス7世、ヘンリー8世、フィレンツェの同盟が必要だと説き、これを実現するためフィレンツェはクレメンス7世と和解せよと指示。
1531年2月11日
イングランドの聖職者会議(Convocation)、前聖職者の国王軽視罪(praemunire)の疑いがあると脅かすヘンリー8世の前に、聖職者の過去の一切の罪を許すことを条件として、かつ「キリストの法の許す限りにおいて」、彼を全聖職者の「唯一の保護者にして最高の首長でもある」と認めることをやむなく決議。議会は「赦罪法」を制定。
1532年1月15日
イングランド「宗教改革議会」、ヘンリー8世の側近Thomas Cromwell(1485年頃~)が作成した、王国内の聖職者がその禄から得る初年度の収入の約3分の1を教皇の上納することを制限する「初年度収入税上納制限法」案を承認し、イングランドにおける教皇権力への攻撃を開始。但し、これに対するクレメンス7世の破門による制裁は無視することなど強硬な方針を定めるこの法の発効時期をヘンリー8世の裁断に任せることにより、彼の婚姻解消問題へのクレメンス7世の対応を窺う。
1532年3月18日
イングランド「宗教改革議会」の庶民院、Thomas Cromwell作成の「聖職者に反対する庶民院の誓願」を承認し、教会の独立した立法権に対する国王の大権を支持。
1532年4月19日
イングランドの聖職者会議、1532年3月の「聖職者に反対する庶民院の誓願」に関してヘンリー8世に、教会はその独立した立法権を守る、これまでの教会の裁判に誤りはない、と答弁することを決議。1532年4月27日この答弁を聞いたヘンリー8世、激怒。
1532年5月10日
ヘンリー8世、聖職者会議に対し、「聖職者に反対する庶民院の誓願」が第1に企図していた教会の独自の立法権の否認、国王の承認による教会法の発効、を認めよと要求。
1532年5月15日
聖職者会議、ヘンリー8世の要求に屈し、教会の独自の立法権を国王に委譲するSubmission of the Clergy(聖職者の服従)を決議。これにより国王は理論上、議会制定法に対すると同等の権限を教会法に対して有し、教会法に関する教皇の至上権を脅かす。
1532年5月16日
トマス・モア、「聖職者の服従」がカンタベリー大司教Wiliam Warham(1450年頃~1532年:在位1504年~1532年)からヘンリー8世に報告されたこの日、これを首肯できず健康状態が思わしくないとの理由を挙げて大法官を辞任(1529年~)。
1532年10月20日~10月29日
アン・ブーリン(1507年頃~1536年)やトマス・クロムウェルを伴ったヘンリー8世とフランソワ1世は、ブーローニュとCalaisで会見。カール5世に対する防衛同盟を確認しクレメンス7世をそれに引き入れることで合意すると共にヘンリー8世の婚姻無効問題について協議。
1533年1月25日
この日頃ヘンリー8世は、かねて望んできたアン・ブーリンと秘密裡に結婚。
1533年3月14日
「宗教改革議会」の庶民院に、「イングランドは主権国家(empire)であり「1人の最高の首長かつ国王によって統治されるものである」と宣言した上、この国家の俗界及び精神界の全ての法的問題はこの国王の権威に由来する裁判所の専属事項であるとして、ローマの裁判所への上訴を禁止するThomas Cromwell作成の「上訴禁止法」案、提出される。
1533年4月上旬
「上訴禁止法」案が無修正で可決・承認されたことにより、イングランドにおいて教皇至上権の要諦である最高司法権が否定され、司法における国王至上権が樹立される。
1533年5月23日
1533年1月10日ヘンリー8世にってカンタベリー大司教に任命されクレメンス7世の承認を得て1533年3月30日公式に叙階されたThomas Cranner(1489年~:在位~1553年)、ヘンリー8世とカテリーナ・ダラゴーナとの婚姻は無効と宣言。
1533年5月28日
Thomas Cranner、ヘンリー8世とアン・ブーリンの結婚は完全に合法的な婚姻だと宣言。
1533年7月9日
もはやクレメンス7世が自分とカテリーナ・ダラゴーナとの婚姻を無効と認める可能性はないと見たヘンリー8世、1532年1月議会の制定した「初年度収入税上納制限法」を発効させる。
1533年7月11日
クレメンス7世、ヘンリー8世とアン・ブーリンとの結婚を無効と宣言すると共に、カテリーナ・ダラゴーナとの婚姻は依然として有効であり、1533年9月までに彼女を正妻と認めなければその時をもって破門に処すと宣言。
1533年9月7日
アン・ブーリン、女子エリザベス(1533年~1603年:在位1558年~1603年)を出産。長年、正統後継男子を望んできたヘンリー8世は、女子の誕生に落胆。
1533年9月26日
クレメンス7世、フランソワ1世の使節の勧めに従い、ヘンリー8世破門の発行を1ヶ月延期。
1533年10月31日
クレメンス7世、フランソワ1世の要請を容れ、ヘンリー8世破門の発行をさらに1ヶ月延期。
1534年1月15日~1534年3月
この日に再開された「宗教改革議会」、Thomas Cromwellに動かされ、(1)イングランドにおける教皇の司教任命への干渉及び特免権を禁止する「聖職任命法」、(2)「初年度収入税上納制限法」(1532年~1533年)を厳格化して教皇への上納を全面的に禁止し、ローマ教会へのイングランドからの財政的寄付を断ち切る「ペテロ献金支払禁止法」、(3)「聖職者の服従」(1532年)から「キリストの法の許す限り」との条件を削除して聖職者の王への無条件服従を法令化した「聖職者服従法」、を次々と可決・承認し、ローマ教会からのイングランド王国の独立、王によるイングランドの教会の支配、を法制化し続ける。
1534年3月23/24日
クレメンス7世、秘密枢機卿会議でヘンリー8世とカテリーナ・ダラゴーナとの婚姻は有効であることを改めて最終的に確認し、ヘンリー8世にその婚姻に復帰するよう命令。(この報、1534年4月4日ロンドンに届く)。
1534年3月23日
「宗教改革議会」、ヘンリー8世とカテリーナ・ダラゴーナの子メアリー1世を非正統とし、アン・ブーリンとの子エリザベスを正統な王位継承者と認めると共に、この継承者に反対する者を反逆罪に問い、かつこの「内容と効果を支持する」誓約を義務付けることを定めた「王位継承法」を可決。
1534年3月30日
「宗教改革議会」の全議員、王位継承法に署名。
1534年4月13日
王位継承法の「内容と効果を支持する」誓約を行なうよう求められたトマス・モアとCambridge大学総長・Rochesterの司教John Fisher(1469年~:在位1504年~)、誓約は教皇至上権を否定することになると考え、拒否。
1534年4月前半
Thomas Cromwell、ヘンリー8世によりその首席秘書官に任用される。
1534年4月17日
王位継承法支持の誓約を改めて拒否したトマス・モアとJohn Fisher、ヘンリー8世の命によりロンドン塔に投獄される。
1534年11月18日
イングランド国教会成立:宗教改革議会、王及びその継承者を「Anglicana Ecclesiaと呼ばれるイングランドの教会の地上における唯一最高の首長と解し、認め、かつみなす」とする国王至上法(首長令)を承認。これによりAnglicana Ecclesiaはローマ教会から分離し、王を首長とするイングランド国教会として独立。教皇の一切の支配権を一掃してイングランドを王が聖俗両界で一元的に支配する完全な主権国家(empire)としようとするThomas Cromwellの意志、実現される。
さらに宗教改革議会、国王至上法に反する言行を処罰する反逆法と、「不忠者」トマス・モア及びJohn Fisherの私権剥奪法を承認。
1534年
イングランド教会首長令
1535年5月20日
パウルス3世、ヘンリー8世により投獄されているJohn Fisherを枢機卿に任命。
1535年6月22日
イングランド国教会における国王至上権を否認し、反逆法に違反したとして有罪判決を受けた(1535年6月17日)John Fisher、ヘンリー8世の命により斬首される(1469年~)。
1535年7月6日
イングランド国教会における王の至上権を否認し反逆法に違反したとして有罪判決を受けた(1535年7月1日)トマス・モア、ヘンリー8世の命により斬首される(1477年~)。
1535年7月26日
パウルス3世、John Fisherの処刑に抗議する書簡をキリスト教各国に送る。さらに1535年7月末、トマス・モアの処刑の報に激怒。
この他、John Fisher及びトマス・モア処刑の報、カール5世をも含む各君侯などヨーロッパ各地・各陣営に大きな反響を呼び起こす。これを鎮めるべくThomas Cromwell、ローマを初め各地に、彼ら両名は王ヘンリー8世の寛容・忍耐にもかかわらず王に反抗した王を打倒しようとしたと処刑を正当化する書簡を送る。
1535年7月
軍費支出などのため窮迫している国庫の補充財源として修道院の所領を狙うヘンリー8世、修道院は生ずるかもしれない教会の反応の拠点ともなり得ることを考慮し、Thomas Cromwellを全権代理としてその主導の下、イングランド国教会最高首長の名をもって全国の修道院の巡察を開始させる。
1535年8月
パウルス3世、枢機卿会議に、破門に動じないヘンリー8世の王位喪失、その臣下の忠誠の解除と反抗の勧奨、イングランドにおける聖務の禁止などを命ずる勅書を提出。
1536年1月7日
婚姻無効宣言を下された(1533年)後も王妃の称号と権利の放棄を認めず軟禁状態に置かれていたカテリーナ・ダラゴーナ、失意の内に病(?)死(1485年~)。
これによりカール5世への対応の自由を得たヘンリー8世の心、この頃すでに現王妃アン・ブーリンを離れ、宮廷の女性Jane Seymour(1509年頃~1537年)に傾く。これをアラゴン家系貴族など反ブーリン家派、裏面から助長。
1536年2月4日
宗教改革議会(1529年~)の最後の議会、開会。
1536年4月14日
宗教改革議会の最後の議会(1536年2月4日~)、Thomas Cromwellの準備した小修道院解散法を可決。これにより年収2百ポンド以下の小修道院2百以上の一切の財産の没収・国庫への帰属が断行される。
ヘンリー8世とThomas Cromwell、歳入増加庁を設置してこの実務にあたらせると共に、貴族院に議席を有する院長への政治的配慮から今回、法的には放置した大修道院の事実上の解散を策する。
1536年5月2日
ヘンリー8世、Thomas Cromwellらの陰謀に乗り、幾重もの姦通と近親相姦が証明されたとしてこの日アン・ブーリンをロンドン塔に幽閉し、1536年5月18日斬首させる(1507年頃~)。1536年5月19日Jane Seymourと婚約し、1536年5月30日結婚。
1536年7月11日
イングランドの聖職者会議、保守派と改革派の主張の妥協の産物ともいうべき信仰規準・イングランド国教会最初の信仰箇条Ten Articles(十か条)を決定。
1536年10月1/2日
恩寵の巡礼:この日イングランド・リンカンシャー州で、次いでヨークシャー州で農民及び都市下層民が、修道院解放反対の旗を掲げながら、既得慣習権の擁護、共有地の牧羊用囲い込み反対、十分の一税の自由意思による納入、などを叫んで蜂起。ジェントリー、騎士、聖職者、貴族を指導者として加え、軍を編成しながら北部全州に及ぶ大反乱と化してヘンリー8世ら中央支配層を震撼させるが、農民らとジェントリー・貴族らの要求の対立も露わになる。
1536年12月5/6日
恩寵の巡礼軍の総指揮者・ジェントリーRobert Aske(?~1537年)、ジェントリー・貴族らの主張に従ってヘンリー8世の懐柔に乗り、農民らの繊維を抑えて劣勢の王軍と休戦し、自軍の解散を命令。
1537年1月~1537年2月
1536年12月以後のジェントリー・貴族らの裏切りに反発した恩寵の巡礼の農民・下層市民、前者の住居を襲い、囲い込みを打壊すなど独自に再び蜂起するが、ヘンリー8世の命に従った前者に鎮圧され、指導者は処刑される。
1537年7月26日
パウルス3世、キリスト教諸国・諸君主宛の勅書の中で、ヘンリー8世は異端・涜神者・反逆者でありすでに王位を失っていると激しく非難。
1537年8月下旬
パウルス3世、ヘンリー8世の「罪」を列挙し2か月以内に改心しなければ破門に処する、それにより彼は王位を失い、臣下は忠誠を解除され、イングランドでの聖務は禁止されるとの勅書を枢機卿会議に提出。
1537年9月
ヘンリー8世、信仰と社会的行為の規範とすべく、1536年7月の十か条を改定したThe Institution of a Christian Man((キリスト者の綱領)、別名The Bishops' Book(主教の書))を制定させるが、依然として改革・保守両派の主張の妥協的色合いを濃く留めるこの書、以後、多様な解釈と混乱を生み出す。
1538年9月5日
Thomas Cromwell、王指令(1536年)の完全な実施を図るべく同じく「王璽尚書にして・・・・王代理」の資格で2回目の王指令を発し、保守派との妥協を示しながらも、間もなく完成するはずの英語訳大聖書の各教区での常置と教区民によるその利用の奨励・促進を指示するなど、改革派的志向を明確に示す。しかしこれにより保守派及びヘンリー8世の根強い不満を招く。
1538年11月16日
Thomas Cromwellにより2度にわたって発せられた王指令に不満を強めてきたヘンリー8世、自らRoyal Proclamations(王布告)を発して聖書の輸入・印刷の統制を命ずるなど改革に歯止めをかけようと試みるが、Thomas Cromwellら改革派の抵抗により、この布告自体にその歯止めの試みを制禦する内容を付加されるなど、目指す成果を挙げ得ずに終わる。
1538年12月7日
パウルス3世、1537年8月枢機卿会議に提出していたヘンリー8世処罰の勅書を公表。
1539年4月
この月?、イングランド議会、大修道院解散法を可決。これにより、これまで自発的解散を勧告しながら応じない修道院には反逆罪を適用して大修道院の解散とその財産の没収・国庫への帰属を進めてきたヘンリー8世とThomas Cromwell、この施策を合法化し、翌1540年3月までに大修道院の全てを解散させることに成功。
1536年以来8百余の修道院の全てが解散させられ、そこから没収され国庫に帰属させられた広大な土地は間もなくジェントリー・ブルジョワなどに売却されて近代イングランドで最大の財産移動となり、それによって経済的実力を増大した階層が占める庶民院の実力と王権への抵抗意識、次第に高まる。
1539年5月16日
ヘンリー8世、十か条(1536年)及び主教の書(1537年)における保守・改革両派の教義上の妥協が招いた混乱を収拾すべく、教皇首位権を否定しながら伝統的なカトリックの教義に立ち返ってその信仰を強制し、違反者を異端として火刑に付すとの罰則を含むSix Articles(6か条)を、Thomas Cromwell及び改革派主教らの抵抗を押し切り、聖職者会議を超えて直接、議会に提出。
1540年1月6日
ヘンリー8世、和解した(1538年6月)フランソワ1世とカール5世が共に自領イングランドに侵攻態勢をとることを恐れ、これに抗するべくThomas Cromwellの戦略に従ってやむを得ず、西方ドイツ・プロテスタントのリーダーでカール5世の南北支配領(イタリア、南ドイツ、ネーデルラント)を結ぶ通行路を跨ぐ北西ドイツに強力な領邦を築きつつあったクレーフェ公・ゲルデルン(ヘルダーラント)公Wilhelm V (von Kleve)(1516年~1592年:クレーフェ公在位1539年~1544年・ゲルデルン公在位1538年~1543年)との同盟を求め、その姉Anna von Kleve(1515年~1557年)と、1539年10月4日の婚約に従い、この日、結婚。
しかしAnnaをHans Holbein der (Jüngere)の絵でしか見ていなかったヘンリー8世、その容姿に著しく落胆・反発。
1540年4月17日
Thomas Cromwell、ヘンリー8世によりエセックス伯に列せられる。
しかしすでにこの時、フランソワ1世とカール5世の関係の冷却化及びカール5世とプロテスタント(シュマルカルデン同盟)の休戦・対話が明確化すると共に、ヘンリー8世とドイツ・プロテスタントとの同盟の不要無益性・ヘンリー8世とAnna von Kleveとの結婚の不要無益性も明確化し、後者を推し進めたThomas Cromwellに対するヘンリー8世と保守派貴族・政治家の反発、急速に強まり顕在化する。
1540年6月10日
Thomas Cromwell、保守派政敵で恩寵の巡礼(1536年)の鎮圧に貢献したノーフォーク公トマス・ハワード(1473年~1554年:在位1524年~)などの讒言も手伝い、反逆のかどによりヘンリー8世の名で逮捕され、ロンドン塔に投獄される。
1540年7月9日
イングランドの聖職者会議、ヘンリー8世とAnna von Kleveとの結婚を無効と認定。Anna von Kleveはイングランドに留まり、年金を得て隠棲。
1540年7月28日
Thomas Cromwell、ヘンリー8世に対する反逆・王権簒奪の陰謀と異端により反逆法に照らして有罪と宣告され、ヘンリー8世の名で斬首される(1485年頃~)。
この日、ヘンリー8世、トマス・ハワードの姪Catherine Howard(1520年頃~)と秘密裏に結婚し、1540年8月8日これを正式に告知。
1542年2月13日
ヘンリー8世、5番目の妻(1540年~)Catherine Howardを、結婚前の情事が露見したとして、2日前に議会を通過させたばかりの、不貞の婦人が王と結婚することを反逆罪とするBill of Attainder(私権剥奪法)により斬首させる(1522年頃~)。
これにより、Catherine Howardの父・ノーフォーク公トマス・ハワードは急速に威勢を失う。
1542年8月
ヘンリー8世、スコットランドに対する総主権を主張し、領国境界を越えてスコットランドを攻撃するが撃退される。
1543年2月11日
カール5世とヘンリー8世、カール5世は自身の対戦相手である、ヘンリー8世は自身が併合を目指すスコットランドの背後にあるフランソワ1世に共に対抗する秘密同盟を締結。
この同盟についてカール5世、パウルス3世に使者を送り、対フランソワ1世戦ないしは対フランソワ1世同盟国(オスマン・トルコ)戦のためのものであり、イングランド教会を支持してローマ教会・パウルス3世に対抗するものではないどころか、ヘンリー8世を正道に引き戻すためのものであると弁明。
1543年3月
スコットランドの併合・吸収を企図しその貴族に資金を提供するなど工作を続けてきたヘンリー8世の最初の策、イングランド王太子Edward(1537年~)とメアリー・スチュアートの結婚がスコットランド議会で承認される。
しかし以後ヘンリー8世、本来の企図を露わにし、スコットランド内部に反発、高まる。
1543年5月
この頃までにヘンリー8世、女性と平民に聖書を読むことを禁ずる法令の制定を容認。
1543年5月
ヘンリー8世、6か条(1539年)を補足する新教義の解説書として主教団に作成させたA Necessary Doctrin and Erudition for any Chrisian Man(全キリスト者に必要な教義と学識:通称The King's Book(王の書))に自ら序文を付して公布。これにより、教皇首位権は否定しながら信仰義認論など改革派的な教義をことごとく斥け、伝統的なカトリックの教義を強制していく姿勢をさらに明確に打ち出す。
1543年7月1日
スコットランドにおける独立・自由への志向の強さに押されてヘンリー8世、Edwardとメアリー・スチュアートの結婚はイングランドによるスコットランドの併合・吸収を意味せず、スコットランドは以後も個別の独立した王国として留まることなどを認めた上、メアリー・スチュアートが10歳になる以前に結婚契約を結び10歳になった時点で彼女がイングランドに赴くこと、などをメアリー・スチュアートの後見人・摂政Arran伯James Hamilton(1515年?~1575年:摂政在位1543年1月~1554年)と協定(グリニッジ協定)。これを屈辱的協定とする不満・怒り、スコットランド内部に募る。
1543年7月12日
ヘンリー8世、Catherine Parr(1512年~1548年)と結婚し、6番目の妻とする。
1543年8月25日
スコットランド議会、1543年7月1日のグリニッジ協定を批准。しかし国内におけるこの協定への不満・怒りは続く。
1543年12月11日
スコットランド議会、イングランド議会が所定の2か月以内に批准を行わなかったことなどを理由に、1543年7月締結したばかりのグリニッジ協定を破棄し、フランスとの友好関係維持を確認。
1544年5月
スコットランドによるグリニッジ協定破棄・縁組破棄(1543年)に対してヘンリー8世、軍をエディンバラに上陸させ、スコットランド南東部で略奪・破壊を行わせる(第1回「粗野な求愛」)。
1544年7月初旬
カール5世軍はネーデルラントからシャンパーニュに、呼応してヘンリー8世軍はピカデリーにそれぞれ進攻。
1544年9月14日
ヘンリー8世軍、ブーローニュを占領しパリに迫る。しかし、糧食不足に悩むカール5世軍を支援せず。
1544年9月18日
クレピーの和:カール5世・ヘンリー8世両軍によるパリ攻撃・占領の危険を感ずるフランソワ1世と、前進・撤退いずれの策も自軍の大損害を招くと見たカール5世、クレピーで和約し、(1)フランソワ1世の第三子Orléans公Charles(d'Orléans:1522年~:在位1536年~)はカール5世の娘マリア・デ・アブスブルゴ(1528年~1603年)と結婚し婚資としてネーデルラントを得るか、フェルディナンドの娘Anna(von Österreich:1528年~1590年)と結婚し婚資としてミラノを得る、(2)フランソワ1世はミラノ、ナポリ及びフランドル、アルトワへの継承請求権を放棄する、(3)カール5世はピエモンテ、サヴォイアを、フランソワ1世はブーローニュをそれぞれ返還する、(4)両者は共にオスマン・トルコに対抗する、(5)宗教の再統合のために公会議の開催を促進し、カール5世はドイツ・プロテスタントといかなる同盟も結ばない、ことを約定(第4次カール5世・フランソワ1世戦争終結(1542年~))。
ヘンリー8世、この和約を受容しながらも、約定の前に占領したことを理由にブーローニュ占領を解かず、フランソワ1世軍に対する戦闘を続行。
しかしこの和により、カール5世は西ヨーロッパで圧倒的な優位を、とりわけイタリアで決定的優位を占め、領内ドイツでのプロテスタントとの対決に専心可能となり、フランソワ1世はドイツ・プロテスタント諸侯との同盟の必要性から解放されたことに伴い、パウルス3世はこの両者から協力を得られることになってトレント公会議開催の主たる障害から解放される。
1544年11月末/12月
ルッカにおける貴族寡頭支配の打倒、シエナやピサの共和主義者の協力を得てのメディチ家・ハプスブルク家専制支配の打倒、トスカーナにおける共和政諸都市の自由連合と信教の自由、を希求していた(1543年頃?~)ルッカの貴族・政治家Francesco Burlamacchi(1498年~)、メディチ家の宿敵ストロッツィ家との提携を図り、フランソワ1世の下で対カール5世戦に従軍していたピエロ・ストロッツィ(1510年頃~)・Leone Strozzi(1515年~)兄弟(故フィリッポ・ストロッツィの子)のもと(マルセイユ及びパリ)に使者・靴職人Bastiano Carletti(1400年代末~?)を派遣。Leone Strozziから計画への賛同・協力及び早期決起のための武器収集などの約束を得る。
しかし、フランソワ1世軍の対ヘンリー8世軍戦闘のため、決起は17か月後とされる。
1545年2月27日
ヘンリー8世、再び軍にスコットランド南東部を侵攻させるが、この日、アンクラムでスコットランド軍に敗れる(第2回「粗野な求愛」)。
1545年9月
ヘンリー8世、収穫期を狙ってまたまた軍にスコットランド南東部を侵攻させ、略奪・破壊を行わせるが、スコットランド内部に反感を募らせるだけに終わる(第3回「粗野な求愛」)。
1546年6月7日
ブーローニュ占領に復讐すべくイングランド侵攻を企図しながらも軍資金不足で果たせないフランソワ1世と、ブーローニュ保持のための軍費負担の重さを痛感していたヘンリー8世、この日カレー近郊アルドルで、フランソワ1世は(1)スコットランドとの同盟関係を破棄し、(2)ヘンリー8世に以後8年間賠報償金を支払ってブーローニュの返還を受ける、との和平協定を締結。
1547年1月28日
ヘンリー8世死(1491年~:在位1509年~)——2日後、2番目の后Jane Seymourとの子Edward(1537年~)、イングランド王に即位し、Edward VIを名乗る(在位~1553年)。
同時にJane Seymourの兄ハートフォード伯Edward Seymour(1500/1506年頃~:在位1537年~)、幼少のEdward VIの摂政となり、実権を握る。
外部リンク
ウィキペディア
小寺研究室
Famille de Carné
Find A Grave
Foundation for Medieval Genealogy
Genealogy.EU
The Tudors On Showtime
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『新世紀ビジュアル大辞典』
『西洋拷問刑罰史』
『性病の世界史』
『世界悪女大全』
『世界大百科事典』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『戦闘技術の歴史2 中世編』
『中世の食卓から』
『魔女狩り』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『ルネサンス百科事典』
『ローマ教皇検死録』
メアリー1世 Mary Tudor
- 生没
- 1516年2月18日~1558年11月7日
- 父
- ヘンリー8世
- 母
- カテリーナ・ダラゴーナ
- 夫
- フェリペ2世
概要
メアリー1世は、16世紀のイングランドの女性、イングランド王。
在位
イングランド王 1553年~1558年
年表
1518年10月2日
ロンドン協定:1518年8月のフランソワ1世主導の協定を見たイングランドの大法官・枢機卿トマス・ウルジー、ヘンリー8世とフランソワ1世の間に平和協定を成立させ、ヘンリー8世の幼い娘メアリー1世(1516年~1558年:イングランド王1553年~1558年)とフランソワ1世の王太子フランソワ(1518年~1536年)の結婚を取り決めると共に、この協定へのマクシミリアン1世、カール5世の加入の道を開く。これによりトマス・ウルジーは、レオ10世主導ではないヘンリー8世ないし自分主導のキリスト教諸国、諸権力者糾合をも視野に置く。
1521年8月25日
カール5世とヘンリー8世、Brugesでカール5世はヘンリー8世の娘メアリー1世と結婚すること、1523年3月に共にフランソワ1世に宣戦を布告すること、を盟約。
1527年4月30日
この日?、ヘンリー8世とフランソワ1世、娘メアリーとフランソワ1世ないしはフランソワ1世の第二子アンリとの結婚、ヘンリー8世のコニャック同盟及びフランソワ1世が7月に予定している対カール5世戦への加入、カール5世に対するフランソワ1世の子息の釈放要求などをロンドン・ウェストミンスターで協定。
1534年3月23日
「宗教改革議会」、ヘンリー8世とカテリーナ・ダラゴーナの子メアリー1世を非正統とし、アン・ブーリンとの子エリザベスを正統な王位継承者と認めると共に、この継承者に反対する者を反逆罪に問い、かつこの「内容と効果を支持する」誓約を義務付けることを定めた「王位継承法」を可決。
1547年11月4日
この日、召集・開会されたイングランド議会、異端者を火刑に処すとの罰則を含む「六か条」(1539年)を廃止し、両種陪餐の導入、聖職者の結婚の公認などを決議。イングランド国教会のプロテスタント化、さらに進む。
1553年7月6日
Edward VI死(1537年~:在位1547年~)。
1553年7月9日
メアリー1世、枢密院に自分こそ王位の正統後継者であると抗議し、これを認めるなら枢密院に大赦を与えると宣言した文書を送付。
1553年7月10日
枢密院、Lady Jane Greyのイングランド王即位を宣言。彼女自身も即位を宣言。しかしKingの称号を求める夫Guildford Dudleyに対してはこれを拒絶。
1553年7月11日
J. Dudleyら21名の枢密院メンバー、メアリー1世にイングランド王はLady Jane Greyだと回答し、「庶子」メアリー1世はこの新体制に従うよう勧告。
1553年7月19日
イングランド各地にメアリー1世こそ正統王だとする宣言が続出し、東部にはメアリー1世擁立軍が結集する中、枢密院もメアリー1世のイングランド王即位(メアリー1世)を宣言(在位~1558年)。
一旦はメアリー1世擁立軍攻撃に向かったJ. Dudley、1553年7月20日ケンブリッジで捕らえられ、敗北を認める。九日天下に終わったLady Jane Greyと夫Guildford Dudleyはロンドン塔に幽閉される。
1553年
熱心なカトリック信徒メアリー1世のイングランド王即位を伝えられたユリウス3世、即日、枢機卿会議を開き、彼女の従兄弟・枢機卿Reginald Poleを自身の全権特使として彼女のもとに送ることを決める。
1553年8月3日
イングランド女王としてロンドンに入ったメアリー1世、ロンドン塔に直行し、T. Cranmer主導のプロテスタント改革に反抗して投獄されていた(1548年~)S. Gardinerらを釈放。
1553年8月13日
Reginald Pole、メアリー1世に書簡を送り、イングランド国教会のローマ教会への復帰を提唱。
1553年8月23日
メアリー1世、S. Gardinerを大法官に任命(在位~1555年)。
1553年8月27日
Reginald Pole、再びメアリー1世に書簡を送り、イングランド王が用いてきた教会の首長の称号をローマ教皇に返還するよう期待していると述べる。
1553年10月1日
女王メアリー1世の戴冠式、大法官S. Gardinerの指揮の下ウェストミンスター大聖堂で挙行される。
1553年10月5日
メアリー1世治下の第1回イングランド議会、開会。
この議会にメアリー1世、(1)母カテリーナ・ダラゴーナとヘンリー8世の結婚の合法化、(2)イングランド国教会のローマ教会の下への再帰属、を狙ってこれらに関するヘンリー8世及びEdward VI治下の全立法を一括して無効とする法案を提出させる。しかし、ローマ教皇の支配の復活と取得した教会財産・修道院財産の没収を恐れる階層が占める庶民院、(2)に強く反対。
1553年10月28日
メアリー1世、Reginald Poleに書簡を送り、庶民院は王が教会の首長の称号を放棄することに強く反対しているが自分はこの称号を用いないと伝えると共に、Reginald Poleに速やかに自分のもとを訪ねるよう催促。
1553年11月8日
イングランド議会、カテリーナ・ダラゴーナとヘンリー8世の婚姻の合法性を承認すると共に、前王Edward VI治下で制定した教会のプロテスタント的改革を規定する8つの法を全て廃棄することを議決(第1次廃棄令)。
ヘンリー8世治下以降の教会改革に関する全ての法を一気に廃棄し、イングランド国教会をローマ教会の下に再帰属させようとするメアリー1世の意図は庶民院の反対により実現されなかったものの、イングランド国教会はヘンリー8世治下の際の年代の状態に戻り、イングランド国教会のカトリック反動、具体的に始動。
1553年11月15日
メアリー1世、再びReginald Poleに書簡を送り、第1次廃棄令の議決に至る動きを伝えると共に、彼に自分のもとを訪ねるよう督促。
1553年12月
ネーデルラント支配の安定化、イングランドにおけるカトリックの復活及びイングランドのスペイン=ハプスブルク帝国への併呑を狙うカール5世の主導の下、フェリペ2世とメアリー1世、婚約。
従兄弟フェリペ2世は同信カトリック教徒で良き相談相手である上、そのフェリペ2世にイングランドにとって経済的に重要なネーデルラントをドイツから分離して委ねるとの好餌を与えられたメアリー1世、カール5世のこの政略に喜んで服従。
しかしこの婚約成立過程ですでに、これをスペイン=ハプスブルク帝国への屈服とみる貴族及び民衆の間に広まり深まった反スペイン感情、反ローマ教会感情、及び両者の重畳する中で生じたナショナリズムの感情を背景として、婚約阻止を目指す反乱の動き顕在化する。この1つの首謀者・デヴォンシャーの軍人Peter Carew(1514年~1575年)、計画が発覚しヴェネツィアに逃亡。
1553年末
1553年9月デヴォンシャー伯に任じられたばかりの故Edward IVの曾孫・好男子Edward Coutenay(1526年頃~1556年)と彼に気をひかれているエリザベスを結婚させ、2人をメアリー1世とフェリペ2世に代えて王位に就けようとする陰謀、固まる。
1554年1月14/15日
メアリー1世とフェリペ2世の婚約、正式に調印され、公表される。
1554年2月1日
メアリー1世、Thomas Wyattを叛徒と宣告し、ロンドン市民に彼のもたらす危難に急ぎ立ち向かうようアピール。
1554年2月3日
メアリー1世、Thomas Wyattを捕らえた者に報奨として封土を与えると公示。
1554年2月3日
Thomas Wyatt、軍と共にロンドンのCityのThomas川対岸に進出するがロンドン塔からの砲撃に晒され、退却。
1554年2月7日~2月8日
ロンドンのCityに入ったThomas Wyattとその軍、一時は応急に迫ろうとするが、王軍に簡単に敗北。Thomas Wyattは逮捕され、ロンドン塔に投獄される。
Wyattの乱を鎮圧したメアリー1世、この乱の関与者の処断、プロテスタントのさらに非妥協的な排斥、イングランド国教会のカトリックへの回帰、を追求。
1554年3月18日
メアリー1世、逮捕したWyattの乱の指導者たちからエリザベスの乱への加担の証拠を得ようとして得られなかったものの、加担は明らかだとしてエリザベスをロンドン塔に幽閉。しかし、大法官S. Gardinerのエリザベス処刑論は斥ける。
1554年4月22日
メアリー1世、初めてフェリペ2世に手紙を書き、1554年4月2日以後開会されている議会(~1554年5月5日)で両者の結婚は承認されたと伝える。
この承認の過程でS. Gardiner、議会に対し、スペイン=ハプスブルク帝国によるイングランド支配を可能ならしめないためのあらゆる対策が講じられたと懸命に説明。
1554年5月19日
メアリー1世、エリザベスをロンドン塔からウッドストック城に移す。
1554年7月25日
メアリー1世とフェリペ2世の結婚式、ウィンチェスターの大聖堂で挙行される。
挙式直前、カール5世の特使Suárez de Figueroa(1500年代初頭?~1571年)、カール5世がフェリペ2世にナポリを委譲したと公表。
1554年11月25日
1554年11月20日フェリペ2世・メアリー1世両王の差し向けた多数の貴族や聖職者に迎えられてドーヴァーに上陸しイングランドに入ったユリウス3世の全権特使Reginald Pole、イングランド議会が行うべきローマ教会との和解の方法についてS. Gardinerと協議。1554年11月26日これについて両王と約定。
1554年11月28日
Reginald Pole、イングランド議会で、イングランドのローマ教会の下への再帰属の条件は、議会がこれまでの過ちを認め教皇の権威に反する法を全て廃棄することだ、との勧告演説を行う。
1554年11月29日
イングランド議会、1554年11月28日のReginald Poleの勧告を全面的に受容し、ヘンリー8世治下1529年11月以降のイングランド教会改革に関する法の全てを廃棄(第2次廃棄令)。
但しこの法令の議決・教会のローマ教会への再帰属承認の最大の障害を除去するため、ローマ教会の事前の了解の下でこれに、この間に教会財産・修道院財産を取得した者にはその所有権を、創設された司教区にはその存続を、叙任された聖職者にはその地位を認めるとの付帯条項が付される。
1554年11月30日
イングランド議会、王宮大広間に召集される。その場でフェリペ2世・メアリー1世両王、教会分離をもたらしたことについてReginald Poleに赦免を願い出、Reginald Poleは教皇全権特使としてイングランドの教会のローマカトリック教会の下への再帰属を神に感謝する演説を行い、両王初め出席者全員、跪いて赦免を拝受。
議会の議決を通じてローマ教会からの分離を実現してきたイングランド教会、また議会の議決によりローマ教会への再帰属を実現。ローマ教会も同じく、イングランド議会の議決により失ったイングランドにおける権力を当の議会の議決により回復。
1554年12月25日
メアリー1世とフェリペ2世、クリスマスの祝いの席にエリザベスを招待。
1554年12月
1554年12月末頃?、イングランド議会、異端火刑法(De haeretico comburendo、1401年)を翌1551年1月20日から150余年ぶりに復活させることを議決。数日後からプロテスタントに対する弾圧が強まり「血まみれのメアリー」(Bloody Mary)の別称、生じる。
1555年1月20日
イングランドで異端火刑法復活。
1555年
ユリウス3世から黄金の薔薇を拝受。添付の小勅書に1月26日の日付。
1555年10月25日
ネーデルラントに半ば引退(1553年)後もフェリペ2世・メアリー1世の結婚を実現させて(1554年)普遍的帝国実現の希望を蘇らせたカール5世、その結婚から期待した子を得られずに希望が潰え、アンリ2世とパウルス4世の接近(1555年8月~)を知り、宗教問題もフェルディナンドに委ねて敗北し(1555年9月)、ついにブリュッセルで譲位式を挙げ、ネーデルラント及びイタリアを列席のフェリペ2世に正式に委譲。
1555年12月25日
アンリ2世とフェリペ2世、カンブレーの南方Vaucellesの修道院で休戦交渉を開始。
この交渉にあたってReginald Pole、メアリー1世の承認を得た上、書簡などでアンリ2世とフェリペ2世に和平を強く働きかけた他、特使・ベネディクト会修道士Vincenzo Parpaglioに和平実現のために尽力させる。
1557年6月7日
メアリー1世、フェリペ2世の要請をいれ、Reginald Poleの制止勧告を無視してアンリ2世に宣戦布告。10日後ペンブルック伯William Herbert(1501年?~1570年:在位1551年~1570年)指揮の軍を、フェリペ2世がサヴォイア公エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアの指揮のネーデルラントに結集した大軍に合流させる。
1557年8月10日
フランドルからフランスに侵攻したエマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア指揮下5万7千のフェリペ2世の大軍、パリ北東百キロ余りのサン・カンタンに籠るアンヌ・ド・モンモランシー指揮の2万4千のアンリ2世軍を包囲し大破。2日後サン・カンタンに入ったWilliam Herbert指揮のメアリー1世軍、アンヌ・ド・モンモランシー自身とその子らを捕囚とする。
1558年1月7日
François I de Lorraine指揮のアンリ2世軍、メアリー1世・フェリペ2世軍を破りカレーを制圧。1558年1月8日François I de Lorraine、カレーに入る。イングランドは大陸における拠点を失う(1347年~)。
1558年11月17日
朝、死。
別表記
メアリ1世、メアリー・チューダー
外部リンク
Find A Grave
Foundation for Medieval Genealogy
Genealogy.EU
The Medici Archive Project
参考文献
『世界悪女大全』
『世界大百科事典』
『カトリーヌ・ド・メディシス』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『西洋拷問刑罰史』
エリザベス1世 Elizabeth I
- 生没
- 1533年~1603年
- 父
- ヘンリー8世
- 母
- アン・ブーリン
概要
エリザベス1世は、16世紀から17世紀のイングランドの女性、イングランド王。
在位
イングランド王 1558年~1603年
年表
1533年9月7日
アン・ブーリン、女子エリザベスを出産。長年、正統後継男子を望んできたヘンリー8世は、女子の誕生に落胆。
1534年3月23日
「宗教改革議会」、ヘンリー8世とカテリーナ・ダラゴーナの子メアリー1世を非正統とし、アン・ブーリンとの子エリザベスを正統な王位継承者と認めると共に、この継承者に反対する者を反逆罪に問い、かつこの「内容と効果を支持する」誓約を義務付けることを定めた「王位継承法」を可決。
1553年末
1553年9月デヴォンシャー伯に任じられたばかりの故Edward IVの曾孫・好男子Edward Coutenay(1526年頃~1556年)と彼に気をひかれているエリザベスを結婚させ、2人をメアリー1世とフェリペ2世に代えて王位に就けようとする陰謀、固まる。
1554年3月18日
メアリー1世、逮捕したWyattの乱の指導者たちからエリザベスの乱への加担の証拠を得ようとして得られなかったものの、加担は明らかだとしてエリザベスをロンドン塔に幽閉。しかし、大法官S. Gardinerのエリザベス処刑論は斥ける。
1554年5月19日
メアリー1世、エリザベスをロンドン塔からウッドストック城に移す。
1554年12月25日
メアリー1世とフェリペ2世、クリスマスの祝いの席にエリザベスを招待。
1558年11月17日
朝メアリー1世死。
エリザベス、イングランド王に即位しエリザベス1世を名乗る。
これに対しアンリ2世、庶子エリザベス1世の王位継承にが疑義があるとし、自身の王太子フランソワ2世の妻メアリー・スチュアートこそ正統なイングランド王位継承権を有すると主張。以後フランソワ2世とメアリー・スチュアート、「イングランド・スコットランド・アイルランド王及び女王」の称号を用い続ける。
1559年1月15日
エリザベス1世の戴冠式カーライルの司教Oven Oglethorpe(?~1559年12月:在位1557年~1559年5月)の司会によりウェストミンスター大聖堂で、カトリックの儀式と改革派のそれとを折衷させた形式で挙行される。
1559年4月2日
アンリ2世とエリザベス1世、アンリ2世はカレーその他イングランドから奪った領地を8年間領有し、その後はエリザベス1世に返還するかエリザベス1世から改めて購入すること、などを協定。
1559年
信教統一令、国教会成立
1562年
フランス、ユグノー戦争(-98)
1563年
エリザベス1世、聖職者会議を開き、四十二箇条(1553年)を改定した信仰箇条Thirth-nine Articles(三十九箇条)を定めさせる。この中でエリザベス1世、礼拝形式や司教制度の維持などでローマ教会的な形式を留めながらも教義の上では明確にプロテスタントの福音主義の立場をとり、ローマ教皇から独立した国民国家教会の確立を目指す。
1568年5月13日
逃亡中のメアリー・スチュアート、グラスゴー近郊ラングサイドで、急ぎ結集した新教徒派政府軍を破り活路を開こうとするが完敗。2日後エリザベス1世に書簡を送って保護を求め、その翌1568年5月16日西部領国境界の川を釣りボートで越えてイングランドに入る。
1568年5月19日
1568年5月18日メアリー・スチュアートをイングランド中部カーライル城に移させたエリザベス1世、この日、彼女を満腔の敬意を込めて、しかし決して逃亡されぬよう遇せよと指令。メアリー・スチュアートの軟禁・幽閉生活、始まる(~1587年:1587年3月8日エリザベス1世暗殺を謀ったAnthony Babington——(メアリー・スチュアートの近習、1561年~1586年)——陰謀事件への参画により処刑される)。
1570年2月25日
ピウス5世、真実の教会の危機を救い背信の徒を罰する義務を負う教皇として、異端者エリザベス1世を破門し「自称」イングランド王の位に関わる権限を失わしめる、との勅書を発し、イングランドのカトリック教徒をエリザベス1世への忠誠義務から解放。
1600年
東インド会社設立
外部リンク
ウィキペディア
Famille de Carné
Find A Grave
Foundation for Medieval Genealogy
Genealogy.EU
参考文献
『オーランドー』
『新世紀ビジュアル大辞典』
『世界悪女大全』
『世界大百科事典』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『性病の世界史』
『馬車の文化史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『西洋拷問刑罰史』
『中世の食卓から』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの歴史』
『ルネサンス百科事典』
『ルネサンス舞踊紀行』
『ローマ教皇検死録』
記載日
2005年5月29日以前