Maximilian I

マクシミリアン1世

生没:1459年3月22日~1519年1月12日
在位:神聖ローマ皇帝 1493年~1519年
   ドイツ王 1486年~1519年
    先代:フリードリヒ3世
    次代:カール5世
父:フリードリヒ3世
母:ポルトガル王女エレオノーレ
妻:アンヌ・ド・ブルターニュ(代理人誓約)
  マリー・ド・ブルゴーニュ
  ビアンカ・マリーア・スフォルツァ
子:フェリペ1世
  マルグリット・ドートリッシュ

概要

 マクシミリアン1世は、15世紀~16世紀のドイツの男性、神聖ローマ帝国皇帝。

年表

1477年8月19日
マリー・ド・ブルゴーニュと結婚。フランシュ=コンテとネーデルランド(アルトワ、フランドルなど)、ハプスブルク家領となる。
1479年8月7日
フリードリヒ3世の子マクシミリアン1世(1459年~1519年:神聖ローマ皇帝1493年~1519年)、フランス北部のGuinegatteの戦いでルイ11世の軍を破り、妻マリー・ド・ブルゴーニュの相続領を守る。
1482年12月23日
マクシミリアン1世、ルイ11世によるブルゴーニュ公領(本領)とピカルディ地方の取得を認め、さらに、自分の娘マルグリット・ドートリッシュルイ11世の子シャルル8世と婚約させ、娘の婚資としてアルトワ、フランシュ=コンテをシャルル8世に与えることを認める(アラスの和約)。
1486年2月16日
マクシミリアン1世、フランクフルト帝国議会でローマ人の王(神聖ローマ皇帝の後継者)に選出され、1486年4月9日アーヘンで戴冠。
1488年2月1日
フランドル諸都市、反乱を起こしマクシミリアン1世を捕らえる。
1488年末
フランドルで捕らえられていたマクシミリアン1世、自軍によりようやく釈放される。
1489年
マクシミリアン1世、フランドル諸都市の政治的自治権、経済的独占権を奪い自己の支配権を承認させる。
1490年3月16日
ティロール伯Sigmundは、従兄弟フリードリヒ3世の子マクシミリアン1世にティロールを委譲し、退位(在位1439年、1446年~)。これにより豊かな鉱山を得たマクシミリアン1世は財政基盤を固め、この際彼を支援したヤコブ・フッガーはハプスブルク家との結びつきをさらに強める。
1490年8月29日
マクシミリアン1世、前ハンガリー王マティアス・コルヴィヌスに奪われたオーストリアの領土を奪還。
1490年12月19日
マクシミリアン1世、ブルターニュ公領を相続した(1488年)アンヌ・ド・ブルターニュと代理人誓約の形で結婚。
1490年末
マクシミリアン1世、ハンガリーに侵攻し各地を占領。
1491年11月7日
マクシミリアン1世、ボヘミア(共同)王ウラースロー2世・ヤギェウォのハンガリー王即位(1490年)を、後継者がない場合はハプスブルク家がボヘミア及びハンガリーの王位を継承するとの条件つきで承認(Preßburg協定)。
1491年12月6日
シャルル8世、マクシミリアン1世の抗議にも拘らず、その娘マルグリット・ドートリッシュとの婚約を破棄した上、1490年マクシミリアン1世が代理人誓約の形で結婚した相手のアンヌ・ド・ブルターニュとの結婚を強行し、ブルターニュ公領を事実上、併合。
しかしシャルル8世、この婚約破棄と結婚へのインノケンティウス8世の特別認可を得ることに難渋。但し、以後、姉アンヌ・ド・フランスの摂政(1483年~1491年)を排し親政を始める。
1493年5月23日
シャルル8世、イタリア侵攻態勢を固めるべくマクシミリアン1世とフランス中北部Senlisで協定を結び、マクシミリアン1世の娘マルグリット・ドートリッシュとの婚約破棄(1491年)に関連して婚資のArtois、フランシュ=コンテをマクシミリアン1世に返還。Senlis協定。
しかし以後この二つの領土を巡るフランス王室とハプスブルク家の対立、続く。
1493年8月19日
フリードリヒ3世死。——マクシミリアン(1459年~)、神聖ローマ皇帝に即位し、マクシミリアン1世を名乗る(在位1493年~1519年)。
1493年9月20日
アレクサンデル6世は、長子チェーザレ・ボルジアを枢機卿に叙任(在位1493年~1498年)。
この時アレクサンデル6世が任じた新枢機卿10名の中にエルコーレ1世・デステの三男、14歳のイッポーリト・ディ・エルコーレ・デステ(1479年~1520年)を初め、シャルル8世、マクシミリアン1世、スフォルツァ家、ヴェネツィアなどイタリア及びヨーロッパの主要国、君主の配下の者がもれなく含まれていながら、フェッランテ・ダラゴーナの配下の者だけは含まれず。このため和解して2ヶ月足らずでアレクサンデル6世フェッランテ・ダラゴーナの関係、再び悪化の兆しを見せる。
1493年12月1日
マクシミリアン1世は、ミラノで前ミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの娘ビアンカ・マリーア・スフォルツァと結婚式を挙げる。
この結婚の成立に尽力したルドヴィーコ・イル・モーロは、マクシミリアン1世との関係を緊密化し、ミラノ公位簒奪の企図を強める。
1495年7~8月
マクシミリアン1世、イタリアでシャルル8世と戦うべく、ウォルムスの帝国議会で諸侯、帝国都市に援助を要請。代償に永久平和令の発布など帝国議会の帝国改革に関する要請を全て容認。ドイツの領邦国家分立体制強まる。
1496年8月20日
マクシミリアン1世の使節が、フィレンツェに赴いて対フランス神聖同盟への加入を求めるが、実質上、何の回答も得られずに終わる。
1496年秋
マクシミリアン1世、ルドヴィーコ・イル・モーロやこの年ピサ支援を決めたヴェネツィアの要請と勧奨に応じてピサ獲得のためイタリアに侵攻。軍と共にミラノ領に入り、ルドヴィーコ・イル・モーロの歓迎を受ける。
1496年10月21日
マクシミリアン1世の子でブルゴーニュ公フェリペ1世フェルナンド2世・デ・アラゴンイサベル1世・デ・カスティーリャ両王の娘フアナ1世・デ・トラスタマラと結婚。
1496年10月下旬
マクシミリアン1世、フィレンツェ領リヴォルノを襲撃すべく、ヴェネツィア及びジェノヴァのガレー船に守られてジェノヴァを出港。
1496年11月14日
マクシミリアン1世、嵐のためガレー船が沈没するなど艦隊を失い、資金不足に陥り、かつヴェネツィアの反対にあいリヴォルノ包囲に失敗。間もなく帰国。
1497年4月
マクシミリアン1世の娘マルグリット・ドートリッシュフェルナンド2世・デ・アラゴンイサベル1世・デ・カスティーリャの子フアン・デ・トラスタマラ、結婚。但し数ヵ月後フアン・デ・トラスタマラ死。
前年に続く政略結婚によって、マクシミリアン1世は、家領を拡大しハプスブルク家の基盤を固め続ける。
1499年2月
シュヴァーベン戦争:帝国改造案をスイス諸州に適用しようとするマクシミリアン1世とこれを拒否するスイス諸州との間に戦闘始まる。
1499年9月11日
ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオルイ12世の名においてミラノに入る。ルドヴィーコ・イル・モーロは、マクシミリアン1世を頼ってティロルへ敗走。ルイ12世軍はミラノを制圧し、ヴェネツィアも盟約によりクレモーナ、Ghiara d'Addaを獲得。
1499年9月22日
バーゼルの和約:スイス諸州の神聖ローマ帝国からの事実上の独立を承認。シュヴァーベン戦争終わる。
1500年4月12日
この日?、マクシミリアン1世、ゲルツ伯領(現ゴリツィア)を継承し、イタリア侵攻の足場を築く。
1501年10月13日
この日?、マクシミリアン1世とルイ12世(の代理、宰相ジョルジュ・ダンボワーズ)、イタリアの処置に関して秘密裡に協定。
1501年11月
秘書アゴスティーノ・セメンツァをフェッラーラ公エルコーレ1世・デステのもとへ送る。ルクレツィア・ボルジアに介添人を送らないように、そうすれば感謝を示すだろうと伝える。
1502年2月
ルイ12世との関係が冷却化したマクシミリアン1世、特使をイタリア各国に派遣。
1502年2月
マクシミリアン1世の特使来訪。彼が戴冠式のためローマに南下する際は支援することなどについて約定。
1504年9月22日
ルイ12世、マクシミリアン1世、マクシミリアン1世の子でブルゴーニュ公フェリペ1世の3者、ユリウス2世の指示の下にブロワで協定を締結。ルイ12世のミラノ支配、ルイ12世の娘クロード・ド・フランス(1499年~1524年)とフェリペ1世の長子(すなわちマクシミリアン1世の孫)カール5世(1500年~1558年:ネーデルラントの君主在位:1506年~55年:スペイン王1516年、1519年~1555年、1556年)の結婚、ロンバルディアやロマーニャに進出してきたヴェネツィアへの対抗などで合意。
1505年10月12日
ブロワ協定:フェルナンド2世・デ・アラゴン、ナポリをも求める女婿フェリペ1世とその父マクシミリアン1世に対抗すべくルイ12世に急速に接近し、自分は彼の姪ジェルメーヌ・ド・フォワ(1488年~1538年)と再婚し、彼はナポリに対する一切の要求を放棄することなどにつき協定。これにより、フェルナンド2世・デ・アラゴンへのカスティーリアの貴族たちの反感強まる。
1506年9月25日
カスティーリャの摂政フェリペ1世急死し、フェルナンド2世・デ・アラゴンが再び摂政となってカスティーリャの実権を掌握。
ルイ12世の動きを牽制しかつローマで神聖ローマ皇帝の戴冠式を挙行すべくイタリアに侵攻しようと画策中のマクシミリアン1世、子フェリペ1世の急死により、重要な支持者を失い、一時、計画を延期して改めて帝国内に支持を求めざるを得なくなる。
1507年4月10日
ジェノヴァの民衆政府、下級染色工Paolo da Noviをドージェに選出。
マクシミリアン1世の支持を受けて反フランスの方針を強めていたジェノヴァの民衆政府、海陸両面からのフランス軍の攻撃であえなく崩壊し、フランスに無条件降伏。
1507年4月27日
マクシミリアン1世、コンスタンツに帝国議会を召集。神聖ローマ帝国皇帝の戴冠式をローマで行うためのイタリア遠征及びそれへの軍の同行を承認させ、それらの費用を保証させる。マクシミリアン1世のイタリア侵攻態勢、徐々に整う。
1507年6月27日
イタリア侵略の意図を顕わにし始めたマクシミリアン1世の実力、実態を把握するため、彼のもとにフランチェスコ・ヴェットーリを派遣。
ピサ獲得のため、サヴォーナで会見しているフェルナンド2世・デ・アラゴンルイ12世のもとに使節ピエルフランチェスコ・トシンギジョヴァンニ・バッティスタ・リドルフィを派遣。
1507年6月28日
フェルナンド2世・デ・アラゴン、待機していたルイ12世の歓迎を受けてサヴォーナに到着。両者この地で7月1日まで会見し、ヴェネツィア攻撃、マクシミリアン1世の自軍への勧誘、教会改革のための公会議開催、ピサのフィレンツェへの帰属について合意。
1507年8月上旬
ユリウス2世、マクシミリアン1世のもとに特使を送り、戴冠式のために枢機卿2名を特派するからイタリアに進軍せずドイツで戴冠せよと勧告するが、無視される。
1507年初秋
マクシミリアン1世のもとに正式の大使を派遣して関係を改善すべきか、ルイ12世との従来の友好関係を重視すべきかで指導的貴族層の意見対立。結局、後者を重視するよう主張するピエロ・ソデリーニらの意見に落ち着き、前者に関しては使節フランチェスコ・ヴェットーリに正式の大使の権限を付与することになる。
1507年12月17日
ピエロ・ソデリーニ、マクシミリアン1世の動向及び先に派遣した使節フランチェスコ・ヴェットーリの活動を監視するため、さらにニッコロ・マキアヴェッリを派遣。
1507年
マクシミリアン1世、ヴェネツィアに対し、ローマ遠征のため領内通行の許可を求める。
ヴェネツィア、内部でマクシミリアン1世の側につくべきかルイ12世の側につくべきか激論の上、前者に軍を伴わないことを条件に領内通行を認めると決め、事実上、要求を拒否。
1508年1月6日頃
マクシミリアン1世、イタリアに入るためBolzanoに到着。
1508年1月末~2月初旬
マクシミリアン1世、ヴェネツィアがその一部を占領していたトレントを攻撃。1508年2月23日?ヴェネツィアに正式に宣戦。
1508年2月4・6日
マクシミリアン1世、ユリウス2世の同意を得てImperator Electus(選帝)を名乗る。ヴェネツィアに阻まれ、ローマにおける戴冠は不可能となる。
1508年2月下旬~3月
マクシミリアン1世は、軍と共にヴェネツィア領フリウーリ、Cadoreに侵攻するが、バルトロメオ・ダルヴィアーノ指揮のヴェネツィア軍はこれを撃破し、逆にゴリツィア、トリエステなどハプスブルク家の所領を占領。
ルイ12世は、ミラノ総督シャルル・ダンボワーズに、ヴェネツィアを支持し、ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオ指揮の軍を用いてマクシミリアン1世からみらのを防衛せよと指令。
1508年4月
マクシミリアン1世、やむなくヴェネツィアと休戦交渉を行い、1508年4月30日、3年間の休戦協定を締結。
マクシミリアン1世、ヴェネツィアに対する怒り、不満を一段と強め、ルイ12世も自分に無断でマクシミリアン1世と休戦協定を締結したヴェネツィアに対する不満を強める。これら不満、怒りを、ロマーニャを占領し続けるヴェネツィアを敵視していたユリウス2世が、さらに助長し両権力者を反ヴェネツィアで結束させるべく腐心。
1508年12月10日
カンブレー同盟:ユリウス2世の呼びかけでマクシミリアン1世とルイ12世、それぞれ代理として娘マルグリット・ドートリッシュ、宰相ジョルジュ・ダンボワーズをカンブレーに送り、表向き対オスマン・トルコを装って対ヴェネツィア同盟を締結。
後にフェルナンド2世・デ・アラゴン、イングランド王ヘンリー7世、ハンガリー王ウラースロー2世・ヤギェウォフェッラーラアルフォンソ1世・デステ、マントヴァ候フランチェスコ2世・ゴンザーガ、サヴォイア公カルロ2世も加盟。ユリウス2世は翌1509年ようやく正式に加盟。
1509年4月初旬
カンブレー同盟陣営の動きを知ったヴェネツィア、ファエンツァとリーミニの返還を決め(1509年4月4日)、ユリウス2世に申し出る(1509年4月7日)が拒絶される。その後もマクシミリアン1世とフェルナンド2世・デ・アラゴンを懐柔しようとするなど、同盟陣営の分断、ルイ12世の孤立化を図るが失敗。
1509年5月15日~6月初旬
ルイ12世軍、ベルガモ、ブレッシャ、クレモーナ、ペスキエーラなどを制圧。
ユリウス2世軍、ファエンツァ、リーミニ、チェルヴィア、ラヴェンナなどを制圧。
マクシミリアン1世軍、ヴェローナ、ヴィンチェンツァ、パドヴァ、トレヴィーゾなどを制圧。
フェルナンド2世・デ・アラゴン、オトラント、ブリンディジ、トラーニなどナポリ領内のヴェネツィア占領地を制圧。
1509年7月5日
前世紀初めから獲得してきた領地を次々と奪われながらマクシミリアン1世、フェルナンド2世・デ・アラゴンを懐柔すべく努めてきたヴェネツィアが、カンブレー同盟との和解を申し出るべくローマのユリウス2世のもとに使節6名を送る。
1509年7月8日
アニャデッロの戦以後のルイ12世及びマクシミリアン1世の勢力伸長を懸念していたユリウス2世、両者の反対を押してヴェネツィアの使節1名を内々に迎え、全占領地の放棄を要求。折衝、中断。ヴェネツィアで教皇に対する強硬論、噴出。
1509年7月17日
ヴェネツィアが、マクシミリアン1世からパドヴァを奪還し、勢力を回復し始める。
1509年8月末~9月末
マクシミリアン1世、パドヴァを包囲し再三攻撃するがいずれも失敗に終わる。
1509年10月1/3日
マクシミリアン1世、パドヴァ再奪還を断念し、包囲を解いてヴィチェンツァに後退。1509年10月3日、さらにヴェローナに後退。
1509年10月下旬
ヴェローナに後退したマクシミリアン1世から軍資金を求められたため、彼のもとへ使節としてピエロ・ソデリーニの弟Giovanvittorio Soderiniピエロ・ディ・ヤコポ・ディ・ピエロ・グィッチャルディーニ(1454年~1513年)を派遣。1509年10月24日2度に渡って献金することで合意し、即日、第1回分を献納。次回は1509年11月15日、マントヴァで献納することとなる。
1509年10~11月
ユリウス2世、ヴェネツィアの過度の弱体化はルイ12世とマクシミリアン1世の、ことに前者の威勢をさらに強め、教会とりわけ教皇である自身の威力を脅かすことになるとの懸念を強める。
1509年11月10日
マクシミリアン1世への第2回献金のため、ニッコロ・マキアヴェッリをマントヴァに派遣。
1509年11月15~16日
ヴィチェンツァが、マクシミリアン1世の支配に反乱を起こし、ヴェネツィアに城門を開く。戦局の中心はヴェローナに移る。
ヴィチェンツァを制したヴェネツィアは、さらにヴェローナを攻撃するが、シャルル指揮のルイ12世軍に撃退される。マクシミリアン1世は辛うじてヴェローナを守る。
1510年1月
オスマン・トルコ、フランスルイ12世、ドイツマクシミリアン1世、スペインフェルナンド2世・デ・アラゴンへの、とりわけフランスルイ12世への対抗勢力として利用するためヴェネツィアを過度に弱めない方針をとることを決めた教皇は、対ヴェネツィア戦をさらに強く断行すべしとのルイ12世の宰相ジョルジュ・ダンボワーズの申し入れを拒絶。
1510年2月
アウグスブルクにて、フェッラーラ大使ジロラーモ・カッソーラと話す。
1510年4~5月
シャルル・ダンボワーズジャン・ヤコポ・トリヴルツィオの指揮するルイ12世軍、マクシミリアン1世軍、アルフォンソ1世・デステの率いるフェッラーラ軍、ヴェネツィアの占領地を再奪還し始める。1510年5月24日ヴィチェンツァも奪回。
1510年6月
ルイ12世軍、マクシミリアン1世軍、フェッラーラ軍のヴェネツィア領攻撃、奪還続く。
ヴェネツィアは、軍備を増強すると共に教皇による状況の転換を期待。
すでに実質上カンブレー同盟を破棄しているユリウス2世ルイ12世の孤立化を図ってアルフォンソ1世・デステルイ12世からの離反を指令すると共に、マクシミリアン1世、ヘンリー8世及びジェノヴァに反ルイ12世の行動を取らせるべく画策。
1510年8~9月上旬
シャルル・ダンボワーズ及びアルフォンソ1世・デステの撤退で孤立化したマクシミリアン1世、ヴィチェンツァを捨てヴェローナに撤退。ヴェネツィアはヴィチェンツァを奪い、ヴェローナを攻撃。
1510年11月17日
ルイ12世、マクシミリアン1世と新たに協定を結び関係を強化。
1511年1月31日
ユリウス2世、前年8月に制圧したモデナを、決してアルフォンソ1世・デステに譲らぬとの条件付でマクシミリアン1世に封与。
1511年5月16日
マクシミリアン1世の同意を得たルイ12世、1511年9月1日にフィレンツェ領ピサで公会議を開くと宣言。但しマクシミリアン1世は間もなく動揺し態度を変更。
1511年5~7月
フランス軍、マクシミリアン1世軍、フェッラーラ軍と、ヴェネツィア軍は、ヴィチェンツァ、ヴェローナなどを巡って一進一退の攻防を続ける。
1511年10月4日
対フランス神聖同盟。教会防衛、フェッラーラ、ボローニャなど教会領の確保を狙うユリウス2世、北イタリア各地の確保を狙うヴェネツィア、イタリアにおけるフランスの優位の排斥とルイ12世の配下からのナヴァーラ王国の奪取を狙うフェルナンド2世・デ・アラゴン、蛮族排斥をスローガンに対フランス同盟を締結し、翌1511年10月5日公表。1511年11月17日ヘンリー8世が加盟し、間もなくスイス連邦も加盟。マクシミリアン1世は態度を保留。
フェルナンド2世・デ・アラゴンは、ナポリに新たな軍を送り、総督ライモンド・ディ・カルドーナ(?~1522年)にこれを率いてロマーニャで教皇軍、ヴェネツィア軍と合流するよう指示。
1511年11月1日
ピサの分離公会議、フランス兵に守られ、4名の枢機卿らを中心に開催。教会改革のための公会議が必要との宣言を発し、その会を1511年11月5日に開催すると告知して終わる。マクシミリアン1世の配下の枢機卿は参集せず。
1512年5月21日
パンドルフォ・ペトルッチ死。——ボルゲーゼ・ペトルッチ、シエナの君主となる(在位1512年~1516年)。
ルイ12世と神聖同盟の間で動揺していたマクシミリアン1世、ユリウス2世の説得を容れてヴェネツィアと休戦し、神聖同盟に加入。スイス連邦軍のティロル通過の承認、ルイ12世軍の精鋭をなしていたドイツ人歩兵全員の召還など反ルイ12世の方針を打ち出す。
1512年6月初旬~半ば
神聖同盟軍(ユリウス2世軍、フェルナンド2世・デ・アラゴン軍、ヴェネツィア軍)、マクシミリアン1世軍、スイス連邦軍は、ラヴェンナ、リーミニ、チェゼーナを奪い、1512年6月13日、ボローニャを制止、クレモーナ、ブレッシャ、ベルガモを奪うなど、ロマーニャ及びロンバルディアにおけるルイ12世の支配を次々と打破。
1512年8月12日
この日?、神聖同盟諸国の代表、対ルイ12世戦勝利後の相互関係の確認、イタリア各地の処理、再編のためマントヴァで会合。ミラノ公としてルドヴィーコ・イル・モーロの子マッシミリアーノ・スフォルツァ(1493年~1530年:ミラノ公在位1512年~1515年)をスイス連邦の後見の下に立てること、ユリウス2世はロマーニャの全教会領の他、パルマ、ピアチェンツァ、レッジョ、モデナを得ること、フィレンツェにメディチ家を復帰させることなどを決める。
この過程で、ルイ12世に代わるユリウス2世のロンバルディアにおける勢力拡大にマクシミリアン1世陣営が不満を残すなど参加諸権力者間の思惑の違いが明らかになる中、ルイ12世支持、分離公会議保護を続けたフィレンツェの処罰については全参加者が完全に合意。
1512年11月19日
ユリウス2世とマクシミリアン1世、ユリウス2世はロンバルディアで勢力を拡大しつつあるフェルナンド2世・デ・アラゴンに対抗するため、マクシミリアン1世はユリウス2世を背景にロンバルディアでヴェネツィアを抑えて勢力を確立する目的で、新たに協定を結び、1512年11月25日これを公表。マクシミリアン1世はユリウス2世のラテラーノ大聖堂における公会議を承認。
ユリウス2世は、マクシミリアン1世との協定を望むヴェネツィアに対して、ヴェローナとヴィチェンツァの領有承認などマクシミリアン1世に極めて有利な条項を提示してこれを受容するよう指示。ヴェネツィアはこれを拒絶。
1512年12月15日
マクシミリアン1世の宮廷で逃亡生活を送っていたマッシミリアーノ・スフォルツァは、神聖同盟陣営の枢機卿、司教、軍指揮官など多数に守られて華々しくミラノに入城し、市民の大歓迎を受ける。
1512年
この頃?、ピエロ・ソデリーニ、トレントに着いたマクシミリアン1世の使節Matthäus Lang von Wellenburg(1468/1469年~1540年:1512年11月25日枢機卿)のもとへ自分の弟Giovanvittorio Soderiniを使節として派遣。Matthäus Lang von Wellenburgから巨額の献金を条件としてフィレンツェの安全を保障すると提案され、直ちに拒絶。
1513年2月20~21日
数日前から病床についていたユリウス2世、死。
フェルナンド2世・デ・アラゴンとマクシミリアン1世は、前年8月のマントヴァ会議でユリウス2世がパルマ、ピアチェンツァをも得たことに不満を抱いていたが、フェルナンド2世・デ・アラゴンのナポリ総督でミラノに陣を敷いていたライモンド・ディ・カルドーナが、ユリウス2世の死を機として軍を率いて両市を襲い、ミラノ公マッシミリアーノ・スフォルツァへの服従を誓わせる。
アルフォンソ1世・デステユリウス2世に奪われたチェント、ルーゴ、バニャカヴァッロなど自領を奪回し、レッジョをも奪回しようとするが内部に自分を迎える動き生じず、撤退。
1513年4月5日
神聖同盟(1511年)の更新:新教皇レオ10世、マクシミリアン1世、ヘンリー8世、及びフェルナンド2世・デ・アラゴンが、ネーデルラントのメヘレンで対フランス神聖同盟を更新することにつき協定。但し、レオ10世は同盟とルイ12世の間で中立的な姿勢を、フェルナンド2世・デ・アラゴンは、1513年4月1日のルイ12世との協定を優先的に遵守する姿勢を保ち続ける。
1513年夏~1513年秋
ルイ12世軍がイタリアから撤退し、かつフランス本国がヘンリー8世軍やスイス連邦軍の攻撃を受けてルイ12世が軍をイタリアに新たに侵攻させることは不可能になったために孤立したヴェネツィア軍は、神聖同盟軍(マクシミリアン1世軍、フェルナンド2世・デ・アラゴン軍、及びスイス連邦軍を中心とするミラノ軍)とヴェローナ、ヴィチェンツァ、パドヴァなどを巡って戦闘を続けていたが、パドヴァに撤収して防備を固める。
レオ10世、神聖同盟陣営に小軍を送って同盟側に断つ態度をようやく明確に示し始めると共に、ヴェネツィアに対しフランスとの同盟を破棄するよう工作するが失敗。
1514年6月半ば
レオ10世、故ユリウス2世に取り上げられた領国の返還を強く求めていたアルフォンソ1世・デステに、彼に対するユリウス2世の全制裁を取り消すと共に領国の一つレッジョを5ヶ月以内に返還することを約束。しかしその2日後、1510年8月にユリウス2世が制圧して、1511年1月にマクシミリアン1世に封与したアルフォンソ1世・デステの領国の一つモデナを買収することをマクシミリアン1世の閣僚と約束するなど、かねてから抱いていたモデナ、レッジョ、パルマ、ピアチェンツァ一帯をメディチ家の領国と化して甥ロレンツォ・デ・メディチに統治させようとの野望実現に向けて歩を踏み出す。
さらにこの頃、レオ10世、弟ジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチのためナポリをも領有しようと企んでルイ12世と秘密裡に折衝していると広く信じられる。
ただしレオ10世、三大権力者(ルイ12世フェルナンド2世・デ・アラゴン、マクシミリアン1世)間の、ないしこの内の二者間の関係強化も、いずれの一者によるイタリア支配も防いで自己の権力強化とメディチ家の勢力伸長、安泰を図るべく、三者への対応について揺らぎ続ける。
1515年2月7日
マクシミリアン1世、フェルナンド2世・デ・アラゴンマッシミリアーノ・スフォルツァ、スイス連邦及びフィレンツェは、レオ10世の暗黙の加担の下、対オスマン・トルコ同盟の名目でミラノ防衛のための対フランソワ1世、対フランス同盟を結成。
1515年5月20日
ハンガリー・ボヘミアの領有を企むマクシミリアン1世、孫フェルディナンド1世(1503年~1564年:ボヘミア王在位1526年~1564年:ハンガリー王在位1526年~1564年:神聖ローマ皇帝在位1558年~1564年)をハンガリー・ボヘミア王ウラースロー2世・ヤギェウォの娘アンナ・ヤギェウォ(?~1547年)と、また孫マリア・フォン・ハプスブルク(1505年~1558年:ネーデルラント総督在位1531年~1555年)をウラースロー2世・ヤギェウォラヨシュ2世(1506年~1526年:在位1516年~1526年)と婚約させる。1515年7月22日ウィーンで正式に協定。
1516年1月23日
フェルナンド2世・デ・アラゴン死。——その意思により、孫でマクシミリアン1世の孫でもあるネーデルラントの君主カールが、カルロス1世としてスペイン王に即位。
1516年3月初旬
マクシミリアン1世、マルカントーニオ・コロンナ指揮の自軍が守るヴェローナ、ブレッシャなどを支援、確保するため、スイス人傭兵を含む小軍を率いてイタリアに侵攻し、トレントに到着。
1516年3月25日
マクシミリアン1世軍が、ミラノに迫る。マルカントーニオ・コロンナ指揮の軍はローディを制圧。しかしマクシミリアン1世軍はスイス人傭兵が戦闘を拒否したためすぐローディに撤退。さらにトレントに撤退。
1516年春~10月半ば
ヴェローナ、ブレッシャを巡ってフランソワ1世軍及びヴェネツィア軍、とりわけヴェローナ奪回を急ぐヴェネツィア軍と、マルカントーニオ・コロンナ指揮のマクシミリアン1世軍及びカルロス1世軍との間に戦闘続く。
1516年8月13日
ノワイヨン協定:スペイン王カルロス1世フランソワ1世は、フランス・ノワイヨンで、カルロス1世フランソワ1世のミラノ領有を承認すること、カルロス1世の祖父マクシミリアン1世が制しているブレッシャとヴェローナを彼が手放せばヴェネツィアに返還し、その代金をフランソワ1世とヴェネツィアが支払うこと、フランソワ1世は娘Louiseと共にその持参領としてナポリをカルロス1世に与え、以後ナポリ継承権を主張しないことを協定。
1516年10月19日
マクシミリアン1世、カルロス1世ヘンリー8世の三者は、レオ10世の勧奨により対フランス協定を締結。
1516年12月3/4日
ブリュッセル協定:フランソワ1世とマクシミリアン1世、ブリュッセルで、マクシミリアン1世は1516年8月のノワイヨン協定を承認し、ヴェローナなどをヴェネツィアに割譲することを協定。
1516年に締結された一連の協定、協約により第一次イタリア戦争終了し、イタリアにようやく平和が戻る。
1517年1月半ば
マクシミリアン1世、ノワイヨン協定に基づきヴェローナをヴェネツィアに割譲。
1517年3月11日
マクシミリアン1世、カルロス1世、及びフランソワ1世は、カンブレーでイタリア分割及び相互安全保障を約定。
1518年3月6日
オスマン・トルコのスルタンセリム1世の目覚しい軍備強化の動きを知ってそのキリスト教世界への侵攻を恐れるレオ10世フランソワ1世、マクシミリアン1世、カルロス1世ヘンリー8世などキリスト教諸国、諸権力者に勅書を送り、相互の一切の対立、紛争を5年間急死し、共に対トルコ防衛体制をとるよう訴える。
しかしヴェネツィアを初めとする諸国、諸権力者は、教皇の狙いはメディチ家の権勢拡大だとの不信と各自の権勢、権益の維持、拡大の野心とから、教皇の訴えを聞きながらそれぞれの策を進める。
1518年5月5日
レオ10世、対オスマン・トルコ十字軍を訴えるべく、自分が取り立てた枢機卿Jacobus Cajetanusをマクシミリアン1世のもとに特使として派遣。
しかし前月から派遣した特使たちは、教皇自身を自陣に引き込もうと狙うカルロス1世の元のエジーディオ・ダ・ヴィテルボを除き、任務遂行にひどく難渋。
1518年8月
フランソワ1世の仲介により、ヴェネツィアと5年間の休戦を協定。
1518年10月2日
ロンドン協定:1518年8月のフランソワ1世主導の協定を見たイングランドの大法官・枢機卿トマス・ウルジーヘンリー8世フランソワ1世の間に平和協定を成立させ、ヘンリー8世の幼い娘メアリー1世(1516年~1558年:イングランド王1553年~1558年)とフランソワ1世の王太子フランソワ(1518年~1536年)の結婚を取り決めると共に、この協定へのマクシミリアン1世、カール5世の加入の道を開く。これによりトマス・ウルジーは、レオ10世主導ではないヘンリー8世ないし自分主導のキリスト教諸国、諸権力者糾合をも視野に置く。
1519年1月12日
死。

別表記

 マクシミーリアーン、マックス、Massimiliano

異名

 騎士道の最後を飾る者、傭兵制の父

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 Find A Grave
 Genealogy.EU
 kleio.org
 The Medici Archive Project
 Treccani.it

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『快楽の中世史』
 『君主論』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『戦闘技術の歴史2 中世編』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ハプスブルク家』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『マキアヴェリ』
 『マキァヴェッリ 忘恩、運命、野心、好機』
 『メディチ家』
 『傭兵の二千年史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンス百科事典』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年5月29日以前