Soderini

ソデリーニ家

ステファノ・ソデリーニ Stefano Soderini

生没
12??年~1331年以前
ルッジェーロ・ソデリーニ
ジェンマ
ジェーリ・ソデリーニ
アルビッツォ・ソデリーニ
グッチオ・ソデリーニ
ジョヴァンニ・ソデリーニ

概要

 ステファノ・ソデリーニは、13世紀から14世紀のイタリアの男性。

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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

ジェーリ・ソデリーニ Geri Soderini

生没
~1337年
ステファノ・ソデリーニ
ジェンマ
テッサ・フレスコバルディ
ジェロッツォ・ソデリーニ
アルビッツォ・ソデリーニ
ピエロ・ソデリーニ
ニッコロ・ソデリーニ
メオ・ソデリーニ
フランチェスコ・ソデリーニ
リッチャルド・ソデリーニ
パオロ・ソデリーニ

概要

 ジェーリ・ソデリーニは、14世紀頃のイタリアの男性。

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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

グッチオ・ソデリーニ Guccio Soderini

生没
~1365年
ステファノ・ソデリーニ
ジェンマ
ジョヴァンナ・デル・ミリオーレ
トンマーゾ・ソデリーニ
ツァーノビ・ソデリーニ
マッダレーナ・ソデリーニ

概要

 グッチオ・ソデリーニは、14世紀頃のイタリアの男性。

年表

1351年

ジョヴァンナ・デル・ミリオーレと結婚。

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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

ニッコロ・ソデリーニ Niccolò Soderini

生没
~1382年3月21日
没地
ルッカ
ジェーリ・ソデリーニ
テッサ・フレスコバルディ
コスタンツァ・フォル
ジョヴァンニ・ソデリーニ
カテリーナ・ソデリーニ
ブリジーダ・ソデリーニ
ニコローザ・ソデリーニ
ラジア・ソデリーニ
ジネヴラ・ソデリーニ

概要

 ニッコロ・ソデリーニは、14世紀頃のイタリアの男性。

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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

トンマーゾ・ソデリーニ Tommaso Soderini

生没
13??年~1402年9月11日
グッチオ・ソデリーニ
ジョヴァンナ・デル・ミリオーレ
エリザベッタ・アルトヴィティ
フィリッパ・リヌッチーニ
フランチェスコ・ソデリーニ
レオナルダ・ソデリーニ
ジネヴラ・ソデリーニ
マッダレーナ・ソデリーニ
エリザベッタ・ソデリーニ
ロレンツォ・ソデリーニ
アントーニオ・ソデリーニ

概要

 トンマーゾ・ソデリーニは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。

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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

ジョヴァンニ・ソデリーニ Giovanni Soderini

生没
13??年~1421年8月30日
没地
ラーリ
ニッコロ・ソデリーニ
コスタンツァ・フォル
ジスモンダ・ダ・ウッツァーノ
ニッコロ・ソデリーニ
ルイジ・ソデリーニ
コスタンツァ・ソデリーニ
パオロ・ソデリーニ
ルカ・ソデリーニ

概要

 ジョヴァンニ・ソデリーニは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。

年表

1395年

ジスモンダ・ダ・ウッツァーノと結婚。

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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

フランチェスコ・ソデリーニ Francesco Soderini

生没
1376年2月26日~14??年
トンマーゾ・ソデリーニ
エリザベッタ・アルトヴィティ
マルゲリータ・ストロッツィ
ルクレツィア・テリアッチ
ジャンバッティスタ・ソデリーニ
ナンナ・ソデリーニ
エリザベッタ・ソデリーニ
バルトロメオ・ソデリーニ
ジュリアーノ・ソデリーニ
マルゲリータ・ソデリーニ
ジネヴラ・ソデリーニ

概要

 フランチェスコ・ソデリーニは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。

年表

1415年

マルゲリータ・ストロッツィと結婚。

1431年

ルクレツィア・テリアッチと結婚。

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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

エリザベッタ・ソデリーニ Elisabetta Soderini

生没
13??年~14??年
トンマーゾ・ソデリーニ
フィリッパ・リヌッチーニ
ジョヴァンニ・グイッチャルディーニ
ニッコロ・グイッチャルディーニ

概要

 エリザベッタ・ソデリーニは、14世紀から15世紀のイタリアの女性。

年表

1407年

エリザベッタ・ソデリーニと結婚(1406年)。

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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

ロレンツォ・ソデリーニ Lorenzo Soderini

生没
1363年2月6日~1405年8月28日
トンマーゾ・ソデリーニ
ギッラ・カンビ
ギッラ・ソデリーニ
アレッサンドラ・ソデリーニ
マリーア・ソデリーニ
ツァノービア・ソデリーニ
ニッコロ・ソデリーニ
トンマーゾ・ソデリーニ

概要

 ロレンツォ・ソデリーニは、14世紀から15世紀のイタリアの男性、庶子。

年表

1398年

ギッラ・カンビと結婚。

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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

ルイジ・ソデリーニ Luigi Soderini

生没
1408年7月18日~
ジョヴァンニ・ソデリーニ
ジスモンダ・ダ・ウッツァーノ
トンマーザ・フレスコバルディ
ジョヴァンニ・ソデリーニ
ジネヴラ・ソデリーニ
ヤコポ・ソデリーニ
パオロ・ソデリーニ
ジローラモ・ソデリーニ
カテリーナ・ソデリーニ
チェチリア・ソデリーニ
マッダレーナ・ソデリーニ
ナンニーナ・ソデリーニ

概要

 ルイジ・ソデリーニは、15世紀頃のイタリアの男性。

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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

マルゲリータ・ソデリーニ Margherita Soderini

生没
14??年~1504年9月7日
フランチェスコ・ソデリーニ
ルクレツィア・テリアッチ
フランチェスコ・マルテッリ
シジスモンド・マルテッリ
ジネヴラ・マルテッリ
カッサンドラ・マルテッリ
ガレオット・マルテッリ
アラマンノ・マルテッリ

概要

 マルゲリータ・ソデリーニは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。

年表

1452年

フランチェスコ・マルテッリと結婚。

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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

ニッコロ・ソデリーニ Niccolò Soderini

生没
1401年2月12日~1474年
出身
フィレンツェ
ロレンツォ・ソデリーニ
ギッラ・カンビ
ジネヴラ・マチンギ
ゲーリ・ソデリーニ
ナンナ・ソデリーニ
マッダレーナ・ソデリーニ
アレッサンドラ・ソデリーニ
マリーア・ソデリーニ
コスタンツァ・ソデリーニ
ベルナルド・ソデリーニ
ロレンツォ・ソデリーニ
トンマーゾ・ソデリーニ

概要

 ニッコロ・ソデリーニは、15世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。

在職

 正義の旗手 1465年11月~12月

年表

1401年2月12日

生(1402年2月12日)。

1437年4月14日

ジネヴラ・マチンギと結婚。

1465年11月~12月

正義の旗手

1466年8月

ピッティ陰謀事件:新ミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァからの、父、故フランチェスコ1世・スフォルツァ時代以来の定期支援金の求めに応じようとするピエロ・イル・ゴットーソと対立したのを契機にメディチ支配の一掃を企図するようになったルカ・ピッティを中心とするアニョーロ・アッチャイウオリディエティサルヴィ・ネローニ、ニッコロ・ソデリーニら、病弱なピエロ・イル・ゴットーソの行動力の欠如と彼の強大な支援者フランチェスコ1世・スフォルツァの死を利して一気にピエロ・イル・ゴットーソを殺害しメディチ支配を打倒することを狙う。このためボルソ・デステに密かに支援を求める。

1466年8月27日

ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオから反乱とエステ軍の領内侵入を通報する書状を受けたピエロ・イル・ゴットーソ、療養中だったカレッジの別荘から急ぎフィレンツェ市内に向かう。

市内に入ったピエロ・イル・ゴットーソ、直ちにメディチ派を集め、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオの書状を示して反乱と外敵の侵入を告げ、さらに書状をシニョーリアに運ばせ直ちに防衛体制を取らせる。

自らも兵を集めながらもピエロ・イル・ゴットーソルカ・ピッティに交渉を呼びかける。反乱の早期の発覚と予想に反してのピエロ・イル・ゴットーソの迅速果敢な対応に機先を制された首謀者たち、呼びかけに応じざるを得なくなる。

交渉に現われた老ルカ・ピッティは、ピエロ・イル・ゴットーソと和解。しかし帰宅後ニッコロ・ソデリーニら陰謀仲間に説得され、すぐ翻心。

1466年9月2日

メディチ派の私兵3千が包囲する中でパルラメントが開かれて、バリーアの設置が決議される。

1466年9月11日

バーリア、ピッティ陰謀事件の関係者の処罰を決める:アニョーロ・アッチャイウオリは息子たちと共にバーリ近郊バルレッタへ、ディエティサルヴィ・ネローニは兄弟と共にシチリアへ、ニッコロ・ソデリーニは息子と共にフランス・プロヴァンスへ、それぞれ20年追放する他、関係者をことごとく追放や罰金刑に処する。しかし中心メンバーのルカ・ピッティのみは処罰せず放置。

1466年9月

国外に亡命した反メディチ派は、ヴェネツィアエステ家などに軍事支援を求め、ヴェネツィアバルトロメオ・コッレオーニを指揮官に当てる。

1474年

死。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani

参考文献

 『逆光のメディチ』
 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

トンマーゾ・ソデリーニ Tommaso Soderini

生没
1403年8月12日~1485年10月27日
出身
フィレンツェ
没地
ピサ
ロレンツォ・ソデリーニ
ギッラ・カンビ
マリーア・コルティガーニ
ディアノーラ・トルナブオーニ
オレッタ・アルトヴィティ
ロレンツォ・ソデリーニ
ロレンツォ・ソデリーニ
エリザベッタ・ソデリーニ
マルゲリータ・ソデリーニ
カテリーナ・ソデリーニ
パオラントーニオ・ソデリーニ
ピエロ・ソデリーニ
ピエロ・ソデリーニ
フランチェスコ・ソデリーニ
フランチェスカ・ソデリーニ
ジョヴァンニ・ヴェットーリオ・ソデリーニ
ジョヴァン・グアルベルト・ソデリーニ
ジョヴァンナ・ソデリーニ

概要

 トンマーゾ・ソデリーニは、15世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。

在職

 正義の旗手 1449年3月~4月、1454年7月~8月、1460年7月~8月、1467年3月~4月

年表

1430年

マリーア・コルティガーニと結婚。

1440年10月20日

妻マリーア・コルティガーニ、死。

1446年

ディアノーラ・トルナブオーニと結婚。

1461年3月16日

ディアノーラ・トルナブオーニ、死。

1466年1月24日

ヤコポ・ピッティビーチェ・スピネッリの結婚式に参列。

1466年9月2日

メディチ派の私兵3千が包囲する中でパルラメントが開かれて、バリーアの設置が決議される。これにトンマーゾ・ソデリーニも参加。

1466年9月11日

バーリア、ピッティ陰謀事件の関係者の処罰を決める:兄ニッコロ・ソデリーニは息子と共にフランス・プロヴァンスへ20年追放。

選挙管理委員の制度が元に戻され、これ以降メディチ家がフィレンツェを追放される1494年まで28年間に渡り、反対派を自在に排除できるメディチ派のお手盛り選出が維持されることになる。

1466年9月

ニッコロ・ソデリーニら反メディチ派は、ヴェネツィアエステ家などに軍事支援を求め、ヴェネツィアバルトロメオ・コッレオーニを指揮官に当てる。

1466年9月30日

ヤコポ・グイッチャルディーニと共にヴェネツィアに派遣される。

1466年

ミラノへ。

1466年12月13日

フィレンツェ到着。

1468年

オレッタ・アルトヴィティと結婚。

1477年6月30日

ミラノにて、ロレンツォ・イル・マニーフィコ宛書簡をしたためる。ミラノ公国の状況を、選ばれた少数が統治し、多数の嫉妬を受けているものの、日に日に安定していると報告。

別表記

 トマソ・デ・ソデリーニ

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani

参考文献

 『イタリア史』
 『逆光のメディチ』
 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

ジローラモ・ソデリーニ Girolamo Soderini

生没
1452年7月15日~1530年4月9日
ルイジ・ソデリーニ
トンマーザ・フレスコバルディ
ヴァッジア・リドルフィ
トンマーザ・ソデリーニ
マッダレーナ・ソデリーニ
ルイジ・ソデリーニ
エリザベッタ・ソデリーニ
フランチェスコ・ソデリーニ
バルトロメオ・ソデリーニ
バッティスタ・ソデリーニ
パオロ・ソデリーニ
フランチェスカ・ソデリーニ
ディアマンテ・ソデリーニ

概要

 ジローラモ・ソデリーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

年表

1481年

ヴァッジア・リドルフィと結婚。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

マリーア・ソデリーニ Maria Soderini

生没
14??年~
ニッコロ・ソデリーニ
ジネヴラ・マチンギ
ロベルト・マルテッリ

概要

 マリーア・ソデリーニは、15世紀頃のイタリアの女性。

年表

1464年

ロベルト・マルテッリと結婚。

外部リンク

 Geneanet
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

ベルナルド・ソデリーニ Bernardo Soderini

生没
1451年9月17日~1533年12月3日
ニッコロ・ソデリーニ
ジネヴラ・マチンギ
ルクレツィア・ヴェンチュリ
ニッコロ・ソデリーニ
ジネヴラ・ソデリーニ
アントーニオ・ソデリーニ
カルロ・ソデリーニ
ジョヴァンニ・フランチェスコ・ソデリーニ
フランチェスコ・ソデリーニ

概要

 ベルナルド・ソデリーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

年表

1485年

ルクレツィア・ヴェンチュリと結婚。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

カテリーナ・ソデリーニ Caterina Soderini

生没
~1511年3月29日
トンマーゾ・ソデリーニ
ディアノーラ・トルナブオーニ
マーゾ・デリ・アルビッツィ
ジョヴァンナ・デリ・アルビッツィ
ディアノーラ・デリ・アルビッツィ
バルトロメア・デリ・アルビッツィ
エリザベッタ・デリ・アルビッツィ
アルビエーラ・デリ・アルビッツィ
アルビエーラ・デリ・アルビッツィ
アウレリア・デリ・アルビッツィ
フランチェスカ・デリ・アルビッツィ
マッダレーナ・デリ・アルビッツィ
フィオレッタ・デリ・アルビッツィ
マリーア・デリ・アルビッツィ

概要

 カテリーナ・ソデリーニは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

パオラントーニオ・ソデリーニ Paolantonio Soderini

生没
1448年1月25日~1499年
没地
ピサ
トンマーゾ・ソデリーニ
ディアノーラ・トルナブオーニ
エリザベッタ・スピネッリ
マルゲリータ・ストロッツィ
フランチェスコ・ソデリーニ
トンマーゾ・ソデリーニ
アレッサンドロ・ソデリーニ
ディアノーラ・ソデリーニ
ジョヴァンニ・バッティスタ・ソデリーニ
ジュリアーノ・ソデリーニ
ピエロ・ソデリーニ

概要

 パオラントーニオ・ソデリーニは、15世紀のイタリアの男性。

年表

1448年

生(1451年)。

1460年10月23日

エリザベッタ・スピネッリと婚約。

1469年

エリザベッタ・スピネッリと結婚。

1499年9月26日

埋葬される。

別表記

 パオロ・アントニオ、パオロ・ダントーニオ、Paolo AntonioPaolo d'AntonioPagolantonio

外部リンク

 世界帝王事典
 Google Books - The Spinelli of Florence fortunes
 JDA's Family Tree
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『イタリア史』
 『フィレンツェ史』
 『マキァヴェッリ 忘恩、運命、野心、好機』
 『メディチ家の人びと』
 『ルネサンス精神の深層』

ピエロ・ソデリーニ Piero Soderini

生没
1452年5月18日~1522年6月13日
出身
フィレンツェ
没地
ローマ
トンマーゾ・ソデリーニ
ディアノーラ・トルナブオーニ
アルジェンティーナ・マラスピーナ

概要

 ピエロ・ソデリーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。

在職

 正義の旗手 1501年3月~4月
 終身正義の旗手 1502年11月~1512年

年表

1452年5月18日

フィレンツェにて、生(1450年5月18日)。

1481年

Priore delle Arti

1484年

Consiglio Maggiore

1485年

ピストイアポデスタ

1487年

Commendatore di Firenzuola

1490年

アレッツォポデスタ

1490年

軍事八人委員会

1493年

軍事八人委員会

1498年

フランス駐在大使。

1499年

フランス駐在大使。

1500年

ボローニャ駐在大使。

1500年5月10日

この日?、フィレンツェ共和国、ピエロ・ソデリーニをミラノに派遣し、ルイ12世の宰相ジョルジュ・ダンボワーズに対してそのミラノ制圧、支配に祝意を表すると共に、1499年11月の約定に基づくピサ攻略へのフランス軍の派遣の具体的条件について交渉。王に多額の軍資金を支払うという条件を飲んで交渉、ようやく妥結。

1501年3月~1501年4月

正義の旗手

1501年5月9日

シニョーリアは、使節ピエロ・ソデリーニ、アラマンノ・サルヴィアーティヤコポ・デ・ネルリチェーザレ・ボルジアのもとに派遣しすることを決定。

通行許可を与える代わりに、市壁内には入らず町には関わらないこと、パオロ・オルシーニヴィテロッツォ・ヴィテッリなどのフィレンツェ共和国現政府の敵を従えてこないことを条件とする。

1501年5月

使節が到着した時には、チェーザレ・ボルジアはすでにトスカーナに入っている。

チェーザレ・ボルジアは、フィレンツェ領内自由通行の承認、自らをフィレンツェの傭兵隊長に雇う契約の締結、フィレンツェの政体の変更を要求。

1502年6月16日

この日?、ルイ12世の指示と援軍派遣の意向を知って市民の意気上がり、シニョーリアはピエロ・ソデリーニを援軍派遣の確認、督促のためミラノシャルル・ダンボワーズのもとに送る。

1502年7月7日

ルイ12世、アスティに入る。

1502年7月

ピエロ・ソデリーニ、フランチェスコ・グァルテロッティルイジ・デッラ・ストゥファの3名、使節としてアスティでルイ12世と会見し、そのフィレンツェ支持の意図を再確認。

1502年9月22日

コンシーリオ・マッジョーレは、終身正義の旗手に民衆派貴族ピエロ・ソデリーニを選出(1502年9月20日)。

1502年11月1日

ピエロ・ソデリーニ、終身正義の旗手に就任。

1503年6月1日

この日?、終身正義の旗手のピエロ・ソデリーニの弟フランチェスコ・ソデリーニが枢機卿に任命され、盛大な祝賀行事が繰り広げられる。

1503年11月14日

コンシーリオ・デリ・オッタンタは、1503年11月10日のユリウス2世の要請を退け、チェーザレ・ボルジアの軍の領内通行の安全を保障しないことに決める。

1504年8月22日

この日から?、ピサへの水路による食糧搬入を妨害するためアルノ河の水路をピサからそらす試み、ピエロ・ソデリーニの承認と支持の下、レオナルド・ダ・ヴィンチらも参画して着手される。しかし間もなく失敗に終わる。

1505年

ピエロ・ソデリーニ、ニッコロ・マキアヴェッリの説得により市民軍創設を決意。職権でニッコロ・マキアヴェッリに徴兵を開始させる。

ピエロ・ソデリーニ、ニッコロ・マキアヴェッリの示唆により市民軍の指揮車として、かつてチェーザレ・ボルジアの腹心でその軍隊の指揮官であったミケーレ・ダ・コレーリアを採用することを決意。

市民軍がソデリーニの私兵と化すことなどを恐れる市民軍創設反対論、ソデリーニの支持、反対両派で急速に強まる。しかし実効を持ち得ずに終わる。

1506年9月11日

ナポリに向かう途上ピオンビーノに立ち寄ったフェルナンド2世・デ・アラゴンのもとに表敬使節としてピエロ・ソデリーニの弟ジョヴァンニ・ヴェットーリオ・ソデリーニNiccolè del Neroアラマンノ・サルヴィアーティを送る。

1506年12月6日

市民軍の創設がコンシーリオ・マッジョーレで正式に承認され、Nove Ufficiali dell' Ordinanza(フィレンツェ市民軍九人委員会)、通称Nove Ufficiali di Miliziaが設置される。

ジョヴァンニ・バッティスタ・リドルフィアラマンノ・サルヴィアーティを初めとする有力貴族のピエロ・ソデリーニに対する反発、憎悪、抵抗、一段と強まる。

1507年初秋

マクシミリアン1世のもとに正式の大使を派遣して関係を改善すべきか、ルイ12世との従来の友好関係を重視すべきかで指導的貴族層の意見対立。結局、後者を重視するよう主張するピエロ・ソデリーニらの意見に落ち着き、前者に関しては使節フランチェスコ・ヴェットーリに正式の大使の権限を付与することになる。

1507年12月17日

ピエロ・ソデリーニ、マクシミリアン1世の動向及び先に派遣した使節フランチェスコ・ヴェットーリの活動を監視するため、さらにニッコロ・マキアヴェッリを派遣。

1508年

ピエロ・イル・ファトゥオの死後、武力によるフィレンツェ復帰策を捨て、ローマの自邸をフィレンツェ人に開放するなど市民との融和による復帰を目指し、市内に次第に共感、賛同、崇敬の念を醸成しつつあった枢機卿ジョヴァンニ・デ・メディチは、ピエロ・イル・ファトゥオの娘クラリーチェ・デ・メディチと有力貴族ストロッツィ家フィリッポ・ストロッツィとの婚姻、及びロレンツォ・イル・マニーフィコの娘ルクレツィア・デ・メディチと有力貴族でピエロ・ソデリーニの公然たる政敵アラマンノ・サルヴィアーティの甥ヤコポ・サルヴィアーティとの婚姻を成立させる。

これをピエロ・ソデリーニは、共和国の叛徒との婚姻を禁じている法を犯すものと糾弾。しかし反ピエロ・ソデリーニ派は反論。メディチ家に対する方針を巡って共和政派と反共和政派の対立、さらに厳しくなる。

1509年10月下旬

ヴェローナに後退したマクシミリアン1世から軍資金を求められたため、彼のもとへ使節としてピエロ・ソデリーニの弟ジョヴァンニ・ヴェットーリオ・ソデリーニピエロ・グイッチャルディーニを派遣。1509年10月24日2度に渡って献金することで合意し、即日、第1回分を献納。次回は1509年11月15日、マントヴァで献納することとなる。

1510年6月

ユリウス2世ルイ12世の対立が深まる中、伝統的親フランスの方針を取るピエロ・ソデリーニ派とメディチ派など反ピエロ・ソデリーニ派との対立も深まる。しかしフランスとの同盟も断てず、近隣諸国に布陣する教皇軍も無視できず、態度決定をなし得ぬまま動揺を続ける。

ルイ12世より、政治方針を明確化せよと執拗な要求を受ける。

1510年6月20日

ピエロ・ソデリーニ及びディエチ、ルイ12世のもとに、これまでの彼との合意は遵守することを伝えるべく、ニッコロ・マキアヴェッリを派遣することに決める。

1510年8~9月

この頃すでにユリウス2世が、フィレンツェの親フランス的態度を激怒し、その政体を変える必要があると公言。以後、ますますその態度を硬化し、フィレンツェを破門することを考えていると教皇庁駐在フィレンツェ大使に公言。

ユリウス2世の反ピエロ・ソデリーニ政権の態度が強まるにつれ、メディチ派など市内の反ピエロ・ソデリーニ派は勢いを得る。

1510年12月22日

ピエロ・ソデリーニ、コンシーリオ・マッジョーレで、高まる批判に対して自己の政治方針を説明。

1510年12月23日

1508年にピエロ・イル・ファトゥオの娘クラリーチェ・デ・メディチを妻としたフィリッポ・ストロッツィ、熱烈なメディチ派で教皇庁に使えている青年Prinzivalle della Stufaからユリウス2世の傭兵隊長マルカントーニオ・コロンナの兵10名を得てピエロ・ソデリーニ殺害の機を窺っていると打ち明けられ、同族に相談の上これをピエロ・ソデリーニに通報。Prinzivalle della Stufaはシエナに逃亡。

1510年12月29日

ピエロ・ソデリーニ、自身の暗殺の陰謀についてコンシーリオ・マッジョーレに報告し、共和政の護持を訴える。コンシーリオ・マッジョーレは、Prinzivalle della Stufaの父ルイジ・デッラ・ストゥファに反逆罪で禁固5年の刑を宣告。

1511年10月23日

ユリウス2世の反フィレンツェ政策に対抗して、教会に対する新税を制定。ユリウス2世のピエロ・ソデリーニに対する反感さらに強まる。

1512年

ボローニャでルイ12世軍が神聖同盟軍を撃退したとの報が伝えられ、ピエロ・ソデリーニは市民に、フィレンツェの利益と威信を守る上でフランス側につくことこそが必要だと力説。

1512年7月初旬

ユリウス2世より、教皇庁駐在大使を通してピエロ・ソデリーニの解任を求められ、これに従わなければ聖俗両面であらゆる手段を用いて戦うと通告される。

1512年7月11日

ユリウス2世の使節ロレンツォ・プッチ(枢機卿在位1513年~)が、ピエロ・ソデリーニの解任と神聖同盟への加盟を求めるユリウス2世の書簡を持ってフィレンツェに到着。

1512年

この頃?、ピエロ・ソデリーニ、トレントに着いたマクシミリアン1世の使節Matthäus Lang von Wellenburgのもとへ自分の弟ジョヴァンニ・ヴェットーリオ・ソデリーニを使節として派遣。Matthäus Lang von Wellenburgから巨額の献金を条件としてフィレンツェの安全を保障すると提案され、直ちに拒絶。

1512年8月26日

領内に侵攻してきたライモンド・ディ・カルドーナのもとへ使節を派遣し、フェルナンド2世・デ・アラゴンの要求は可能な限り受け入れることを伝える。しかしライモンド・ディ・カルドーナからは神聖同盟全体の要求としてピエロ・ソデリーニの解任、メディチ家の復帰を求められる。第2点は承諾し、第1点は拒否。

1512年8月28~29日

スペイン軍プラートに到着し、全域を制圧し劫掠。市民軍はスペイン軍の攻勢の前に敗走。前線総監を初めフィレンツェの役人は捕虜となる。

プラート劫掠の報が伝わるや、断固たる対策を講じ得なかったピエロ・ソデリーニへの非難、一気に強まる。

1512年8月31日

パオロ・ヴェットーリ(?~1526年)、アントンフランチェスコ・デリ・アルビッツィバルトロメオ・ヴァローリらメディチ派の有力者が、少数の兵を率いて政庁宮に入り、ピエロ・ソデリーニを脅迫して辞任を強制。夜ピエロ・ソデリーニは、シエナへ逃亡。後ラグーサへ逃れる。

1512年9月1日

ピエロ・ソデリーニの解任が公式に告示されると共に、夕刻、ジュリアーノ・デ・メディチが市内に入り、メディチ家の18年ぶりの復帰始まる。

1512年10月13日

正義の旗手、ピエロ・ソデリーニの5年間追放と彼の弟ジョヴァンニ・ヴェットーリオ・ソデリーニ及び3人の甥の3年間追放が公式に告示される。

1522年5月下旬

フランチェスコ・ソデリーニの軍事行動と結んでジューリオ・デ・メディチを1522年6月19日殺害しピエロ・ソデリーニを終身正義の旗手として復帰させることなどを企んでいた陰謀発覚し、首謀者の内Iacopo da DiaccetoLuigi di Tommaso Alamanniは逮捕されるが、ツァノービ・ブォンデルモンティ、Luigi di Piero AlamanniA. Brucioliヴェネツィアに逃亡。後正式に追放処分を下される。

1522年6月13日

共和政下の終身正義の旗手ピエロ・ソデリーニ、ローマで死。

別表記

 Pier Soderini

外部リンク

 ウィキペディア
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 Treccani
 Treccani

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『フィレンツェ史』
 『マキァヴェッリ 忘恩、運命、野心、好機』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

フランチェスコ・ソデリーニ Francesco Soderini

生没
1453年6月10日~1524年5月17日
出身
フィレンツェ
トンマーゾ・ソデリーニ
ディアノーラ・トルナブオーニ

概要

 フランチェスコ・ソデリーニは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、枢機卿。

在位

 ヴォルテッラ司教 1478年3月11日~1509年5月23日
 枢機卿 1503年5月31日~1524年
     任命した教皇:アレクサンデル6世

年表

1453年6月10日

フィレンツェにて、生(1453年6月19日)。

1480年11月20日

フェッランテ・ダラゴーナの勧告に従い、シクストゥス4世に謝罪し許しを乞うフランチェスコ・ソデリーニ、ジーノ・カッポーニジョヴァンニ・トルナブオーニら12名からなる使節団をローマに送る。

1501年10/11月

この頃?、ヴォルテッラの司教フランチェスコ・ソデリーニとルカ・デリ・アルビッツィルイ12世と宰相ジョルジュ・ダンボワーズのもとに送り、ブロワで、ナポリ攻略の成功に対する祝意を表すると共に、チェーザレ・ボルジアのトスカーナ攻略からフィレンツェを防衛してくれるよう懇請するが、冷たく拒絶される。

1502年6月22日

ルイ12世の支持と援軍の到着するまでチェーザレ・ボルジアの動きを制止するため、その要求に従って特使を派遣することを決め、フランチェスコ・ソデリーニとニッコロ・マキアヴェッリを送り出す。

1502年6月24日

夕刻、ニッコロ・マキアヴェッリと共にウルビーノ到着。

22時(2刻)、チェーザレ・ボルジアと会見(1502年6月25日)。

1502年6月25日

パオロ・オルシーニに訪問される。

23時(3刻)、チェーザレ・ボルジアと会見。

1502年6月26日

ウルビーノにて、直筆で手紙を書く。

 今朝ニッコロ・マキアヴェッリが出発いたしました。手紙とそして、全てを共にしていたニッコロ・マキアヴェッリの口から直接聞くことで、正確な情報を得、より良い結論に達するでしょう。

1502年7月

フィレンツェ共和国は、シャルル・ダンボワーズから、カンピ・ビゼンツィオでのチェーザレ・ボルジアとの条項を少なくとも一部分は履行し、譲歩して折り合うよう忠告される。

1502年7月9日

ウルビーノにて、手紙をしたためる。チェーザレ・ボルジアが、「それぞれを許し、昨年ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオが信念の下に行ったようなことをしてはならない。数々の悪いことが起こったため彼は第一の敵と成り果て、絶えず保身を図らざるを得なくなった。」と話した。

1502年7月19日

シニョーリアの指示に従い、チェーザレ・ボルジアと何も約束せず時間稼ぎをし、この日、ウルビーノ出発。

1503年6月1日

この日?、フランチェスコ・ソデリーニが枢機卿に任命され、フィレンツェで盛大な祝賀行事が繰り広げられる。

1503年11月22日

ユリウス2世、フランチェスコ・ソデリーニら2名の枢機卿をオスティアチェーザレ・ボルジアのもとに派遣し、なお彼に忠誠を誓うチェゼーナなどロマーニャの領国の全面返還を要求。チェーザレ・ボルジアはこれを即座に拒絶。

1521年12月

枢機卿フランチェスコ・ソデリーニ、フランソワ1世の支援を得てシエナ領内にLorenzo Orsiniを指揮者とする傭兵軍を結成し、フィレンツェ攻撃、メディチ政権転覆を狙うが失敗。

1522年春

フランチェスコ・ソデリーニ、再びフィレンツェ攻撃、メディチ政権転覆を試みるが、フランソワ1世からの援軍がロンバルディアでの戦闘に向かったため失敗に終わる。

1522年5月下旬

フランチェスコ・ソデリーニの軍事行動と結んでジューリオ・デ・メディチを1522年6月19日殺害しピエロ・ソデリーニを終身正義の旗手として復帰させることなどを企んでいた陰謀発覚し、首謀者の内Iacopo da DiaccetoLuigi di Tommaso Alamanniは逮捕されるが、ツァノービ・ブォンデルモンティ、Luigi di Piero AlamanniA. Brucioliヴェネツィアに逃亡。後正式に追放処分を下される。

1523年4月27日

フランチェスコ・ソデリーニ、フランソワ1世に艦隊で教皇領シチリアを攻撃してカール5世のロンバルディア駐在軍をそこにひきつけながらフランソワ1世自身が速やかに北部イタリアに侵攻するよう勧めたとされ、ハドリアヌス6世の命により深夜、逮捕されてサンタンジェロ城に幽閉される。この処置に、ハドリアヌス6世と親密でその施策に影響を与えることの多いジューリオ・デ・メディチの反ソデリーニ家の意図と周到な工作が強く働く。以後ジューリオ・デ・メディチ教皇庁内での力、とみに強まる。

1524年5月17日

フランチェスコ・ソデリーニ、死。

外部リンク

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 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『君主論』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの華』
 『The Life of Cesare Borgia

ジョヴァンニ・ヴェットーリオ・ソデリーニ Giovanni Vettorio Soderini

生没
1460年7月29日~1528年8月27日
トンマーゾ・ソデリーニ
ディアノーラ・トルナブオーニ
ディアノーラ・デ・ネルリ
トンマーゾ・ソデリーニ
マルゲリータ・ソデリーニ
ジョヴァンナ・ソデリーニ
カテリーナ・ソデリーニ

概要

 ジョヴァンニ・ヴェットーリオ・ソデリーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

年表

1528年8月27日

死(1527年)。

別表記

 Giovanvittorio Soderini

外部リンク

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参考文献

 『フィレンツェ史』

ニッコロ・ソデリーニ Niccolò Soderini

生没
1487年8月5日~1563年8月1日
ベルナルド・ソデリーニ
ルクレツィア・ヴェンチュリ
マッダレーナ・リカーゾリ
マッダレーナ・デ・パッツィ
フィアンメッタ・ソデリーニ
ピエロ・ソデリーニ
ベルナルド・ソデリーニ
ガスパーレ・ソデリーニ
マッダレーナ・ソデリーニ
カルロ・ソデリーニ
ルクレツィア・ソデリーニ
ナンニーナ・ソデリーニ

概要

 ニッコロ・ソデリーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

年表

1520年2月7日

マッダレーナ・リカーゾリと結婚。

1533年

マッダレーナ・デ・パッツィと結婚。

外部リンク

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参考文献

 『メディチ家の人びと』

ジネヴラ・ソデリーニ Ginevra Soderini

生没
14??年~15??年
ベルナルド・ソデリーニ
ルクレツィア・ヴェンチュリ
ベルナルド・デリ・アルビッツィ
フランチェスコ・デリ・アルビッツィ
アントーニオ・デリ・アルビッツィ
ジローラモ・デリ・アルビッツィ
カテリーナ・デリ・アルビッツィ

概要

 ジネヴラ・ソデリーニは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。

年表

1506年

ベルナルド・デリ・アルビッツィと結婚。

1515年7月24日

アントーニオ・デリ・アルビッツィを出産。

1520年4月20日

ジローラモ・デリ・アルビッツィを出産。

外部リンク

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トンマーゾ・ソデリーニ Tommaso Soderini

生没
1470年10月13日~1531年
パオラントーニオ・ソデリーニ
エリザベッタ・スピネッリ
フィアンメッタ・ストロッツィ
フランチェスカ・パンドルフィーニ
ヤコポ・ソデリーニ
マリーア・ソデリーニ
エリザベッタ・ソデリーニ
フランチェスコ・ソデリーニ
パオラントーニオ・ソデリーニ
ジャンフランチェスコ・ソデリーニ
アレッサンドロ・ソデリーニ
アルジェンティーナ・ソデリーニ
カテリーナ・ソデリーニ
マリエッタ・ソデリーニ
フィアンメッタ・ソデリーニ
コンスタンツァ・ソデリーニ
マッダレーナ・ソデリーニ
ナンニーナ・ソデリーニ

概要

 トンマーゾ・ソデリーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

年表

1470年10月13日

誕生。

1494年

フィアンメッタ・ストロッツィと結婚。

1501年

フェッラーラへの使節。

1502年

ローマへの使節。

1515年

ヤコポ・パンドルフィーニの娘フランチェスカ・パンドルフィーニと結婚。

1518年

学士としてピサの大学にて市民の前で代読する。

1527年

学士としてピサの大学にて市民の前で代読する。

1528年

トルトーナのカピターノ。

1529年6月26日

コンシーリオ・マッジョーレ、キリストをフィレンツェの王とするとの1528年2月の議決を再確認し正式に宣言。

1529年6月30日

この頃、親カール5世派では親フランス政策の変更を要求する議論が公然となされ、親フランス派・反ニッコロ・カッポーニ派のトンマーゾ・ソデリーニもプラティカカール5世への使節派遣を主張。

1529年7月

フランソワ1世宮廷駐在副大使Bartolomeo Cavalcanti(1503年~)、カンブレーに行き両貴婦人の交渉を見守る。

1529年7月12日

フィレンツェに、カンブレーにおけるカール5世フランソワ1世両陣営の和平交渉の報が届き、脅威の念をもって受け取られる。トンマーゾ・ソデリーニは再びプラティカカール5世のもとに使節を派遣するよう主張するが、フランソワ1世を信じるとの多数意見にまた退けられる。

1529年7月16日

バルセロナ協定締結の報と、カール5世がすぐイタリアに向かって旅立つとの報が届き、市内に驚愕の波、走る。

プラティカ及びコンシーリオ・デリ・オッタンタ、急ぎ招集され対応を協議。プラティカは神の加護を待つことを決める。

1529年7月18日

カール5世がイタリアに向かって航海中?との報が届く。

1529年8月17日

プラティカは、ジェノヴァのカール5世のもとに使節団、前正義の旗手で親カール5世派のニッコロ・カッポーニ、親フランソワ1世派のトンマーゾ・ソデリーニ、ラッファエーレ・ジローラミ、マッテオ・ストロッツィを送ることを決める。

1529年9月

カール5世軍接近の報が広まり、フィレンツェ市内にパニックの様相が生じつつある中、Ottoは、10名以上の者による集会は宗教上のものを除いて特別の許可がない限り開くことを禁ずると布告。メディチ家との内通、メディチ家復辟の策謀などについて疑心暗鬼が生じ、それらを摘発しようとする動き強まる。

1529年9月下旬~末

1529年9月21日ミケランジェロ、1529年9月24日フランチェスコ・グイッチャルディーニが市内から逃亡したのを初め、アレッサンドロ・デ・パッツィロベルト・アッチャイウオリ、トンマーゾ・ソデリーニ、ヤコポ・サルヴィアーティ、ルイジ・リドルフィ、バッチオ・カッポーニ、アゴスティーノ・デル・ネッロなどメディチ派と目された要人多数、状況の緊迫化と共にパニック状態に陥りつつある市内から、身の危険を覚えて逃亡。

逃亡者は直ちに帰国しなければ追放に処すとの帰国命令が出されるが大部分の者が従わず。ミケランジェロは1529年11月21日ようやく帰る。

1529年

市内と領外及び領内各地との通信・交通が困難になり、市内の食糧、とりわけ魚・卵類が欠乏する。

1529年

ジェノヴァへの使節。

1530年1月初旬

フィレンツェは、財政の危機を救う一策として教会財産の3分の1の徴集を決め、それに関する全権委員会を設置するが、実行を挙げ得ずに終わる。

1531年

ローマのサンタンジェロ城の牢獄にておそらく毒殺。

外部リンク

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参考文献

 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ディアノーラ・ソデリーニ Dianora Soderini

パオラントーニオ・ソデリーニ
エリザベッタ・スピネッリ
バルトロメオ・ルチェッライ
バッチオ・ヴァローリ

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

ジョヴァンニ・バッティスタ・ソデリーニ Giovanni Battista Soderini

生没
1484年7月2日~1528年
パオラントーニオ・ソデリーニ
マルゲリータ・ストロッツィ

概要

 ジョヴァンニ・バッティスタ・ソデリーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

別表記

 ジョヴァン・バッティスタ、Giovan Battista

外部リンク

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 Treccani

参考文献

 『マキァヴェッリ 忘恩、運命、野心、好機』
 『フィレンツェ史』

ジョヴァンナ・ソデリーニ Giovanna Soderini

生没
~1559年1月13日
ジョヴァンニ・ヴェットーリオ・ソデリーニ
ディアノーラ・デ・ネルリ
ルイジ・リドルフィ

概要

 ジョヴァンナ・ソデリーニは、16世紀頃のイタリアの女性。

年表

1517年

ルイジ・リドルフィと結婚。

別表記

 Anna

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

フィアンメッタ・ソデリーニ Fiammetta Soderini

ニッコロ・ソデリーニ
マッダレーナ・リカーゾリ
アントーニオ・マルテッリ
カミッラ・マルテッリ
マリーア・マルテッリ

別表記

 フィアメッタ

外部リンク

 Geneanet
 Geni.com
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『メディチ家の人びと』

ナンニーナ・ソデリーニ Nannina Soderini

生没
15??年~1606年9月1日
ニッコロ・ソデリーニ
マッダレーナ・デ・パッツィ
ルイジ・デリ・アルビッツィ
アントーニオ・デリ・アルビッツィ
マーゾ・デリ・アルビッツィ
ジローラモ・デリ・アルビッツィ
ピエロ・デリ・アルビッツィ

概要

 ナンニーナ・ソデリーニは、16世紀から17世紀のイタリアの女性。

年表

1566年8月14日

ピエロ・デリ・アルビッツィを出産。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『メディチ家の人びと』

マリーア・ソデリーニ Maria Soderini

生没
~1548年以降
トンマーゾ・ソデリーニ
フィアンメッタ・ストロッツィ
ピエルフランチェスコ・デ・メディチ
ロレンツィーノ・デ・メディチ
ジュリアーノ・デ・メディチ
ラウドミア・デ・メディチ
マッダレーナ・デ・メディチ

概要

 マリーア・ソデリーニは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。

年表

外部リンク

 Famille de Carné
 Geneanet
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

アレッサンドロ・ソデリーニ Alessandro Soderini

生没
~1548年
没地
ヴェネツィア
トンマーゾ・ソデリーニ
フランチェスカ・パンドルフィーニ

概要

 アレッサンドロ・ソデリーニは、16世紀頃のイタリア人の男性。

年表

1548年2月26日

フランソワ1世宮廷からヴェネツィアに移って逃亡生活を続けていたロレンツィーノ・デ・メディチは、コジモ1世・デ・メディチのヴェネツィア駐在大使Pierfilippo Pandolfini(1502年~1560年:在位1545年~1549年)の雇った2人の刺客に、母マリーア・ソデリーニの兄弟アレッサンドロ・ソデリーニと同道していたところを襲われて刺殺され(1513/1514年~)、遺骸は間もなく駆けつけたマリーア・ソデリーニに渡される。ロレンツィーノ・デ・メディチを守ろうとして刺されたアレッサンドロ・ソデリーニも数日後、死。

外部リンク

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参考文献

 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

カテリーナ・ソデリーニ Caterina Soderini

生没
~1586年7月6日
トンマーゾ・ソデリーニ
フランチェスカ・パンドルフィーニ
レオナルド・ジノーリ
バルトロンメオ・ジノーリ

概要

 カテリーナ・ソデリーニは、16世紀頃のイタリアの女性。

別表記

 カテリーナ・ジノーリ

年表

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2021年12月3日