Leonardo da Vinci

レオナルド・ダ・ヴィンチ

生没
1452年4月15日~1519年5月2日
出身
アンキアーノ
ピエロ・ダ・ヴィンチ
カテリーナ
師匠
ヴェロッキオ

概要

 レオナルド・ダ・ヴィンチは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、画家、彫刻家、建築家、科学者。

作品

年表

1452年4月15日
ヴィンチ村近郊アンキアーノにて、生。
1457年
この年にはフィレンツェに居住。父ピエロ・ダ・ヴィンチが借りた家に住む。
1466年
この年頃、ヴェロッキオの工房に入る。
1472年
ボッティチェッリらと共に、市内のサン・ルカ画家組合に加入を許される。
1479年12月28日
バンディーニの処刑」を素描。
1482年~1499年
この年頃ルドヴィーコ・イル・モーロに仕えるべく自薦状を携え、フィレンツェを離れてミラノに行く。
ミラノ公宮殿に滞在。
1487年~1493年
人体解剖を行って精密な図を描く。
1492年3月
ヴィジェヴァーノに行く。
1495年
ミラノサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会で「最後の晩餐」を描き始める(1495年~1498年)。この中で線遠近法の完成を示す。
1499年12月
ミラノを離れる前にフィレンツェに6百金フィオリーノ送金。
1499年末/1500年初旬
ルドヴィーコ・イル・モーロ失脚のため、助手サライ、友人ルカ・パチョーリと共にミラノを去りヴェネツィアに向かう。
1500年1月~1500年2月
この頃、マントヴァに滞在して「イザベッラ・デステの肖像」を描く。
1500年3月
ヴェネツィアに滞在。
1500年4月
ボローニャを経てフィレンツェに帰る。半年間ジャンフランチェスコ・ルスティチ邸に住む。
以後、人体解剖を再開し精密な図を描き続ける。(ミラノで行った(1487年~1493年)のと合わせて30余体を解剖)。
1501年3月~4月
この期の正義の旗手ピエロ・ソデリーニがレオナルド・ダ・ヴィンチのために計らおうとする。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の大理石像を発注しようとするが、ダヴィデ像ミケランジェロが制作。
1501年4月
この頃?、おそらくファエンツァ陥落前のチェーザレ・ボルジア軍宿営地に現れ、チェーザレ・ボルジアに土木、建築の顧問として仕える。
1501年
チェーザレ・ボルジアピオンビーノ攻略に向けて出発するが、レオナルド・ダ・ヴィンチはロマーニャに残る。おそらくブラマンテもいた。
1501年7月21日
カステル・ボロニェーゼの要塞が解体される。レオナルド・ダ・ヴィンチの助言によるものの可能性あり。
1501年
カステル・ボロニェーゼの要塞跡地に兵士宿舎を建設する現場に携わっていたという。ここをチェーザレ・ボルジアはテッラ・チェザリーナと呼ぶように命令。
1501年
おそらくロンコ川に橋を建設。
1501年夏
ラヴァルディーノ城修復完了。おそらく修復に携わっていたという。
1501年8月
おそらくチェゼーナからチェゼナーティコ間の用水路を設計。
1501年9月初め
チェーザレ・ボルジアに会うためローマ到着。
1502年6月~1503年3月頃?
この頃、ロマーニャ各地を視察。
1503年3/4月
フィレンツェに帰る。
1503年6月21日
ピサから約3マイルにあるヴェッルカーノ山頂のヴェッルーカ要塞へ訪問。ピエルフランチェスコ・トシンギの案内を受ける。
1503年8月1日
ペーザロへ
1503年9月6日
チェゼナーティコに
1503年10月
対ピサ制圧戦の戦意高揚のためヴェッキオ宮殿に壁画「アンギアーリの戦」を描くよう依頼される。(未完に終わる)。
1503年10月
イーモラに
1503年
この年頃、「モナ・リザ」を描き始める(1503年頃~1506年)。
1504年1月25日
ミケランジェロの「ダヴィデ像」完成し(1501年~)、この日、その設置場所を決定するため、ボッティチェッリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ペルジーノフィリッピーノ・リッピジュリアーノ・ダ・サンガッロアントーニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオなどによる設置委員会開かれる。
1504年1月25日
ミケランジェロの「ダヴィデ像」完成し、この日、その設置場所を決定するため、ボッティチェッリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ペルジーノフィリッピーノ・リッピジュリアーノ・ダ・サンガッロアントーニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオなどによる設置委員会開かれる。
1504年8月22日
この日から?、ピサへの水路による食糧搬入を妨害するためアルノ河の水路をピサからそらす試み、ピエロ・ソデリーニの承認と支持の下、レオナルド・ダ・ヴィンチらも参画して着手される。しかし間もなく失敗に終わる。
1506年5~6月
ルイ12世ミラノ総督シャルル・ダンボワーズに招かれ、1506年6月ミラノに赴く。(以後、一時期を除いて1513年まで滞在)。
1507年7月
この月?、ルイ12世により宮廷画家兼技師に任命される。

1508年3月22日
この日には、ピエロ・マルテッリ所有のマルテッリ宮殿に居住している。
マルテッリ宮殿の現住所はVia de' Martelli 9-11で、少し高いところに以下の碑文がつけられている。
 マルテッリ家の所有するこの家に、レオナルド・ダ・ヴィンチはジョヴァンニ・アンジェロ・ルスティチと住む。我らが美しきサン・ジョヴァンニの扉の上に製作された、洗礼者ヨハネ、パリサイ人、レビ人の彫像の製作において、ここで助言を与えた。これは万物の創造主の知恵と技によって、フィレンツェに献じられた記念物である。1919年5月、4百周年忌
1509年
ルカ・パチョーリ、レオナルド・ダ・ヴィンチによる遠近法の図解入りの著De divina proportione(神聖比例論)をヴェネツィアで刊行。
1513年9月
ミラノを去る。
1513年12月
ローマに着き、ジュリアーノ・デ・メディチに仕える(~1516年末)。
1516年秋/年末
フランソワ1世の招きに応じてイタリアを去りフランスに向かう。
1516年
アンボワーズへ
1519月5月2日
フランス中部アンボワーズ近郊Clouxで死。

別表記

 レオナルドダヴィンチ、リオナルド、Lionardo

肖像

 アテナイの学堂

舞台

 宝塚歌劇団宙組『異人たちのルネサンス―ダ・ヴィンチが描いた記憶』

関連項目

 The Borgias: 103

外部リンク

 アトリエ・バンディーニ
 ウィキペディア
 サルヴァスタイル美術館
 Art cyclopedia
 Repertorio delle Architetture Civili di Firenze
 Scientific Itineraries in Tuscany
 Trabajemos.cl
 Treccani.it
 Visitare Imola
 Visitare Imola
 Web Gallery of Art
 Wikipedia - Collegio degli Scolopi

参考文献

 『イコノロジー研究
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『逆光のメディチ』
 『黒い聖母と悪魔の謎』
 『サイレント・マイノリティ』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『傭兵の二千年史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『ルネッサンス夜話』
 『ローマ教皇検死録』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2020年1月17日