Botticelli

ボッティチェッリ

生没
1445年3月1日?~1510年5月17日
出身
フィレンツェ
没地
ヴェネツィア
マリアーノ・フィリペーピ
フィリッポ・リッピ
アントーニオ・デル・ポッライオーロ

概要

 ボッティチェッリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、画家。
 サンドロ・ボッティチェッリは1445年頃にフィレンツェのボルゴ・オニサンティ地区で皮なめし職人の子として生まれた。オニサンティ修道院と聖堂を中心とするこの地区は羊毛加工業の中心地で、親メディチ派のヴェスプッチ一族が住んでいた。ヴェスプッチ家はやがてメディチ家と並んでボッティチェッリのパトロンとなる。
 当時のフィレンツェでは読み書きそろばんの能力は、この商業都市の競争社会を生き抜くための必須条件だったため、職人階層の識字率や教養の高さは有名である。職人街で職人の子として生まれたボッティチェッリも、教育熱心な父の方針で徒弟見習いに出る前に読み書きそろばんを習っている。この勉強は、後にロレンツォ・イル・マニーフィコのサークルに加わるほどの知識人となる彼の人間形成に大きな意味を持っている。
 パオロ・ウッチェロポッライオーロドメニコ・ギルランダイオなどと同様、ボッティチェッリもはじめは15歳年上の金細工師の兄アントーニオの工房、または父の友人の金細工師の工房に見習いとして入る。やがて金細工師から画家へと転向し、15歳の頃にフィリッポ・リッピの工房に弟子入りする。その才能からフィリッポ・リッピにかわいがられ、すぐにフィリッポ・リッピの制作にも参加するようになる。1465年頃に制作されたボッティチェッリの最初期の聖母子像(捨て子養育院)には、顎先のとがった聖母の顔や丸々と太った幼児イエスに師フィリッポ・リッピの影響が濃厚に表れている。
 その後、20歳ぐらいの時にスポレートに旅立ったフィリッポ・リッピの紹介でヴェロッキオの工房に移る。この当時の作品「薔薇園の聖母」や「剛毅」などには丸顔の聖母、短めの鼻、玉座の装飾に見られる工芸趣味などからヴェロッキオの作風が見て取れる。
 このように有名な2人の師の影響を受けつつも、内省的でメランコリックな表情と視線や、繊細な手の仕草、そして堂々たる古典的な量感表現などの特徴から、若いボッティチェッリ自身の技量と才能が発揮されていることがわかる。
 1472年、師の息子フィリッピーノ・リッピらを弟子に迎え、工房を開いて独立する。そして優雅で洗練された独自の画風を磨き、メディチ家ヴェスプッチ家をはじめ、フィレンツェの上層階級をパトロンとして華々しい画歴を歩むことになる。
 「東方三博士の礼拝」に描きこまれたメディチ家の一族、ロレンツォ・イル・マニーフィコの弟で後にパッツィ家の陰謀で凶刃に倒れるジュリアーノ・デ・メディチの肖像、そのジュリアーノ・デ・メディチの参加した馬上騎馬試合の「女王」に選ばれていた「美しきシモネッタ」の肖像画などは、メディチ家との親密な関係を示している。個人的にもロレンツォ・イル・マニーフィコジュリアーノ・デ・メディチ兄弟とは友人づきあいをしており、その知識人サークルにも出入りしていた。
 またヴェスプッチ家の依頼でオニサンティ聖堂に「書斎の聖アウグスティヌス」を描いた。ボッティチェッリといえば甘美でメランコリックな女性像を真っ先に思い浮かべるが、この作品では完全な人体の比例や男性的表現など、15世紀前半の絵画の特徴が表れている。
 しかし、なんといってもボッティチェッリの芸術家としての絶頂期は、異教的神話画の名作「プリマヴェーラ」「ウェヌスの誕生」「パラスとケンタウロス」などを生み出した1480年代の前半であろう。
 主題としても全く前例がなく、古代以来初めてのほぼ等身大の神話画である「プリマヴェーラ」は寓意的・象徴的主題に満ち満ちており、15世紀で最も解釈が難解な作品となっているが、どうやらロレンツォ・イル・マニーフィコの又従兄弟のロレンツォ・イル・ポポラーノの婚礼の記念として描かれたものらしい。古代の詩を下敷きにしたアンジェロ・ポリツィアーノの牧歌的恋愛詩を文学的な典拠としていると考えられ、ここにもヒューマニズムというこの時代の気分が濃厚に感じられるのである。
 ボッティチェッリ自身はジョルジョ・ヴァザーリによれば「非常に愉快な人物」で、友人や弟子達に悪ふざけを仕掛けたりする、ユーモア精神に満ちた人物だったようだ。またダンテ・アリギエーリを愛読し、『神曲』の挿し絵を描いた。気ままな浪費家で女性嫌いな享楽主義者、そして彼の作品に見られるように繊細な気質と都会的な洗練された趣味の持ち主だった。
 その後もボッティチェッリは多くの美少年天使に囲まれた聖母子像「マニフィカトの聖母」や「ザクロの聖母」など甘美な作品を描くが、聖母もイエスも放心とメランコリーと孤独感を深め、漠然とした不安感やペシミズムが次第に鮮明になってくる。
 折しも1490年にフェッラーラ出身のドメニコ会修道士ジローラモ・サヴォナローラサン・マルコ修道院の院長として就任し、フィレンツェの風俗やメディチ家の政治を激烈に糾弾する説教を始めて急速にその影響力を広めていた。
 そして1492年にはロレンツォ・イル・マニーフィコが死去。1494年にはフランス王シャルル8世イタリアに侵攻する。これには世界の終末が近い、と叫んでいたジローラモ・サヴォナローラの預言が当たったと人々は大騒ぎし、ジローラモ・サヴォナローラの指導の元、フィレンツェ市は神政を敷く。風紀を引き締め、神をこの世の長として生活するのである。
 そのジローラモ・サヴォナローラの方針でもっとも象徴的なのは虚飾の焼却といわれる出来事であろう。シニョリーア広場で多くの異教的・世俗的な絵画や書物、楽器や遊興具、装身具や香水などの奢侈品を積み上げ、燃やしたのである。このことは20年に及ぶロレンツォ・イル・マニーフィコ時代の文化に決定的な終止符が打たれたことを意味している。
 先に述べたような「非常に愉快な人物」であったボッティチェッリだが、何か心に傷つくことでもあったのか、ジローラモ・サヴォナローラに心酔していく。虚飾の焼却では自らの作品を異教的であるとして自らの手で炎に投げ込んだとも言われている。
 1490年代以降、彼の作品からは甘美な異教的な神話画や聖母子像は姿を消し、キリストの受難や救済のテーマが登場するようになり、人物のポーズも硬直し、緊張感にあふれたものになる。古代の画家アペレスの消失した作品「誹謗」をアルベルティの「絵画論」に基づいて復元した寓意画「誹謗」がこの時期の代表作である。
 この作品の制作動機は、ジローラモ・サヴォナローラに対する政治的誹謗への抗議、ジローラモ・サヴォナローラ党と目された自分自身への誹謗への抗議、同性愛者として2度も告発されたことへの抗議などと言われているが、ロレンツォ・イル・マニーフィコという友人にして最大のパトロンを失った後のボッティチェッリの精神的、社会的孤立が連想される。
 1498年にジローラモ・サヴォナローラが失脚し処刑された後、彼はますます制作意欲をなくし、1501年の「神秘の降誕」を最後にほとんど筆を絶ってしまう。若い頃からの浪費癖もあいまって生活に困窮し、誰からも忘れ去られて1510年に淋しくこの世を去ったという。遺骸はその一生のほとんどを過ごした生家の近く、自らの作品「書斎の聖アウグスティヌス」のあるオニサンティ聖堂に葬られている。
 全てのものが新しく生まれ変わる「プリマヴェーラ」、「ウェヌスの誕生」。これはまさにフィレンツェ芸術の黄金時代を象徴している。人生を謳歌する若々しさと洗練された美の集大成であろう。
 しかし「誹謗」に描かれた人物の悲痛な表情や不自然なまでにねじくれたポーズは、これが同じ画家の作品なのかと目を疑わざるをえない。同時に15世紀のフィレンツェの芸術、そしてフィレンツェそのものの歴史の挫折を思い、もの悲しささえ感じられてしまい、長く正視していられないほどである。
 まさにボッティチェッリは、15世紀のフィレンツェ芸術の盛衰を体現していると言えよう。

作品

年表

1445年3月1日

フィレンツェに生(1444年、1446年)。

1470年

商業裁判所の委員で、制作を監督したトンマーゾ・ソデリーニから、「七つの美徳」連作の内2点を受注。

2点の発注のうち1点が撤回される。

1470年8月18日

剛毅」の報酬を受け取る。

1472年

フィレンツェ市内のサン・ルカ画家組合に加入を許される。

1475年

サンタ・クローチェ広場で行われた騎馬槍試合で、ジュリアーノ・デ・メディチが持っていた旗を制作したのがボッティチェッリだとされている。ロレンツォ・イル・マニーフィコが選んだ「La sans par」という標語と、クピドが足元に鎖で繋がれたウェヌスミネルウァの寓意的役割でシモネッタ・カッターネオが描かれたものだったという。

1478年7月25日

パッツィ一族の死者及びフィレンツェ共和国に対する反逆者全員の絵をフィレンツェヴェッキオ宮殿の壁に描き、報酬としてシニョーリアから50フィオリーノを受け取る。

1478年

この年頃、「プリマヴェーラ」を完成。

1480年10月27日

ローマへ向け、フィレンツェ出発。

1481年春

聖職者の絞首刑の肖像を描くことは、異端的な行為とみなされ、シクストゥス4世はそれを破棄するよう繰り返し命じていた。ピサ大司教フランチェスコ・サルヴィアーティの姿は陰謀者たちのフレスコ画から削り取られた。

1481年夏

この頃?、完成したシスティーナ礼拝堂の壁画製作の契約をシクストゥス4世と結ぶ。他に、ドメニコ・ギルランダイオコジモ・ロッセッリルカ・シニョレッリピントゥリッキオら。

1482年2月17日

契約更新。

1482年2月20日

父マリアーノ・フィリペーピ、死。

1482年

フィレンツェに帰還し、ローマに戻ることはなかった。

1485年

この年頃、「ウェヌスの誕生」を完成。

1494年

1478年のフレスコ画「パッツィ家陰謀者処刑図」が破損される。

1504年1月25日

ミケランジェロの「ダヴィデ像」完成し、この日、その設置場所を決定するため、自身を含む、レオナルド・ダ・ヴィンチペルジーノフィリッピーノ・リッピジュリアーノ・ダ・サンガッロアントーニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオなどによる設置委員会開かれる。

1510年5月17日

ヴェネツィアで死。

住居

 Borgo Ognissanti通りと、その後Via della Porcellana通りに1軒ずつ家を所有していた。

 オニッサンティ教会の中。右側廊の礼拝堂の中。

肖像

聖母子と天使 Madonna col Bambino e un angelo

作者
ボッティチェッリ
制作
1465~1467年
媒材
テンペラ、板
寸法
87 cm×横60 cm
所蔵
捨て子養育院

概要

 「聖母子と天使」は、ボッティチェッリ作の絵画。師匠のフィリッポ・リッピ作「聖母子と天使」への賛辞を表している。

題材

 聖母子
 天使

別表記

 Madonna col Bambino degli Innocenti

外部リンク

 Wikipedia

モンテフェルトロとランディーノ Montefeltro e Landino

作者
ボッティチェッリ
制作
1460年代後半~1470年代前半
寸法
270 × 186 mm
所蔵
ヴァティカン図書館
備考
MS. Urb Lat. 508, fol. 1 recto

概要

 「モンテフェルトロとランディーノ」は、ボッティチェッリ作の絵画、挿絵。

題材

 フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ
 クリストフォロ・ランディーノ

別表記

 Montefeltro with Landino from frontispiece

外部リンク

 Flickr
 Biblioteca Apostolica Vaticana
 Wikipedia

剛毅 Fortezza

作者
ボッティチェッリ
制作
1470年
媒材
テンペラ、板
寸法
167 cm×横87 cm
所蔵
ウフィッツィ美術館

概要

 「剛毅」は、ボッティチェッリ作の絵画。連作「七つの美徳」の1つで、他はピエロ・デル・ポッライオーロが描いた。

題材

 七つの美徳
 ルクレツィア・ドナーティ

外部リンク

 フィレンツェ公認観光ガイド 加藤まり子
 ミュージー
 Wikipedia

若者の肖像 Il Ritratto di Giovane

作者
ボッティチェッリ
制作
1470年頃
媒材
油彩、板
寸法
33.7 cm × 51 cm
所蔵
ピッティ宮殿パラティーナ美術館

概要

 「若者の肖像」は、ボッティチェッリ作の絵画、肖像画。

外部リンク

 Web Gallery of Art
 Wikipedia

参考文献

 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』

老コジモのメダルを持つ若者の肖像 Ritratto d'uomo con medaglia di Cosimo il Vecchio

作者
ボッティチェッリ
制作
1474~1475年頃
媒材
テンペラ、板
寸法
57.5 cm×横44 cm
所蔵
ウフィッツィ美術館

概要

 「老コジモのメダルを持つ若者の肖像」は、ボッティチェッリ作の絵画、肖像画。青年の持つメダルには故コジモ・イル・ヴェッキオの顔が刻まれている。メダルが伝統的な肖像画の型である横顔であるのに対し、若者は4分の3こちらを向いていることで、世代交代が暗示されている。

外部リンク

 Wikipedia

アレクサンドリアの聖カタリナ Santa Caterina d'Alessandria

作者
ボッティチェッリ
制作
1475年頃
媒材
テンペラ、ポプラの板
寸法
81.3 cm×横53.2 cm
所蔵
アルテンブルク、リンデナウ美術館

概要

 「アレクサンドリアの聖カタリナ」は、ボッティチェッリ作の絵画、肖像画。

題材

 カテリーナ・スフォルツァ

公式サイト

 Lindenau-Museum Altenburg

外部リンク

 Google Books - The Tigress of Forlì
 Wikipédia

東方三博士の礼拝 Adorazione dei Magi

作者
ボッティチェッリ
制作
1475年頃
媒材
テンペラ、板
寸法
111 × 134 cm
所蔵
ウフィッツィ美術館

概要

 「東方三博士の礼拝」は、ボッティチェッリ作の絵画。

自画像

題材

 東方の三博士
 ロレンツォ・イル・マニーフィコ
 コジモ・イル・ヴェッキオ
 ピエロ・イル・ゴットーソ
 ボッティチェッリ

別表記

 Adoration of the Magi

外部リンク

 Uffizi Gallery
 Web Gallery of Art

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』

プリマヴェーラ Primavera

作者
ボッティチェッリ
制作
1478年頃
媒材
テンペラ、板
寸法
203 × 314 cm
所蔵
ウフィッツィ美術館

概要

 「プリマヴェーラ」は、ボッティチェッリ作の絵画。

メルクリウス

メルクリウス三美神

三美神


 3柱のカリテスの内、最も大きく華やかな装飾品をつけ、髪も服もなまめかしく乱れている左側の女神は愛欲を表す。彼女と対立するように立つ中央の女神は、いっさい飾りをつけず、髪型も衣装も慎ましやかで、貞節を表している。挑発的な愛欲とは裏腹に、その表情は冷ややかで硬い。
 この正反対の性質の2柱を、右の美の女神が統一し、調和を生み出している。髪も衣装も装飾品も愛欲ほど豪奢でなく、かと言って貞節ほど質素でない。端正な横顔は遠くの世界を見つめており、手はがっちりと組んでいる他の2柱と違って軽く繋いでいる。その優越性を物語るかのようにウェヌスに最も近くに位置し、2つの相対立するものを統一して新しい総合をもたらすという役割を果たしている。したがってこの三美神は、弁証法的論理の極めて優美な表現なのである。
 しかし、貞節もやがては愛の世界に導かれることが暗示されている。貞節の衣装の左側、つまり愛欲に近い方が脱げかけていて、肩の肌が露わになっている。愛と美の手は貞節を祝福するように高々と掲げられている。何よりもエロスの矢が貞節を指していることから、未だ愛を知らぬ貞節に対する恋愛指南を示しているのである。そして、彼女の視線の先にはメルクリウスがいる。

クピド

ゼピュロス/アタナシア(不滅)

題材

 ウェヌス
 カリテス
 ゼピュロス
 メルクリウス
 フローラ
 クピド

別表記

 春、春の寓意、ヴィーナスの治国

外部リンク

 プリマヴェーラの謎
 ウィキペディア
 Uffizi Gallery
 Web Gallery of Art
 YouTube - 山田五郎 オトナの教養講座

参考文献

 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『メディチ家』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネッサンスの光と闇』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ローマ教皇検死録』

ジュリアーノ・デ・メディチの肖像 Ritratto di Giuliano de' Medici

作者
ボッティチェッリ
制作
1478~1480年
媒材
テンペラ、板
寸法
75.6 × 52.6 cm
所蔵
ナショナル・ギャラリー・ワシントン

概要

 「ジュリアーノ・デ・メディチの肖像」は、ボッティチェッリ作の絵画、肖像画。

題材

 ジュリアーノ・デ・メディチ

公式サイト

 National Gallery of Art, Washington

外部リンク

 Epoch Times Deutschland.
 Erhard Metz
 Web Gallery of Art
 Wikipedia

参考文献

 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

モーセの試練 Prove di Mosè

作者
ボッティチェッリ
制作
1481~1482年
媒材
フレスコ画
寸法
348.5 cm×横558 cm
所蔵
システィーナ礼拝堂

概要

 「モーセの試練」は、ボッティチェッリ作の絵画。
 モーセがイスラエル人を迫害するエジプト人を殺し、荒野ミデヤンに逃れる。エテロの娘たちが羊の群れに水を飲ませようとするのを妨げる羊飼いと戦い、井戸の水を羊に与える。靴を脱いで、燃えながらもなくならない柴の前に跪き、神からエジプトへ戻りイスラエル人を解放するよう命ぜられる。そして、カナンに人々を導く。

ジローラモ・リアリオ

題材

 モーセ

外部リンク

 Wikipedia

キリストの誘惑 Tentazioni di Cristo

作者
ボッティチェッリ
制作
1481~1482年
媒材
フレスコ画
寸法
345.5 cm×横555 cm
所蔵
システィーナ礼拝堂

概要

 「キリストの誘惑」は、ボッティチェッリ作の絵画。

部分

 ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿、チェーザレ・リアリオカテリーナ・スフォルツァ

外部リンク

 Google Books - The Tigress of Forlì
 Wikipedia

反逆者たちの懲罰 Punizione dei ribelli

作者
ボッティチェッリ
制作
1481~1482年
媒材
フレスコ画
寸法
348.5 × 570 cm
所蔵
システィーナ礼拝堂

概要

 「反逆者たちの懲罰」は、ボッティチェッリ作の絵画。
 反逆者たちがモーセに石をぶつけようとしているのをヨシュアが止めようと割って入る。兄アロンの祭司権に反抗したレビ部族のコラ、ダタン、アビラムらに、モーセは杖を振り上げ、主に薫香を捧げるよう促す。三重冠を被ったアロンが吊り香炉を振っている。コラら反乱者の足元の大地が裂け、呑み込まれようとしている。

 凱旋門には「NEMO SIBI ASSUM MAT HONOREM NISI VOCATUS ADEO TANQUAM AARON そして、アロンのように神から召された者だけがこの名誉(祭司権)を担うことができる」との銘文があり、本作が教会の上に立つ教皇の権威を示すために描かれたものだということが窺える。

題材

 モーセ

別表記

 コラの懲罰、The Punishment of Korah and the Stoning of Moses and Aaron

外部リンク

 Wikipedia
 Web Gallery of Art

参考文献

 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

パラス Pallade con un elmo nella mano destra e un ramo di ulivo nella sinistra

作者
ボッティチェッリ
制作
1482~1483年頃
媒材
黒ピエトラ、紙
寸法
22.2 cm×横13.8 cm
所蔵
ウフィッツィ美術館

概要

 「パラス」は、ボッティチェッリ作の絵画、素描。右手に兜、左手にオリーヴの枝を持つミネルウァ

題材

 ミネルウァ

公式サイト

 Progetto Euploos - Gabinetto dei Disegni e delle Stampe delle Gallerie degli Uffizi

外部リンク

 Sandro Botticelli

パラスとケンタウロス Pallade e il centauro

作者
ボッティチェッリ
制作
1482~1483年頃
媒材
テンペラ、画布
寸法
207 cm×横148 cm
所蔵
ウフィッツィ美術館

概要

 「パラスとケンタウロス」は、ボッティチェッリ作の絵画。

 ロレンツォ・イル・マニーフィコの個人紋章であるダイヤモンドの指輪が3つ4つ繋がる模様がミネルウァの衣装の柄に使われているので、ロレンツォ・イル・マニーフィコか彼の関係者の依頼で描かれたものであることは間違いない。ロレンツォ・イル・ポポラーノセミラミーデ・ダッピアーノの結婚祝いとして制作されたと言われている。ロレンツォ・イル・ポポラーノの弟ジョヴァンニ・イル・ポポラーノの死に際して作成された1498年、及び1503年と1516年の目録に記載があり、メディチ宮殿の控えの間に通ずる扉の上で、「プリマヴェーラ」のそばに飾られていたことが判明している。
 薄布を纏い、聖木であるオリーヴを巻き付け、ハルバートを持つミネルウァが、弓を手にしたケンタウロスの髪を掴んでいる。ルネサンスの人文主義者にとって、ケンタウロスは人間の半ば獣である下位の本性の形象化で、ミネルウァに象徴される高位の英知と対置される。他に、欲望と貞節、傲慢と謙遜、理性と本能の対比などの解釈が可能だろう。
 政治的解釈をすれば、古代遺跡を背景にしたケンタウロスローマ、平和の象徴のオリーヴの枝を巻き付かせているミネルウァフィレンツェ、背後に広がる海はナポリの湾となる。通常はミネルウァの持ち物でない斧槍が描かれていることに加え、非常に装飾的で儀礼の場や衛兵が用いそうなものであることから、ここに侵入してきたケンタウロスを懲らしめている様子だと捉えられる。絵画全体を把握した解釈が成り立つため、説得力のある説と言えよう。

 景色は、ローマ時代の同僚システィーナ礼拝堂で職場を共にしたペルジーノルカ・シニョレッリの影響が風景描写に感じられ、ケンタウロスについては、古代の石棺の浮彫りを実際に目にしたのかもしれない。フリウス・ディオニシウス・フィロカルスの『354年のローマ暦』のトーリアの街の擬人化に着想を得たとの指摘もある。

題材

 ミネルウァ
 ケンタウロス

公式サイト

 Le Gallerie degli Uffizi

外部リンク

 ウィキペディア
 Botticelli’s Minerva and the Centaur: Artistic and Metaphysical Conceits

若い男の肖像 Ritratto di giovane uomo

作者
ボッティチェッリ
制作
1482~1483年
媒材
テンペラ、板
寸法
43.5 cm×横46.2 cm
所蔵
ナショナル・ギャラリー・ワシントン

概要

 「若い男の肖像」は、ボッティチェッリ作の絵画、肖像画。

別表記

 Portrait of a Young ManPortrait of a Youth

公式サイト

 National Gallery of Art, Washington

外部リンク

 Wikipedia

ナスタジオ・デリ・オネスティの物語 La Serie di Nastagio degli Onesti

作者
ボッティチェッリ
制作
1483年頃
媒材
テンペラ、板

概要

 「ナスタジオ・デリ・オネスティの物語」は、ボッティチェッリ作の絵画。ジョヴァンニ・ボッカッチョ著『デカメロン』5日目第8話が描かれている。1483年のジャンノッツォ・プッチとルクレツィア・ビーニの結婚の折に、おそらく花婿の父でボッティチェッリの庇護者であるアントーニオ・プッチの依頼で制作された。

第1場面

寸法
83 cm×横138 cm
所蔵
プラド美術館

第2場面

寸法
82 cm×横138 cm
所蔵
プラド美術館

第3場面

寸法
84 cm×横142 cm
所蔵
プラド美術館

第4場面

寸法
83 cm×横142 cm
所蔵
個人蔵

外部リンク

 サルヴァスタイル美術館
 Google Books
 Museo Nacional del Prado
 Museo Nacional del Prado
 Museo Nacional del Prado
 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』

マニフィカトの聖母 Madonna del Magnificat

作者
ボッティチェッリ
制作
1483~1485年
媒材
テンペラ、板
直径
118 cm
所蔵
ウフィッツィ美術館

概要

 「マニフィカトの聖母」は、ボッティチェッリ作の絵画。

題材

 聖母子

別表記

 Madonna con il Bambino e cinque angeliMadonna of the Magnificat

外部リンク

 Uffizi Gallery
 Web Gallery of Art

ウェヌスとマルス Venere e Marte

作者
ボッティチェッリ
制作
1483~1486年
寸法
69 × 173 cm
媒材
テンペラ、板
所蔵
ナショナル・ギャラリー・ロンドン
番号
NG915

概要

 「ウェヌスとマルス」は、ボッティチェッリ作の絵画。

題材

 ウェヌス
 ファウヌス
 マルス

別表記

 マルスとヴィーナス、ヴィーナスとマルス、眠れるマルス、Venus and Mars

関連項目

 『イコノロジー研究

外部リンク

 サルヴァスタイル美術館
 The National Gallery, London
 The National Gallery, London
 Web Gallery of Art
 Wikipedia

参考文献

 『イコノロジー研究

パリスの審判 Giudizio di Paride

作者
ボッティチェッリ
制作
1483~1488年頃
媒材
テンペラ、板
寸法
81 cm×横197 ㎝
所蔵
ロレダン・チーニ宮殿

概要

 「パリスの審判」は、ボッティチェッリ作の絵画。

題材

 パリス
 ユノ
 ウェヌス
 ミネルウァ

外部リンク

 Wikimedia Commons
 Wikimedia Commons

ウェヌスの誕生 Nascita di Venere

作者
ボッティチェッリ
制作
1485年頃
媒材
テンペラ、画布
寸法
172.5 × 278.5 cm
所蔵
ウフィッツィ美術館

概要

 「ウェヌスの誕生」は、ボッティチェッリ作の絵画。

題材

 ウェヌス
 ゼピュロス
 ホライ

別表記

 ヴィーナスの誕生、The Birth of Venus

外部リンク

 Uffizi Gallery
 Web Gallery of Art

参考文献

 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『メディチ家』
 『ルネッサンスの光と闇』
 『ローマ教皇検死録』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

若い女性の肖像 Ritratto di Giovane Donna

作者
ボッティチェッリ
制作
1485年頃
媒材
テンペラ、板
寸法
40 cm × 61 cm
所蔵
ピッティ宮殿パラティーナ美術館

概要

 「若い女性の肖像」は、ボッティチェッリ作の絵画、肖像画。

外部リンク

 Museo Thyssen-Bornemisza
 Wikipedia

ザクロの聖母 Madonna della Melagrana

作者
ボッティチェッリ
制作
1487年
媒材
テンペラ、板
直径
143.5 cm
所蔵
ウフィッツィ美術館

概要

 「ザクロの聖母」は、ボッティチェッリ作の絵画。

題材

 イエス・キリスト
 聖母マリア

別表記

 Madonna of the Pomegranate

外部リンク

 Uffizi Gallery
 Web Gallery of Art

サン・バルナバ祭壇画 Pala di San Barnaba

作者
ボッティチェッリ
制作
1487年
媒材
テンペラ、板
寸法
268 × 280 cm
所蔵
ウフィッツィ美術館

概要

 「サン・バルナバ祭壇画」は、ボッティチェッリ作の絵画。

題材

 イエス・キリスト
 聖母マリア

別表記

 The Virgin and Child with Four Angels and Six Saints

外部リンク

 Wikipedia
 Web Gallery of Art

参考文献

 『ルネッサンスの光と闇』

聖母戴冠の描かれたプルヴィアーレのフード Cappuccio di piviale

作者
フィレンツェの織物製作所
下絵
ボッティチェッリ
制作
1490~1495年
媒材
絹、金糸、亜麻
寸法
46,2 cm × 46,5 cm
所蔵
ポルディ・ペッツォーリ美術館

概要

 「聖母戴冠の描かれたプルヴィアーレのフード」は、ボッティチェッリの画稿による織物。

題材

 聖母マリア

展示会

 2014年 あべのハルカス美術館、華麗なる貴族コレクション

外部リンク

 Museo Poldi Pezzoli

誹謗 La Calunnia

作者
ボッティチェッリ
制作
1494~1495年
媒材
テンペラ、板
寸法
62 × 91 cm
所蔵
ウフィッツィ美術館

概要

 「誹謗」は、ボッティチェッリ作の絵画。

題材

 ミダス

別表記

 ラ・カルンニア、アペレースの誹謗、Calumny of Apelles

関連項目

 『イコノロジー研究

外部リンク

 Uffizi Gallery
 Web Gallery of Art
 サルヴァスタイル美術館

参考文献

 『イコノロジー研究
 『ルネッサンスの光と闇』

ダンテ・アリギエーリの肖像 Ritratto di Dante Alighieri

作者
ボッティチェッリ
制作
1495年
媒材
テンペラ
寸法
54.7 cm×横47.5 ㎝
所蔵
スイス連邦ジュネーヴ州コロニー、マルタン・ボドマー財団図書館及び博物館

概要

 「ダンテ・アリギエーリの肖像」は、ボッティチェッリ作の絵画、肖像画。

題材

 ダンテ・アリギエーリ

外部リンク

 Wikimedia Commons

死せるキリストへの哀悼 Compianto sul Cristo Morto

作者
ボッティチェッリ
制作
1500年頃
媒材
テンペラ、板
寸法
71 cm × 106 cm
所蔵
ポルディ・ペッツォーリ美術館

概要

 「死せるキリストへの哀悼」は、ボッティチェッリ作の絵画。

題材

 イエス・キリスト

展示会

 2014年 あべのハルカス美術館、華麗なる貴族コレクション

公式サイト

 Museo Poldi Pezzoli

外部リンク

 Wikipedia

舞台

 宝塚歌劇団宙組『異人たちのルネサンス―ダ・ヴィンチが描いた記憶』

本名

 アレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピ(Alessandro di Mariano Filipepi

別表記

 サンドロ・ボッティチェリ、ボッチチェリ、Sandro Botticelli

外部リンク

 アート at ドリアン
 ウィキペディア
 サルヴァスタイル美術館
 なまけ大学文学部
 歴史データベース
 Art cyclopedia
 Web Gallery of Art
 WebMuseum

参考文献

 『イコノロジー研究
 『逆光のメディチ』
 『銀色のフィレンツェ』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ルネッサンスの光と闇』
 『ルネッサンス夜話』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『ローマ教皇検死録』
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2024年7月4日