Girolamo Savonarola

ジローラモ・サヴォナローラ

生没:1452年9月21日~1498年5月23日
父:ニッコロ・サヴォナローラ
母:エレーナ・ボナコッシ

概要

 ジローラモ・サヴォナローラは、15世紀のフィレンツェの男性、ドメニコ会修道士、教会改革論者、政論家。

年表

1452年9月21日
ジローラモ・サヴォナローラ、ミケーレ・サヴォナローラを祖父とし、父ニッコロ・サヴォナローラと母エレーナ・ボナコッシの4番目の子(兄2名・姉1名)としてフェッラーラに生。
1475年4月24日
ジローラモ・サヴォナローラ、フェッラーラの家を出奔してボローニャまで歩き、その地のドミニコ修道会に入る(1475年~1482年)。
1482年4月28日
この日からレッジョで始まったドミニコ会ロンバルディア地方支部集会でジローラモ・サヴォナローラ、フィレンツェサン・マルコ修道院の聖書講解師に任命される。
この集会に、神学者たちの討論を聴くべく留学先のパドヴァから参加した神童ジョヴァンニ・ピコと、参加者から学識を評価されつつあったジローラモ・サヴォナローラ、相互に評価しあい、友情を取り結ぶ。
1482年5月
ジローラモ・サヴォナローラ、サン・マルコ修道院に聖書講解師として着任。
1484年3月後半
ジローラモ・サヴォナローラ、メディチ家の教会サン・ロレンツォ教会で説教を行うが、最後には聴衆が20名余になるほど不評の内に終わり、説教を続ける自信を失う。
1484年秋
ジローラモ・サヴォナローラ、神は教会を罰する、そして改革する、直ちにそれらを行う、との天啓を得る。
1485年2月上旬~3月
ジローラモ・サヴォナローラ、近郊サン・ジミニャーノの教会での四旬節の説教で、1484年秋に得た天啓だとして、神はすぐに教会を処罰し改革するだろうと説く。
1486年2月5日
ジローラモ・サヴォナローラ、この日以降、の教会での四旬節の説教で、1484年秋に得た天啓を前年に続き繰り返して説く。
1487年
この頃までに?、ジローラモ・サヴォナローラ、ボローニャのドミニコ会の総合研究所(大学)で教授すべくドミニコ会の指令によりフィレンツェを離れる。この任の終了後はロンバルディア各地での説教に派遣され、しばらくはフィレンツェに戻らず(1487年~1490年)。
1489年4月20日
ジョヴァンニ・ピコの依頼と勧奨に応じてロレンツォ・イル・マニーフィコ、この頃までに、ジローラモ・サヴォナローラをサン・マルコ修道院に帰任させるよう求める手紙をドミニコ会に送る。
1490年
フィレンツェで説教活動を開始。
1491年2月16日
ジローラモ・サヴォナローラ、大聖堂で説教を開始。聖人のような人物との評を市内各層から得つつあるジローラモ・サヴォナローラの市民への影響は、さらに強まる。
1491年4月6日
ジローラモ・サヴォナローラ、ヴェッキオ宮殿でプリオリらを前に説教。その中で彼は、都市は首領次第で良くも悪くもなると語った上で、名指しはしないながらもロレンツォ・イル・マニーフィコを暴君とし、そのさまざまの所業を非難。
1491年5月12日
ロレンツォ・イル・マニーフィコ、市内で評価の高いアウグスティヌス会の説教士Mariano da Genazzanoにジローラモ・サヴォナローラ非難の説教をサン・ガッロ聖堂で行わせる。これ以後もMariano da Genazzanoは、執拗に反ジローラモ・サヴォナローラの言動を取り続ける。
1491年5月15日
ジローラモ・サヴォナローラ、Mariano da Genazzanoに全面的に反論する説教を行い、聴衆を納得させる。
1491年7月1日
ジローラモ・サヴォナローラ、修道士仲間からも全面的信頼と評価を得、サン・マルコ修道院長に選出される。
1492年4月5日
夜、大聖堂のクーポラに落雷。聖堂の内外に大きな被害が出る。
1492年4月6日
前夜の落雷が大災難の予兆ではないかと市民が恐れている中、ジローラモ・サヴォナローラ、主の剣がすぐに、確実に地上の民に振るわれるであろうと説教士聴衆を震え上がらせる。
1492年4月8日
3日前からカレッジの別荘で死の床に臥していたロレンツォ・イル・マニーフィコ、死。死後、ジローラモ・サヴォナローラは求められてロレンツォ・イル・マニーフィコに祝福を与える。
大聖堂への落雷に続くロレンツォ・イル・マニーフィコの死により、市内に終末論的不安が広がる。
1492年8月下旬
ジローラモ・サヴォナローラ、アレクサンデル6世の教皇即位について、自分が預言してきた神による教会への処罰と再建の種が撒かれたのだと説教。
1492年11~12月
ジローラモ・サヴォナローラ、待降節の説教で、かねてから繰り返していた神罰について、アルプスの彼方から一人の王が神の使いとして来襲し、キュロス2世(=古代ペルシア帝国の創健者)の如き早業で、瞬く間の内にイタリア諸国、要塞を制圧する、何人も抵抗できないと預言。
1493年5月23日
アレクサンデル6世、小勅書を発し、院長ジローラモ・サヴォナローラの人望、令名の下で入会者と喜捨が増大し大所帯となったフィレンツェサン・マルコ修道院のロンバルディア修道会からの独立を渋々、承認。
1494年夏
シニョーリアは、市民の不安を高め騒乱を招く恐れのある説教師たちの説教を禁止。但しこの中にジローラモ・サヴォナローラは含まれず。
1494年9月21日
シャルル8世軍のジェノヴァ入城の報が届いた数時間後、大聖堂でジローラモ・サヴォナローラ、神罰としてキュロス2世の如き王が襲来すると預言していた通りのことが生じたと、シャルル8世の侵攻を自分の預言の証と強調。聴衆で満員の大聖堂に終末論的不安と恐怖に怯え泣き叫ぶ声が大反響。
以後、預言者ジローラモ・サヴォナローラへの畏敬と信従の念が高まり、彼の説教にさらに多くの聴衆が押し寄せる。
1494年10月
シャルル8世軍、トスカーナに侵攻し、フィレンツェ領境を攻撃。これをジローラモ・サヴォナローラの預言していた神罰そのものと信ずる市民、不安、恐怖感とジローラモ・サヴォナローラへの信従の念をますます強めて彼の説教に馳せ参ずる。
1494年11月5日
百人委員会は、前日のコンシーリオ・デル・セタンタでのピエロ・カッポーニの発言に基づき、ジローラモ・サヴォナローラ、ピエロ・カッポーニなど5名の使節をシャルル8世の元に派遣し、反フランス政策への転換はピエロ・イル・ファトゥオ個人の責任であること、ピエロ・イル・ファトゥオフィレンツェの公式の代表とは認めないこと、を言明してピエロ・イル・ファトゥオを慰撫することを決議。5名の使節出発。ジローラモ・サヴォナローラは、初めて政治の全面に登場。
1494年11月
ジローラモ・サヴォナローラやピエロ・カッポーニフィレンツェ使節は、ピサでシャルル8世と交渉するが、何の回答も得られず、失敗。ピサ市民に追われるように帰る。
1494年11月11日
シニョーリアは、メディチ家支配下で設立された諸機関(百人委員会、オットー・ディ・プラティカ、Dodici Procruatoriなど)の廃止を決定し、メディチ家支配(1434年)以前の制度の復活(=実質上の旧門閥寡頭政)を準備。
1494年11月14日
ジローラモ・サヴォナローラら代表団は、ピエロ・カッポーニの別荘で再びシャルル8世と交渉するが何の回答も得られずに終わる。
1494年11月17日
シャルル8世は、軍と共に厳かに市内に入り、自身はメディチ宮殿に投宿。自身に譲歩したピエロ・イル・ファトゥオを復辟させ、自身をピエロ・イル・ファトゥオの上に立つ大君主と見なすよう要求。
ジローラモ・サヴォナローラを除くピエロ・カッポーニら4名の代表団は、シャルル8世の脅迫的要求を拒否。交渉決裂。市内にフランス軍による略奪、蛮行の不安、恐怖広まる。
1494年11月20日
シニョーリアは、ピエロ・イル・ファトゥオを反逆者と宣言し、彼の身柄をシニョーリアに引き渡した者に賞金を与えると公式に布告。
1494年11月21日
ジローラモ・サヴォナローラ、シニョーリア及び市民に請われてシャルル8世と再びメディチ宮殿で会談。キリスト受難像のついた十字架を見せつけながらシャルル8世に、フィレンツェ攻撃、略奪をなすことなく速やかに立ち去らなければ神に滅ぼされるであろうと説諭。加えて、教会改革のための公会議開催をアレクサンデル6世に求めるよう説諭?。
1494年11月26/27日
ジローラモ・サヴォナローラ、協定締結後も出立の気配を見せないシャルル8世の元に行き、神の意に反すれば神から災いを向けられるだろうと説諭。
1494年11月28日
シャルル8世は、軍と共にフィレンツェを離れナポリ制圧に向かう。
シャルル8世の要求緩和と退去はジローラモ・サヴォナローラの神的威力と説諭によるものと信じられ、彼の声望と権威ますます高まる。
1494年11月30日
シニョーリアは、プラティカを召集し、新しい政治体制について諮問。
1494年12月2日
シニョーリアは、プラティカの勧告に基づき、ヴェッキオ宮殿の塔の鐘を鳴らしてパルラメントを召集、開催。
パルラメントは、11月11日のシニョーリアの決定に沿い、メディチ家の支配下で設立された諸制度・機関(オットー・ディ・プラティカ、コンシーリオ・デ・セッタンタなど)の廃止とメディチ家支配以前の諸制度、機関(ポーポロ、コムーネなど)の再建(=実質上の門閥寡頭政の復活)を承認。またプラティカの勧告に沿い、官職被選挙人名簿が完成するまでシニョーリアとその2つのコレッジオ(協働機関:Sedici Gonfalonieri(十六街区旗手会議)、Dodici Buoni Uomini(助言者十二人会議))の選出を20名のアッコピアトーリに一任し、そのアッコピアトーリDieci di Libertà e Pace(平和と自由の十人委員会)及びオット・ディ・グァルディアは現(11月~12月)シニョーリアが特別の権限をもって選出し、現コレッジオがそれを補佐することを承認。
この承認に基づく官職の選出過程で、旧メディチ家支配体制下での有力者たちが支配権を保持し続けるなど、新体制が実質上、旧体制を継承した門閥寡頭政であることが明白になる。民衆の新政体への期待裏切られ、共和政を目指して旧政体の転覆に参画した者たちの間に不満高まる。
1494年12月7日
民衆の間に新政体への不満が広まり高まる中、ジローラモ・サヴォナローラ、説教において新政体の改革の必要性を指摘し、神はヴェネツィアの政体以上の政体をフィレンツェに啓示して下さるであろうと預言し、市民の自由な都市国家の創建を示唆。
1494年12月14日
ジローラモ・サヴォナローラ、説教の中でduce(統領)などを除けばヴェネツィアの政体は最良のものだと断言し、これを範として政体を変革するよう、かつ具体的な変革案は民衆から募り、その提案の中から十六街区旗手会議が一つを選択して提案するよう、強く主張。加えて全市民の融和、団結を図るためメディチ派など旧体制派の追及、弾劾は止めるよう提案。
1494年12月15~21日
ジローラモ・サヴォナローラ、連日(但し12月20日を除く)政体変革の緊要性を説教の中で繰り返し強調。この中で、ヴェネツィアのコンシーリオ・グランデを取り入れ、これを中心とし核とする民衆中心の政体を創れと共和政を具体的に提示。
1494年12月19~21日
十六街区旗手会議からさまざまの政体変革案提起され、ヴェッキオ宮殿内で変革論議沸騰。但し、この後の政体選択の議論は主要官職者だけで行われる。
1494年12月22~23日
ジローラモ・サヴォナローラの提唱に沿い、かつジローラモ・サヴォナローラの承認を得て、ポーポロ及びコムーネを廃止しConsiglio del Popolo et Comune(平民・自治都市評議会)及びそれによって半年後とに選出されるConsiglio degli Ottanta(八十人評議会)の設置を、1494年12月22日ポーポロで、1494年12月23日コムーネで議決。(この後間もなくConsiglio del Popolo et ComuneConsiglio Maggiore(大評議会)と改称される)。
1494年12月24日
シニョーリアは、ポーポロ及びコムーネの議決を正式決定。
共和政復活:フィレンツェ史上かつてない広範な有産市民に基盤を持つ立法及び官職選出の機関コンシーリオ・マッジョーレの創設により共和政復活。サヴォナローラ共和政始まる。
1495年1月13日
ローマでシャルル8世と彼に怯えるアレクサンデル6世との対決が始まったとの報に力を得たジローラモ・サヴォナローラ、「フランス王の剣は神の剣」、その襲来はイタリアへの「神罰」で教会の改革をもたらすものだと定義し、間近に迫った教会の改革に備えてこれまでの全ての罪を悔い改めよと熱く説教。
この説教、いつにも増して大きな反響を呼び、いつもの如く速記に取られたのみならず、異例にも『改革の説教』とのタイトルを付して直ちに印刷、刊行され、イタリア各地に急速に広まる。
1495年1月15~16日
アレクサンデル6世シャルル8世に屈服し、彼にチェーザレ・ボルジアを人質として引き渡すこと、彼の軍の教会領内自由通行を保障すること、枢機卿ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレをローマ近郊オスティアに復帰させることなどを約定。
但しシャルル8世、側近の判断と勧奨に従い、ジローラモ・サヴォナローラから説示された公会議開催、教会改革の要求を捨ててアレクサンデル6世への服従、恭順の意を公式に表明。
1495年1月25日
シャルル8世が公会議開催、教会改革の要求を捨ててアレクサンデル6世と協定し服従、恭順の意を正式に表明したとの報を得たジローラモ・サヴォナローラ、この日の説教で、もう政治を放棄する、もう政治には口を挟まず、自分の房に戻るからフランス王が来ても神聖ローマ皇帝が来ても自分を呼びに来るなと宣言。
1495年1月
コンシーリオ・マッジョーレ、初めて開催される。
1495年3月19日
ジローラモ・サヴォナローラが1494年12月14日から訴えてきた全市民の融和、団結を実現するため、彼の提唱により、1494年11月8日以降の政治犯の罪を問わず、今後の政治犯についてはシニョーリアによって有罪を宣告された者のコンシーリオ・マッジョーレへの提訴を認める法を制定。
これによりジローラモ・サヴォナローラ派(通称Frateschi=坊主派又はPianoni=泣き虫ども)とメディチ派(通称Bigi=灰色派又はPalleschi=玉派)が一応提携し、旧体制下での有力者たちは新共和政下での地歩を固める。
これに対し、反メディチで反ジローラモ・サヴォナローラの姿勢を取る上層有産層の青年たち(通称Arrabbiati=憤激派)、ジローラモ・サヴォナローラをメディチ支配に郷愁を覚えメディチ派と裏で通じていると非難を強める。
1495年4月4日
政治への影響をますます強めるジローラモ・サヴォナローラ、この日の説教で、自分への反対運動を進めるための宗教会議が最近、市内で開かれたとの確かな情報を披瀝した上、自分に敵対する守旧派、形式的教条派の聖職者たちをTiepidi(=臆病者たち、怠慢派)と名づけてこれを中心とする聖俗両世界の反ジローラモ・サヴォナローラ活動を非難。しかしTiepidiによる敵対行動は次第に強まる。
1495年5月24日
ジローラモ・サヴォナローラ、フィレンツェの武器は祈りのみ、フィレンツェの同盟はキリストとのみだと繰り返し、対シャルル8世、対フランス神聖同盟への加入を戒めて説教を終えた直後、路上で暴漢に襲われ危うく難を逃れる。犯行の背景は不明のままに終わる。
1495年5月25日
ジローラモ・サヴォナローラ、シャルル8世にフランス語の長文の書簡を送り、前年11月のフィレンツェとの約束を守らなければ神からその使いとしての権能を奪われ、フィレンツェの反抗を惹起するだろうと繰り返し警告。この書簡は直ちにイタリア語に翻訳され、一両日後に印刷、刊行される。
1495年6月15日
ジローラモ・サヴォナローラ、「フィレンツェの民衆の代理人にして弁護人」として、武装兵たちに護衛され、シエナのシャルル8世の陣に向かう。
1495年6月17日
シエナ領に入らずポッジボンシで待機していたジローラモ・サヴォナローラ、到着したシャルル8世と会見。1494年11月25日の約束を守ってフィレンツェのものを全て返還しピエロ・イル・ファトゥオ勢力を排除しなければ神にすぐ、重く罰せられるだろうと説諭。
以後ポッジボンシで一度、ピサ方面に向かうシャルル8世を追ってカステルフィオレンティーノで一度、会見し同様に説諭。
しかしシャルル8世からはピエロ・イル・ファトゥオ支援の中止のみを回答される。
1495年6月20日
ジローラモ・サヴォナローラ、市内に戻り、シャルル8世フィレンツェ再占領を回避させた祖国の救済者として熱い歓迎を受ける。
以後、有力貴族、有名文人、芸術家などサン・マルコ修道会への入会や修道院への埋葬が続くなど、崇敬を一身に集めるジローラモ・サヴォナローラ指導の修道会、修道院の名声、ますます高まる。
1495年6月21日
ジローラモ・サヴォナローラ、この日の説教で、この5年来自分を「絶望している者どもの説教師」と言ってきた者たちに対し、自分は初めから「お前たちこそ絶望している者ども」だと言ってきたと改めてメディチ派を非難。
1495年6月末
アッコピアトーリ退任。コンシーリオ・マッジョーレ、初めてシニョーリアを選出。
1495年7月5日
ジローラモ・サヴォナローラは、説教の中でフィレンツェはキリストとのみ同盟を結ぶのだと強調。
1495年7月21日
アレクサンデル6世、ジローラモ・サヴォナローラをフィレンツェの親フランス勢力の首領とみなし、彼を排するため、まず彼に対して小勅書を発し、君の見解の全てを知りたいからローマで自分に直接説明してくれと優しく命令。
1495年7月31日
ジローラモ・サヴォナローラ、アレクサンデル6世に返書を送り、以前から一度ローマを訪れて使徒たちの聖遺物と教皇猊下に崇敬の意を表したいと念じているものの、あいにく体調不全で医師に説教や学問すら禁じられているほどで旅行はできないこと、フィレンツェの諸々の改革が完成していないため留守にできないこと、フィレンツェ領外に出れば身に危険が及ぶこと、などの理由を挙げて間接的にローマへの出頭を拒否すると共に、自分の見解は近く刊行する自分の本を読めばよく分かるので刊行次第それを送ると予告。
1495年8月18日
ジローラモ・サヴォナローラ、Compendio di revelatione(天啓大要)をFrancesco Buonaccorsi書房から刊行。たちまちベスト・セラーとなる。
1495年8月20日
ジローラモ・サヴォナローラ、刊行したばかりのCompendio di revelationeエルコーレ1世・デステに送る。
この頃、同書をアレクサンデル6世にも送る。
1495年9月1日
ジローラモ・サヴォナローラ、Compendio di revelationeLorenzo Morgiani e Johann Petri書房からも刊行。
1495年9月5日
ジローラモ・サヴォナローラ、Compendio di revelationeBartolomeo de' Libri書房からも刊行。
1495年9月8日
アレクサンデル6世フィレンツェで反ジローラモ・サヴォナローラ活動の中心をなしているサンタ・クローチェ聖堂に宛てた書簡で、ジローラモ・サヴォナローラを誤った教義を撒き散らす異端の伝道者と決め付け、彼の説教を禁止。同時にサン・マルコ修道会を旧に復してロンバルディア修道会に統合すると通告。これによってサン・マルコ修道会の長としてのジローラモ・サヴォナローラの地位と権威を奪おうと企図。
1495年9月30日/10月1日
ジローラモ・サヴォナローラ、アレクサンデル6世に9月29日付の長文の返書を送り、教会の教義に反することを説いたことはないし、今後も教会の教義と指示に従うであろうと詳細に弁明すると共に、サン・マルコ修道院のロンバルディアの修道会への再統合を拒否。しかし説教は控える。
1495年10月3日
ジローラモ・サヴォナローラ、Compendio di revelationeのラテン語訳版をFrancesco Buonaccorsi書房から刊行。
1495年10月11日
ジローラモ・サヴォナローラ、説教を再開。
1495年10月16日
アレクサンデル6世、ジローラモ・サヴォナローラに宛て小勅書を発し、9月8日の小勅書での処分を保留しつつ彼の説教だけは改めて禁止。
1495年10月18~25日
説教を禁止したアレクサンデル6世の小勅書届かず、ジローラモ・サヴォナローラ、説教を続行。これらの中で、コンシーリオ・マッジョーレの議場用大ホールの改築、建設を速めよ、そこに「パルラメントを開かんとする者は民衆から支配権を奪わんとする者なり」との文を刻んだ石盤を据えよ、などの政治的主張、命令を展開。
1495年10月26日
アレクサンデル6世の小勅書届く。
1495年11月初め
ジローラモ・サヴォナローラ、フランスに帰着したシャルル8世に書簡を送り、自分が伝えた神の言葉を信じなかったから自分が預言した通りの罰を受けたのだと宣告。
1495年11月秋
ジローラモ・サヴォナローラ、説教を中止(~1496年春)。
説教を禁止され沈黙を強いられる中で、邪教を説く異端の徒、教会分離主義者、馬鹿げた政体の導入者などの非難、中傷に反論すべくEpistola a uno amico(ある友への手紙)を執筆し、自分の教説を知れば教皇も満足するだろうと自説の正当性を主張。
ジローラモ・サヴォナローラ、De semplicitate christianae vitae(クリスト信徒の質素な生活について)を執筆。
1495年11月13日
シニョーリアは、アレクサンデル6世に書簡を送り、ジローラモ・サヴォナローラに説教を許可するよう懇請。
1495年12月5日
Dieci di Libertà e Paceアレクサンデル6世に説教許可を懇請。
1495年末
この頃ジローラモ・サヴォナローラ、Epistola a uno amico(ある友への手紙)をLorenzo Morgiani e Johann Petri書房から刊行。
1496年1月28日
シニョーリアDieci di Libertà e Paceは、アレクサンデル6世に対して、ジローラモ・サヴォナローラに説教を許可するよう直接、間接に働きかける。
1496年2月14/15日
アレクサンデル6世が説教の再開を事実上認めたとの報がフィレンツェに届く。
1496年2月17日~4月10日
ジローラモ・サヴォナローラ、四旬節の第1日に説教を再開。
これらの説教の中で、ジローラモ・サヴォナローラ、これまでの激しさを凌ぐ勢いで教会、教皇を非難し、フィレンツェのかつての暴君の実態を分析、批判し、神から与えられたコンシーリオ・マッジョーレとそれを核とする神の政体を擁護。
1496年春
この頃までにアッラビアーティは、Epistola responsiva a frate Ieronimo(修道士イエロニモへの・・・・その友からの返書)をLorenzo Morgiani e Johann Petri書房から刊行し、Epistola a uno amicoに激しく反論。
1496年4月23日
ジローラモ・サヴォナローラ、Compendio di revelatione(天啓大要)をFrancesco Buonaccorsi書房から再刊行。以後この書、パリとドイツ・ウルムで刊行され、さらにヴェネツィアで1515年、1536年に刊行される。
1496年4月26日
反ジローラモ・サヴォナローラ・反メディチの貴族200名余が参画し、官職候補者55名の名簿が秘密裡に回覧されていることが発覚。首謀者フィリッポ・コルビッツィら3名が逮捕・拘留される。
1496年5月8日
党派結成禁止に反するものとして3名の首謀者、終身刑を宣告される。その他、関与者25名が公民権を停止される。
1496年5月8日
ジローラモ・サヴォナローラ、説教をまた始める。以後、この年末まで断続的に行う。
1496年5月11日
この日?、ヴェッキオ宮殿にコンシーリオ・マッジョーレのための新ホールが完成し、コンシーリオ・マッジョーレは定期的に開催され始める。
1496年5月28日
ピサ大学教授・神学者でメディチ家の保護を得ていたものの1492年からすでにジローラモ・サヴォナローラに心酔していたDomenico Benivieni(1460年頃~1507年)、Arrabbiatiの反ジローラモ・サヴォナローラ文書に対抗しジローラモ・サヴォナローラを賞賛する論文Tractato in defensione e probazione e predicate della doctrina et profetie di frate Hieronymo da Ferrara nella città di Firenze(フェッラーラ出身のサヴォナローラがフィレンツェ市国で説く教養と預言を擁護し証しするための論考)をFrancesco Buonaccorsi書房から刊行。この後もDomenico Benivieni、論文を公表し続けてジローラモ・サヴォナローラを強く擁護。
1496年8月15日頃
アレクサンデル6世、ジローラモ・サヴォナローラのもとに密使を送り、説教の内容を穏やかにし、かつフィレンツェを対フランス神聖同盟に加わらせるならば、赤い帽子すなわち枢機卿の地位を与えるとの懐柔策を提起。
1496年夏
ピサ制圧の不首尾と戦闘の長期化に伴う財政の破綻、商業の不振、停滞、食料不足の深刻化、餓死者の発生、ペストと梅毒の蔓延などによる社会不安が市内に広まる。
1496年8月20日
ジローラモ・サヴォナローラ、「私が欲しいのは使徒たちのような死とその血に染まった帽子だけだ」とコンシーリオ・マッジョーレ議場で説教し、枢機卿の地位を与えるとのアレクサンデル6世の懐柔策を拒絶。
1496年8月28日
ジローラモ・サヴォナローラ、De semplicitate christianae vitae(クリスト信徒の質素な生活について)をLorenzo Morgiani e Johann Petri書房刊行。以後この書、フィレンツェで1509年、ヴェネツィアで1501年、1504年、1512年、1533年、パリで1510年、1511年、ドイツ・ケルンで1550年に刊行される。
1496年10月27日
すでにマクシミリアン1世のリヴォルノ襲撃の報が届いて市民の不安高まり、神の加護を求める声強まる中、シャルル8世のイタリア再侵入とフィレンツェへの来援を信ずるジローラモ・サヴォナローラ、主を信ずれば救われると自信を持って説教。
1496年10月31日
この年この日以前にジローラモ・サヴォナローラ、Epistola a uno amico(ある友への手紙)をLorenzo Morgiani e Johann Petri書房から刊行。
1496年10月31日
ジローラモ・サヴォナローラ、De semplicitate christianae vitae(クリスト信徒の質素な生活について)の俗語、イタリア語版Della semplicità della vita cristiana(クリスト信徒の質素な生活について)を、詩人、著作家、哲学者でジローラモ・サヴォナローラの教説にいち早く改心した中心的信徒ジローラモ・ベニヴィエーニの訳により、Lorenzo Morgiani e Johann Petri書房から刊行。(以後、この書、フィレンツェで1528年、1529年、ヴェネツィアで1533年、1547年に刊行される)。
1496年11月7日
アレクサンデル6世フィレンツェサン・マルコ修道院に宛て小勅書を発し、新たに設立するTosco-Romana修道会に加わるよう指令すると共に、これに従わなければ破門すると威嚇。これによってサン・マルコ修道院の独立性を否定し、その長ジローラモ・サヴォナローラの地位と権威、権限を奪おうと再び企図。
1496年11月7日
アレクサンデル6世フィレンツェサン・マルコ修道院に宛て小勅書を発し、新たに設立するTosco-Romana修道会に加わるよう指令すると共に、これに従わなければ破門すると威嚇。これによってサン・マルコ修道院の独立性を否定し、その長ジローラモ・サヴォナローラの地位と権威、権限を奪おうと再び企図。
1496年11月
サン・マルコ修道会、アレクサンデル6世のこの指令を拒否。結局この小勅書は当面、守られずに終わる。
1497年1~2月
正義の旗手にジローラモ・サヴォナローラ派(フラテスキ)の最有力者フランチェスコ・ヴァローリ(1439年~1498年)が選出される。
1497年2月7日
ジローラモ・サヴォナローラ、シニョーリア広場で第1回目の虚栄の焼却(虚飾の焼却)を行わせる。ジローラモ・サヴォナローラによる市民生活の宗教的、倫理的規制、頂点に至る。
1497年2月8日~3月
この日から説教を始めたジローラモ・サヴォナローラ、教皇・教会と暴君への非難と痛罵の語調をさらに強めながら、キリストを王としコンシーリオ・マッジョーレを核とする現行の政体を守れと叫び続ける。
1497年2月9日
フランシスコ会の修道士ら、前日から始まったジローラモ・サヴォナローラの説教を激しく非難する説教を始めるが、正義の旗手フランチェスコ・ヴァローリに強制的に中止させられる。
1497年2月末
シャルル8世フェルナンド2世・デ・アラゴン及び対フランス神聖同盟と和約したとのニュースが伝えられる。
かねてから親フランス政策に固執していたジローラモ・サヴォナローラ、このニュースに衝撃を受け、説教の中で、シャルル8世を愚かな役立たずと痛罵し、彼がなすべきことをなさなければ神は他者をもって彼に代えるであろうとその死を預言。
ジローラモ・サヴォナローラが語っているのは何ら神の言葉ではないとの反ジローラモ・サヴォナローラ派の非難が市内に急速に浸透すると共に、フラテスキの者をも含む対フランス神聖同盟支持派と新フランス派との論争も、とみに活発化。
1497年3~4月
フランチェスコ・ヴァローリに代わり、メディチ派(=Bigi)で反ジローラモ・サヴォナローラ感情の極めて強いベルナルド・デル・ネロ(1426年~1497年)が正義の旗手に選出される。
1497年3月21日
ローマ教皇庁駐在大使Ricciardo Becchi(1455年~?)から、庁内でジローラモ・サヴォナローラの破門が検討されていると1497年3月19日付の書簡が届く。
市内にアレクサンデル6世はジローラモ・サヴォナローラを破門しようとしているとの噂が急速に広まる。
しかしジローラモ・サヴォナローラの説教の聴衆は増え続け、平日でも1万数千に上る。
同時に、商業の沈滞、食料不足の深刻化、餓死者の続出などによる社会不安が高まり、これらを全てジローラモ・サヴォナローラのせいとする反ジローラモ・サヴォナローラ活動、活発化する。
1497年4月27~28日
ピエロ・イル・ファトゥオは、自分が軍を率いて城門に迫ればフィレンツェ市内の支持者や市民が決起して自分を迎え入れるであろうと期待し、ヴェネツィアの指揮官バルトロメオ・ダルヴィアーノ(1455年~1515年)の支援を得、1200余の兵を率いて城門に迫る。しかししないに期待した動きが全く見られず、何事もなせずに退却。
これをもってピエロ・イル・ファトゥオによる自身の復辟の策動が終わり、フィレンツェ市内のメディチ派も急速に衰退し始める。
代わって反メディチ、反ジローラモ・サヴォナローラの貴族の勢力が顕著に増大。
1497年5~6月
アッラビアーティの代表的人物の一人ピエロ・デリ・アルベルティ正義の旗手に選出されるなど、主要官職を反ジローラモ・サヴォナローラ派が占め始める。
1497年5月4日
大聖堂でジローラモ・サヴォナローラが説教している中へ、過激なアッラビアーティで享楽的な生活に恋焦がれる青年たち(通称Compagnacci=不良ども)が乱入し、狼藉を働いて説教を中止させる。
反ジローラモ・サヴォナローラ派の勢力増大を背景に、これら青年たちは全く罪に問われずに終わる。
この件を巡るジローラモ・サヴォナローラの支持、反対両派の争いが激化する中、あらゆる元凶としてジローラモ・サヴォナローラを追放せよと公然と叫ばれ、彼のカリスマは崩壊し始める。
1497年5月12日
官職の選出制度の改正始まる(~1499年)。
1497年5月13日
ジローラモ・サヴォナローラを排斥してフィレンツェを対フランス神聖同盟に加えようとする教皇は、ついにジローラモ・サヴォナローラを破門する小勅書をフィレンツェシニョーリア及び市内の各教会に宛て発す。但し、ジローラモ・サヴォナローラを異端者と決め付けることができず、破門の理由として教皇の指令への不服従を挙げるに留まる。
1497年6月18日
カテリーナ・スフォルツァ宛てに手紙を書く。

 敬愛なる伯爵夫人、あなた様の数々のお手紙にも見られるとおり、あなた様が我々共々越えつつあるこの困難と危険に満ちた時代において、神によって助けられる御身になりたいとの御心は、誰においても当然のことと思われます。私には、あなた様がよき助言を役立てておられ、あらゆるよき霊感を下される神からのお導きを受けておられる方と思います。・・・・私は、あなた様のこの徳に満ちた御心を常にお持ち続けになるよう祈ります。私は、あなた様が私に意見を求められたことに感謝いたします。私からもあなた様のご依頼に沿えるよう、信徒か僧たちの内の1人を、あなた様のもとに遣わして、あなた様をお助けしたいと思います。私は、私にそうするよう願われたあなた様の御ため、これからも神に祈ることでしょう。
1497年6月18日
ジローラモ・サヴォナローラに敵対する市内の5つの教会、アレクサンデル6世の破門の小勅書を公表し、大々的に劇的に宣伝。
1497年6月19日
ジローラモ・サヴォナローラ、全てのキリスト教徒に宛てた書簡形式の文章を書き、自分の破門は敵意に満ちた偽りの告発に基づく誤った処置であり、神の前においても人間の前においても無効であると強調。翌1497年6月20日、公表。
1497年6月20日
この日?、フラテスキ350余名、アレクサンデル6世に対するジローラモ・サヴォナローラの破門の撤回の申請書に署名。アッラビアーティなど反ジローラモ・サヴォナローラ派は、これを党派結成禁止に反するものと非難。
1497年夏
政治状況の緊迫化に加えて食糧不足の一層の深刻化、餓死者の続出、ペストの大流行、死者の増大、失業の増大などにより、すでにこの頃から、市内に険悪な空気広まる。
1497年7月1日~8月
シニョーリアの選出でジローラモ・サヴォナローラ派が多数を占め、正義の旗手にもジローラモ・サヴォナローラに忠実なドメニコ・バルトリが選出される。
以後1498年2月末まで親ジローラモ・サヴォナローラ派が多数を占めるシニョーリアが続き、教皇庁にジローラモ・サヴォナローラ破門の撤回を求め続ける。
1497年8月17日
シニョーリアは、プラティカを開催し対策を諮問。プラティカで首謀者の提訴権につき賛否両論対立。
1497年8月21日
フラテスキの指導者フランチェスコ・ヴァローリの強硬発言によって提訴権否認、処刑にまとまり、答申。夜、首謀者5名処刑される。
この過程でフランチェスコ・ヴァローリは実質上フィレンツェの支配者だと見なされ、ジローラモ・サヴォナローラはかねて自ら訴えていた全市民の融和、団結とそのための1495年3月19日の方を自ら否定したと非難され、彼に対する一般の崇敬と信頼、大きく揺らぐ。
1497年8月~初秋
この頃ジローラモ・サヴォナローラ、自分の預言は偽りだとの非難に反論すべくDialogus de veritate prphetica(預言の真理性)を執筆。
1497年11~12月
この頃ジローラモ・サヴォナローラ、キリスト信仰の真理性を示すべくTriumphus Crucis(十字架の勝利)をBartolomeo de' Libri書房から刊行。(以後、この書、フィレンツェで1499年ないし1500年初め、1508年?に、ヴェネツィアで1504年、1508、1517年、1521年に、パリで1510年、1524年に刊行される)。
この直後から、この書の俗語訳に着手。
1497年
ジローラモ・サヴォナローラ、Tarctato contra li astrologi(占星術師駁論)を執筆。
1497年末/1498年初め
ジローラモ・サヴォナローラ、Tarctato contra li astrologi(占星術師駁論)をBartolomeo de' Libri書房から刊行。(以後この書、ヴェネツィアで1513年、1536年、1556年に刊行される)。
1498年1月7日~3月24日
この間にジローラモ・サヴォナローラ、シニョーリアからの1498年1月6日の依頼を受けてTrattato circa il reggimento e governo della città di Firenzeフィレンツェ市国統治及び統治体制論)を執筆。
1498年2月4日
大聖堂参事会は、破門されたものの説教を聞くことの危険性についてシニョーリアに強く警告。シニョーリアは、これを強く拒絶。
1498年2月10/11日
1498年初め教皇庁に派遣した特使ドメニコ・ボンシ(1430年~1501年)から、この日頃、アレクサンデル6世との会見の2月8日付報告書簡が届く。この中でドメニコ・ボンシアレクサンデル6世フィレンツェが「良きイタリア人」として反フランス神聖同盟に加盟すればジローラモ・サヴォナローラ破門の撤回を含む一切のことをフィレンツェの望み通りに処置するだろうと報告。
1498年2月11日、2月18日、2月25日
ジローラモ・サヴォナローラ、日曜日に3回連続して大聖堂で説教し、教会の腐敗、堕落を指摘し非難すると共に、自分に対する教皇の誤解とそれに基づく破門の無効性、破門の否認とそれへの不服従を強調し、神は正義の側に、破門された側にあると訴え続ける。
これらの聴衆は、初めは多かったもののこれ以前の説教におけるより少なく、かつ回を追って減少。波紋への恐怖、市民の心を強く覆う。
1498年2月26日
アレクサンデル6世フィレンツェシニョーリアに宛て小勅書を発し、「悪の子」ジローラモ・サヴォナローラを自分の元に護送するか、あるいは少なくとも彼を「腐敗分子」として監禁して説教できぬようにするかしなければ、フィレンツェでの聖務を禁止すると威嚇。
1498年2月26日
アレクサンデル6世フィレンツェの大聖堂参事会に宛て小勅書を発する。(大聖堂でジローラモ・サヴォナローラに説教させぬよう指令か?)。
1498年2月26日
シニョーリア(1498年3月~1498年4月)の選出で反ジローラモ・サヴォナローラ派が半数を占め、正義の旗手にはジローラモ・サヴォナローラに強い敵意を抱くピエロ・ポポレスキが選出される。但しシニョーリアの決議に必要な6名にはなお1名及ばず。
1498年2月27日
ジローラモ・サヴォナローラ、シニョーリア広場で第2回目の虚栄の焼却を行わせる。第1回目より参加者は減少し、サン・マルコに戻った参加者は、新シニョーリアの選出での勝利に勢いを増した反サヴォナローラ派の過激な青年ら(=Compagnacci)の激しい攻撃を受ける。
1498年2月28日
この日頃、1498年2月26日のアレクサンデル6世の小勅書届く。
1498年2月28日~3月1日
ジローラモ・サヴォナローラ、大聖堂で説教し、ローマ教会、教皇を激しく非難した後、混乱を避け神の栄光を守るため、以後は大聖堂では説教を行わずサン・マルコ修道院で行う、と告げる。
1498年3月2日
ジローラモ・サヴォナローラ、サン・マルコ修道院で説教を開始。教皇と闘うと明言。
1498年3月2日
サン・マルコの聖堂でジローラモ・サヴォナローラの説教を聞く。
1498年3月3日
フィレンツェシニョーリアアレクサンデル6世に返書を送り、ジローラモ・サヴォナローラはフィレンツェ人の誇りであり恩人であり、彼を糾弾せよとの2月26日付の小勅書には従えないと明確に拒絶。
1498年3月3日
フィレンツェDieci di Libertà e Paceは、シニョーリアにも勝って、2月26日付の小勅書への明確な拒絶の意をアレクサンデル6世に伝える書簡を特使ドメニコ・ボンシに送る。
1498年3月3日
ジローラモ・サヴォナローラ、アレクサンデル6世に、自分への処置の不当性を指摘しそれへの不服従を明言する書簡を送る。
1498年3月3日
シニョーリアは、プラティカを召集し、アレクサンデル6世の指令への対処策を諮問。
プラティカでジローラモ・サヴォナローラ支持、アレクサンデル6世の指令拒否の見解、多数を占める。
1498年3月7日
アレクサンデル6世、2月26日付の小勅書の指令拒否の回答を伝えたフィレンツェの特使ドメニコ・ボンシに怒りをあらわにし、ジローラモ・サヴォナローラの説教を全面的に禁止しなければフィレンツェでの聖務を禁止すると繰り返す。ジローラモ・サヴォナローラ自身の書簡にはさらに激しい怒りを爆発させる。
1498年3月9日
アレクサンデル6世フィレンツェシニョーリアに宛て小勅書を発し、ジローラモ・サヴォナローラの説教の禁止、身柄のローマへの護送ないしはフィレンツェでの監禁を再び命じ、これに従わなければフィレンツェでの聖務を禁止するかそれ以上の重大な処分を下すと威嚇。
1498年3月9日
ジローラモ・サヴォナローラ、説教の中で公会議とは何かと語りながらそこでの教会改革の実現の緊要性を強調。
この頃ジローラモ・サヴォナローラ、諸君主、権力者(マクシミリアン1世フェルナンド2世・デ・アラゴンイサベル1世・デ・カスティーリャシャルル8世ら)宛ての書簡を用意。この中で公会議開催、教会改革を訴えると共にアレクサンデル6世は教皇ではあり得ずキリスト信徒でもあり得ないと強調。しかし発信されずに終わる。
1498年3月9日
教皇庁駐在フィレンツェ大使Ricciardo Becchi宛ての私信で、変動しつつある状況へのジローラモ・サヴォナローラの対応と彼の1498年3月2日の説教の内容とを報告しながら、彼は時勢に応じて「マントを代え」、「嘘言」を弄していると激しく論評。
1498年3月
この頃、アレクサンデル6世、在ローマのフィレンツェ商人の身柄を拘束しその財産を差し押さえた上でフィレンツェにジローラモ・サヴォナローラの身柄を引き渡すよう迫り、それでもフィレンツェが従わなければ商人をサンタンジェロ城塞に投獄し財産を没収することを決める。(但しこの計画は実行されず)。
1498年3月14日
シニョーリアは主要な執政委員の他市内各地区を代表する市民も加えた大プラティカを召集し、アレクサンデル6世の3月9日付の指令への対処策を諮問。大プラティカは、連日、対策について討論するが結論を出すに至らず。
1498年3月17日
シニョーリアは、19名の最有力者のみからなる小プラティカを召集し、アレクサンデル6世の指令への対処策を諮問。
小プラティカは、ジローラモ・サヴォナローラに説教を中止するよう説得するがそれ以上のアレクサンデル6世の指令は拒否するよう答申。夜、シニョーリアはジローラモ・サヴォナローラにこの旨を伝える。
1498年3月18日
シニョーリア、この答申に沿った回答をアレクサンデル6世に口頭で伝えるよう特使ドメニコ・ボンシに指令。
1498年3月18日
連日説教し、ローマ教皇庁の悪事を糾弾すると共に教皇の支持への不服従を叫んでいたジローラモ・サヴォナローラ、前夜のシニョーリアの支持を受けて最後の説教を行い、教会を非難した後、聴衆に別れを告げる。
以後、代理の修道士Domenico da Pesciaが説教を続ける。
1498年3月
この頃シニョーリアで、メンバーの1名Piero Fediniの転向により、議決に必要な6名を反ジローラモ・サヴォナローラ派が占める。
1498年3月
シニョーリア、ジローラモ・サヴォナローラの代理の修道士の説教を中止させる。
1498年3月23日
アレクサンデル6世は、フィレンツェシニョーリアの3月17日の回答を伝えた特使に、ジローラモ・サヴォナローラの代理の者が彼と同じことを説教し続けていると強く抗議。
1498年3月25日
サンタ・クローチェの修道士Francesco da Puglia、ジローラモ・サヴォナローラの教義の正統性と彼の破門の無効性とを主張する者は火の試練を受けよと挑戦。
1498年3月28日
ヴェッキオ宮殿で火の試練の実施細則約定される。
1498年4月7日
火の試練の舞台全てシニョーリア広場に整うが、怯えるFrancesco da Puglia側の様々の異議にあって遅延し、ついに実施されず、ジローラモ・サヴォナローラ側の事実上の勝利に終わる。
しかし民衆の間に奇跡をもたらせなかったジローラモ・サヴォナローラへの落胆・不満・苛立ち・怒りが急速に生じ高まり広まる。
1498年4月8日
ジローラモ・サヴォナローラ、1498年3月3日からこの日頃までの間にDialogus de veritate propheticaBartolomeo de' Libri書房から刊行。(但し、1498年5月刊行の異説あり)。(以後、この書1507年9月28日ヴェネツィアで刊行される)。
1498年4月8日
夕刻、ジローラモ・サヴォナローラに信従する修道士が説教すべく信徒たちに守られて大聖堂に近づくや、アッラビアーティなど反ジローラモ・サヴォナローラ派の者たち、ジローラモ・サヴォナローラ派追放を叫んで騒動を起こし、続いて民衆を扇動して武器を手にサン・マルコを包囲、襲撃。
シニョーリアは、ジローラモ・サヴォナローラに対して12時間以内にフィレンツェ領内から退去せよとの布告を出す。続いてサン・マルコの内部にいるジローラモ・サヴォナローラ派を退出させるべく、俗人は教会から退出しなければ全て反逆者と見なすとの布告を出す。
これらの布告により包囲側の気勢上がり、サン・マルコの襲撃はさらに激しくなる。
フランチェスコ・ヴァローリ、手兵を集めるべくサン・マルコを出て私宅に向かうが騒動のため進めず、ヴェッキオ宮殿に向かう。しかし庁宮内に引きずり込まれ、前年8月の彼の強硬発言にも影響されてコンシーリオ・マッジョーレへの提訴権を奪われたまま処刑されたメディチ派(=Bigi)の陰謀の指導者の遺族ヴィンチェンツォ・リドルフィとシモーネ・トルナブオーニ(1472年~1543年)に殺害される。この頃すでに彼の自宅も襲撃され、妻コスタンツァ・カニジャーニも殺害される。
サン・マルコは、ほとんど群衆に占拠される。
ジローラモ・サヴォナローラは、Domenico da Pesciaと共に死を決意して外に出、捕縛されてヴェッキオ宮殿の塔内の獄に入れられる。Domenico da Pescia及び先に捕らえられた修道士シルヴェストロも投獄される。
1498年4月9日
シニョーリア、プラティカを召集しジローラモ・サヴォナローラ及びジローラモ・サヴォナローラ派が委員の多数を占める機関、Dieci di Libertà e Pace及びオットー・ディ・グァルディアの取り扱いについて諮問。
プラティカ、満場一致で、諸機関からのジローラモ・サヴォナローラ派の追放とそれによって空席になった委員の新たな選出、及びジローラモ・サヴォナローラ自身の厳密な取調べを答申。
以後、瞬く間に各機関が反ジローラモ・サヴォナローラ派の委員で締められ、サヴォナローラ共和政、終焉(1494年~1498年)。
シニョーリアは、アレクサンデル6世にジローラモ・サヴォナローラの逮捕を報せるよう、特使ドメニコ・ボンシに書簡を送る。
1498年4月9日
夜ジローラモ・サヴォナローラ取調べ始まる。
1498年4月10日
いずれも反ジローラモ・サヴォナローラ感情の強力なジローラモ・サヴォナローラ取調べ委員17名(内1名が辞退して16名)が急ぎ任命される。
1498年4月10~17日
拷問具を身につけられたままバルジェッロ宮殿(治安・警察本部)に運ばれたジローラモ・サヴォナローラの激しい拷問による取調べ続く。
1498年4月12日
アレクサンデル6世フィレンツェ人の全贖宥を認める大勅書を発すると共に、フィレンツェシニョーリアに宛て小勅書を発し、ジローラモ・サヴォナローラの逮捕に祝意を表しながら、彼の身柄を引き渡すよう要求。
1498年4月12日
依然として多くの信奉者がサン・マルコに集うのに大使、シニョーリアは集合する者を叛徒と見なすとの布告を出す。
シニョーリアはプラティカの答申に基づき、アレクサンデル6世からのジローラモ・サヴォナローラの身柄引き渡し要求を拒否。
1498年4月21~24日
ジローラモ・サヴォナローラの拷問による取調べ続く。
1498年4月下旬
この頃プラティカ、ジローラモ・サヴォナローラの処刑を決議し答申か?
1498年5月1日
5~6月期の新シニョーリアは、さらに大きくアッラビアーティに占められる。
1498年5月5日
シニョーリアはプラティカを召集し、繰り返されるアレクサンデル6世の身柄引き渡し要求について対策を諮問。
プラティカは、再びアレクサンデル6世の要求を拒否するよう答申。
1498年5月6日
シニョーリアアレクサンデル6世に対してジローラモ・サヴォナローラの身柄引き渡しを拒否し、必要とあれば審問官をフィレンツェに派遣して彼を取り調べるよう要請。
1498年5月12日
アレクサンデル6世フィレンツェシニョーリアに宛て小勅書を発し、ジローラモ・サヴォナローラを審問するため教皇庁の審問官2名を派遣すると通告。しかし教皇庁内ではこの2名はジローラモ・サヴォナローラを処罰する任務を与えられていると信じられる。
1498年5月
この頃?、ジローラモ・サヴォナローラの1498年1~3月執筆のTrattato circa il reggimento e governo della città di Firenzeフィレンツェ市国統治及び統治体制論)がBartolomeo de' Libri書房から刊行される。
1498年5月下旬
ヴェネツィアはピサを支援し続け、ピサはフィレンツェに対する反攻を強める。1498年5月21日、ピサ軍はSan Regoloの戦いでフィレンツェ軍を撃破。さらにヴェネツィア軍は独自にカゼンティーノ地区に侵攻の姿勢を示す。
1498年5月
フィレンツェルイ12世に書簡を送り、その友好国ヴェネツィアのカゼンティーノ地区侵攻を押し留めてくれるよう依頼。
フィレンツェは、ルドヴィーコ・イル・モーロに多額の軍資金の借款を申し入れる。フィレンツェルイ12世から引き離してルイ12世を孤立させようと目論むルドヴィーコ・イル・モーロはこれを受諾。
1498年5月19日
教皇庁のジローラモ・サヴォナローラ審問官2名到着。
1498年5月20~22日
教皇庁の審問官、拷問によってジローラモ・サヴォナローラ審問を行う。
1498年5月22日
教皇庁の審問官は、ジローラモ・サヴォナローラ及びDomenico da Pescia、シルヴェストロの3名に、異端者、教会分離論者として聖職を剥奪し、世俗の裁判に委ねるとの審判を下す。
1498年5月23日
午前10時、Domenico da Pescia、シルヴェストロと共に計3名、シニョーリア広場で絞首刑と同時に火刑に処される。遺灰はアルノ河に流される。
1498年5月
処刑後間もなく、彼のTriumphus Crucis(十字架の勝利)の彼自身による俗語訳が、ドメニコ・ベニヴィエーニの編によりBartolomeo de' Libri書房から刊行される。
1498年6月19日
オットー・ディ・グァルディアの28名のジローラモ・サヴォナローラ派市民の公民権を奪うなど、彼の支持者、信従者への追放、財産没収、罰金などによる処罰、報復が始まる。
しかし、ジローラモ・サヴォナローラ一人に全ての悪を負わせてことを収束するとの意向が上層有産層で働き、報復は表向きは広まらず。
1498年10月初旬
ヴェネツィア軍がマッラディを占領しロマーニャからフィレンツェに迫る。これを、ルドヴィーコ・イル・モーロの援軍によって補強されたフィレンツェ傭兵軍が撃退。ヴェネツィア軍は一時退却し、改めてカゼンティーノ地区に侵攻。
1498年
サン・マルコ修道院は、1496年11月のアレクサンデル6世の指令通りTosco-Romana修道会に帰属させられ、フィレンツェから与えられていた各特権及び図書室に置かれていたメディチ家の蔵書を取り上げられた他、ジローラモ・サヴォナローラに信従した修道士たちが市外に追放される。
1499年5月23日
この日までに、この命日にジローラモ・サヴォナローラを偲び讃える集会を企図する組織が密かに作られる。
1499年6月20日
この頃、ドミニコ会総長は、ジローラモ・サヴォナローラの死を殉教と讃える類のことは一切許されないとの命令を配下の修道士に発し続ける。
1499年11月1日
11~12月期のシニョーリア正義の旗手にジローラモ・サヴォナローラ派の代表的人物ジョヴァンニ・バッティスタ・リドルフィ(1488年~1514年)が選出される。
サン・マルコに追放されていた修道士たちが復帰し始め、市内でジローラモ・サヴォナローラ派、徐々に復活。
1500年
ジローラモ・サヴォナローラのDialogus de veritate prphetica(預言の真理性)の俗語訳がAntonio Tubini e Andrea Ghirlandi(1446年~1519年以降)書房から刊行される。(以後この書、ヴェネツィアで1511年、1535年、1548年に刊行される)。

肖像


フラ・バルトロメオ
ジローラモ・サヴォナローラの肖像

ニッコロ・フィオレンティーノ
ジローラモ・サヴォナローラのメダル

作者不明
ジローラモ・サヴォナローラの火刑

別表記

 フラ・ジロラーモ・サヴォナローラ、フラーテ・サヴォナローラ
 イエローニモ・サヴォネローラ、ジローラモ師、イエロニモ師、ジェロラーモ

関連項目

 The Borgias: 104, 105, 107

外部リンク

 ウィキペディア
 歴史データベース
 Find A Grave
 THE BORGIAS wiki
 Treccani.it

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『マキアヴェリ』
 『マキァヴェッリ 忘恩、運命、野心、好機』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス百科事典』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネッサンスの光と闇』
 『ルネッサンス百科事典』
 『ルネッサンス夜話』
 『ローマ教皇検死録』
 『Lost Girls
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2006年2月11日以前