Julius II

ユリウス2世

生没
1443年12月5日~1513年2月21日
出身
アルビソーラ・スペリオーレ
没地
ローマ
ラッファエーレ・デッラ・ローヴェレ
テオドーラ・マニローロ
ラッファエーレ・デッラ・ローヴェレ
フェリーチェ・デッラ・ローヴェレ

概要

 ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。第216代教皇ユリウス2世。

在位

 カルパントラ司教 1471年10月16日~1472年1月31日
 サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ司祭枢機卿(任命シクストゥス4世
1471年12月22日(1471年12月16日)~1479年4月19日  スイス、ローザンヌ司教 1472年1月31日~1476年7月15日
 メッシーナ教区長 1473年~1474年5月
 カターニア司教 1473年1月13日~1474年5月23日
 フランス、アヴィニョン司教 1474年5月23日~1475年11月20日
 アヴィニョン首都大司教 1475年11月20日~1503年11月1日
 フランス、クタンス 1476年7月11日~1477年12月3日
 Major Penitentiary of Sacred Apostolic Penitentiary
                         1476年10~1503年11月1日
 サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂大司教 1477年8~1483年?
 サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂大司教 1477年8~1503年11月1日
 フランス、ヴィヴィエ司教 1477年12月3日~1479年4月19日
 フランス、マンド司教 1478年7月3日~1483年1月31日
 カメルレンゴ 1479年1月8日~1480年1月7日
 サビーナ司教枢機卿 1479年4月19日~1483年1月31日
 サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ司祭枢機卿の受益者
1479年4月19日~1503年11月1日  オスティアヴェッレトリ司教枢機卿  1483年1月31日~1503年11月1日
 ボローニャ司教 1483年11月3日~1502年1月24日
 ノナントラ修道院長の受益者 1484年~1503年11月1日
 サヴォーナ教区長 1499年9月20日~1502年1月24日
 ルッカ司教 1499年11~1501年8月29日
 ヴェルチェッリ司教 1502年1月24日~1503年11月1日
 第216代教皇 1503年11年1日(1503年11月26日)~1513年2月21日

年表

1443年12月5日

アルビソーラ・スペリオーレにて、生。

1471年12月6日

教皇シクストゥス4世、甥ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレと、ピエトロ・リアリオとを枢機卿に叙任。

さらに、間もなくピエトロ・リアリオフィレンツェ大司教にも叙任(在位~1474年)。

1473年7月3日

ナポリからの途上ローマシクストゥス4世やその甥、枢機卿ピエトロ・リアリオ、ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレらの大歓迎を受けたフェッランテ・ダラゴーナの娘エレオノーラ・ダラゴーナ、この日、フェッラーラに到着。大祝賀行事の中でエルコーレ1世・デステと結婚。シクストゥス4世フェッランテ・ダラゴーナエルコーレ1世・デステの友好関係、明白化し、ヴェネツィアなど諸国はこれを警戒。

1474年6月初め~半ば

フィレンツェ領に接した小市チッタ・ディ・カステッロを自分の叙任なく支配している(1460年~)ニッコロ・ヴィテッリ(1414年~1486年)を排しようと企図して甥・枢機卿ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ配下の軍を向けたシクストゥス4世ロレンツォ・イル・マニーフィコガレアッツォ・マリーア・スフォルツァらのニッコロ・ヴィテッリ支援にあい、企図の実現に難渋。

1474年10月12日

1474年10月10日ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレの弟ジョヴァンニ・デッラ・ローヴェレ(1457年~1501年)とフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの娘ジョヴァンナ・ダ・モンテフェルトロを結婚させることにしたばかり(1478年結婚)のシクストゥス4世、この日、この甥にセニガッリアを封与。

1484年8月29日

贈収賄やさまざまの策謀の渦巻く中の教皇選出枢機卿会議で、故シクストゥス4世の甥、枢機卿ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレの尽力により、枢機卿ジョヴァンニ・バッティスタ・チーボ(1432年~1492年:在位1473年~1484年)、教皇に即位し、インノケンティウス8世を名乗る(在位1484年~1492年)。

1493年

この頃までに、教皇選出過程以来の執拗な敵対者であるローマの貴族勢力の掃蕩を決意したアレクサンデル6世に対し、オルシーニ家コロンナ家及びフェッランテ・ダラゴーナらと結束。

1493年7月下旬

アレクサンデル6世と和解。

1494年4月23日

オスティアを離れる(1494年4月24日)。

1494年

ジェノヴァに渡航し、フランスへ向かう。

1494年6月1日

リヨン到着。

1494年

フランス王シャルル8世のもとに行き、イタリアに侵攻し、ナポリを攻撃するのではなく、聖職売買の教皇アレクサンデル6世を審議会の前に引き出し退位させるよう、促す。

1494年8~9月

シャルル8世は、アンジュー家ナポリ王位請求権を継承した(1480年、1481年)としてナポリ王位を請求してイタリア侵攻を開始。——1494年8月22日グルノーヴルを出発。アルプスを越えて1494年9月9日、ルドヴィーコ・イル・モーロ、彼の義父フェッラーラエルコーレ1世・デステアレクサンデル6世の宿敵、枢機卿ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレらを伴ってアスティに入る。この頃、ルイ2世・ドルレアン指揮のフランス艦隊、ラパッロの戦でナポリ艦隊を破って制海権を奪う。

イタリア戦争:イタリアは以後、国際的な戦乱の舞台と化す(第1次、~1516年:第2次、1521年~1559年)。

1495年1月15~16日

アレクサンデル6世シャルル8世に屈服し、彼にチェーザレ・ボルジアを人質として引き渡すこと、彼の軍の教会領内自由通行を保障すること、枢機卿ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレをローマ近郊オスティアに復帰させることなどを約定。

但しシャルル8世、側近の判断と勧奨に従い、ジローラモ・サヴォナローラから説示された公会議開催、教会改革の要求を捨ててアレクサンデル6世への服従、恭順の意を公式に表明。

1499年1月18日

ナントにて、アレクサンデル6世宛に手紙をしたためる。チェーザレ・ボルジアを称揚。「慎ましさ、即応能力、良識、その他彼の知られる徳によって、皆の好意を得ております。・・・・カルロッタ・ダラゴーナですが、元々強情なのか、あるいはこの方が信じやすいですが他の者に促されたのか、結婚話を頑なに断っています。」

1499年夏

アヴィニョンに滞在。

1499年

リヨンのフランス王ルイ12世のもとに滞在。

1499年10月6日

フランス王ルイ12世ミラノ入城に参列。

1499年10月12日

アレクサンデル6世宛に手紙をしたためる。フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレアンジェラ・リャンソルの婚約について感謝。

1499年

ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレとフアン・デ・ボルハ枢機卿が、ミラノにいるチェーザレ・ボルジアの軍資金4万5千ドゥカートの保証人になる。

1500年7月~1500年8月

ルッカを訪問中、ルイ12世の命により、難航するフィレンツェに対するピサ反乱問題の解決法を探す。

1500年9月まで

ノナントラに滞在。

1500年

チェント到着。

1500年10月

ジョヴァンニ・デッラ・ローヴェレのために、フィレンツェ共和国とコンドッタを交渉。

1501年1月10日

真夜中、チェント出発。フィナーレ・エミーリア到着。チェントがジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオによりチェーザレ・ボルジアの手に渡ると、アガメンノーネ・マレスコッティに警告されたため。

1501年1月17日

フィナーレ・エミーリアに7日間滞在した後、サヴォーナに向け出発。

1501年2月

ミラノに滞在。

1501年7月

ミラノに滞在。

1502年

サヴォーナ出発。

1502年7月

ミラノルイ12世のもとに滞在。

1502年9月

ミラノルイ12世のもとに滞在。

1502年

ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレの命により、一緒にいるフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレが母ジョヴァンナ・ダ・モンテフェルトロに、セニガッリアの資源を全て投入し叔父グイドバルド・ダ・モンテフェルトロによるウルビーノ公国回復を1502年11月支援するよう指示していたとの報告が、ローマに届く。

1502年12月

アレクサンデル6世宛に手紙をしたためる。義妹ジョヴァンナ・ダ・モンテフェルトログイドバルド・ダ・モンテフェルトロ援助の指示を否定。仮に義妹の行為が事実であれ、主権は彼女ではなく子にあるとして、セニガッリアの赦免を願い出る。

1502年12月

ジョヴァンナ・ダ・モンテフェルトロ宛に手紙をしたためる。セニガッリアは平和的にチェーザレ・ボルジアに降伏するよう助言。

1503年10月29日

教皇位を目指す枢機卿ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ、ヴァティカン宮殿チェーザレ・ボルジアを招いて会見し、彼にこれまでの地位教会の旗手と教会軍総司令官、及びロマーニャ領を与えることを条件に彼の支持、協力を求める。チェーザレ・ボルジアは、年来の宿敵の言葉を信じ広汎な支持・協力を約束。

ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレは、聖職や現金による大々的な買収活動を繰り広げて教皇位の獲得を目指す。

1503年10月31日

ルキナ・デッラ・ローヴェレとジャンフランチェスコ・フランチオッティの息子たちを養子にする。

1503年11月1日

教皇に選出される。

同日、新教皇の招きに応じてチェーザレ・ボルジアが、ヴァティカン宮殿に居を移す。

教皇はチェーザレ・ボルジアの排斥、ロマーニャの自らによる直轄平定、統治を決意。

1503年11月2日

フォルリチェーザレ・ボルジアの支配に対する反乱発生。

この頃?、4歳の娘ルイーズ・ボルジアと教皇ユリウス2世の縁戚でセニガッリアの君主フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレとの婚姻などの約束を取り交わす。

この頃?、ルイ12世軍はナポリ領に入りフェルナンド2世・デ・アラゴン軍と交戦。

1503年11月3日

ロマーニャに小勅書を発し、チェーザレ・ボルジアへの忠節を命令。

1503年11月9日

ユリウス2世は、枢機卿会議で、先に約束したチェーザレ・ボルジアの地位、領国などを議題とせず放置。

1503年11月10日

ユリウス2世は、フィレンツェシニョーリアに対し、教会の旗手であるチェーザレ・ボルジアがその領地ロマーニャをヴェネツィアの侵略から防衛するために派遣する軍隊の領内通行の安全を保障するよう要請。

ユリウス2世のフィレンツェに対する要請を知ったチェーザレ・ボルジアは、自己の地位の回復にまた自信を抱く。

1503年11月11日

アントーニオ・ジュスティニアーニと会見。ヴェネツィアロマーニャを攻撃しているのは、教会に対立するためではなくチェーザレ・ボルジアの不利益を処罰するためだと理解している。もしヴェネツィアの行為に不満を述べるなら、ロマーニャの保持をチェーザレ・ボルジアのためではなく教会のために意図しているのと同様、自身のためであって公爵のためではない。この目的の下、異議はない。

1503年11月19日

ロマーニャ宛に小勅書を発す。アレクサンデル6世によるチェーザレ・ボルジアへのロマーニャ教皇代理職の授与を否認を表明。教会の旗の下に従い、教会の守護下に入るように勧告。

1503年11月22日

ユリウス2世、フランチェスコ・ソデリーニら2名の枢機卿をオスティアチェーザレ・ボルジアのもとに派遣し、なお彼に忠誠を誓うチェゼーナなどロマーニャの領国の全面返還を要求。チェーザレ・ボルジアはこれを即座に拒絶。

ラグーザ司教ジョヴァンニ・サッキをロマーニャ教皇代理に指名。

1503年11月22~30日

ユリウス2世、教皇庁駐在ヴェネツィア大使アントーニオ・ジュスティニアーニを繰り返し呼びつけ、中部イタリアの教会領へのヴェネツィア軍の進撃の中止と占領地の教会への返還を求める。

1503年11月26日

教皇に即位し、ユリウス2世を名乗る。

1503年11月28~29日

ユリウス2世、オスティアに軍を派遣してチェーザレ・ボルジアを逮捕。ローマに連行し、賓客として遇するかのように見せかけながらヴァティカン宮殿に事実上、監禁。

1503年12月2日

チェーザレ・ボルジア、ユリウス2世の代理グイドバルド・ダ・モンテフェルトロロマーニャの全面返還を承認し、ユリウス2世に全面的に降伏。

1503年

教皇の甥リアリオ5万ドゥカートグイドバルド・ダ・モンテフェルトロ20万ドゥカートフィレンツェ共和国20万ドゥカートの賠償金要求に応えるため、教皇はチェーザレ・ボルジアの財産を没収。

1503年12月25日

ユリウス2世、教皇庁駐在ヴェネツィア大使アントーニオ・ジュスティニアーニに中部イタリアの教会領へのヴェネツィア軍の進撃に改めて抗議。

1504年1月9日

ミケーレ・ダ・コレーリア、ユリウス2世の特派した兵によりローマに連行される。

1504年1月10日

ユリウス2世、ヴェネツィアのドージェに書簡を送り、ファエンツァ、リーミニその他ヴェネツィアの占領した全ての教会領の返還を要求すると共に、その実現のために可能なあらゆる手段を用いると警告。しかし前年のヴェネツィア大使への要求同様、成果を得られずに終わる。

1504年1月24日

グリエルモ・カエターニセルモネータに復帰させる勅書を発する。この中で、アレクサンデル6世を略奪品で子供たちを富ませた詐欺師と呼ぶ。

1504年1月末

チェーザレ・ボルジア、ユリウス2世に全面的に譲歩し、ロマーニャの占領地を全て返還する協定に署名。

1504年

料理人のアスクイーノ・ディ・コッローレド副助祭を拷問にかけ、アレクサンデル6世チェーザレ・ボルジアの教唆でジョヴァンニ・ミキエルを毒殺したと白状させる。教皇は、すぐさまこれを公表。

1504年5月10日

この日頃?、ユリウス2世、すでに教会の旗手に登用していたグイドバルド・ダ・モンテフェルトロをウルビーノ公として正式に承認すると共に彼の養子として自分の甥でセニガッリアの君主フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレを縁組させ、ウルビーノの公位の後継者に指名。

1504年5月11日

スペイン両王フェルナンド2世・デ・アラゴンイサベル1世・デ・カスティーリャ宛に小勅書を発す。教皇はチェーザレ・ボルジアロマーニャの要塞返還の協定を結んだが、ベルナルディーノ・カルバハル枢機卿とゴンザロ・デ・コルドバフォルリの城主に要塞を明け渡さぬよう警告を与え、送金して支援し、協定を妨害したとして苦情を述べる。

1504年9月22日

ルイ12世マクシミリアン1世マクシミリアン1世の子でブルゴーニュ公フェリペ1世の3者、ユリウス2世の指示の下にブロワで協定を締結。ルイ12世のミラノ支配、ルイ12世の娘クロード・ド・フランス(1499年~1524年)とフェリペ1世の長子(すなわちマクシミリアン1世の孫)カール5世の結婚、ロンバルディアやロマーニャに進出してきたヴェネツィアへの対抗などで合意。

1505年3月

ユリウス2世、ミケランジェロローマに招き自分の廟墓の制作を依頼。

1505年3月

この頃?、ルイ12世が瀕死の重病に陥り、アスカーニオ・マリーア・スフォルツァはミラノ奪還の策動を開始。ユリウス2世、ヴェネツィア、ヴィテッリ家オルシーニ家パンドルフォ・ペトルッチフィレンツェの傭兵隊長の一人ジャンパオロ・バリオーニを巻き込み、当面はメディチ家ジョヴァンニ・デ・メディチジュリアーノ・デ・メディチ兄弟のフィレンツェ復帰を図る。軍事行動の指揮はバルトロメオ・ダルヴィアーノが担当。

1505年

ポーランド王アレクサンデルに黄金の薔薇を授与。

1505年5月5日

ロマーニャの占領地の一部を教会に返還したヴェネツィアの使節団から、恭順の姿勢を示しつつファエンツァリーミニの保持を申請されるが、教会領の全面奪還を目指しているためこれを拒絶。

1506年

ポルトガル王マヌエル1世に黄金の薔薇を授与。

1506年4月18日

この日、ブラマンテの設計によるサン・ピエトロ大聖堂の改築工事に着手。その資金確保のため贖宥状を発売。

1506年8月26日

ロマーニャの教会領の直轄統治、教会国家再建を目指し、ペルージアとボローニャを制圧すべく、軍と枢機卿(24名)を率いてローマを出発。これにより先ルイ12世、ヴェネツィア、フィレンツェ、マントヴァ、フェッラーラなどこの遠征に対する支援を要求。

1506年9月5日

ヴィテルボからオルヴィエートに向かう。

1506年9月8日

ペルージアの君主ジャンパオロ・バリオーニが、ウルビーノ公グイドバルド・ダ・モンテフェルトロの勧奨に従い、オルヴィエートに駆けつけて、ペルージアとその要塞の明け渡し、子どもの人質としての提出、ボローニャ制圧への参陣などを約して全面的に屈服する。

1506年9月13日

華々しくペルージアに入城(1506年9月12日)。

1506年9月21日

ペルージアを発ってグッビオに向かう。

1506年9月25日

ウルビーノに到着し、公グイドバルド・ダ・モンテフェルトロの歓迎を受ける。

1506年10月2日

チェゼーナ到着。

1506年10月3日

チェゼーナに駆けつけたボローニャの君主ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオの使者たちの服従の意を拒絶。

1506年10月5日

全軍を閲兵。

1506年10月8~9日

チェゼーナを発ってフォルリに到着。

1506年10月10日

ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオを破門しかつ9日以内に市民が自分に従わなければボローニャでの聖務を禁止するとの勅書を発する。

1506年10月11日

1506年10月10日の勅書公表。

1506年10月20日

この頃までにフィレンツェ共和国から小部隊の援軍100名が送られる。しかしジャンパオロ・バリオーニジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ放逐の目標達成により、間もなく援軍を送り返す。

1506年10月20日

イーモラに到着。直ちにジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオにボローニャ明け渡しをさらに強く要求。

ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオは、ルイ12世の支援を期待し、防衛態勢を整える。

すでにルイ12世から軍を率いて教皇を支援するよう指令を受けていたミラノ総督シャルル・ダンボワーズは、教皇軍(マントヴァ、フェッラーラ、ウルビーノ、フィレンツェなどからの援軍を含む)と反対側からボローニャに迫る。ヴェネツィアは教皇の援軍派遣の要求に応じず、中立を守る。

1506年11月1日

ボローニャを制圧し、入城。引き続き滞在し教会による直轄統治体制を再編。

1506年11月11日

ボローニャに勝利の入城を果たす。

1506年11月

ミケランジェロボローニャにに招き、和解。ブロンズ像制作を依頼する。(1507年完成)。

1506年

サン・ピエトロ大聖堂改築にブラマンテを設計主任

1507年2月22日

ユリウス2世、ボローニャを出発しローマに向かう。

ルイ12世がジェノヴァ平定、占領の態勢を取りつつあるとの報に、ジェノヴァを生地とするユリウス2世、ルイ12世に怒りを覚えつつジェノヴァのために両者の仲介を考慮。

1507年3月28日

主要都市ペルージア、ボローニャの制圧に成功して政治的権威を高めたユリウス2世、ローマに凱旋。以後ロマーニャの教会領を占領し続けるヴェネツィアに対抗する諸権力者間の同盟を画策。

1507年5月14日~下旬

ルイ12世、ジェノヴァを発ち、1507年5月23日ミラノに到着。ジェノヴァ平定、併合に対するユリウス2世とヴェネツィアの懸念を解くため、自軍の一部を帰国させ傭兵を解雇するなど、ジェノヴァ制圧軍を解散。

1507年6月4日

フェルナンド2世・デ・アラゴンゴンザロ・デ・コルドバを同道してナポリを出発し、海路帰国の途につく。会見を希望してオスティアで待機していたユリウス2世を無視し、ジェノヴァを経てサヴォーナに向かう。

1507年8月上旬

ユリウス2世、マクシミリアン1世のもとに特使を送り、戴冠式のために枢機卿2名を特派するからイタリアに進軍せずドイツで戴冠せよと勧告するが、無視される。

1507年

大聖堂建設のための贖宥状配布

1507年

スコットランド王ジェームズ4世に祝福された剣を授与。

1508年2月4・6日

マクシミリアン1世、ユリウス2世の同意を得てImperator Electus(選帝)を名乗る。ヴェネツィアに阻まれ、ローマにおける戴冠は不可能となる。

1508年

アルフォンソ1世・デステ黄金の薔薇を授与。

1508年4月11日

グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ死。——その娘の子、セニガッリアの君主でユリウス2世の甥フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、ウルビーノ公となる(在位1508年~1516年、1522/1523年~1538年)。

1508年4月

マクシミリアン1世、やむなくヴェネツィアと休戦交渉を行い、1508年4月30日、3年間の休戦協定を締結。

マクシミリアン1世、ヴェネツィアに対する怒り、不満を一段と強め、ルイ12世も自分に無断でマクシミリアン1世と休戦協定を締結したヴェネツィアに対する不満を強める。これら不満、怒りを、ロマーニャを占領し続けるヴェネツィアを敵視していたユリウス2世が、さらに助長し両権力者を反ヴェネツィアで結束させるべく腐心。

1508年5月

ミケランジェロ、ユリウス2世の依頼を受けシスティーナ礼拝堂天井画製作に着手(1508年~1512年)。

1508年11月10日

甥で養子のニッコロ・フランチオッティにモンティチェッリ、サンダンジェロ・ディ・ティヴォリ、フラスカーティ、ソリアーノを封土。

1508年12月10日

カンブレー同盟:ユリウス2世の呼びかけでマクシミリアン1世ルイ12世、それぞれ代理として娘マルグリット・ドートリッシュ、宰相ジョルジュ・ダンボワーズをカンブレーに送り、表向き対オスマン・トルコを装って対ヴェネツィア同盟を締結。

後にフェルナンド2世・デ・アラゴン、イングランド王ヘンリー7世、ハンガリー王ウラースロー2世・ヤギェウォフェッラーラアルフォンソ1世・デステマントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガ、サヴォイア公カルロ2世も加盟。ユリウス2世は翌1509年ようやく正式に加盟。

1508年

ラッファエッロブラマンテの仲介でユリウス2世によりローマに招かれる。

1508年

教皇、フランス王他と対ヴェネツィア同盟

1509年1月24日

マクシミリアン1世シャルル・ド・アブスブールを聖ペテロの騎士に叙勲し、証としてエルコーレ・デイ・フェデーリ作「聖ペテロの騎士の剣」2本をドイツ大使に手渡す。

1509年3月23日

ユリウス2世、カンブレー同盟に正式に加盟。

1509年4月27日

ユリウス2世、24日以内にロマーニャの教会領の全てを返還しなければヴェネツィアを破門しヴェネツィアでの聖務を禁止するとの勅書を発する。

1509年5月8日

教皇軍、ファエンツァを占領し劫掠。

1509年5月15日~6月初旬

ルイ12世軍、ベルガモ、ブレッシャ、クレモーナ、ペスキエーラなどを制圧。

ユリウス2世軍、ファエンツァ、リーミニ、チェルヴィア、ラヴェンナなどを制圧。

マクシミリアン1世軍、ヴェローナ、ヴィンチェンツァ、パドヴァ、トレヴィーゾなどを制圧。

フェルナンド2世・デ・アラゴン、オトラント、ブリンディジ、トラーニなどナポリ領内のヴェネツィア占領地を制圧。

1509年7月5日

前世紀初めから獲得してきた領地を次々と奪われながらマクシミリアン1世フェルナンド2世・デ・アラゴンを懐柔すべく努めてきたヴェネツィアが、カンブレー同盟との和解を申し出るべくローマのユリウス2世のもとに使節6名を送る。

1509年7月8日

アニャデッロの戦い以後のルイ12世及びマクシミリアン1世の勢力伸長を懸念していたユリウス2世、両者の反対を押してヴェネツィアの使節1名を内々に迎え、全占領地の放棄を要求。折衝、中断。ヴェネツィアで教皇に対する強硬論、噴出。

1509年10~11月

ユリウス2世、ヴェネツィアの過度の弱体化はルイ12世マクシミリアン1世の、ことに前者の威勢をさらに強め、教会とりわけ教皇である自身の威力を脅かすことになるとの懸念を強める。

1509年

ウラースロー2世・ヤギェウォ祝福された剣を授与。

1510年2月24日

ヴェネツィアと和解。ヴェネツィアに対する破門及び聖務の禁止処分を解除し、ヴェネツィアは教皇の至上権及びフェッラーラ攻撃を承認。

カンブレー同盟陣営、とりわけルイ12世は、教皇の方針変更に気づき、大いに不満を覚える。

教会領の完全な回復を目指し、フェッラーラアルフォンソ1世・デステルイ12世からの離反、ヴェネツィアへの敵対の中止を指示。しかし、アルフォンソ1世・デステは依然ルイ12世と協同歩調をとってヴェネツィアに敵対。

1510年3月14日

ルイ12世の勢力一掃に利用すべくスイスの全州と協定し、その軍事的協力を取り付ける。

1510年3月下旬

この頃?、ルイ12世に敵対させるべく、ヘンリー8世に秘密裡に働きかけるが失敗。

1510年6月

ルイ12世軍、マクシミリアン1世軍、フェッラーラ軍のヴェネツィア領攻撃、奪還続く。

ヴェネツィアは、軍備を増強すると共に教皇による状況の転換を期待。

すでに実質上カンブレー同盟を破棄している教皇は、ルイ12世の孤立化を図ってアルフォンソ1世・デステルイ12世からの離反を指令すると共に、マクシミリアン1世ヘンリー8世及びジェノヴァに反ルイ12世の行動を取らせるべく画策。

1510年7月3日

フェルナンド2世・デ・アラゴンを自派につけるべく彼にナポリを改めて正式に封与。

1510年7月

すでにフィレンツェの傭兵隊長の任を離れたマルカントーニオ・コロンナの指揮する陸軍をフィレンツェ領経由で送り、ヴェネツィアの水軍と協同でジェノヴァを攻撃。しかし、期待した市内での市民の反乱生じず、ルイ12世軍により撃退される。

フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレの指揮する自己の大軍にフェッラーラ攻撃の、スイス連邦軍にミラノ攻撃の態勢をそれぞれ整えさせる。

1510年8月9日

アルフォンソ1世・デステを教会への反逆者として破門しその全ての領国及び地位を剥奪するとの勅書を発する。加えてフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ指揮の大軍をフェッラーラに向かわせる。

シャルル・ダンボワーズ及びアルフォンソ1世・デステは、ヴェネツィア領攻撃からミラノ及びフェッラーラ防衛に方針を転換。

1510年8月17日

中北部イタリアの戦線を視察し督励すべく、軍を率いてローマを出発。オスティアチヴィタヴェッキア、ヴィテルボを経てモンテフィアスコーネに向かう。

1510年8月18日

教皇軍は、アルフォンソ1世・デステの領国の一つモデナを平穏裡に制圧し入城(1510年8月19日)。

1510年8~9月

この頃すでに、フィレンツェの親フランス的態度を激怒し、その政体を変える必要があると公言。以後、ますますその態度を硬化し、フィレンツェを破門することを考えていると教皇庁駐在フィレンツェ大使に公言。

自身の反ピエロ・ソデリーニ政権の態度が強まるにつれ、メディチ派などフィレンツェ市内の反ピエロ・ソデリーニ派は勢いを得る。

1510年9月1日

モンテフィアスコーネを出発。オルヴィエート、アッシジなどを経てアンコーナに向かう。

1510年9月上旬

教皇軍、ジェノヴァを攻撃するがジェノヴァの軍に撃退される。

ジェノヴァ及びミラノの攻撃に出陣するものとの期待を裏切り、スイス連邦軍はなお出陣せず。

1510年9月22日

アンコーナから海路リーミニに入りチェゼーナ、フォルリを経てこの日、ボローニャに入る。

1510年10月14日

シャルル・ダンボワーズ破門の勅書を発する。

1510年10月18日~下旬

極度の疲労と熱病で倒れているところを、ミラノ及びフェッラーラの防衛に目途をつけたシャルル・ダンボワーズボローニャに軍を率いて迫り攻撃態勢を取るも、策略で阻めて攻撃させず撤退させる。

1510年12月

フェルナンド2世・デ・アラゴンからの援軍を加えた軍勢を改めてフェッラーラ奪回に向かわせ、フェッラーラを封じ込めるためまずミランドラを包囲させる。

1510年12月中旬

この頃?、ルイ12世ローマにおける代理役を務める枢機卿Clermont卿を逮捕させ、サンタンジェロ城に幽閉させる。

1511年1月2日

なお病床から離れるには至らないユリウス2世、随員らの制止を跳ね除け、枢機卿らを率いてフェッラーラ攻略のためのミランドラ攻撃の陣に向かう。

1511年1月半ば

ミランドラの間近に宮廷を置いたユリウス2世、ルイ12世軍の砲撃に曝される。

1511年1月20日

ユリウス2世、多数のヴェネツィア兵をも含むフェッラーラ攻撃軍を用いて苦戦の末ミランドラを制圧し、1511年1月21日自ら入城。

1511年1月31日

ユリウス2世、前年8月に制圧したモデナを、決してアルフォンソ1世・デステに譲らぬとの条件付でマクシミリアン1世に封与。

1511年4月7日

ミランドラからボローニャ、ラヴェンナへと移動しつつフェッラーラ攻略の機を窺うユリウス2世、この日再びボローニャに入り、宮廷を置く。

1511年5月上旬

フランス軍の新総指揮官ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオ、大軍を率いて、ユリウス2世が宮廷を置いたボローニャに迫り、教皇軍・ヴェネツィア軍と対峙。

1511年5月15日

ユリウス2世、自らの代理として枢機卿フランチェスコ・アリドージ(1455年頃~1511年)を残してボローニャを去り、ラヴェンナに移動。

1511年6月3日

病と疲労に悩まされるユリウス2世、リーミニからローマへの帰途につく。

1511年6月26日

ユリウス2世、ローマに帰着。

1511年7月25日

ユリウス2世、自分の廃位を狙ってルイ12世が開こうとしているピサの分離公会議に対抗すべく、1512年4月19日、ローマのラテラーノ大聖堂で万国公会議を開くと宣言。

1511年8月17~28日

ヘンリー8世らと対ルイ12世・対フランス同盟の結成について合意を得つつあったユリウス2世、繰り返し高熱に襲われ倒れる。

周辺の誰もが高齢の教皇の再起不能を信じ、枢機卿らと彼らからの報を受けた諸国、諸権力者の間で後継選出争いの動きの強まる中で奇跡的に回復したユリウス2世、対フランス同盟を目指して活動を再開。

1511年8月21日

姪のルクレツィア・フランチオッティと彼女の夫マルカントーニオ・コロンナにフラスカーティを封土。

1511年9月1日

この日開催予定のピサの分離公会議は、参加予定者の減少、準備不足などのため開催態勢整わず、1511年11月1日に延期される。

1511年9月3日

ユリウス2世、ピサでの聖務を禁止。

1511年9月23日

ユリウス2世、フィレンツェでの聖務を禁止。

1511年9月

ユリウス2世の圧迫、攻撃を防ぐためルイ12世に分離公会議をフィレンツェ領外で開催するよう求めることにし、ニッコロ・マキアヴェッリルイ12世のもとへ派遣。

1511年10月4日

対フランス神聖同盟。教会防衛、フェッラーラ、ボローニャなど教会領の確保を狙うユリウス2世、北イタリア各地の確保を狙うヴェネツィア、イタリアにおけるフランスの優位の排斥とルイ12世の配下からのナヴァーラ王国の奪取を狙うフェルナンド2世・デ・アラゴン、蛮族排斥をスローガンに対フランス同盟を締結し、翌1511年10月5日公表。1511年11月17日ヘンリー8世が加盟し、間もなくスイス連邦も加盟。マクシミリアン1世は態度を保留。

フェルナンド2世・デ・アラゴンは、ナポリに新たな軍を送り、総督ラモン・デ・カルドナ(?~1522年)にこれを率いてロマーニャで教皇軍、ヴェネツィア軍と合流するよう指示。

1511年10月23日

ユリウス2世の反フィレンツェ政策に対抗して、教会に対する新税を制定。ユリウス2世のピエロ・ソデリーニに対する反感さらに強まる。

1511年10月24日

ユリウス2世、ピサの分離公会議開催を推進する枢機卿4名を反逆者として破門し、2名を、不服従を続けるなら破門すると威嚇。

1511年11月1日

ピサの分離公会議、フランス兵に守られ、4名の枢機卿らを中心に開催。教会改革のための公会議が必要との宣言を発し、その会を1511年11月5日に開催すると告知して終わる。マクシミリアン1世の配下の枢機卿は参集せず。

1511年11月5~12日

ピサの分離公会議開催。以後の会議を1511年12月13日、ミラノで開催することを決め、出席者は直ちにピサを離れ始める。

1511年12月1~15日

ユリウス2世、フィレンツェでの聖務禁止処分を解除し、1511年12月15日、再び聖務を禁止するが、この手段によって挙げようとしたフィレンツェ市民の懐柔ないしは圧迫の効果を挙げ得ずに終わる。

1511年12月半ば

この頃、フェルナンド2世・デ・アラゴンナポリ総督ラモン・デ・カルドナ指揮の軍、フォルリに到着し、ユリウス2世軍と合流してボローニャ及びフェッラーラの包囲を目指す。

1511年

ユリウス2世による分離公会議派枢機卿の破門の報が伝えられ、この公会議のピサにおける開催に対する不安強まる。

1511年

教皇他、対フランス同盟

1511年

ルクレツィア・フランチオッティに、フラスカーティの代わりにガッレーゼを与える。

1511年

スイス連邦に祝福された剣を授与。

1512年1月26日

ラモン・デ・カルドナ指揮の神聖同盟軍(フェルナンド2世・デ・アラゴン軍及び教皇代理ジョヴァンニ・デ・メディチ枢機卿と傭兵隊長マルカントーニオ・コロンナ(1450~1460年~1520年)、ファブリツィオ1世・コロンナらを含むユリウス2世軍)、ボローニャを包囲。

1512年2月11日

ミラノで開催された分離公会議(第5回会議)は、新教皇として、前年10月24日、ユリウス2世により破門された枢機卿フェデリーコ・サンセヴェリーノ(1450年頃~1516年)を擁立。

1512年3月21日

ユリウス2世の使節Giovanni Gozzadiniが、フィレンツェに聖務禁止処分の解除を伝える。

1512年

ヘンリー8世黄金の薔薇を授与(1510年)。

1512年5月3~17日

ユリウス2世は、16名の枢機卿などを率いてローマのラテラーノ大聖堂で公会議を開催。1512年5月10日、1512年5月17日と会議続行。ピサ分離公会議を無効と確認し、ユリウス2世はその勅書を発する。

ヘンリー8世は、ユリウス2世の勧奨も受けて大軍をフランス領に接したスペインのオンダリビアに上陸させ、フェルナンド2世・デ・アラゴン軍と共にギュイエンヌ攻撃態勢を整えさせる。

このためルイ12世は、兵の新たな徴集、ギュイエンヌと接するナヴァーラ王国のジャン・ダルブレとの協調などの対策を講じざるを得なくなり、以後イタリアの覇権獲得に全力を集中できなくなる。

ユリウス2世とヴェネツィアから資金を得たスイス連邦は、ようやく軍のイタリア南下、ミラノ攻撃態勢を整える。

ルイ12世は、ロマーニャの自軍を、ボローニャ防衛のための少数の兵を除いてミラノ防衛に回すよう指示。

1512年5月21日

パンドルフォ・ペトルッチ死。——ボルゲーゼ・ペトルッチ、シエナの君主となる(在位1512年~1516年)。

ルイ12世と神聖同盟の間で動揺していたマクシミリアン1世、ユリウス2世の説得を容れてヴェネツィアと休戦し、神聖同盟に加入。スイス連邦軍のティロル通過の承認、ルイ12世軍の精鋭をなしていたドイツ人歩兵全員の召還など反ルイ12世の方針を打ち出す。

1512年5月25日~末

スイス連邦軍、イタリアに侵攻し、ヴェローナに結集。

1512年6月初旬~半ば

神聖同盟軍(ユリウス2世軍、フェルナンド2世・デ・アラゴン軍、ヴェネツィア軍)、マクシミリアン1世軍、スイス連邦軍は、ラヴェンナ、リーミニ、チェゼーナを奪い、1512年6月13日、ボローニャを制止、クレモーナ、ブレッシャ、ベルガモを奪うなど、ロマーニャ及びロンバルディアにおけるルイ12世の支配を次々と打破。

1512年6月6日

ユリウス2世、イタリアからのルイ12世軍勢の追放に貢献したスイス連邦に「教会の自由の警護者」の永久称号を賦与するとの小勅書を発する。

1512年6月下旬

ルイ12世軍の敗退で孤立したアルフォンソ1世・デステ、姉イザベッラ・デステの夫フランチェスコ2世・ゴンザーガや自分が捕らえていたファブリツィオ1世・コロンナらの仲介でユリウス2世から自身及び領国の安全を保証されローマに向かう。

1512年7月初旬

ユリウス2世より、教皇庁駐在大使を通してピエロ・ソデリーニの解任を求められ、これに従わなければ聖俗両面であらゆる手段を用いて戦うと通告される。

1512年7月4日

アルフォンソ1世・デステローマ着。ユリウス2世に拝謁を許され、ルイ12世との同盟について許しを乞う。後、ユリウス2世からフェッラーラの放棄、譲渡を求められるがこれを拒絶して怒りを買い、ファブリツィオ1世・コロンナマルカントーニオ・コロンナ兄弟らの協力により変装して、1512年7月19日ローマを逃亡、フェッラーラに向かう。

ユリウス2世は、すでにアルフォンソ1世・デステの領国の一つレッジョを占領。

1512年7月10日

ユリウス2世の要求・通告を伝える教皇庁駐在大使の書簡がコンシーリオ・デリ・オッタンタで読み上げられるが、これにどう対応するかは決定されず。

1512年7月11日

ユリウス2世の使節ロレンツォ・プッチ(枢機卿在位1513年~)が、ピエロ・ソデリーニの解任と神聖同盟への加盟を求めるユリウス2世の書簡を持ってフィレンツェに到着。

1512年7月21日

ユリウス2世は、ジャン・ダルブレを分離公会議派に与したとの理由を挙げて破門。

1512年8月12日

この日?、神聖同盟諸国の代表、対ルイ12世戦勝利後の相互関係の確認、イタリア各地の処理、再編のためマントヴァで会合。ミラノ公としてルドヴィーコ・イル・モーロの子マッシミリアーノ・スフォルツァ(1493年~1530年:ミラノ公在位1512年~1515年)をスイス連邦の後見の下に立てること、ユリウス2世はロマーニャの全教会領の他、パルマ、ピアチェンツァ、レッジョ、モデナを得ること、フィレンツェメディチ家を復帰させることなどを決める。

この過程で、ルイ12世に代わるユリウス2世のロンバルディアにおける勢力拡大にマクシミリアン1世陣営が不満を残すなど参加諸権力者間の思惑の違いが明らかになる中、ルイ12世支持、分離公会議保護を続けたフィレンツェの処罰については全参加者が完全に合意。

1512年11月19日

ユリウス2世とマクシミリアン1世、ユリウス2世はロンバルディアで勢力を拡大しつつあるフェルナンド2世・デ・アラゴンに対抗するため、マクシミリアン1世はユリウス2世を背景にロンバルディアでヴェネツィアを抑えて勢力を確立する目的で、新たに協定を結び、1512年11月25日これを公表。マクシミリアン1世はユリウス2世のラテラーノ大聖堂における公会議を承認。

ユリウス2世は、マクシミリアン1世との協定を望むヴェネツィアに対して、ヴェローナとヴィチェンツァの領有承認などマクシミリアン1世に極めて有利な条項を提示してこれを受容するよう指示。ヴェネツィアはこれを拒絶。

1513年2月21日

数日前から病床についていたが、この日、死(1513年2月20日)。

任命した枢機卿

1503年11月29日 フランソワ・ギヨーム・ド・カステルノウ
1505年12月1日 フランチェスコ・アリドージ
シジスモンド・ゴンザーガ
1511年3月10日 アルフォンソ・ペトルッチ

肖像

埋葬地

関連項目

 The Borgias: 101, 102, 103, 104, 105, 106, 107, 108, 109, 201

本名

 ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ、Giuliano della Rovere

別表記

 サン・ピエートロ・イン・ヴィンコリ枢機卿、サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ枢機卿、サン・ピエトロ・イン・ヴィンクラ枢機卿、ジューリオ2世、デラ・ローヴェレ、デルラ・ローヴェレ

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 歴史データベース
 Find A Grave
 GCatholic.com
 Google Books - Julius II: The Warrior Pope
 JDA's Family Tree
 THE BORGIAS wiki
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Treccani.it

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『性病の世界史』
 『世界悪女大全』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『大聖堂のコスモロジー』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家の黄金の血』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『マキアヴェリ』
 『マキァヴェッリ 忘恩、運命、野心、好機』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネサンスの女たち』
 『ローマ教皇検死録』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2023年5月25日