出来事

コンスタンツ公会議 Concilio di Costanza

概要

 コンスタンツ公会議は1414年から1418年にかけて神聖ローマ帝国内のコンスタンツ司教領で開催されたカトリック教会の公会議。

別表記

 コンスタンツの宗教会議

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』

バーゼル公会議 Concilio di Basilea

概要

 バーゼル公会議は、1431年にスイスのバーゼルで開会されたキリスト教の公会議。

別表記

 バーゼル宗教会議

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『Lucretia Borgia

アンギアリの戦い Battaglia di Anghiari

概要

 アンギアリの戦いは、1440年6月29日にミラノ軍対フィレンツェ共和国、ヴェネツィア共和国、教皇軍の同盟軍との戦いである。

別表記

 アンギアーリの戦い

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『メディチ家』
 『ルネサンス宮廷大全』

ローディの和 La Pace di Lodi

概要

 ローディの和とは、1454年4月9日に結んだ和平協定。これがイタリア五大国のイタリア同盟へと繋がり、諸都市国家間の戦争に終止符を打った。

発端

 イタリアはそれまでルネサンスの時代を迎えていたが、一方でイタリアの覇権を巡って戦乱の絶えない時代でもあった。しかし、1430年代からキリスト教国の脅威となっていたオスマン・トルコによって、ついに1453年5月29日、ビザンティン帝国が滅ぼされる。コンスタンティノープルの陥落である。イタリア諸都市国家はにわかに危機感を強めることとなった。

経過

 ニコラウス5世は、オスマン・トルコの進出に対するキリスト教諸国の結束を図るべく、1453年7月18日、ナポリフィレンツェヴェネツィアミラノに枢機卿を使節として送り、諸国間の和を結ぶ使節をローマに送るよう強く指示。
 ニコラウス5世の召集したイタリア諸国、諸君主の和平交渉がローマで続けられながらも成果を得られないでいる中、教皇の使節アウグスティヌス会修道士シモーネ・ダ・カメリーノの精力的な仲介によってミラノフランチェスコ1世・スフォルツァヴェネツィアの交渉が妥結。この間の戦争で奪い合った領地を相互に返還すること、各自の同盟者をこの同意に加えていくことなどを、1454年4月9日、ローディで協定。コジモ・イル・ヴェッキオフィレンツェ首脳を除く他の戦争当事者も存知するに至らない内に結ばれた。
 1454年4月14日、フィレンツェが加入すると共に、ローディの和が公表される。
 突然、和平の成立を知らされたナポリアルフォンソ5世・デ・アラゴンは、これに加わることを強く拒否し、戦闘継続を宣言。

参加国

 ローマ教皇国(ニコラウス5世
 ミラノ公国(フランチェスコ1世・スフォルツァ
 ヴェネツィア共和国
 フィレンツェ共和国(コジモ・イル・ヴェッキオ

別表記

 ロディの平和、ロディの会議

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

イタリア同盟 La Lega Italica

概要

 1454年4月9日のローディの和が契機となり、1455年3月2日、イタリア五大国が同盟したことを宣言。イタリア同盟が成立する。

経過

 1454年8月30日、ミラノフィレンツェヴェネツィアによる25年間の同盟をヴェネツィアで締結。さらにこの同盟への加盟をイタリア各国に求める。
 フェッラーラボローニャが直ちに加盟。
 間もなく教皇ニコラウス5世も加盟し、さらに使節として枢機卿ドメニコ・カプラーニカナポリに送る。ヴェネツィアフィレンツェなどの使節と共に、同盟への加盟を強く勧奨、説得させる。
 1455年1月21日、ナポリが、この同盟がジェノヴァを除外しかつジェノヴァに対する自身の権利を留保することなどを条件として加盟。
 1455年3月2日、ニコラウス5世ローマでイタリア同盟を厳粛に宣言。

参加国

 フィレンツェ共和国(コジモ・イル・ヴェッキオ
 ミラノ公国(フランチェスコ1世・スフォルツァ
 ヴェネツィア共和国
 ローマ教皇国(ニコラウス5世
 ナポリ王国(アルフォンソ5世・デ・アラゴン
 フェッラーラボルソ・デステ
 ボローニャサンテ・ベンティヴォーリオ

除外国

 ジェノヴァ
 リーミニシジスモンド・マラテスタ

結果

 この同盟によってイタリアは、諸都市国家間の戦乱の時代に終わりを告げた。その後、1494年のフランス王シャルル8世によるイタリア侵攻まで、イタリアの平和と呼ばれる、小国分立、相互均衡、抑制に基づく一応の平和が約40年間生じたのである。それぞれの支配体制の強化と国内での文化の展開、深化に努めることにより、ルネサンスもまた最盛期を迎えることになる。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

対オスマン・トルコ共同防衛同盟

概要

 オスマン・トルコのスルタン、マホメッド2世の艦隊によって、エーゲ海の中心にヴェネツィア共和国が占める最大の拠点であるユービア島(ネグロポンテ)が陥落する。これを契機として、1470年12月22日、新たに対オスマン・トルコ共同防衛同盟が締結される。

経過

 1470年6月半ば、マホメッド2世が陣頭に立って、オスマン・トルコの艦隊が出撃し航海中との報が、ローマに届く。
 1470年6月、オスマン・トルコの艦隊が、ユービア島の主要地点を包囲。
 1470年7月12日、オスマン・トルコ軍、ユービア島を征服。
 1470年8月25日、パウルス2世はイタリア諸国にユービア島陥落の及ぼす危険性を説く書簡を送る。
 1470年9月18日、パウルス2世はイタリア諸国に、和平を説きオスマン・トルコの脅威に一致して対抗せよと説く書簡を送る。
 1470年12月22日、パウルス2世の主導の下、ようやく、ナポリミラノフェッラーラフィレンツェ共和国が、ローディの和イタリア同盟を基にした対オスマン・トルコ共同防衛同盟を締結。

参加国

 ローマ教皇国(パウルス2世
 ナポリフェッランテ・ダラゴーナ
 ミラノガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ
 モデナ・レッジョ・フェッラーラボルソ・デステ
 フィレンツェ共和国(ロレンツォ・イル・マニーフィコ

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

パッツィ家の陰謀 Congiura dei Pazzi

概要

 1478年4月26日日曜日、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂での昇天祭ミサの最中に、都市国家フィレンツェ共和国の若き指導者ロレンツォ・イル・マニーフィコとその弟ジュリアーノ・デ・メディチが襲撃される。ジュリアーノ・デ・メディチは19箇所もの刺し傷を負ってたちどころに絶命。ロレンツォ・イル・マニーフィコは負傷したものの、逃げ延びる。フィレンツェ市民はメディチ家に味方し、陰謀に加担した者たちを処刑したため、かえってメディチ家の支配体制は盤石なものとなった。

芸術作品

舞台

 宝塚歌劇団宙組『異人たちのルネサンス―ダ・ヴィンチが描いた記憶』

別表記

 パッツィ家陰謀事件、パッツィ一族の謀反、パッツィの乱

外部リンク

 ウィキペディア
 チェーザレ・ボルジアとその周辺
 Europe in the Late Middle Ages - Knox

参考文献

 『君主論』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

モルダーノ劫掠 Sacco di Mordano

概要

 モルダーノ劫掠とは、第1次イタリア戦争において1494年10月20日と21日の間にイーモラ近郊モルダーノで起こった戦闘である。


交戦勢力
フランス王国
ミラノ公国
イーモラフォルリ
ナポリ王国
教皇国
フィレンツェ共和国
指揮官
ロベール・スチュアート・ドオービニイ
ガレアッツォ・サンセヴェリーノ
ガスパーレ・サンセヴェリーノ
マリーノ・メルカテッリ
ジャンフランチェスコ・ボレッリ
戦力
歩兵1万4千~6千、騎兵、多数のカノン砲、射石砲 歩兵2百
損害
僅か 甚大
背景

 1493年、ミラノの正統な公爵ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァパヴィアのヴィスコンティ城に閉じこもって贅沢に過ごしルドヴィーコ・イル・モーロに従属しているとの不平を綴った手紙を公爵夫人のイザベッラ・ダラゴーナが父アルフォンソ2世・ダラゴーナに送った後、ナポリミラノの関係は悪化していた。1494年1月25日ナポリフェッランテ・ダラゴーナが死んでアルフォンソ2世・ダラゴーナが即位し、反フランスの教皇領とフィレンツェ共和国の支援を受けてミラノ公国に宣戦布告。1494年6月、シャルル8世が率いるフランス軍は、ナポリ王国を征服することを目的として、陸路と海路で半島への遠征の準備を整えた。
 ミラノ公国を事実上支配していた叔父ルドヴィーコ・イル・モーロからフランス陣営に誘われ、教皇アレクサンデル6世からはラッファエーレ・サンソーニ枢機卿をフォルリンポーポリに派遣されたものの、イーモラフォルリの摂政であるカテリーナ・スフォルツァは、自国を犠牲にする可能性のある戦争に小さな領を巻き込まないよう中立であり続けることにした。フランス軍と同盟軍の動きを知って、城郭内、城やロマーニャに点在する要塞化した村に領民を入れ、イーモラ、トッシニャーノ、ブバーノモルダーノの要塞の守備隊を強化することで戦争に備える。
 1494年5月以来、ミラノ軍騎兵と弩兵の4、5部隊は、少数の派兵でロマーニャに侵入しチェゼーナとベルティノーロの間で野営したが、領土に損害を与えはしなかった。8月末までに、ガレアッツォ・サンセヴェリーノガスパーレ・サンセヴェリーノが率いるミラノ軍本隊がボローニャ近郊に到着し、コティニョーラへ進軍。
 その後日、ミラノナポリの特使が再びカテリーナ・スフォルツァを説得し、最終的に1万6千ドゥカートで反フランス陣営と同盟することに決まる。

戦闘

 1494年9月5日、ナポリ軍はカラブリアフェッランディーノ・ダラゴーナの指揮下、イーモラフォルリ領地に入り、ヴィッラフランカ(現フォルリのフラツィオーネ)周辺に配置。9月23日、フェッランディーノ・ダラゴーナはバグナラの要塞のすぐ外で直接カテリーナ・スフォルツァに会い、両者は作戦について合意。10月17日、ナポリ軍は近くのモルダーノに移動し、戦場に扇動するよう挑発的な攻撃をフランスの野営地に繰り返し行う。その後、北のサンターガタに向かって部隊を引いた。後に続いたいくつかの小競り合いはナポリ軍にいい結果になったが、フランスを攻撃する好機を活かすことはできなかった。フランス軍はナポリ軍をモルダーノに押し戻したが、村の守備兵による抵抗を受けた。
 10月20日、前日の雪辱を果たしたいフランス軍が先導して、ロベール・スチュアート・ドオービニイガスパーレ・サンセヴェリーノ率いるフランス・ミラノ軍は村を取り巻くモルダーノに進軍。フランス人の残忍さを知るガスパーレ・サンセヴェリーノは、マリーノ・メルカテッリの指揮下にある城の守備隊と平和的に放棄するよう交渉を開始。マリーノ・メルカテッリは、ジャンフランチェスコ・ボレッリ、モルダーノ知事、カルデリーニ伯爵と合意して、死ぬ覚悟はできていると言って要塞を明け渡さず。
 交渉が失敗に終わり、フランスの砲兵隊はモルダーノの要塞を打ち込み始め、塔や壁に深刻な被害をもたらした。アントーニオ・ブッリエールは、ドイツの砲手ヨハネスがスピンガルダで貴族の敵を殺した午後3刻頃がフランスの攻撃開始だったろうとしている。フランスは侵入を試みたが、少数であったものの守備兵が階段を破壊し、スピンガルダとアーキバスで多数の兵士を負傷させることに成功。ついに、跳ね橋を支える鎖がフランス軍の大砲によって破壊され、歩兵が入口に到達し、斧で破った。フランス分隊も城の小さな裏口に達し、通過。3つの戦線で攻撃されて疲弊した守備隊は、真夜中の1刻に降伏を余儀なくされた。  

結果

 1494年10月21日の朝、フランス軍は要塞を略奪する準備をしていたが、跳ね橋に殺到した結果崩壊を招き、多数が溺れたり堀に押しつぶされたりした。一旦要塞を占領すると、モルダーノの村に侵入し、略奪し、火をつけ、あらゆる種類の暴力を実行した。彼らは市庁舎を避け、残りの少数の女性が避難した教会の、せめて神聖な聖具はミラノによって免除するよう規制された。ガスパーレ・サンセヴェリーノは虐殺を防ぐため、ミラノ兵を城と村にに送ってフランスに従うよう命じたところ、モルダーノミラノに降伏してしまった。この決定に怒ったフランスは同盟軍を攻撃する寸前で、砲手ヨハネスを四つ裂きの刑に処すことによって鎮められた。マリーノ・メルカテッリとジャンフランチェスコ・ボレッリは捕虜となり、後にカテリーナ・スフォルツァによって身請けされた。変装しフランス兵に紛れ込んだカルデリーニ伯は、敵の侵入口を通って城から脱出に成功し、カテリーナ・スフォルツァに警告するためにイーモラへ走った。モルダーノを略奪したフランス軍はブバーノとバニャーラ周辺の土地を荒廃させ、フォルリに向かって行軍。
 同日朝、フランスの動向を知ったカテリーナ・スフォルツァフェッランディーノ・ダラゴーナに支援に来るように頼んだが、後者は将軍たちと相談した後、フランス軍の戦力が現在大きすぎることを考慮して今のファエンツァ付近から離れないことにした。裏切りとモルダーノ喪失に激怒したカテリーナ・スフォルツァは、新しい同盟を締結するためにガレアッツォ・サンセヴェリーノとの接触を持つことを決心。しかし、カラブリア公は、フォルリの領土を横断することができた。公はカテリーナ・スフォルツァを信用せず、南のマイアーノとセルバニョーネを通って街を避けることにし、田舎を壊滅させ、教皇直轄領チェゼーナに向かった。

外部リンク

 Google Books - Tigress of Forli: The Life of Caterina Sforza
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』

セニガッリアの罠 Strage di Senigallia

概要

 セニガッリアの罠は、チェーザレ・ボルジアが自身に反抗の意を示した傭兵隊長たちとの和解を装ってセニガッリアに招集し、捕縛、死刑にした事件のことである。

経過

 1502年12月、オリヴェロット・エウッフレドゥッチが、チェーザレ・ボルジアの名においてセニガッリアに入る。ヴィテロッツォ・ヴィテッリと甥、パオロ・オルシーニと息子ファビオ・オルシーニフランチェスコ2世・オルシーニもそれぞれの軍を率いてセニガッリアに集結。ジャンパオロ・バリオーニは病気を理由にチェーザレ・ボルジアの招集を拒絶。
 1502年12月30日、オリヴェロット・エウッフレドゥッチチェーザレ・ボルジアが通る予定である門の正面の村に軍を駐屯。他の傭兵軍は5、6マイル離れた複数の城に駐屯。歩兵1千、騎兵1百50。
 1502年12月31日にチェーザレ・ボルジアはミーザ川の橋を渡り、城郭の門をくぐった。現コルソ2世・ジューニョ通りに連なる橋を渡ったと思われる。チェーザレ・ボルジア軍は重騎兵6百。ミケーレ・ダ・コレーリア軍は槍騎兵2百、歩兵2千5百。この日の宿所のベルナルディーノ・クアルターリ邸にて、チェーザレ・ボルジアは、パオロ・オルシーニフランチェスコ2世・オルシーニヴィテロッツォ・ヴィテッリオリヴェロット・エウッフレドゥッチを拘束。翌1503年1月1日夜10刻、この辺りでヴィテロッツォ・ヴィテッリオリヴェロット・エウッフレドゥッチは死刑に処された。その様子は、ニッコロ・マキアヴェッリによってフィレンツェ共和国に詳しく報告されている。
 1503年1月1日早朝にロヴェレスカ要塞を明け渡させ、夕刻にはコリナルドに到着。
 ちなみに、チェーザレ・ボルジア軍がセニガッリアを占領した時、抵抗はしないが直接チェーザレ・ボルジアに引き渡すため要塞に陣取っていたのがアンドレア・ドーリアだったという話がある。ジョヴァンニ・デッラ・ローヴェレの傭兵隊長だったが、1501年の彼の死後にもローヴェレ家に仕えていたのかどうか確証は持てず、1565年の伝記にはそのような記載があるものの妙に詳細すぎて英雄譚のための作り話と思われる節があり、ほとんど信憑性はない。
 チェーザレ・ボルジアは傭兵隊長たちにロヴェレスカ要塞を占拠されては厄介だったので、予め城主と通じておき、自分にのみ跳ね橋を下ろさせるように指示を送っていたのではないだろうか。あまりにも都合よく捕縛後に要塞は降伏し、その後ほとんどすぐセニガッリアを出発している。領主の母ジョヴァンナ・ダ・モンテフェルトロはすでに逃亡し、援軍の見込みもなく、城主が抵抗する意味はない。降伏を部下にしようが上官にしようが相違はないのだから、その方が自然に思える。要塞が陥落していないことを自軍の武装の口実にし、狭い城郭都市内に密集しないようにと言って傭兵隊長の軍は遠ざける。全ての危険性を抜かりなく排除した上で、裏切者たちを捕らえたのだ。

セニガッリアの罠の舞台

 チェーザレ・ボルジアが自分を裏切った傭兵隊長たちを捕らえたのはロヴェレスカ要塞ではなく、少し南西に位置したベルナルディーノ・クアルターリ・ダ・パルマ邸。
 ジョヴァンニ・パスコリ小学校の西南のソルフェリーノ通り側の壁に、ベルナルディーノ・クアルターリ・ダ・パルマ邸があった場所を示す下のプレートがある(Google Maps)。しかし、ここは当時城郭の外だったはずなので、不正確な位置に設置されてしまっているようである。


Nella casa di Bernardino Quartari da Parma
che sorgeva qui presso ebbe luogo
per ordine di Cesare Borgia Duca Valentino
l'eccidio di Oliverotto Uffreducci da Fermo
et Vitellozzo Vitelli da città di Castello
suoi condottieri il giorno 31 dicembre 1502.


ミケーレ・シラーニ氏が2012年に描いたもの。セニガッリアの罠は、城郭の形が赤い線だった時代である。

外部リンク

 Comune di Senigallia
 Wikimedia Commons - Plaque Senigallia Vitellozzo Vitelli et Oliverotto da Fermo
 Wikipedia

フォルノーヴォの戦い Battaglia di Fornovo

概要

 フォルノーヴォの戦いは、1495年7月6日フォルノーヴォのタロー河畔での、フランス軍対ヴェネツィア同盟軍の戦闘。

フランス軍

 総指揮官:シャルル8世
 ピエール・ド・ロアン、ピエール・テライユルイ2世・ド・ラ・トレモイユ、ジャック2世・ド・シャバンヌ、フィリッポ2世・ディ・サヴォイアルドヴィーコ2世・デル・ヴァストジャン・ヤコポ・トリヴルツィオカミッロ・ヴィテッリ、エンゲルベルト・フォン・クレーヴ、ジャン・ド・フォワジャンパオロ・バリオーニ、ルイ・ダルマニャック、ガスパール1世・ド・コリニー、アルフォンソ1世・デステフェッランテ・デステフランチェスコ・セッコ、グルリーノ・トンベージ、ジャン・ニッコロ・トリヴルツィオ、ベルナルディーノ・サンヴィターレ

ヴェネツィア同盟軍

 総指揮官:フランチェスコ2世・ゴンザーガ
 マントヴァ候国軍:フランチェスコ2世・ゴンザーガ、パオロ・カヴリアーニ、ガレアッツォ・イッポーリティ、クリストフォロ・カスティリオーネ、ロベルト・グイディ、ヴィスタッロ・ジニョーニ、アンニーバレ・マルティネンゴ、アレッシオ・ベッカーグト
 ヴェネツィア共和国軍:リドルフォ・ゴンザーガフェーボ・ゴンザーガニッコロ2世・オルシーニヴィルジーニオ・オルシーニメルキオッレ・トレヴィサン、メルキュリオ・ブア、パンドルフォ4世・マラテスタ、グイド・ブランドリーニ、フィリッポ・マリーア・デ・ロッシ
 ミラノ公国軍:フランチェスコ・ベルナルディーノ・スフォルツァ、ジャンフランチェスコ・サンセヴェリーノアキッレ・トレッリ、ドメニコ・デ・マレンギ、ルドヴィーコ1世・ピコ

軍勢

 フランス軍:約1万
 ヴェネツィア同盟軍:2万以上

死傷者

 フランス軍:約1千
 ヴェネツィア同盟軍:約4千

別表記

 フォルノーヴォのタロー河畔の戦闘

外部リンク

 De Re Militari
 Fornovo 1495: France's bloody fighting retreat
 Google Books - Annali veneti dall'anno 1457 al 1500
 Sideway-Shuffle
 Wikipedia

参考文献

 『戦闘技術の歴史2 中世編』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia

カンブレー同盟 La Lega di Cambrai

概要

 カンブレー同盟とは、当時経済的軍事的絶頂期にあったヴェネツィア共和国のイタリア北部における伸長を阻止するため、1508年12月10日、教皇ユリウス2世が、フランス王ルイ12世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、そしてアラゴン王フェルナンド2世・デ・アラゴンとの間に結成した反ヴェネツィア同盟である。

別表記

 カンブレイ同盟、Lega di Cambraythe League of Cambray

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『君主論』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia

アニャデッロの戦い Battaglia di Agnadello

概要

 アニャデッロの戦いは、カンブレー同盟戦争の一環として、1509年5月14日にフランス軍とヴェネツィア共和国軍の間に起こった戦い。

別表記

 アニャデッロあるいはヴァイラーテの戦闘、アニャデロの戦い

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『君主論』
 『戦闘技術の歴史2 中世編』
 『フィレンツェ史』
 『マキァヴェッリ 忘恩、運命、野心、好機』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの華』

記載日

 2006年7月16日

更新日

 2021年1月31日