- 生没
- 1396年2月24日~1458年6月27日
- 出身
- メディナ・デル・カンポ
- 没地
- ナポリ王国ナポリ
- 父
- フェルナンド1世・デ・アラゴン
- 妻
- マリア・デ・カスティーリャ
- 女
- ルクレツィア・ダラーニョ
イッポーリタ・デ・ジューディチ
グエラルドーナ・カルリーノ - 子
- フェッランテ・ダラゴーナ
コーリア・ダラゴーナ
マリーア・ダラゴーナ
エレオノーラ・ディアーナ・ダラゴーナ
概要
アルフォンソ5世・デ・アラゴンは、14世紀から15世紀の男性。
在位
アラゴン王アルフォンソ5世 1416年~1458年
バルセロナ伯アルフォンス4世 1416年~1458年
ヴァレンシア王アルフォンス3世 1416年~1458年
マヨルカ王アルフォンソ1世 1416年~1458年
シチリア王アルフォンソ1世 1416年~1458年
サルデーニャ王アルフォンソ2世 1416年~1458年
カラブリア公 1420年8月~1423年6月
ナポリ王アルフォンソ1世 1442年~1458年
年表
1396年2月24日
メディナ・デル・カンポで生。
1425年3月末
この頃、フィレンツェ、ファエンツァの君主グイダントーニオ・マンフレディを、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティとの友好を断たせて自陣に引き入れたのを初め、サルザーナの君主でフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティによる支配以前のジェノヴァのドージェ、トンマーゾ・フレゴーソ及びアラゴン・シチリア・サルデーニャ王アルフォンソ5世・デ・アラゴンと友好関係を作り、それぞれに反ヴィスコンティの態勢を取らせる。
1425年4月24日
ジェノヴァの前ドージェのトンマーゾ・フレゴーソ派と共に水軍でジェノヴァ攻撃を試みるが、市内に期待したフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティに対する決起は起こらず、失敗に終わる。
1435年2月2日
すでに後継ナポリ王としてジョヴァンナ2世・ダンジオより、ルネ・ダンジューが指名されていた(1434年11月)ものの、それ以前に同じく後継ナポリ王として2度指名され(1421年7月、1432年4月)ながらその都度取り消された(1423年、1433年)アルフォンソ5世・デ・アラゴン、王位を要求。
加えてエウゲニウス4世もナポリは教会領であるとの回告を発し、ナポリ内部はルネ・ダンジュー、アルフォンソ5世・デ・アラゴン、エウゲニウス4世の3派に分裂して前2者の間で戦闘始まる(~1442年)。
1435年8月5日
ガエータを包囲していたアルフォンソ5世・デ・アラゴン軍、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの指示と仲介でガエータ支援に来ていた(1435年7月下旬)ジェノヴァ軍によりポンツァ島で大破され、アルフォンソ5世・デ・アラゴン自身も捕虜となる。
アルフォンソ5世・デ・アラゴン、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティのもとに送られる。
1435年10月8日
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ、捕虜アルフォンソ5世・デ・アラゴンからイタリアにおけるフランスの勢力増大の危険性、ミラノ及びジェノヴァ攻略の可能性を説かれて納得し、秘密の協定を結んでアルフォンソ5世・デ・アラゴンを釈放。
1436年2月2日
アルフォンソ5世・デ・アラゴン、ガエータに上陸しナポリ領に入る。以後、自ら戦闘を指揮。
1437年春~夏
エウゲニウス4世、アルフォンソ5世・デ・アラゴンから求められたナポリ王位継承の公認を行なわず、ルネ・ダンジュー支持の態度を明らかにすると共に以後、ルネ・ダンジューに援軍を派遣。これに対しアルフォンソ5世・デ・アラゴン、バーゼル分離公会議派にローマ占領を呼びかける。
1440年6月末
この頃、ロンバルディアとナポリで戦闘激化。前者ではフランチェスコ1世・スフォルツァ指揮のヴェネツィア軍がフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍を破ってブレッシャを制圧し、後者ではルネ・ダンジューとアルフォンソ5世・デ・アラゴン軍の戦いが続き、アルフォンソ5世・デ・アラゴンはフランチェスコ1世・スフォルツァの勢力失墜を願うフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティと結んでナポリ王国内部のフランチェスコ1世・スフォルツァの所領を占領すると共にナポリ市内を包囲。ルネ・ダンジューは急ぎエウゲニウス4世に支援を求める。
1442年1月
フランチェスコ1世・スフォルツァ、アルフォンソ5世・デ・アラゴンに占領された自領を奪還し、さらにナポリを制圧すべくフィレンツェとヴェネツィアから資金を得て進軍態勢を整える。
この進軍を止めたいアルフォンソ5世・デ・アラゴンと、フランチェスコ1世・スフォルツァの勢力のこれ以上の増大を止めたいフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティは、エウゲニウス4世にフランチェスコ1世・スフォルツァからマルケを奪うよう働きかけ、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティはニッコロ・ピッチニーノ指揮の軍を提供。
1442年3月3日
ニッコロ・ピッチニーノ指揮の軍は、ボローニャに到着。さらに南下し、フランチェスコ1世・スフォルツァの領有するトーディを占領。
エウゲニウス4世は、間もなくニッコロ・ピッチニーノを教会の旗手に任命し、アルフォンソ5世・デ・アラゴンの側に立つ。
フランチェスコ1世・スフォルツァは、ナポリ遠征を断念。
1442年6月2日
ナポリ市包囲を狭めてきたアルフォンソ5世・デ・アラゴン軍、市内に突入。アルフォンソ5世・デ・アラゴン自身も市内に入る。
エウゲニウス4世に見捨てられたルネ・ダンジューは、改めてエウゲニウス4世に支援を求めるべくジェノヴァ水軍の艦船でフィレンツェに逃げる。
以後この年内にアルフォンソ5世・デ・アラゴンは、ナポリ全土を制圧し、ナポリとシチリアを再統合。
1442年11月30日
この日?、アルフォンソ5世・デ・アラゴン、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ及びニッコロ・ピッチニーノ、反フランチェスコ1世・スフォルツァ・ヴェネツィア・フィレンツェの同盟を締結。
1443年2月26日
ナポリ全土を制圧したアルフォンソ5世・デ・アラゴン、配下の主な領主たちを従え、改めてナポリ市に凱旋。
間もなく、アルフォンソ5世・デ・アラゴン、ニッコロ・ピッチニーノ、フランチェスコ1世・スフォルツァの領国マルケの攻略を目指して共に戦うことで合意。
1443年6月14日
フランチェスコ1世・スフォルツァからマルケを奪還するためにアルフォンソ5世・デ・アラゴンを利用したいエウゲニウス4世と、フランチェスコ1世・スフォルツァ追討に加えてエウゲニウス4世からのナポリの正式封与を実現したいアルフォンソ5世・デ・アラゴン、アルフォンソ5世・デ・アラゴンはエウゲニウス4世を正統な教皇と認め、エウゲニウス4世はアルフォンソ5世・デ・アラゴンを正統なナポリ王と認めること、などを協定。
間もなくフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティは、エウゲニウス4世にマルケ攻撃のための援軍を送る。
1443年7月15日
エウゲニウス4世、アルフォンソ5世・デ・アラゴンをナポリ王として承認する勅書を発す。
アルフォンソ5世・デ・アラゴン、ナポリ王としてAlfonso Iを名乗る(在位~1458年)。
1443年8月~1443年9月
ナポリ王アルフォンソ5世・デ・アラゴンの軍とニッコロ・ピッチニーノ指揮の教会軍、マルケを攻撃し、フランチェスコ1世・スフォルツァを圧倒してフェルモ、アスコリ、Rocca Contrada(現アルチェーヴィア)などを除くほぼ全域を制圧。
1443年9月8日
マルケにおけるフランチェスコ1世・スフォルツァ軍のあまりの劣勢を見、フランチェスコ1世・スフォルツァがマルケ全領土を失うことは自身にとっても危険だと判断したフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ、この日頃ヴェネツィアに使者を送り、ヴェネツィア及びフィレンツェと共にフランチェスコ1世・スフォルツァを支援することを提案。
他方でこの頃フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ、アルフォンソ5世・デ・アラゴンにも使者を送り、フランチェスコ1世・スフォルツァ攻撃の中止を提案。
1444年8月半ば
エウゲニウス4世自身とアルフォンソ5世・デ・アラゴンから兵と資金を得て増強されながらも指揮官ニッコロ・ピッチニーノがフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティによりミラノに呼び戻されたため、その子フランチェスコ・ピッチニーノ(?~1449年)が指揮を執る教会軍、モントルモでフランチェスコ1世・スフォルツァ軍の攻撃を受け、完敗。
フランチェスコ1世・スフォルツァ軍の反撃、続く。
1445年8月10日
アスコリがフランチェスコ1世・スフォルツァの支配に反乱を起こし、教会の支配を受容。
エウゲニウス4世とアルフォンソ5世・デ・アラゴンはマルケ奪還、制圧の好機と見て大軍をマルケに送り始め、これに呼応してフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティも軍を送ってフランチェスコ1世・スフォルツァを挟撃する態勢をとる。
1445年10月半ば~1445年11月
1445年10月15日Rocca Contradaが、1445年11月20/26日フェルモが、フランチェスコ1世・スフォルツァの支配に反乱を起こし、エウゲニウス4世とアルフォンソ5世・デ・アラゴン軍を受け入れるなど、フランチェスコ1世・スフォルツァの支配、マルケ全域で動揺。
1447年3月24日
アルフォンソ5世・デ・アラゴン、ニコラウス5世に恭順の意を表し、ニコラウス5世は前教皇エウゲニウス4世がアルフォンソ5世・デ・アラゴンから奪った全ての権限を承認すると共に、その庶子フェッランテ・ダラゴーナのナポリ王位継承権をも承認。
1447年9月
ミラノ領進攻、制圧を目指すアルフォンソ5世・デ・アラゴン、その道を拓くべくトスカーナに侵入しフィレンツェ領攻撃を開始。
1448年1月
アルフォンソ5世・デ・アラゴン、シエナ領に陣を敷き、まずフィレンツェ配下のピオンビーノ攻略を狙う。
1448年5月
アルフォンソ5世・デ・アラゴン軍、ピオンビーノを包囲。
1448年7月15日
この日頃、フィレンツェ軍は、アルフォンソ5世・デ・アラゴン軍に包囲されたピオンビーノへの補給に失敗。
1448年9月
1448年夏を通してピオンビーノ包囲攻撃を続けてきたアルフォンソ5世・デ・アラゴン、折から蔓延中のペストのためもあってついに攻略を断念し、軍を撤退させナポリに帰る。
1449年2月1日
アルフォンス・デ・ボルジャ枢機卿に、彼の甥リュイス・ジョアン・デル・ミラに与えた2つの聖職について2千ドゥカートを要求し、支払いを拒否する場合はそれらを放棄しなければならないことを通知。
1450年6月29日
アルフォンソ5世・デ・アラゴンとフィレンツェは、ニコラウス5世の仲介により、アルフォンソ5世・デ・アラゴンが1448年以来獲得しようとしていたピオンビーノの君主リナルド・オルシーニより毎年、貢納金を得ることで和を結ぶ。1450年7月18日公表。
1450年7月2日
アルフォンソ5世・デ・アラゴンとヴェネツィアは、レオネッロ・デステの仲介により、フェッラーラで和を結ぶ。
1450年
アラゴン王アルフォンソ5世・デ・アラゴン、バルセロナ大学を設立。
1451年3月6日
この日?、ヴェネツィアとナポリ=アルフォンソ5世・デ・アラゴンは、同盟を結び、反ミラノ、反フィレンツェの方針をさらに進め、それぞれの領国からのフィレンツェ商人の追放も決める。間もなくこの同盟にサヴォイア公ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア、モンフェッラート侯ジョヴァンニ及びシエナが加入。
1452年2月21日
シャルル7世、1451年12月以来のフィレンツェの呼びかけに応じ、(1)フィレンツェがその対ヴェネツィア戦争終了後ルネ・ダンジューの対アルフォンソ5世・デ・アラゴン戦、ナポリ奪還に協力することを条件にフィレンツェ・フランチェスコ1世・スフォルツァ・ジェノヴァ・マントヴァ同盟に加わり、(2)自分の対イングランド戦終了後ルネ・ダンジュー軍をイタリアに送ることを約束。1452年4月9日公表。
1452年6月上旬
アルフォンソ5世・デ・アラゴン、フィレンツェに宣戦し近郊ヴァルディキアーナ地区などの攻撃を始める。
1452年
フィレンツェ生まれの政治家、人文主義者ジャンノッツォ・マネッティ、『人間の尊厳と優越について』を完成し、アルフォンソ5世・デ・アラゴンに献呈。(1532年バーゼルで刊)。
1454年4月9日
ローディの和:ニコラウス5世の召集したイタリア諸国、諸君主の和平交渉がローマで続けられながらも成果を得られないでいる中、ニコラウス5世の使節アウグスティヌス会修道士シモーネ・ダ・カメリーノの精力的な仲介によってフランチェスコ1世・スフォルツァとヴェネツィアの交渉が妥結し、この間の戦争で奪い合った領地を相互に返還すること、各自の同盟者をこの同意に加えていくことなどを、コジモ・イル・ヴェッキオらフィレンツェ首脳を除く他の戦争当事者も存知するに至らない内、この日ローディで協定。5日後、フィレンツェが加入すると共に、この和が公表される。
突然、和平の成立を知らされたアルフォンソ5世・デ・アラゴン、これに加わることを強く拒否し、戦闘継続を宣言。
1454年8月30日
イタリア同盟:1454年4月9日のローディの和による和平の更なる強化をフィレンツェの支援の下で試みてきたフランチェスコ1世・スフォルツァ、この日、自身とフィレンツェとヴェネツィアによる25年間の同盟をヴェネツィアで締結することに成功。さらにこの同盟への加盟をイタリア各国、各権力者に求める。ボルソ・デステおよびサンテ・ベンティヴォーリオが直ちに加盟。
間もなくニコラウス5世は、このイタリア同盟に加盟。さらに使節として枢機卿ドメニコ・カプラーニカ(1400年~1458年:在位1430年~1458年)をアルフォンソ5世・デ・アラゴンの元に送り、ヴェネツィア、フィレンツェなどの使節と共に、同盟への加盟を強く勧奨、説得させる。
1455年1月21日
イタリア同盟に、この同盟がジェノヴァを除外しかつジェノヴァに対する自身の権利を留保することなどを条件として加盟。
これによりイタリアに小国分立、相互均衡、抑制に基づく一応の平和が生じ(~1494年)、各国、各権力者はそれぞれの支配体制の強化と国内での文化の展開、深化に努める。
1456年12月5日
イタリア南部、ナポリを中心に大地震に見舞われ、ナポリで2~3万などの全体で10万に及ぶ死者が出る。
1458年6月27日
ナポリで死。
遺言により、ナポリ王位は先にエウゲニウス4世及びニコラウス5世から正統継承者として認承された(1444年、1447年)庶出の長子フェッランテ・ダラゴーナに、アラゴン、シチリア、サルデーニャ王位は次弟ナヴァーラ王フアン2世・デ・アラゴンに継承される。
献呈された著作
関連項目
別表記
アルフォンソ5世・ダラゴーナ、大アルフォンソ、高潔王、寛大王、Alfonso V d'Aragona、el Magnánimo
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
歴史データベース
Genealogy.EU
kleio.org
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
MEDIEVAL LANDS
参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『世界大百科事典』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『フィレンツェ史』
『服飾の中世』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
『傭兵の二千年史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの歴史』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
記載日
2006年10月27日以前
更新日
2023年12月15日