- 生没
- 1396年~1458年6月27日
- 出身
- メディナ・デル・カンポ
- 没地
- ナポリ
- 父
- フェルナンド1世・デ・アラゴン
- 妻
- マリア・デ・トラスタマラ
- 女
- ルクレツィア・ダラーニョ
イッポーリタ・デ・ジューディチ
グエラルドーナ・カルリーノ
- 子
- フェッランテ・ダラゴーナ
コーリア・ダラゴーナ
マリーア・ダラゴーナ
エレオノーラ・ディアーナ・ダラゴーナ
概要
アルフォンソ5世・デ・アラゴンは、14世紀~15世紀の男性。
在位
アラゴン王アルフォンソ5世 1416年~1458年
シチリア・サルデーニャ王 1420年~1458年
ナポリ王アルフォンソ1世 1443年2月~1458年
先代:ルネ・ダンジュー
次代:フェッランテ・ダラゴーナ
年表
1396年
メディナ・デル・カンポで生。
1425年3月末
1425年4月24日
1435年2月2日
すでに後継ナポリ王として
ジョヴァンナ2世・ダンジオより、
ルネ・ダンジュー(1409年~1480年:アンジュー公・プロヴァンス伯1439年~1480年:バル公1430年~1480年:ロレーヌ公1431年~1453年)が指名されていた(1434年11月)ものの、それ以前に同じく後継ナポリ王として2度指名され(1421年7月、1432年4月)ながらその都度取り消された(1423年、1433年)アルフォンソ5世・デ・アラゴン、王位を要求。
1435年8月5日
ガエータを包囲していたアルフォンソ5世・デ・アラゴン軍、
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの指示と仲介でガエータ支援に来ていた(1435年7月下旬)ジェノヴァ軍によりポンツァ島で大破され、アルフォンソ5世・デ・アラゴン自身も捕虜となる。
1435年10月8日
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ、捕虜アルフォンソ5世・デ・アラゴンからイタリアにおけるフランスの勢力増大の危険性、ミラノ及びジェノヴァ攻略の可能性を説かれて納得し、秘密の協定を結んでアルフォンソ5世・デ・アラゴンを釈放。
1436年2月2日
アルフォンソ5世・デ・アラゴン、ガエータに上陸しナポリ領に入る。以後、自ら戦闘を指揮。
1437年春~夏
1440年6月末
1442年1月
フランチェスコ1世・スフォルツァ、アルフォンソ5世・デ・アラゴンに占領された自領を奪還し、さらにナポリを制圧すべくフィレンツェとヴェネツィアから資金を得て進軍態勢を整える。
1442年3月3日
1442年6月2日
ナポリ市包囲を狭めてきたアルフォンソ5世・デ・アラゴン軍、市内に突入。アルフォンソ5世・デ・アラゴン自身も市内に入る。
以後この年内にアルフォンソ5世・デ・アラゴンは、ナポリ全土を制圧し、ナポリとシチリアを再統合。
1442年11月30日
1443年2月26日
ナポリ全土を制圧したアルフォンソ5世・デ・アラゴン、配下の主な領主たちを従え、改めてナポリ市に凱旋。
1443年6月14日
1443年7月15日
エウゲニウス4世、アルフォンソ5世・デ・アラゴンをナポリ王として承認する勅書を発す。
アルフォンソ5世・デ・アラゴン、ナポリ王としてAlfonso Iを名乗る(在位~1458年)。
1443年8月~1443年9月
1443年9月8日
1444年8月半ば
1445年8月10日
1445年10月半ば~1445年11月
1447年3月6日
1447年3月24日
1447年8月18日
内部で君主政維持派と共和政樹立派の対立していたミラノ臨時政府は、後者の優勢下で
アンブロジアーナ共和国の樹立を宣言(~1450年)。
この混乱を好機としてヴェネツィアはローディ、ピアチェンツァなどを配下に入れ、さらに広くミラノ領を制圧する気配を見せる。
1447年9月
ミラノ領進攻、制圧を目指すアルフォンソ5世・デ・アラゴン、その道を拓くべくトスカーナに侵入しフィレンツェ領攻撃を開始。
1448年1月
アルフォンソ5世・デ・アラゴン、シエナ領に陣を敷き、まずフィレンツェ配下の
ピオンビーノ攻略を狙う。
1448年5月
1448年7月15日
この日頃、フィレンツェ軍は、アルフォンソ5世・デ・アラゴン軍に包囲された
ピオンビーノへの補給に失敗。
1448年9月
1448年夏を通して
ピオンビーノ包囲攻撃を続けてきたアルフォンソ5世・デ・アラゴン、折から蔓延中のペストのためもあってついに攻略を断念し、軍を撤退させナポリに帰る。
1450年3月25日
この就任式典に、
フランチェスコ1世・スフォルツァを支援してきたフィレンツェを初め、ヴェネツィアとアルフォンソ5世・デ・アラゴンを除くイタリアの主な都市、君侯の祝賀使節が参列。
ヴェネツィア・フィレンツェ同盟、事実上、破れ(1425年~)、両国は同盟関係の全面的転換を図る。
1450年6月29日
アルフォンソ5世・デ・アラゴンとフィレンツェは、
ニコラウス5世の仲介により、アルフォンソ5世・デ・アラゴンが1448年以来獲得しようとしていた
ピオンビーノの君主
リナルド・オルシーニ(?~1450年間もなくペストで死:在位?~)より毎年、貢納金を得ることで和を結ぶ。1450年7月18日公表。
1450年7月2日
アルフォンソ5世・デ・アラゴンとヴェネツィアは、
レオネッロ・デステの仲介により、フェッラーラで和を結ぶ。
1450年
アラゴン王アルフォンソ5世・デ・アラゴン、バルセロナ大学を設立。
1451年3月6日
この日?、ヴェネツィアと
ナポリ=アルフォンソ5世・デ・アラゴンは、同盟を結び、反ミラノ、反フィレンツェの方針をさらに進め、それぞれの領国からのフィレンツェ商人の追放も決める。間もなくこの同盟にサヴォイア公
ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア、モンフェッラート候ジョヴァンニ及びシエナが加入。
1452年2月21日
シャルル7世、1451年12月以来のフィレンツェの呼びかけに応じ、(1)フィレンツェがその対ヴェネツィア戦争終了後
ルネ・ダンジューの対アルフォンソ5世・デ・アラゴン戦、ナポリ奪還に協力することを条件にフィレンツェ・
フランチェスコ1世・スフォルツァ・ジェノヴァ・マントヴァ同盟に加わり、(2)自分の対イングランド戦終了後
ルネ・ダンジュー軍をイタリアに送ることを約束。1452年4月9日公表。
1452年6月上旬
アルフォンソ5世・デ・アラゴン、フィレンツェに宣戦し近郊ヴァルディキアーナ地区などの攻撃を始める。
1452年
1454年4月9日
突然、和平の成立を知らされたアルフォンソ5世・デ・アラゴン、これに加わることを強く拒否し、戦闘継続を宣言。
1454年8月30日
間もなく
ニコラウス5世は、この
イタリア同盟に加盟。さらに使節として枢機卿
ドメニコ・カプラーニカ(1400年~1458年:在位1430年~1458年)をアルフォンソ5世・デ・アラゴンの元に送り、ヴェネツィア、フィレンツェなどの使節と共に、同盟への加盟を強く勧奨、説得させる。
1455年1月21日
イタリア同盟に、この同盟がジェノヴァを除外しかつジェノヴァに対する自身の権利を留保することなどを条件として加盟。
これによりイタリアに小国分立、相互均衡、抑制に基づく一応の平和が生じ(~1494年)、各国、各権力者はそれぞれの支配体制の強化と国内での文化の展開、深化に努める。
1456年12月5日
イタリア南部、ナポリを中心に大地震に見舞われ、ナポリで2~3万などの全体で10万に及ぶ死者が出る。
1458年6月27日
献呈された著作
人間の尊厳と優越について
関連項目
ローディの和
イタリア同盟
チェーザレ・ボルジア数
子フェッランテ・ダラゴーナ→妻フアナ・ダラゴーナ→母フアナ・エンリケス→きょうだいエンリケ・エンリケス→子マリーア・エンリケス→夫フアン・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア
きょうだいフアン2世・デ・アラゴン→子アロンソ・デ・トラスタマラ・イ・エスコバル→子レオノール・デ・トラスタマラ・イ・フンケルス→夫ハイメ・デル・ミラ→父ルイス・フアン・デル・ミラ→母カテリーナ・デ・ボルハ→きょうだいイサベル・デ・ボルハ・イ・マルティ→子アレクサンデル6世→子チェーザレ・ボルジア
別表記
アルフォンソ5世・ダラゴーナ、大アルフォンソ、高潔王、寛大王、Alfonso V d'Aragona、el Magnánimo
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
歴史データベース
Genealogy.EU
kleio.org
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
MEDIEVAL LANDS
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『世界大百科事典』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『フィレンツェ史』
『服飾の中世』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
『傭兵の二千年史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの歴史』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
記載日
2006年10月27日以前