アストッレ3世・マンフレディ Astorre III Manfredi
- 生没
- 1485年6月20日~1502年6月2日
- 出身
- ファエンツァ
- 没地
- ローマ
- 父
- ガレオット・マンフレディ
- 母
- フランチェスカ・ベンティヴォーリオ
- 妻
- ビアンカ・リアリオ
概要
アストッレ3世・マンフレディは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
在位
ファエンツァの君主 1488年~1501年
年表
1485年6月20日
ファエンツァにて、生(1485年1月19日、1485年1月20日)。
1488年5月31日
ファエンツァの君主ガレオット・マンフレディは、妻フランチェスカ・ベンティヴォーリオの主導により謀殺される。フランチェスカ・ベンティヴォーリオの父、ボローニャの君主ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオは、フランチェスカ・ベンティヴォーリオを支援しファエンツァを支配しようと急ぎファエンツァに入る。
しかしファエンツァの民衆は、ガレオット・マンフレディの幼子アストッレ3世・マンフレディを擁してフィレンツェに支援を求め、間もなくフィレンツェ軍がファエンツァを制圧。ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ、フランチェスカ・ベンティヴォーリオ父娘はボローニャに逃げ、ファエンツァを事実上、配下に入れたフィレンツェは自領の境界を固める。
1494年
ビアンカ・リアリオと結婚。
1499年12月
妻ビアンカ・リアリオの母親はカテリーナ・スフォルツァだが、クリストフォロ・モーロを通じてヴェネツィア共和国からの保護を確保した上で、フォルリに向かうチェーザレ・ボルジア軍を歓迎。
1500年1月31日
手紙をしたためる。「これらの貧しい都市、フォルリとイーモラは打撃を受けて疲弊しました。しかし、彼らはその隷属から解放されたことを思い起こすと、慰めを得るのです。」
1500年8月8日
アレクサンデル6世により、破門される。
1501年4月26日
ファエンツァ、降伏(1501年4月25日)。夜、チェーザレ・ボルジアと会見。
自ら進んでチェーザレ・ボルジアの軍将としてその指揮下に入る。
1501年6月
チェーザレ・ボルジアに従い、ローマ到着。
1501年
チェーザレ・ボルジアにより、ローマのサンタンジェロ城に投獄される。
1502年6月2日
暗殺される。
1502年6月9日(木)
テヴェレ川で絞殺死体が発見される。15歳くらいと25歳くらいの若者が腕で縛られ、1人の女性とその他の人々の死体も発見される。
別表記
シニョーレ・アストッルレ・ディ・ファエンツァ、アストッレ・マンフレーディ、アストール・マンフレディ、アストーレ3世、Astorgio III Manfredi
外部リンク
De Re Militari
Historia Faentina
Treccani
Wikipedia
参考文献
『イタリア史』
『君主論』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
マンフレド・マンフレディ Manfredo Manfredi
- 生没
- 14??年~15??年
概要
マンフレド・マンフレディは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、フェッラーラ大使。
年表
1492年8月22日
フィレンツェにて、フェッラーラ公妃エレオノーラ・ダラゴーナ宛てに手紙を書く。ピサ大学に通うチェーザレ・ボルジアが、教皇アレクサンデル6世の命により、昨日の朝出立し、スポレートの城へ向かった。
1497年8月
手紙を書く。フアン・ボルジアを暗殺したのはバルトロメオ・ダルヴィアーノ。
1497年12月22日
手紙を書く。「教皇アレクサンデル6世がガンディア公フアン・ボルジア殺害をオルシーニ家に帰せることが増えており、息子の死に対する復讐の意向があると考えられています。」
1498年10月2日
エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。チェーザレ・ボルジアは、ルイ12世とアンヌ・ド・ブルターニュ結婚のための特免状をフランスに持参。
1501年11月22日
フィレンツェにて、フェッラーラ公エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。
1501年11月24日
フィレンツェにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。
1504年8月20日
フィレンツェにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。ユリウス2世がフィレンツェ人に、チェーザレ・ボルジアがフィレンツェに送った金、銀、そしてそれに似た高価なものを返還するよう要求。シニョーリアはこれに関係がないと拒否。
1507年1月
フランスにて、フェッラーラ公アルフォンソ1世・デステ宛てに手紙を書く。チェーザレ・ボルジアが、元家令のハイメ・デ・レクェゼンツをパンプローナからフランス王ルイ12世のもとへ送り、王に仕えることを申し出るが、耳を貸されなかった。ヴァレンティノワ公を名乗ることと、以前得ていた歳入を要求すると、断固たる拒絶を受けた。
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Cesare Borgia: duca di Romagna』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
タッデオ・マンフレディ Taddeo Manfredi
- 生没
- 1431年~1486年頃
- 父
- グイダントーニオ・マンフレディ
- 母
- ビアンキーナ・トリンチ
- 妻
- マルサビーリア・ピオ
- 子
- シジスモンド・マンフレディ
グイダッチオ・マンフレディ
タッデア・マンフレディ
ツァッフィーラ・マンフレディ
概要
タッデオ・マンフレディは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
在位
イーモラ領主 1448年~1473年
年表
1460年1月16日
ミラノ公フランチェスコ1世・スフォルツァに年3千フィオリーノで雇われる。
1460年5月6日
ティベルト・ブランドリーニの支援を得て、5日から6日にかけての夜、ファエンツァを攻撃。
1473年5月5日
トルトーナと引き換えにイーモラをガレアッツォ・マリーア・スフォルツァに売却する協定に署名。
外部リンク
Condottieri di ventura
Treccani
Wikipedia
参考文献
『メディチ家の人びと』
レータ・マンフレディ Leta Manfredi
- 父
- グイダントーニオ・マンフレディ
- 母
- ビアンキーナ・トリンチ
- 夫
- グイド・ヴィスコンティ
- 子
- アントーニオ・ヴィスコンティ
テオバルド・ヴィスコンティ
ガレアッツォ・ヴィスコンティ
概要
レータ・マンフレディは、15世紀頃のイタリアの女性。
外部リンク
レンガルダ・マンフレディ Rengarda Manfredi
- 生没
- 1???年~1457年以降
- 父
- グイダントーニオ・マンフレディ
- 夫
- カルロ・ゴンザーガ
- 子
- ウゴロット・ゴンザーガ
チェチーリア・ゴンザーガ
パオラ・ゴンザーガ
概要
レンガルダ・マンフレディは、15世紀のイタリアの女性。
年表
1445年
カルロ・ゴンザーガと結婚。
別表記
Ringarda Manfredi
オッタヴィオ・マンフレディ Ottavio Manfredi
- 父
- ガレオット・マンフレディ
別表記
Ottaviano
参考文献
カルロ2世・マンフレディ Carlo II Manfredi
- 生没
- 1439年~1484年
- 出身
- ファエンツァ
- 没地
- リーミニ
- 父
- アストッレ2世・マンフレディ
- 母
- ジョヴァンナ・ダ・バルビアーノ
- 妻
- コスタンツァ・ダ・ヴァラーノ
- 子
- オッタヴィアーノ・マンフレディ
概要
カルロ2世・マンフレディは、15世紀のイタリアの男性。
在位
ファエンツァの君主 1468年~1477年
外部リンク
ジャン・ガレアッツォ1世・マンフレディ Gian Galeazzo I Manfredi
- 生没
- 1375年頃~1417年10月16日
- 出身
- ファエンツァ
- 没地
- ファエンツァ
- 父
- アストッレ1世・マンフレディ
- 母
- レーダ・ダ・ポレンタ
- 妻
- ジェンティーレ・マラテスタ
- 子
- カルロ・マンフレディ
グイダントーニオ・マンフレディ
マルツィア・マンフレディ
アストッレ2世・マンフレディ
ジャン・ガレアッツォ2世・マンフレディ
ジネヴラ・マンフレディ
概要
ジャン・ガレアッツォ1世・マンフレディは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。
年表
1397年
ジェンティーレ・マラテスタと結婚(1396年)。
外部リンク
グイダントーニオ・マンフレディ Guidantonio Manfredi
- 生没
- 1407年~1448年6月22日
- 出身
- ファエンツァ
- 没地
- テルメ・ディ・ペトリオーロ
- 父
- ジャン・ガレアッツォ1世・マンフレディ
- 母
- ジェンティーレ・マラテスタ
- 妻
- ビアンキーナ・トリンチ
アニェーゼ・ダ・モンテフェルトロ - 子
- タッデオ・マンフレディ
レータ・マンフレディ
レンガルダ・マンフレディ
コルネーリア・マンフレディ
概要
グイダントーニオ・マンフレディは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
在位
ファエンツァの君主 1417年~1424年、1426年~1448年
年表
1407年
ファエンツァにて、生。
1425年3月末
この頃、ミラノ公フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティとの友好を断って、フィレンツェ共和国と友好関係を作る。
1441年
妻ビアンキーナ・トリンチ、死。
1442年
アニェーゼ・ダ・モンテフェルトロと結婚。
1448年6月22日
テルメ・ディ・ペトリオーロにて、死(1448年6月18日、1448年6月20日)。
外部リンク
Condottieri di ventura
Geneanet
Treccani
Wikipedia
参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
マルツィア・マンフレディ Marzia Manfredi
- 生没
- 1408年~1469年8月26日以降
- 父
- ジャン・ガレアッツォ1世・マンフレディ
- 母
- ジェンティーレ・マラテスタ
- 夫
- トンマーゾ・フレゴーソ
概要
マルツィア・マンフレディは、15世紀のイタリアの女性。
年表
1469年8月26日
遺言書を作成。
アストッレ2世・マンフレディ Astorre II Manfredi
- 生没
- 1412年12月8日~1468年3月12日
- 出身
- ファエンツァ
- 父
- ジャン・ガレアッツォ1世・マンフレディ
- 母
- ジェンティーレ・マラテスタ
- 妻
- ジョヴァンナ・ダ・バルビアーノ
- 子
- カルロ2世・マンフレディ
ガレオット・マンフレディ
フェデリーコ・マンフレディ
エリザベッタ・マンフレディ
ランチッロット・マンフレディ
バルバーラ・マンフレディ
概要
アストッレ2世・マンフレディは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
在位
イーモラ領主 1439年~1448年
ファエンツァ領主 1448年~1468年
年表
1417年~1448年
ファエンツァを兄弟と共同支配。
1448年~1468年
ファエンツァを単独支配。
1449年
ジョヴァンニ・ダ・オリオーロに描かせた娘エリザベッタ・マンフレディとバルバーラ・マンフレディの肖像画を受け取る。
1458年8月9日
ルカ・ピッティ、アストッレ2世・マンフレディにその騎兵、歩兵を率いて市内を固めさせる。
関連項目
別表記
Astorgio II Manfredi
外部リンク
Condottieri di ventura
Treccani
Wikipedia
参考文献
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ・マンフレディ Giovanni Evangelista Manfredi
- 生没
- 1482年~1502年
- 没地
- ローマ
- 父
- ガレオット・マンフレディ
- 母
- カッサンドラ・パヴォーニ
概要
ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ・マンフレディは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。父ガレオット・マンフレディの死後、ファエンツァのドメニコ修道士になる。
年表
1500年11月13日
城主ニッコロ・カスタニーニに向けられた降伏が記された紙をつけた矢が発見され、ファエンツァのアンツィアーニはニッコロ・カスタニーニを逮捕、財産を没収。評議会議員4人とジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ・マンフレディを要塞に配置。
1501年6月
チェーザレ・ボルジアに従い、ローマ到着。
1501年
チェーザレ・ボルジアにより、ローマのサンタンジェロ城に投獄される。
別表記
Gianevangelista
参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『The Life of Cesare Borgia』
ツァッフィーラ・マンフレディ Zaffira Manfredi
- 生没
- 14??~1473年
- 父
- タッデオ・マンフレディ
- 母
- マルサビーリア・ピオ
- 夫
- ピーノ3世・オルデラッフィ
概要
ツァッフィーラ・マンフレディは、15世紀のイタリアの女性。
バルバーラ・マンフレディ Barbara Manfredi
- 生没
- 1444年4月3日~1466年10月7日
- 出身
- ファエンツァ
- 没地
- フォルリンポーポリ
- 父
- アストッレ2世・マンフレディ
- 母
- ジョヴァンナ・ダ・バルビアーノ
- 夫
- ピーノ3世・オルデラッフィ
概要
バルバーラ・マンフレディは、15世紀のイタリアの女性。
年表
1451年3月2日
ピーノ3世・オルデラッフィとの結婚が決められる。
1456年1月25日
姉エリザベッタ・マンフレディがフランチェスコ4世・オルデラッフィと結婚した日、ピーノ3世・オルデラッフィとの結婚が確約される。
1462年5月16日
ピーノ3世・オルデラッフィと結婚。
1463年1月
体調が優れない夫ピーノ3世・オルデラッフィと共にファエンツァへ行く。
1466年
1466年10月7日
フォルリンポーポリにて、盲腸炎の悪化よって死。
1466年
サン・ビアージオ教会に埋葬される。
1953年
遺体が発掘されて臨床調査にかけられ、毒物の痕跡はなく盲腸炎が死因であることが判明。
墓
外部リンク
エリザベッタ・マンフレディ Elisabetta Manfredi
- 生没
- 1???年~1469年6月
- 没地
- ファエンツァ
- 父
- アストッレ2世・マンフレディ
- 母
- ジョヴァンナ・ダ・バルビアーノ
- 夫
- フランチェスコ4世・オルデラッフィ
- 子
- チア・オルデラッフィ
アントーニオ・マリーア・オルデラッフィ
フランチェスコ・オルデラッフィ
ジューリア・オルデラッフィ
ジョヴァンナ・オルデラッフィ
カテリーナ・オルデラッフィ
概要
エリザベッタ・マンフレディは、15世紀のイタリアの女性。
年表
1456年1月25日
ファエンツァにて、フランチェスコ4世・オルデラッフィと結婚が祝われる。
1457年2月
フォルリへ嫁ぐ。
1459年
チア・オルデラッフィを出産。
1460年5月3日
1461年
フランチェスコ・オルデラッフィを出産。
1462年
ジューリア・オルデラッフィを出産。
14??年
ジョヴァンナ・オルデラッフィを出産。
14??年
カテリーナ・オルデラッフィを出産。
1466年
義弟ピーノ3世・オルデラッフィにより、夫フランチェスコ4世・オルデラッフィ、子アントーニオ・マリーア・オルデラッフィと共に監禁される。
1466年4月22日
1469年4月
子供たちと共に、ファエンツァへ行く。
1469年6月
ファエンツァにて、死。
外部リンク
ガレオット・マンフレディ Galeotto Manfredi
- 生没
- 1440年~1488年5月31日
- 父
- アストッレ2世・マンフレディ
- 母
- ジョヴァンナ・ダ・バルビアーノ
- 妻
- フランチェスカ・ベンティヴォーリオ
- 女
- カッサンドラ・パヴォーニ
- 子
- スキピオーネ・マンフレディ
ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ・マンフレディ
オッタヴィオ・マンフレディ
フランチェスコ・マンフレディ
アストッレ3世・マンフレディ
概要
ガレオット・マンフレディは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
在位
ファエンツァの君主 1477年~1488年5月31日
年表
1440年
生。
1451年
妹バルバーラ・マンフレディとピーノ3世・オルデラッフィの結婚祝賀に参列。
1452年
兄カルロ2世・マンフレディと共に父アストッレ2世・マンフレディについてボローニャに赴き、そこでフリードリヒ3世に謁見し、騎士に叙爵される。
1462年~1463年
ロマーニャにおける対ドメニコ・マラテスタ軍事行動に父アストッレ2世・マンフレディと共に参加。
1467年
父アストッレ2世・マンフレディの代理として、ヴェネツィア共和国軍最高指揮官バルトロメオ・コッレオーニと契約を結ぶ。
1468年3月12日
父アストッレ2世・マンフレディ、死。ガレオット・マンフレディは年4千リラを受け取る権利を得る。
1468年~1469年
ヴェネツィア共和国に仕える。
1476年
義弟ピーノ3世・オルデラッフィの助けにより、まずラヴェンナに、次にフェッラーラに、最後にフォルリに避難。
1477年10月18日
ロレンツォ・イル・マニーフィコの支援を受けて、ファエンツァ領に侵入し、グラナローロを占領。
1477年11月16日
ファエンツァ入城。
兄カルロ2世・マンフレディと特に弟フェデリーコ・マンフレディに対する暴動発生。
1477年11月17日
ファエンツァ領主として迎えられる。
1477年12月7日~1477年12月8日
兄カルロ2世・マンフレディが要塞明け渡しを飲み、ガレオット・マンフレディがファエンツァ領主に就任。
1480年
ミラノ公国、フィレンツェ共和国、ナポリ王国が締結した同盟と、1万8千ドゥカートで契約。。
1481年7月1日
カファッジョーロのメディチ家別荘にてロレンツォ・イル・マニーフィコと会い、彼を代理人としてジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオの娘との結婚と持参金の交渉を任せる。
1481年7月9日
フランチェスカ・ベンティヴォーリオとの結婚を公式に発表。
1481年7月11日
フランチェスカ・ベンティヴォーリオとの結婚誓約書に署名。持参金は総額1万ドゥカート。
1485年5月5日
ロレンツォ(ロレンツォ・イル・マニーフィコ?)から手紙。ジローラモ・リアリオ暗殺計画が発覚したアントーニオ・マリーア・オルデラッフィを排除するよう促される。
1485年6月7日
フィレンツェ共和国特別諮問八人会議から手紙。ジローラモ・リアリオとの和議を勧められる。
1487年3月12日~1487年3月13日
夜、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオにファエンツァが襲撃され、妻フランチェスカ・ベンティヴォーリオと息子アストッレ3世・マンフレディをボローニャへ連れ去られる。
1487年9月
ロレンツォ・イル・マニーフィコの助力により、妻フランチェスカ・ベンティヴォーリオと息子アストッレ3世・マンフレディがファエンツァに戻る。
1488年4月
オルシの陰謀において、ロマーニャの君主の中でただ1人アントーニオ・マリーア・オルデラッフィを支持し、ヴェネツィア共和国に傾く。
1488年4月20日
ファエンツァにて、ロレンツォ・イル・マニーフィコ宛てに手紙をしたためる。フォルリの民意について、教皇代理を恐れ、教会よりオルデラッフィを望んでいると伝える。
1488年5月31日
妻フランチェスカ・ベンティヴォーリオの主導により謀殺される。
外部リンク
Condottieri di ventura
Google Books - Caterina Sforza Volume III
Treccani
Wikipedia
参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『The Life of Cesare Borgia』
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2024年7月19日