Filippo Maria Visconti

フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ

生没:1392年9月23日~1447年8月13日
在位:第3代ミラノ公 1412年~1447年
    先代:ジョヴァンニ・マリーア・ヴィスコンティ
    次代:フランチェスコ1世・スフォルツァ
   パヴィア伯 1412年~1447年
    先代:ジョヴァンニ・マリーア・ヴィスコンティ
    次代:フランチェスコ1世・スフォルツァ
父:ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ
母:カテリーナ・ヴィスコンティ
妻:ベアトリーチェ・バルボ・ラスカリス
  マリーア・ディ・サヴォイア
女:アニェーゼ・デル・マイーノ
子:ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ
  アントーニア・ディ・フィリッポ・ヴィスコンティ

概要

 フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティは、14世紀~15世紀のイタリアの男性、ミラノ公。

年表

1392年9月23日
生。
1422年
この年以降しきりにロマーニャ進攻を繰り返してこの地方及びトスカーナ、ヴェネト両地方での領国拡大を試み、阻止しようとするフィレンツェ軍をことごとく破る。
1424年
イーモラを占領し、イーモラ領主ルドヴィーコ・アリドージを捕らえる。イーモラミラノ公国領になる。
1425年2月1日
新たにロマーニャ地方に着いた傭兵隊長オッド・ディ・アンドレア・フォルテブラッチ及びニッコロ・ピッチニーノの率いるフィレンツェ軍をVal di Lamoneで大破。ニッコロ・ピッチニーノを捕虜とする。
1425年2月23日
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの傭兵隊長で女婿、ミラノ軍最高指揮官フランチェスコ・ブッソーネが、妻子を置いてミラノを離れ、この日ヴェネツィアに着く。以後ヴェネツィアで反ミラノ、反ヴィスコンティ感情の醸成に力を尽くす。
1425年3月末
この頃、友好関係にあったファエンツァの君主グイダントーニオ・マンフレディが離れてフィレンツェ共和国側に引き入れられたのを初め、フィリッポ・マリーアによる支配以前のジェノヴァのドージェだったトンマーゾ・フレゴーソ及びアラゴン王アルフォンソ5世・デ・アラゴンがフィレンツェ共和国と友好関係を作り、それぞれに反ヴィスコンティの態勢を取る。
1425年4月24日
アルフォンソ5世・デ・アラゴン軍の水軍、ジェノヴァの前ドージェ、トンマーゾ・フレゴーソ派がフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティに決起することを期待してジェノヴァ攻撃を試みるが、市内に期待した働き起こらず、失敗に終わる。
1425年10月
傭兵隊長グイド1世・トレッリ指揮のヴィスコンティ軍が、トスカーナに進撃。
1425年10月9日
グイド1世・トレッリ指揮の軍が、アンギアリでフィレンツェ軍を撃破。
1425年10月17日
グイド1世・トレッリ指揮の軍が、Faggiuolaでフィレンツェ軍を撃破。
1425年11月
ロマーニャ及びトスカーナ攻略の試みを続けるフィリッポ・マリーアについて、フィレンツェ共和国はヴェネツィア共和国に使節を送り、彼はイタリア人の王になろうとしているとその企図の危険性を説き、フィレンツェが敗北すればヴェネツィアも危機に陥ると強調し、反ミラノ行動に共に立つよう促す。
1425年12月3日
ヴェネツィア共和国とフィレンツェ共和国は、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの領国拡大の試みを阻止すべく同盟を結び、戦費の共同分担などについて約定。翌1426年1月27日公表。海上貿易とそのための制海権の保持など内政に集中してきたヴェネツィア共和国は、ミラノ・ヴィスコンティ家の勢力拡大を前に、イタリア半島の政治情況への積極的関与・領土拡大を策し始める(~1509年)。
1425年
この年、農民・傭兵隊長ムッツォ・アッテンドロ・スフォルツァ(1369年~1424年)の庶子・傭兵隊長フランチェスコ1世・スフォルツァ(1401年~1466年:ミラノ公在位1450年~1466年)、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティと傭兵契約を結び、その旗下に入る。
1426年3月17日
ロンバルディア地方でヴェネツィア軍との戦闘激化し、この日、フランチェスコ・ブッソーネ指揮のヴェネツィア軍にブレッシャを制圧される。続いてクレモーナ領でも敗れる。
1426年春
ニッコロ・ピッチニーノが自軍を率いてフィレンツェ共和国を離れ、間もなく傭兵契約を結んで旗下に入る。
1426年5月
ヴィスコンティ軍のブレッシャ突入を阻止すべく、フィレンツェ共和国が大軍を送ってヴェネツィア軍を支援。
1426年12月30日
ヴェネツィア・フィレンツェ同盟陣営との和平成立。
1426年?月?日
イーモラが教皇領になる。
1427年1月2日
ヴェネツィア・フィレンツェ同盟陣営との和平公表。しかし、これによってブレッシャの全領地をヴェネツィアに、ピエモンテにおける征服地をサヴォイア公アメーデオ8世・ディ・サヴォイアに返還することなどを約定させられた不満を隠さず、ブレッシャ領から撤兵せず戦闘態勢を取り続ける。
1427年3月半ば
この頃?、前年の和平に不満を募らせ戦闘態勢をますます固める。それに対して警戒を強めてきたヴェネツィア・フィレンツェ同盟陣営の軍と、ロンバルディアで戦闘再開。ロンバルディア各地の君主を敵とし、苦戦を強いられる。
1427年10月12日
フランチェスコ1世・スフォルツァニッコロ・ピッチニーノら歴戦の傭兵隊長に率いられて統制が取れないことも手伝い、フランチェスコ・ブッソーネ総指揮のヴェネツィア軍に、ブレッシャ領内Maclodioで惨敗。
1427年12月2日
アメーデオ8世・ディ・サヴォイアVercelliを譲り、彼の娘マリーア・ディ・サヴォイアと結婚し、かつその子にミラノを継承させることをトリノで約定し、アメーデオ8世・ディ・サヴォイアをヴェネツィア・フィレンツェ同盟陣営から引き離す。
1428年4月18/19日
苦戦を強いられている彼と、戦費の負担にあえぐヴェネツィア・フィレンツェ同盟陣営は、フェッラーラ候ニッコロ3世・デステと教皇マルティヌス5世の使節・枢機卿Niccolò Albergatiの仲介により、フェッラーラで和を結ぶ。(1)ベルガモ、ブレッシャなどを譲り、(2)トスカーナで奪った城塞をフィレンツェに返して以後トスカーナに介入せず、(3)前自軍総指揮官・現ヴェネツィア軍総指揮官フランチェスコ・ブッソーネの家族と全財産を彼に返す、など全面的に譲歩。
1428年10月29日
17歳のマリーア・ディ・サヴォイアと、トリノでの約定により結婚。
1430年春
1430年2月18日以降ルッカ近郊に陣を敷いていたフィレンツェ軍、ルッカを包囲。ルッカの君主パオロ・グイニジフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ及びシエナに支援を求める。
1430年5月~1430年6月
ルッカの君主パオロ・グイニジから支援を求められたものの約定によりトスカーナに直接の介入はできないため、フランチェスコ1世・スフォルツァに、ヴィスコンティとの傭兵契約が切れたためナポリ領内の自領に帰るとの口実の下で軍を率いてトスカーナに入り、ルッカを救援するよう指示。
1430年8月14日
ルッカの反グイニジ派が、フランチェスコ1世・スフォルツァと結んでパオロ・グイニジを捕縛。その子共々送られてくる。(1430年8月15日)
1430年10月
パオロ・グイニジの専制支配から解放されたルッカは、使節をフィレンツェに送り、暴君パオロ・グイニジが排除されたルッカ領から撤兵し和を結ぶよう要請。しかし支配領の拡大、強化を目指すフィレンツェは、ルッカが再び暴君に支配されてフィレンツェに損害をもたらすことがないと確認できない限り和を結べないとして、撤兵を拒否したのみならず増兵してルッカ包囲を強める。
ルッカから急ぎ支援を要請され、ニッコロ・ピッチニーノ指揮の大軍を、自身からの援軍ではなくルッカと同盟関係にあるジェノヴァからの援軍であるとの口実を装い、急ぎ送る。
1430年12月2/3日
ルッカの領内に入ったニッコロ・ピッチニーノ指揮のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍、ルッカ市内と呼応してフィレンツェ軍を攻撃し、容易に大破。
1431年4月下旬
この頃、ロンバルディアとトスカーナでヴェネツィア・フィレンツェ同盟軍との戦闘を再開。以後、各地で激戦を続ける(~1433年)。
この中でシエナ、ルッカ、ピサ、ピオンビーノなどトスカーナの各都市(国家)、フィレンツェに敵対の姿勢をとる。
1431年5月22日~1431年5月23日
クレモーナ近郊のポー川で、フランチェスコ1世・スフォルツァニッコロ・ピッチニーノら指揮の軍が、ヴェネツィア軍と大激戦し、大勝する。
ヴェネツィア軍総指揮官フランチェスコ・ブッソーネは近くに陣を敷いていながらこの戦闘に駆けつけず、ヴェネツィアで、フランチェスコ・ブッソーネフランチェスコ1世・スフォルツァと通謀しているのではないかとの疑念と不信広まる。
1432年2月23日
フランチェスコ1世・スフォルツァを自軍に固く留めておくべく、この日?自分の7歳の庶出の一人娘ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティと31歳のフランチェスコ1世・スフォルツァの婚約を渋々認める。
1432年7月11日
ジギスムント・フォン・ルクセンブルクが、ヴィスコンティ軍・シエナ軍に守られてシエナに入る。
ロンバルディアで戦闘激化し、Valtellinaでヴェネツィア軍に大勝。両陣営に和平の気運、生ずる。
1433年4月26日
ヴェネツィア・フィレンツェ同盟の属しながらもこの間の一連の戦闘で中立を保ち、当事者双方から信を得ていたニッコロ3世・デステの仲介により、フェッラーラで会議を続けていたヴェネツィア、フィレンツェ及びフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの使節たち、この日、相互に占領地を返還することで和約。間もなくフィレンツェ内部でこの和への不満高まる。
1433年11月
エウゲニウス4世の自分への対応に不満を強め、フランチェスコ1世・スフォルツァに、ナポリ領内の自身の領地の防衛という名目で出陣しロマーニャの教会領を攻撃するよう指示すると共に、前教皇軍傭兵隊長でエウゲニウス4世から離反したニッコロ・フォルテブラッチョに、ローマ近郊の攻撃を指示。
フランチェスコ1世・スフォルツァは軍と共にマルケに入って各地を占領し、アンコーナを制圧。ニッコロ・フォルテブラッチョローマ周辺を攻略。
1434年6月前半
ボローニャでまた教会支配に対する反乱発生。これを助長したくニッコロ・ピッチニーノ指揮の軍を送るが、逆にこれを抑えて教会支配を持続させたいヴェネツィア・フィレンツェ同盟も軍をボローニャ周辺に送る。両軍、それぞれ各地を占領しながら、対決の様相を深める。
1434年8月28日
ニッコロ・ピッチニーノ指揮の軍が、ヴェネツィア・フィレンツェ同盟軍とイーモラ近郊で大激戦し、大勝する。
1434年10月2日
バーリアは、リナルド・デリ・アルビッツィをナポリ領トラーニに、その子オルマンノ・デリ・アルビッツィをガエータにそれぞれ8年間追放することを決める。加えて以後、翌1435年にかけてアルビッツィ一族と同派の有力者たち総計100名近くの追放を決める。
但し、アルビッツィ父子は間もなく禁を破って追放地からミラノに行き、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティにフィレンツェ復帰への支援を求めると共にメディチ勢力下のフィレンツェへの戦闘を勧奨。
1437年頭
依然としてニッコロ・ピッチニーノ指揮のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍がルッカ領に留まっている事態に対処すべく、フィレンツェは新十人委員会を編成。
1435年5月
ヴェネツィアとフィレンツェ、同盟を10年更新。
ヴェネツィア・フィレンツェ同盟のフランチェスコ1世・スフォルツァ軍とフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティニッコロ・フォルテブラッチョ軍、教会領で対決。スフォルツァ軍が完勝し、アッシジなどを制圧。ニッコロ・フォルテブラッチョは重傷を負い、間もなく死。
1435年8月5日
ガエータを包囲していたアルフォンソ5世・デ・アラゴン軍、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの指示と仲介でガエータ支援に来ていた(1435年7月下旬)ジェノヴァ軍によりポンツァ島で大破され、アルフォンソ5世・デ・アラゴン自身も捕虜となる。
アルフォンソ5世・デ・アラゴンフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティのもとに送られる。
1435年8月10日
ヴェネツィア・フィレンツェ同盟陣営とフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティは、再びニッコロ3世・デステの仲介により和約。これによりエウゲニウス4世はイーモラとボローニャを確保。
1435年10月8日
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ、捕虜アルフォンソ5世・デ・アラゴンからイタリアにおけるフランスの勢力増大の危険性、ミラノ及びジェノヴァ攻略の可能性を説かれて納得し、秘密の協定を結んでアルフォンソ5世・デ・アラゴンを釈放。
1435年12月13日
ジェノヴァ、アルフォンソ5世・デ・アラゴンの作戦にしたがって共に戦うよう指令してきたフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティに対し、かねて鬱積していた憤懣を爆発させ、反乱。その代官たちを追放して1421年11月以来の軛から免れ、共和政を復活。
1436年5月
前年12月フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの支配を脱したジェノヴァは、ヴェネツィア・フィレンツェ同盟に加わる。
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティはジェノヴァ奪還を策し続け、リナルド・デリ・アルビッツィ、オルマンノ・デリ・アルビッツィ父子はジェノヴァ問題を契機に対フィレンツェ戦争を展開するようフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティに進言。
1436年10月3日
この日頃、ニッコロ・ピッチニーノ指揮のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍、トスカーナに進撃し、ルッカ領に入る。
1437年2月
フランチェスコ1世・スフォルツァ指揮のフィレンツェ軍、ニッコロ・ピッチニーノ指揮のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍をルッカ領内Bargaで破る。
1437年9月20日
ニッコロ・ピッチニーノ指揮のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍、ロンバルディアでまたヴェネツィア軍を大破。
打ち続く敗戦でヴェネツィアの各層に総指揮官ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガの忠誠を疑う声、高まり、Senato(元老院)でその解任を求める声が出、フィレンツェフランチェスコ1世・スフォルツァの移籍を求める。
1438年4月28日
フィレンツェフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティフランチェスコ1世・スフォルツァの仲介により、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティルッカ領に小軍を留めるがそこで奪った城塞はフィレンツェに返還し、以後トスカーナには介入しないことなどで合意。ルッカもしぶしぶこれを認める。
1438年5月21日
1438年3月24日フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティミラノから送ったニッコロ・ピッチニーノ指揮の軍、この日ボローニャを襲撃し制圧。これを機に間もなくフォルリイーモラも教会支配に反乱。
1438年7月3日
ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ、契約期間満了と共にヴェネツィア軍総指揮官を辞任(在位1532年~)。間もなくフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティと傭兵契約を結んでその配下に入り、ヴェネツィアを攻撃。
ヴェネツィアは後任の軍総指揮官に、1437年以降フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍との戦闘で成果を挙げていた傭兵隊長ガッタメラータ(1370年~1443年)をあてる(在位~1443年)。
1439年2月18日
ヴェネツィアフィレンツェロンバルディア各地で攻勢を強めるフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティに対抗するためヴェネツィアの発案により、(1)戦費の3分の2をヴェネツィア、3分の1をフィレンツェが負担し、(2)フランチェスコ1世・スフォルツァを両者の総指揮官として雇用し、(3)彼の領国を両者で確保することを改めて盟約。10日後、エウゲニウス4世ニッコロ3世・デステジェノヴァもこれに加盟。以後も各地で両陣営軍の間で激戦、続く。
1440年3月4日
1440年2月フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティが派遣したニッコロ・ピッチニーノ指揮の軍が、ボローニャに到着。間もなくトスカーナに入る。
この軍の接近の報にフィレンツェは、急ぎ軍を整えると共にヴェネツィアにはフランチェスコ1世・スフォルツァのフィレンツェ軍への復帰を、エウゲニウス4世には支援を求める。前者には無視され、後者には受託される。
1440年6月29日
トスカーナの東端サン・セポルクロ周辺を占領していたニッコロ・ピッチニーノ指揮のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍、アンギアリに集結していたフィレンツェ軍を攻撃し、4時間の戦闘の後敗れる(アンギアリの戦)。
1440年6月末
この頃、ロンバルディアとナポリで戦闘激化。前者ではフランチェスコ1世・スフォルツァ指揮のヴェネツィア軍がフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍を破ってブレッシャを制圧し、後者ではルネ・ダンジューアルフォンソ5世・デ・アラゴン軍の戦いが続き、アルフォンソ5世・デ・アラゴンフランチェスコ1世・スフォルツァの勢力失墜を願うフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティと結んでナポリ王国内部のフランチェスコ1世・スフォルツァの所領を占領すると共にナポリ市内を包囲。ルネ・ダンジューは急ぎエウゲニウス4世に支援を求める。
1441年8月1日
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの依頼を受けたニッコロ3世・デステの仲介により、1432年の約定通り娘ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティフランチェスコ1世・スフォルツァに与えると共に、婚資としてクレモーナを与えることで合意。
1442年1月
フランチェスコ1世・スフォルツァアルフォンソ5世・デ・アラゴンに占領された自領を奪還し、さらにナポリを制圧すべくフィレンツェとヴェネツィアから資金を得て進軍態勢を整える。
この進軍を止めたいアルフォンソ5世・デ・アラゴンと、フランチェスコ1世・スフォルツァの勢力のこれ以上の増大を止めたいフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティは、エウゲニウス4世フランチェスコ1世・スフォルツァからマルケを奪うよう働きかけ、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティニッコロ・ピッチニーノ指揮の軍を提供。
1442年11月30日
この日?、アルフォンソ5世・デ・アラゴンフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ及びニッコロ・ピッチニーノ、反フランチェスコ1世・スフォルツァ・ヴェネツィア・フィレンツェの同盟を締結。
1443年6月上旬
ニッコロ・ピッチニーノによりパルマに拘禁されていた(1442年10月~)が1443年6月5日に脱出してボローニャに入ったアンニーバレ1世・ベンティヴォーリオ(1413年~1445年)らによるフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ支配に対する反乱が生じ、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍を追放。
1443年6月14日
フランチェスコ1世・スフォルツァからマルケを奪還するためにアルフォンソ5世・デ・アラゴンを利用したいエウゲニウス4世と、フランチェスコ1世・スフォルツァ追討に加えてエウゲニウス4世からのナポリの正式封与を実現したいアルフォンソ5世・デ・アラゴンアルフォンソ5世・デ・アラゴンエウゲニウス4世を正統な教皇と認め、エウゲニウス4世アルフォンソ5世・デ・アラゴンを正統なナポリ王と認めること、などを協定。
間もなくフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティは、エウゲニウス4世にマルケ攻撃のための援軍を送る。
1443年7月12日
アンニーバレ1世・ベンティヴォーリオを中心とするボローニャ政庁、ヴェネツィア・フィレンツェ同盟陣営と反フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの軍事同盟を結ぶ。
1443年8月14日
この日頃までにボローニャは、ルイジ・ダル・ヴェルメ指揮のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍を破るなどしてフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの支配を脱し、アンニーバレ1世・ベンティヴォーリオを君主として自由を獲得。
1443年9月8日
マルケにおけるフランチェスコ1世・スフォルツァ軍のあまりの劣勢を見、フランチェスコ1世・スフォルツァがマルケ全領土を失うことは自身にとっても危険だと判断したフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ、この日頃ヴェネツィアに使者を送り、ヴェネツィア及びフィレンツェと共にフランチェスコ1世・スフォルツァを支援することを提案。
他方でこの頃フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティアルフォンソ5世・デ・アラゴンにも使者を送り、フランチェスコ1世・スフォルツァ攻撃の中止を提案。
1443年10月18日
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティヴェネツィア及びフィレンツェヴェネツィアフランチェスコ1世・スフォルツァ支援の協定を締結。間もなくこれにリーミニ、ファーノ、セニガッリアの君主でフランチェスコ1世・スフォルツァの女婿、傭兵隊長シギスモンド・マラテスタ(1417年~1468年:リーミニの君主在位1429年~1468年:ファーノ・セニガッリアの君主1429年~1463年)も加わる。
1444年8月半ば
エウゲニウス4世自身とアルフォンソ5世・デ・アラゴンから兵と資金を得て増強されながらも指揮官ニッコロ・ピッチニーノフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティによりミラノに呼び戻されたため、その子フランチェスコ・ピッチニーノ(?~1449年)が指揮を執る教会軍、モントルモでフランチェスコ1世・スフォルツァ軍の攻撃を受け、完敗。
フランチェスコ1世・スフォルツァ軍の反撃、続く。
1445年8月10日
アスコリがフランチェスコ1世・スフォルツァの支配に反乱を起こし、教会の支配を受容。
エウゲニウス4世アルフォンソ5世・デ・アラゴンはマルケ奪還、制圧の好機と見て大軍をマルケに送り始め、これに呼応してフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティも軍を送ってフランチェスコ1世・スフォルツァを挟撃する態勢をとる。
1446年9月28/29日
ミケーレ・アッテンドロ指揮のヴェネツィア軍、クレモーナ近郊カザルマッジョーレでフランチェスコ・ピッチニーノ指揮のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍を大破。
1446年11月6日
クレモーナ周辺からフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍を掃討したヴェネツィア軍、ソンチーノとカラヴァッジョを押さえた後アッダ河を渡り、迎撃してきたフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍を再び大破し、ミラノ城門近くに迫るが程なく撤退。
しかしマルケでのフランチェスコ1世・スフォルツァの劣勢、なお顕著となる。
1447年1月
1446年秋以降、窮地に立たされたフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティフランチェスコ1世・スフォルツァに支援を懇請し、フランチェスコ1世・スフォルツァも支援の条件についての協議に応ずる姿勢を示す。
1447年3月4日
フランチェスコ1世・スフォルツァフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティへの接近の動きに不信を募らせ、両者が結んだ場合はフランチェスコ1世・スフォルツァからクレモーナを奪うことでフィレンツェと合意していたヴェネツィア、この日、クレモーナにミケーレ・アッテンドロ指揮の軍を送る。
1447年3月6日
枢機卿トンマーゾ・パレントゥチェリ(1397年~1455年:在位1446年~1447年)、教皇に即位し、ニコラウス5世を名乗る(在位1447年~1455年)。
ニコラウス5世、直ちに、ヴェネツィア、フィレンツェフランチェスコ1世・スフォルツァフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティアルフォンソ5世・デ・アラゴンらに和平を提唱。
1447年3月
1445年来のマルケでの劣勢、窮地に支援を与えようとしないヴェネツィアに不満を強めていたフランチェスコ1世・スフォルツァ、1447年のヴェネツィアの動きに不信を募らせ、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティと、(1)ヴェネツィアと同額の傭兵契約金を支払うこと、(2)ミラノの軍総司令官の称号を与えること、を認めさせてヴェネツィア・フィレンツェ同盟陣営を離れ、明確にフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの側に立つ。
間もなく、自分の支配への反乱の止まないマルケ全土をニコラウス5世に返還。
1447年8月9日
フランチェスコ1世・スフォルツァペーザロを発ちフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ支援のためミラノに向かう。
1447年8月13日
1447年8月7日に病に倒れたフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ、後継子を残さず死(1392年~1447年:在位1412年~1447年)。ヴィスコンティ家直系断絶。

チェーザレ・ボルジア数

 きょうだいヴァレンティーナ・ディ・ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ→子シャルル1世・ド・ヴァロワ→子ルイ12世→子ルネ・ド・フランス→夫エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア
 母カテリーナ・ヴィスコンティ→きょうだいルドヴィーコ・ヴィスコンティ→妻ヴィオランテ・ヴィスコンティ→きょうだいジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ→子ヴァレンティーナ・ディ・ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ→子シャルル1世・ド・ヴァロワ→子ルイ12世→子ルネ・ド・フランス→夫エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

別表記

 フィリッポ・マリア・ヴィスコンティ

外部リンク

 世界帝王事典
 Famille de Carné
 Genealogy.EU
 Google Books
 kleio.org
 RootsWeb.com
 Treccani
 Treccani
 Treccani.it
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『世界の歴史12 ルネッサンス』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『マキアヴェリ』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『メディチ家』
 『傭兵の二千年史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネッサンス夜話』
 『ルネサンスの女たち』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

記載日

 2006年10月12日以前