- 生没
- 1392年9月23日~1447年8月13日
- 父
- ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ
- 母
- カテリーナ・ヴィスコンティ
- 妻
- ベアトリーチェ・バルボ・ラスカリス
マリーア・ディ・サヴォイア
- 女
- アニェーゼ・デル・マイーノ
- 子
- ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ
概要
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティは、14世紀~15世紀のイタリアの男性、ミラノ公。
在位
第3代ミラノ公 1412年~1447年
先代:ジョヴァンニ・マリーア・ヴィスコンティ
次代:フランチェスコ1世・スフォルツァ
パヴィア伯 1412年~1447年
先代:ジョヴァンニ・マリーア・ヴィスコンティ
次代:フランチェスコ1世・スフォルツァ
年表
1392年9月23日
生。
1422年
この年以降しきりにロマーニャ進攻を繰り返してこの地方及びトスカーナ、
ヴェネト両地方での領国拡大を試み、阻止しようとするフィレンツェ軍をことごとく破る。
1424年
1425年2月1日
1425年2月23日
1425年3月末
1425年4月24日
1425年10月
1425年10月9日
1425年10月17日
1425年11月
ロマーニャ及びトスカーナ攻略の試みを続けるフィリッポ・マリーアについて、フィレンツェ共和国はヴェネツィア共和国に使節を送り、彼はイタリア人の王になろうとしているとその企図の危険性を説き、フィレンツェが敗北すればヴェネツィアも危機に陥ると強調し、反ミラノ行動に共に立つよう促す。
1425年12月3日
ヴェネツィア共和国とフィレンツェ共和国は、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの領国拡大の試みを阻止すべく同盟を結び、戦費の共同分担などについて約定。翌1426年1月27日公表。海上貿易とそのための制海権の保持など内政に集中してきたヴェネツィア共和国は、ミラノ・ヴィスコンティ家の勢力拡大を前に、イタリア半島の政治情況への積極的関与・領土拡大を策し始める(~1509年)。
1425年
1426年3月17日
ロンバルディア地方でヴェネツィア軍との戦闘激化し、この日、
フランチェスコ・ブッソーネ指揮のヴェネツィア軍にブレッシャを制圧される。続いてクレモーナ領でも敗れる。
1426年春
1426年5月
ヴィスコンティ軍のブレッシャ突入を阻止すべく、フィレンツェ共和国が大軍を送ってヴェネツィア軍を支援。
1426年12月30日
ヴェネツィア・フィレンツェ同盟陣営との和平成立。
1426年?月?日
1427年1月2日
ヴェネツィア・フィレンツェ同盟陣営との和平公表。しかし、これによってブレッシャの全領地をヴェネツィアに、ピエモンテにおける征服地をサヴォイア公
アメーデオ8世・ディ・サヴォイアに返還することなどを約定させられた不満を隠さず、ブレッシャ領から撤兵せず戦闘態勢を取り続ける。
1427年3月半ば
この頃?、前年の和平に不満を募らせ戦闘態勢をますます固める。それに対して警戒を強めてきたヴェネツィア・フィレンツェ同盟陣営の軍と、ロンバルディアで戦闘再開。ロンバルディア各地の君主を敵とし、苦戦を強いられる。
1427年10月12日
1427年12月2日
1428年4月18/19日
苦戦を強いられている彼と、戦費の負担にあえぐヴェネツィア・フィレンツェ同盟陣営は、フェッラーラ候
ニッコロ3世・デステと教皇
マルティヌス5世の使節・枢機卿
Niccolò Albergatiの仲介により、フェッラーラで和を結ぶ。(1)ベルガモ、ブレッシャなどを譲り、(2)トスカーナで奪った城塞をフィレンツェに返して以後トスカーナに介入せず、(3)前自軍総指揮官・現ヴェネツィア軍総指揮官
フランチェスコ・ブッソーネの家族と全財産を彼に返す、など全面的に譲歩。
1428年10月29日
1430年春
1430年5月~1430年6月
ルッカの君主
パオロ・グイニジから支援を求められたものの約定によりトスカーナに直接の介入はできないため、
フランチェスコ1世・スフォルツァに、ヴィスコンティとの傭兵契約が切れたためナポリ領内の自領に帰るとの口実の下で軍を率いてトスカーナに入り、ルッカを救援するよう指示。
1430年8月14日
1430年10月
パオロ・グイニジの専制支配から解放されたルッカは、使節をフィレンツェに送り、暴君
パオロ・グイニジが排除されたルッカ領から撤兵し和を結ぶよう要請。しかし支配領の拡大、強化を目指すフィレンツェは、ルッカが再び暴君に支配されてフィレンツェに損害をもたらすことがないと確認できない限り和を結べないとして、撤兵を拒否したのみならず増兵してルッカ包囲を強める。
ルッカから急ぎ支援を要請され、
ニッコロ・ピッチニーノ指揮の大軍を、自身からの援軍ではなくルッカと同盟関係にあるジェノヴァからの援軍であるとの口実を装い、急ぎ送る。
1430年12月2/3日
1431年4月下旬
この頃、ロンバルディアとトスカーナでヴェネツィア・フィレンツェ同盟軍との戦闘を再開。以後、各地で激戦を続ける(~1433年)。
この中でシエナ、ルッカ、ピサ、
ピオンビーノなどトスカーナの各都市(国家)、フィレンツェに敵対の姿勢をとる。
1431年5月22日~1431年5月23日
1432年2月23日
1432年7月11日
ロンバルディアで戦闘激化し、Valtellinaでヴェネツィア軍に大勝。両陣営に和平の気運、生ずる。
1433年4月26日
ヴェネツィア・フィレンツェ同盟の属しながらもこの間の一連の戦闘で中立を保ち、当事者双方から信を得ていた
ニッコロ3世・デステの仲介により、フェッラーラで会議を続けていたヴェネツィア、フィレンツェ及びフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの使節たち、この日、相互に占領地を返還することで和約。間もなくフィレンツェ内部でこの和への不満高まる。
1433年11月
1434年6月前半
ボローニャでまた教会支配に対する反乱発生。これを助長したく
ニッコロ・ピッチニーノ指揮の軍を送るが、逆にこれを抑えて教会支配を持続させたいヴェネツィア・フィレンツェ同盟も軍をボローニャ周辺に送る。両軍、それぞれ各地を占領しながら、対決の様相を深める。
1434年8月28日
1434年10月2日
バーリアは、
リナルド・デリ・アルビッツィをナポリ領トラーニに、その子オルマンノ・デリ・アルビッツィをガエータにそれぞれ8年間追放することを決める。加えて以後、翌1435年にかけてアルビッツィ一族と同派の有力者たち総計100名近くの追放を決める。
但し、アルビッツィ父子は間もなく禁を破って追放地からミラノに行き、
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティにフィレンツェ復帰への支援を求めると共にメディチ勢力下のフィレンツェへの戦闘を勧奨。
1437年頭
1435年5月
1435年8月5日
1435年8月10日
1435年10月8日
1435年12月13日
1436年5月
1436年10月3日
1437年2月
1437年9月20日
1438年4月28日
1438年5月21日
1438年7月3日
1439年2月18日
1440年3月4日
1440年6月29日
1440年6月末
1441年8月1日
1442年1月
1442年11月30日
1443年6月上旬
1443年6月14日
1443年7月12日
1443年8月14日
1443年9月8日
1443年10月18日
1444年8月半ば
1445年8月10日
1446年9月28/29日
1446年11月6日
1447年1月
1447年3月4日
1447年3月6日
1447年3月
間もなく、自分の支配への反乱の止まないマルケ全土を
ニコラウス5世に返還。
1447年8月9日
1447年8月13日
チェーザレ・ボルジア数
きょうだいヴァレンティーナ・ヴィスコンティ→子シャルル1世・ド・ヴァロワ→子ルイ12世→子ルネ・ド・フランス→夫エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア
母カテリーナ・ヴィスコンティ→きょうだいルドヴィーコ・ヴィスコンティ→妻ヴィオランテ・ヴィスコンティ→きょうだいジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ→子ヴァレンティーナ・ヴィスコンティ→子シャルル1世・ド・ヴァロワ→子ルイ12世→子ルネ・ド・フランス→夫エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア
別表記
フィリッポ・マリア・ヴィスコンティ
外部リンク
世界帝王事典
Famille de Carné
Genealogy.EU
Google Books
kleio.org
RootsWeb.com
Treccani
Treccani
Treccani.it
Treccani
Wikipedia
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『世界の歴史12 ルネッサンス』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『マキアヴェリ』
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
『メディチ家』
『傭兵の二千年史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの歴史』
『ルネッサンス夜話』
『ルネサンスの女たち』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
記載日
2006年10月12日以前