- 生没
- 1370年頃~1443年
- 出身
- ナルニ
- 父
- パオロ・ダ・ナルニ
- 母
- メラニア・ガッテッリ
概要
エラスモ・ダ・ナルニは、14世紀から15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
渾名のガッタメラータとは、狡猾、甘言の意、あるいは母親の名前Melania Gattelliのアナグラムだとも言われる。
在位
ヴェネツィア軍総指揮官 1438年~1443年
年表
1370年頃
ナルニにて、パン製造業を営むパオロとトーディ出身のメラニア・ガッテッリの息子として生。洗礼名はステファノだったが、エラスモと名乗る。
13??年
1398年から1400年にアッシジの領主だったチェッチーノ・ブローリアに兵士として仕える。
すでに頭角を現していたらしく、領主から鎧を下賜されており、好んでよく着ていた。
1416年7月12日以降
ペルージアを征服した後のアンドレア・フォルテブラッチに仕え、騎兵隊長を任される。
盟友ブランドリーノ・コンテ・ブランドリーニを得る。
1419年6月
ヴィテルボの戦いに参戦。アンドレア・フォルテブラッチ軍がムッツォ・アッテンドロ・スフォルツァに勝利。
1419年10月
カピトーネ城を防衛していたガッタメラータとブランドリーノ・コンテ・ブランドリーニがムッツォ・アッテンドロ・スフォルツァに捕らえられ、アンドレア・フォルテブラッチが身代金を出して解放させる。
142?年
アルフォンソ5世・デ・アラゴン陣営のアンドレア・フォルテブラッチ軍はラクイラを攻囲。
ムッツォ・アッテンドロ・スフォルツァに攻撃される。
1424年1月4日
1424年
ジョヴァンナ2世・ダンジオ陣営のフランチェスコ1世・スフォルツァに攻撃される。
1424年5月25日
アンドレア・フォルテブラッチは兵力を15に分け、その内の1隊をガッタメラータは任される。隊長たちが召集され、その会議にてガッタメラータはすぐさま敵陣を攻撃し、敵戦力増加を警戒して周囲の丘から監視すべきと主張したが、アンドレア・フォルテブラッチは平地での戦闘を待つことにした。
1424年6月
ガッタメラータはニッコロ・ピッチニーノと共にオクレへ逃亡。
142?年
ニッコロ・ピッチニーノとオッド・フォルテブラッチと共に故アンドレア・フォルテブラッチ配下の残党を率い、ミラノ公国と敵対するフィレンツェ共和国と契約。
1425年2月
オッド・フォルテブラッチ、死。
1425年10月以降
ニッコロ・ピッチニーノがフィレンツェ共和国との傭兵契約を打ち切る。
ガッタメラータは直接、フィレンツェ共和国総司令官ニッコロ・フォルテブラッチョと契約。
1427年
教皇マルティヌス5世は、故アンドレア・フォルテブラッチに奪われ、今はその妻ニッコリーナ・ダ・ヴァラーノが保有している教皇領奪還のため、ブランドリーノ・コンテ・ブランドリーニを雇う。
ガッタメラータはカステッロ司教ピエトロ・ドナと共にモントーネとチッタ・ディ・カステッロへ進軍。
1428年8月2日
未明ボローニャで、教会の支配に対する貴族及びその配下の市民の武装反乱、発生。
1428年12月
チッタ・ディ・カステッロが降伏するが、ガッタメラータは教皇領の反乱鎮圧にあたっていて参加しておらず。
1429年8月30日
ロマーニャ教皇代理ドメニコ・カプラーニカ枢機卿と傭兵隊長アントーニオ・ベンティヴォーリオ、ミケーレ・アッテンドロ、ニッコロ・ダ・トレンティーノと共に、ボローニャの反乱を鎮圧。ボローニャの反乱は教会から若干の譲歩を得て収束するが、政情不安なお続く。
1430年7月
再びボローニャへ行く。
1431年4月24日
新教皇エウゲニウス4世、政情定まらないボローニャと協定を結び、改めてその支配態勢を整え始める。
1431年4月26日
ジョヴァンニ・ボスコに伴い、教皇軍総指揮官として騎兵1百50と歩兵80を率いて、ボローニャ入城。
1431年
フォルリの反乱を鎮圧。
1432年
イーモラの城主を逮捕。
1432年10月26日
ベルナルディーノ・デッラ・コルダらに襲撃されていたリーミニに干渉。
1438年7月3日
ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ、契約期間満了と共にヴェネツィア軍総指揮官を辞任。
1438年
後任のヴェネツィア軍総指揮官としてガッタメラータが雇われる。
肖像
本名
エラスモ・ダ・ナルニ、Erasmo da Narni
別表記
Erasmo da Neri
外部リンク
ウィキペディア
Condottieri di ventura
Treccani
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『マキアヴェリ』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス百科事典』
記載日
2006年10月12日以前