フランチェスコ・ピッチニーノ Francesco Piccinino
- 生没
- ?~1449年
- 父
- ニッコロ・ピッチニーノ
概要
フランチェスコ・ピッチニーノはイタリアの傭兵隊長。
年表
1444年8月半ば
エウゲニウス4世自身とアルフォンソ5世・デ・アラゴンから兵と資金を得て増強されながらも指揮官ニッコロ・ピッチニーノがフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティによりミラノに呼び戻されたため、その子フランチェスコ・ピッチニーノ(?~1449年)が指揮を執る教会軍、モントルモでフランチェスコ1世・スフォルツァ軍の攻撃を受け、完敗。
フランチェスコ1世・スフォルツァ軍の反撃、続く。
1444年10月15/16日
1446年5月初め
フランチェスコ1世・スフォルツァ、娘ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティの婚資としてフランチェスコ1世・スフォルツァに与えたクレモーナを奪うべく、フランチェスコ・ピッチニーノとルイジ・ダル・ヴェルメ指揮の軍を送る。
これを知ったヴェネツィアは、フランチェスコ1世・スフォルツァに抗議の使者を送るが無視され、ミケーレ・アッテンドロ(1390年以前~1451年)指揮の軍をクレモーナ防衛に送る。
1446年9月28/29日
1447年8月~1447年9月
ミラノ=アンブロジアーナ共和国は、ヴェネツィアに和平を提案して一蹴され、軍と共にクレモーナにあったフランチェスコ1世・スフォルツァに軍総司令官として共和国の自由の擁護に当たるよう要請。密かにミラノ制覇を狙うフランチェスコ1世・スフォルツァ、共和国への恭順の意を表し、その要請を受け入れる。
直ちにフランチェスコ1世・スフォルツァ、故フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの配下のフランチェスコ・ピッチニーノ、ヤコポ・ピッチニーノ(1423年~1465年)兄弟を味方につけ、その軍を自軍に加える。
1449年4月初め
外部リンク
Condottieri di ventura
Wikipedia
参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ヤコポ・ピッチニーノ Jacopo Piccinino
- 生没
- 1423年~1465年6月24日
- 父
- ニッコロ・ピッチニーノ
- 妻
- ドルシアーナ・スフォルツァ
概要
ヤコポ・ピッチニーノは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
性格
野心的。
年表
1447年8月~1447年9月
ミラノ=アンブロジアーナ共和国は、ヴェネツィアに和平を提案して一蹴され、軍と共にクレモーナにあったフランチェスコ1世・スフォルツァに軍総司令官として共和国の自由の擁護に当たるよう要請。密かにミラノ制覇を狙うフランチェスコ1世・スフォルツァ、共和国への恭順の意を表し、その要請を受け入れる。
直ちにフランチェスコ1世・スフォルツァ、故フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの配下のフランチェスコ・ピッチニーノ、ヤコポ・ピッチニーノ(1423年~1465年)兄弟を味方につけ、その軍を自軍に加える。
1449年4月初め
1460年7月22/27日
この日頃、フランチェスコ1世・スフォルツァの弟アレッサンドロ・スフォルツァ及びウルビーノ・モンフェッラート伯フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ(1422年~1482年:在位1444年~1474年)の指揮するフェッランテ・ダラゴーナ軍と傭兵隊長ヤコポ・ピッチニーノ指揮のジャン・ダンジュー軍、ナポリ領北部アブルッツォのジュリアノーヴァ近郊サン・ファブリアーノで激戦を交わす。勝敗の決着着かぬまま、フェッランテ・ダラゴーナ軍退却。
1463年8月10日
ジャン・ダンジュー陣営の敗退が続く中でその総指揮官ヤコポ・ピッチニーノは、アレッサンドロ・スフォルツァと交渉し、その非難と説得に従って、ジャン・ダンジューを離れ自軍と共にフェッランテ・ダラゴーナに従うことを約定。フェッランテ・ダラゴーナはヤコポ・ピッチニーノを自軍の総指揮官として受け入れながらも信用せず。
1463年9月
傭兵隊長で自軍の総指揮官ヤコポ・ピッチニーノを初め領主らも離れ始めて孤立してきたジャン・ダンジュー、イスキア島へ逃げる。
1464年8月12日
ドルシアーナ・スフォルツァと結婚。
1465年5月
ナポリに帰り、フェッランテ・ダラゴーナの大歓迎を受ける。
1465年6月24日
カステル・ヌオーヴォで扼殺される。または、カステル・デローヴォの牢獄に放り込まれ、港に飛び込んだ。
1465年6月24日
フェッランテ・ダラゴーナ軍の総指揮官に任じられ(1463年)ながらもその意図に不安と恐れを抱いて、1464年ミラノに入り、フランチェスコ1世・スフォルツァに保護を求め、その庶出の娘ドルシアーナ・スフォルツァ(1437年~1474年)を得ていた(1464年8月14日~)ヤコポ・ピッチニーノは、彼の勧めに従って1465年5月ナポリに帰りフェッランテ・ダラゴーナの大歓迎を受けていたが、この日、カステル・ヌオーヴォで扼殺される。フェッランテ・ダラゴーナとフランチェスコ1世・スフォルツァによる謀殺と広く信じられる。
別表記
ジャーコモ、ジャーコポ、ヤコポ・ピッチーニ、Iacopo Piccinino
外部リンク
参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンスの女たち』
『ルネッサンス夜話』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
ジョヴァンニ・ピッチニーノ Giovanni Piccinino
参考文献
『イタリア史』
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2020年2月22日