用語

アッコピアトーリ Accoppiatori

概要

 アッコピアトーリとは、フィレンツェ共和国の三大要職及び正義の旗手選出に当たる行政職。官職被選出資格名札の管理事務担当であり、資格審査会議を通った有資格者の名札を袋に入れることが業務。次いでくじ引きの方法で、袋から引き出された名札の者が選ばれる。
 シニョーリアの8名プリオーレは、内6名は大組合から、2名は小組合から選ばれる。一般の袋(borsa generale)と小さな袋(borselino)の2種類の袋が用いられ、小組合から選出される2名は同一の袋であるため、計7つの袋が使われる。
 当然ながら、小さな袋に入れられた場合選出される確立は高くなり、アッコピアトーリは名札をどの袋に入れるかを決定する権限を持つ。
 コシモ・イル・ヴェッキオが帰還した1434年以降、このくじ引きの仕方が変化し、手による操作が行われるようになる。その前に資格審査会議があるが、メディチ政権はここをも掌握。選出が手で行われる限り、アッコピアトーリはその結果に決定的な影響力を発揮し得たのである。コシモ・イル・ヴェッキオはアッコピアトーリを自派で固めつつ、徐々に、これに被選出資格の審査、資格者の名札の管理、名札からのシニョーリアなど主要官職の委員の抽出までの全過程を実質上、行う権限を持たせていく。こうして、伝統的共和政の形態を残しつつ実質上の独裁体制を築き始めるのである。
 この機関は、1480年4月19日に七十人評議会が取って代わる。

関連項目

 ピッティ陰謀事件

別表記

 AccopiatoriAccopiatore

外部リンク

 Storia di Firenze

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

アンツィアーニ Anziani

概要

 アンツィアーニは各区から2名ずつの平民を選出され、任期1年で各区を治める。

別表記

 長老委員

外部リンク

 フィレンツェ便り

ガーター勲章 The Most Noble Order of the Garter

概要

 ガーター勲章は、1348年にエドワード3世によって創始された、イングランドの最高勲章。ガーター、首飾り、星章からなる。ガーター勲爵士は王族以外に24人のみ。ゲオルギウスが守護聖人。

ガーター勲爵士

 フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ

別表記

 ガーター騎士団、Ordine della Giarrettiera

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『オーランドー』
 『西洋美術解読事典』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

カタスト Catasto

概要

 カタストはフィレンツェ特有の徴税制度。申告に基づく直接財産税。
 それ以前の共和国政府の収入は、営業税、消費税、通行税等の間接税と、エスティモと呼ばれる直接税、それに公債、つまり借金の3つが主要な財源であった。この内、間接税は、中世以来ヨーロッパの諸都市において広く一般的に行われていたものだが、徴税効果が限られている上に、富裕層よりも、中層以下のクラスの人々に専ら負担がかかるため、やたらに上げるわけにはいかない性質のものであった。
 そこで13世紀に初めて考え出されたのがエスティモで、これは、市民たち一人一人に、その財産に応じて税額を割り当てるという徴税制度であった。しかしこれは、当然割当の基礎となる財産の評価を政府が行うのであるから、情実や不公平があるというので人々の不満が絶えなかった。そのため、何回か制度上の改正がなされたが、結局うまくいかず、1315年に一旦廃止された。
 しかし、そうなると国庫がたちまち危機に瀕したので、1325年に、今度はかなり大きな改革を伴って再び登場してきた。その改革の主要な点は、第1に、財産の評価を各自の申告に基づいて行うということで、これが後のカタストの基礎となった。第2の改革は、財産については皆一律の税率が適用されたが、事業収入については、収入の大きいものほど税率が高いという累進税率が採用されたことである。この累進課税方式は、当然富裕な商人たちの間に評判が悪く、1427年のカタストでは廃止され、15世紀の末に改めて登場してくることとなる。
 1427年5月22日に定められ、シャルル8世のイタリア侵攻に続くメディチ家追放の後、カタストの制度は正式に廃止されてしまう。

別表記

 土地台帳

関連項目

 リナルド・デリ・アルビッツィ

参考文献

 『メディチ家』
 『ルネッサンス夜話』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

カリマーラ組合 Arte di Calimala

概要

 カリマーラ組合は、フィレンツェの最古の同業者組合で、商人組合として発足し、後に毛織物貿易商組合となる。多数の店舗が立ち並んでいたフィレンツェ中心部にあるカリマーラ通りが名前の由来である。

起源

 組合結成に関する最初の記録は1182年頃まで遡り、フィレンツェの商人が独自の組合を設立した。レプッブリカ広場とヌオーヴォ市場を結ぶ、現在も変わらずそう呼ばれるカリマーラ通りが名前の由来である。古代ローマ時代にはおそらく南北の主要な街道であるカルドであり、その遺跡は現在もレプッブリカ広場の舗装の下に存在している。
 カリマーラの起源は不明である。ラテン語のcallis maia(大きな道)又はcallis mala(ひどい道)、ギリシャ語のkalos mallos(美しい羊毛)に由来しているのではないかと考えられている。実際、組合に所属する商人の店舗や倉庫はほぼこの古い通りと近くのカリマルッツァ通りに集中しており、当時は遥かに狭く、商業活動に忙しい人々で賑わっていた。

場所

 1237年まで、カリマーラ組合の本部はヌオーヴォ市場を見下ろすカヴァルカンティ家の塔の1階にあった。
 14世紀末になると、新しい本部がカリマルッツァに建設され、今でも獲物を掴む金鷲の像が見られる。この新しい本部は、カルツァオーリ通りとポルタ・ロッサ通りの角にあるカント・デル・ディアマンテに位置し、現在はモルテーニ薬局になっている。

組合員に対する支援体制

 この本部で組合員は毎週1度集会を開いて活動や業務について話し合い、規定を設けていた。
 組合は16年以上奉仕した組合員に対して老齢年金のようなものを支給していた。

協議会

 1193年には7つの組合が形成されており、各組合の責任者からなる協議会が発足した。会員になるには30歳以上のフィレンツェ出身でグエルフ党員であることを資格とした。
 協議会の主な任務の1つは、全ての組合員を支援することだった。例えば、未払いの債権を回収する必要がある場合や詐欺被害に遭った場合、国内外の組合員のもとに組合の費用負担で使者を派遣して助けた。
 他の組合と同様に、カリマーラ組合員の行動に関する質疑や介入は、協議会によって対処された。

商人組合

 フィレンツェの商人たちは、イタリア諸都市のみならず外国に進出して、盛んな交易活動を展開した。カリマーラ組合の有力な富豪たちは共同で商会を創設し、ヨーロッパや北アフリカの各都市に支店や倉庫を数多く開設して商業網を拡大した。海外赴任していたカリマーラ組合の代理人も、真珠、珊瑚、金、銀、絹などの現地の商品の取引に携わっていた。
 特に羊毛は主要な取引品目で、イングランドやイベリア半島からの最高品質の原毛や、フランスのシャンパーニュから輸入したパンニ・フランチェスキ(フランスの布)と呼ばれた布地や織物を買い付け、それをフィレンツェで染色、加工して高級品としてヨーロッパ各地に再輸出することで大きな利益を上げた。
 外国の市場で購入した商品には、原産国と現地通貨で支払った価格を示す記号が付けられ、トルセッロと呼ばれる梱包がされた。トルセッロは騾馬の背中に結び付けることができる特別な形状で、組合の紋章にも見られる。マルセイユ、ジェノヴァピサの港を通って、フィレンツェに到着した。
 さらに、こうした商業活動で得た利益を各地の聖俗の権力者に高利率で貸し付けて、巨大な利益を得るようになった。遠隔地商業、毛織物工業、金融業の3つは早くから不可分に結びついて、フィレンツェの経済発展の推進力となるのである。

毛織物貿易商組合

 毛織物工業が躍進したのは13世紀のことである。それまで、地元の羊毛を使う全く地方的な毛織物業は存在していたのだが、改良もせぬ原産地の羊の毛は短繊維で不揃いで、輸出向きの毛織物など作りようもない。そこで、輸入した原毛を精錬、梳毛、染色などの工程を経て、高品質な仕上がりの製品に生まれ変わらせ、イタリア国内外で、多くの場合仕入れ先と同じ市場で販売した。
 特に染色工は、組合の厳格な規則に沿うことが求められた。組合との独占的な関係を規定するものであったため、カリマーラの布地を染める者は他の顧客の仕事を引き受けることはできず、汚れや欠陥のない完璧な製品を納品することが求められ、欠品には弁償義務が課されていた。染色者はvagello、つまり染色工程で使用される特殊な釜にちなんでヴァジェッライと呼ばれていた。最も多く使用された色は赤で、市民の役人たちが着用する、足元まで長く帯のない上衣であるルッコもこの色で作られた。
 商店で購入された布地は、カリマーラ杖と呼ばれる4ブラッチャ、つまり2メートル33センチの棒に従って鋏で切られた。1反は、半反、4分の1、8分の1というより小さな単位に分割され、組合の検査官による年次検査を受けた。顧客の保護のために明確な規定が決められており、布地は端がよく見えるよう台の上に広げられ、必要な位置に印をつけ、正確な寸法での裁断が要求された。

他組合との連携

 このような現在でいうところの輸出入業務を行っていたカリマーラ組合は、その巨額の売上高と取引額によりフィレンツェで最も有力な組合の1つとなり、両替組合、絹組合、羊毛組合と密接に連携していた。
 同じ品目を扱う羊毛組合とは利益相反や競合を避けるため、繊維産業における役割を分担していた。カリマーラ組合は外国貿易に従事し、原料輸入や外国市場での販売を担当する一方、羊毛組合は国内での羊毛調達や生産、加工、商品化に関与し、また国内市場での販売も行う。
 このような棲み分けや、組合間の協力によって、フィレンツェは一躍、イタリアのみならずヨーロッパ第1の商業、工業、金融都市の地位に躍り出るのである。

自衛

 1323年にカリマーラの商業組合は、カストルッチョ・カストラカーニと戦うために分遣隊2百を自費で武装させた。組合の旗の下に進軍し、その力を証明している。
 夜間に店や倉庫を監視する武装した警備員団を組織した。また、彼らは宿屋と提携して外国人客に宿泊施設を提供したが、これは明らかに彼らの動きを監視して不正な取引を行うことを未然に防ぐためでもあった。

著名な組合員

 アルビッツィ家パッツィ家ストロッツィ家

後援

 カリマーラ組合の力は、多くの建物の後援においても表れている。1157年からサン・ジョヴァンニ洗礼堂、1192年からサンテウセビオ病院、1475年からサン・ジュリアーノ病院、1228年からサン・ミニアート・アル・モンテ教会、1475年からサン・ジュリアーノ・アッラ・ポルタ・サン・ニッコロ病院などに関与していた。
 洗礼者ヨハネの銀祭壇
 洗礼者ヨハネ
 洗礼者ヨハネの宝物の十字架

終焉

 商工会議所が設立された1770年にペーター・レオポルト・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲンによってカリマーラの商業組合は廃止された。

別表記

 羅紗製造業組合

外部リンク

 Wikipedia

カルリーノ Carlino

概要

 カルリーノは、イタリアの造幣局で発行された貨幣。
 1278年にナポリ王カルロ1世・ダンジオが最初に発行。金貨と銀貨はどちらも同じ名前で同じ形で鋳造された。表面にはフランスの百合とエルサレムの十字架が描かれた盾があり裏面には受胎告知が刻まれている。
 金カルリーノはカルロ2世・ダンジオまでしか発行されなかったが、銀カルリーノは19世紀まで発行された。この貨幣は模倣され、ロードス、ローマ、教皇の銀カルリーノが生まれ、後者は後にジューリオと呼ばれるようになる。

カルロ1世・ダンジオの金カルリーノ Carlino d'oro di Carlo I

カルロ2世・ダンジオの銀カルリーノ Carlino d'argento di Carlo II

クレメンス7世のカルリーノ

 金型はベンヴェヌート・チェッリーニによる。

外部リンク

 Wikipedia

騎士団 Ordine cavalleresco

概要

 騎士団は、十字軍時に設立された騎士修道会、及びそれを模して各国の王、貴族が作った騎士とその附属員から構成される団体。

騎士修道会

 聖地エルサレムの防衛とキリスト教巡礼者の救護を目的として創設されたカトリックの修道会であり、騎士団とも呼ばれる。教皇によって認可された修道会の一種であり、騎士は修道誓願(独身、私有財産の放棄、神への従順)を立て修道士となる必要があった。国家権力から独立した常備軍として異教徒との戦いにおいて重要な役割を果たし、イベリア半島と東ヨーロッパにおける戦いなどにも参加した。しかし、エルサレムの喪失や十字軍の失敗により、騎士修道会の存在意義は次第に薄れていった。

世俗騎士団

 14世紀に入ると、長弓や弩弓を持つ歩兵の重要性が高まり、軍事方式が変化した。この変化により、騎士の軍事的な役割は薄れ、代わりに名誉や騎士道精神が重視されるようになる。アーサー王物語に登場する円卓の騎士団や騎士修道会への憧れが高まり、王や貴族は名誉や友愛の組織として、騎士団を模した世俗騎士団を設立するようになった。現在でも各国の騎士団勲章として一部が存在している。

教皇騎士団 Cavalieri della Santa Sede

 教会は中世から軍事的および宗教的な騎士団の承認を推進し、歴史の流れの中で新たな騎士団を創設し、現在に至るまで継続している。教皇庁の最初の騎士勲章は金拍車の称号であったが、これは軍事的な勲章というよりはむしろ名誉的な称号と考えられる。
 1810年にナポレオンが教皇庁の予算に負荷をかけていた騎士団を廃止し、名誉職が整理され始める。1815年に教皇ピウス7世が亡命先からローマに戻った時点で多くの実体のない役職は消滅しており、その他の役職は1901年に教皇レオ13世によって最終的に廃止された。

聖ペテロ騎士団 Ordine di San Pietro

 1471年にパウルス2世が初めて聖ペテロの騎士の叙勲を行った。教皇庁からの名誉騎士爵位である聖ペテロの騎士は、時に金拍車とも呼ばれ、君主から授与される騎士とは異なる性質を持つものである。16世紀以前の教皇庁では、法令によって規定された義務と特権を持つ真の騎士団は存在せず、叙任の際に常に独自の記章が付されるわけではなかった。
 1520年、レオ10世が聖ペテロ騎士団を創設。最初の教皇騎士団であり、4百1名の騎士が教皇庁の特定の職に就いていた。騎士団員は教皇庁に一定の金額を支払い、見返りとして名誉と収入を得ていた。

聖パウロ騎士団 Cavalieri di San Paolo

 1540年、パウルス3世が創設。2百名で、聖ペテロ騎士団と多くの類似点を持つ。

ジーリオ騎士団 Cavalieri del Giglio

 1546年、パウルス3世が50名で設立し、パウルス4世によって1556年に3百名に増員された。
 教皇庁事務局の名誉職で、一定の金額の支払いと、教会を擁護し支援することを約束することで授与されるものだった。

ラウレアーノ騎士団

 2百60名。

ピアノ騎士団

 5百35名。

キリスト騎士団

 1500年発足。教皇庁によって設立されたものではないが教皇が認可した正規の騎士団で、他の全ての騎士団と同様に、教会を擁護し支援するという誓いを立てている。

外部リンク

 ウィキペディア
 La Presidenza del Consiglio dei Ministri

グエルフィとギベッリーニ Guelfi e Ghibellini

概要

 語源は、ギベッリーニ(皇帝派)はホーエンシュタウフェンの居城ヴァイブリンゲンがイタリア訛りで転化したものと言われている。グエルフィ(教皇派)はホーエンシュタウフェンと対立していたヴェルフェンが語源とされる。皇帝派、教皇派両派の争いは神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世とローマ教皇グレゴリウス7世との叙任権争いに端を発したと言われているが、イタリアにこの対立が持ち込まれると本来の意味は失われ、一方が皇帝派を唱えれば、それに対立するものは教皇派を唱えるという具合で、政治信条に関わらず、イタリア諸侯、都市国家間の対立、政争の具に使われるようになった。一般的には特権を擁護しようとする貴族階級には教皇派が多く、これに対立して改革を求める市民階級には皇帝派が多いと言われるが、図式的には説明できない複雑な要因が絡んでいる。

別表記

 ゲルヘ党、グェルフィとギベリーニ、グエルファ、Guelphs and Ghibellines

外部リンク

 ウィキペディア

軍事八人委員会 Otto della Guerra

概要

 軍事八人委員会は、教皇庁との戦争、八聖人戦争に当たって、1375年に任命された委員会。

別表記

 オット・デッラ・グエッラ、戦争の八人委員会、VIII di Guardia e Balìa

関連項目

 ルカ・デリ・アルビッツィ

参考文献

 『フィレンツェ史』

コッミッサーリオ Commissario

概要

 コッミッサーリオは、イタリア・ルネサンスにおいては、緊急の問題、特に戦争の際に任命される特別職。兵の徴集、糧食の調達などなどを行う広範な権限を持っている。ただし、兵の指揮権はない。
 フィレンツェ共和国では、コッミッサーリオに任命されるのは通常、名門貴族層である。十人委員会が監督する。なお、コッミッサーリオ・ジェネラーレは、複数のコッミッサーリオが任命された場合、全員を代表する上位の役職を意味している。
 ヴェネツィア共和国ではプロヴェディトーレと呼称される。

別表記

 コッメサーリオ、総代理、前線総監、Commesario

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『フィレンツェ史』

コッレージョ Collegio

概要

 コッレージョは、会、団体、同業者集団という意味。十二人の良き人々と十六人ゴンファロニエーレ・ディ・コンパーニアのことを指し、シニョーリアの協働機関である。

別表記

 コレージョ、コレッジオ、コレッジ、ColegioCollegi

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』

コンシーリオ・マッジョーレ Consiglio Maggiore

概要

 コンシーリオ・マッジョーレは、フィレンツェ共和国の広範な有産市民に基盤を持つ票決及び官職選出の機関。
 法案と課税の承認を巡る票決と、様々な官職者の選出が主な機能である。したがって、政府諸機関との間には密接な関係が存し、全議員が官職に就く権利を有している。官職者の選出の方法は、基本的にはくじ引きの方式である。メディチ政権下では手によって官職者任命を操作していたが、コンシーリオ・マッジョーレにおいてはくじ引きと名札による選挙の双方を兼ねるようになる。

創設過程

 1494年にコンシーリオ・デル・コムーネとコンシーリオ・デル・ポポロという2つの諮問機関が解散され、1つになったものである。
 1320年代の改革によって設置されたコンシーリオ・デル・コムーネは、ポデスタの諮問機関で、構成員2百名。コンシーリオ・デル・ポポロは平民長官の諮問機関で、構成員3百名。法律の制定にあたって、これら2つのコンシーリオの3分の2以上の賛成が必要であった。立法権はなく、メディチ政権下で次第にその権限は他の機関に移されていった。コンシーリオ・デル・コムーネの成員には貴族も選ばれたが、コンシーリオ・デル・ポポロには平民しか認められなかった。任期は4ヶ月だった。
 ジローラモ・サヴォナローラの提唱に沿い、コンシーリオ・デル・ポポロ及びコンシーリオ・デル・コムーネを廃止し平民・自治都市評議会(Consiglio del Popolo et Comune)及びそれによって半年毎に選出される八十人評議会の設置が、1494年12月22日コンシーリオ・デル・ポポロで、1494年12月23日コンシーリオ・デル・コムーネで議決される。1494年12月24日シニョーリアは、コンシーリオ・デル・ポポロ及びコンシーリオ・デル・コムーネの議決を正式決定。
 こうして、メディチ政権時代の諸制度、諸機関は廃止され、共和政が復活。平民・自治都市評議会改め、コンシーリオ・マッジョーレがこの新民主政権の中核を担う。

資格

 コンシーリオ・マッジョーレの成員になる資格は、年齢が29歳以上で、一定期間フィレンツェに居住し、納税し、三大要職であるシニョーリア十二人の良き人々ゴンファロニエーレ・ディ・コンパーニアのいずれかに本人か父親か祖父の名が候補者として袋に入れられた者であること。また、毎年24人の24歳から29歳までの男子の加入を認める。これにより、約7万人のフィレンツェ市民のうち、約3千2百人が国会議員となった。
 法的にはこれらの条件を満たす人々のみがフィレンツェ市民と言える。したがって、コンシーリオ・マッジョーレとは近代的な議会ではなく、全市民による国会である。

公職選出の禁止条項

 コンシーリオ・マッジョーレが全官職を選出すると同時に、その全議員が官職に就く資格を有する。フィレンツェの市民は全て官職に就き、その利益を享受する権利を持っているのである。しかし官職の数は限られており、29歳以上の市民の数は3千を超えている。したがって、官職就任の循環が公平に行われるよう、様々な禁止条項が設けられる。一定の官職に就いた者は一定期間、他の官職に就くことはできない。同一家族の成員も同時に就くことはできない。一定の重要な官職については年齢制限も設けられる。

制度改革

 改革に当たってフィレンツェ人の目指したのはかつて存在していた、古き良き時代の諸制度に復帰することであった。
 フィレンツェ共和国の行政職の特徴は任期が極めて短期間であるという点で、役職を市民の間で素早く循環させることを目的としていた。これは小さな都市であった時代の仕組みである。当時は、役職に就くことは市民の義務であった。任期が短いことは、市民が本業に専念するための時間を不当に奪われないことを保証するものであった。
 しかし時の経過と共に、短い任期の意味が変化してくる。すなわち、僭主の出現を防ぐためのものと考えられるようになる。さらに、国力が成長するにつれて、その行政も拡大され、役職に就く態度も変わってくる。三大要職は無給の名誉職であった。やがて驚異的な経済的・政治的発展の結果、報酬の支払われる官職が増加し、官職に就くことはかつては義務であったが、今や積極的に追い求める魅力あるものとなる。官職に就くことは利益をもたらすのである。
 コシモ・イル・ヴェッキオは官職就任機会に偏りを生じさせ、共和国の体裁を保ちつつ、権力を掌握してしまった。1494年の改革で、均等になるよう是正されたのである。

別表記

 大評議会、大会議、コンシーリオ・グランデ、Consiglio Grande

外部リンク

 塩野七生「わが友マキアヴェッリ」の世界
 Wikipedia

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

コンソーレ Console

概要

 コンソーレとは中世イタリアの自治都市の最高行政官、行政長官のこと。古代ローマの用語から呼称され、複数形ではコンソーリ。
 コンソーレはコムーネの評議会と協力して行政にあたる役職で、地方行政は執政を任せる長官を選出する都市国家一般評議会に基づく。
 当初は司教の代理として実権はなかった。ハインリヒ4世とグレゴリウス7世の叙任権闘争の中で作られた歴史的背景を持つ。有力貴族の中の最有力一門が作った最初の政治機関で、正式な機関へと権威を増していく。

別表記

 コンソレ、執政官、行政長官、Consoli

外部リンク

 フィレンツェ便り
 Wikipedia

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』

ゴンファロニエーレ・ディ・コンパーニア Gonfaloniere di Compagnia

概要

 ゴンファロニエーレ・ディ・コンパーニアは、シニョーリアが抱える諮問機関。
 シニョーリア十二人の良き人々と共に、フィレンツェ共和国の三大要職の一つ。十二人の良き人々と併せてコッレージョと言われている。
 当初は19名であったが、1343年、フィレンツェ共和国が4つの区域に分割された時に16名となる。任期は4ヶ月。選出方法はくじ引き。
 しかし、フランチェスコ・グイッチャルディーニの時代にあっては、権威は高かったものの、コッレージョはすでに政治的な意味を失っている。

別表記

 十六人会、十六人ゴンファロニエーリ・ディ・コンパニーア
 Sedici gonfalonieri di Compagnia

関連項目

 ルカ・デリ・アルビッツィ

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』

シニョーリア Signoria

概要

 シニョーリアは、1282年に制定されたフィレンツェ共和国の最高行政立法機関。十二人の良き人々ゴンファロニエーレ・ディ・コンパーニアと共に、フィレンツェ共和国の三大要職の一つ。
 国権の最高機関で、審議機関でもある。立法権はこの機関の占有だが、コンシーリオ・マッジョーレの承認が必要である。したがって、正確には法案の提出権とでも言うべきであろう。シニョーリアが法案を作成し、それを通過させるためにはまず十二人の良き人々ゴンファロニエーレ・ディ・コンパーニアに諮り、その後、コンシーリオ・マッジョーレに上程されるのである。条例に関しては、それ自身の権限で出すことができる。また国事犯に関しては、これを裁くことができる。外交問題に対しても大きな権限を有している。
 フィレンツェでの商工業が発展し、商人組合が隆盛に向かう。その大組合の影響力拡大により、1282年に制度改革が導かれた。これがプリオーレ制あるいはシニョーリア制と呼ばれるものである。

プリオーレ Priore

 プリオーレは、シニョーリアを構成する8名の行政高官、執政官。任期は正義の旗手と同じく2か月。報酬はない名誉職である。

資格

 当初7つの大組合のいずれかに属する者だったが、次いで5つの中組合に属する者も資格を認められ、1293年以降は9つの小組合に属する者も認められる。
 8名の内6名は大組合から、2名が職人や小商店主などの広汎な中産階層である小組合から選出される。
 有資格者の審査会議を経た後、アッコピアトーリによって資格者の名札が袋に入れられ、次いでくじ引きの仕方で袋から引き出された名札の者が選ばれる。

人数

 最初3人で、このシニョーリアがその2ヶ月の任期を終えた後は6人となる。フィレンツェの3つの区域から2人ずつ選出されるのである。1343年に4つの行政区域に分割されると、以降8名となる。

立法公証人 Notaio delle Riformagioni

 シニョーリア付きの公証人で、法案を作成し公認する仕事を行う。また、様々なコンシーリオでの票決の記録も行う。コンシーリオでシニョーリアを代表して演説し、また、各演説者の記録を行うことができる。

別表記

 政庁、政務委員会
 プリオリ、代表委員、主席、最高執政官、高位の行政官、閣僚

外部リンク

 ウィキペディア
 フィレンツェ便り

参考文献

 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『Lucretia Borgia

十人委員会 Dieci di Balìa

概要

 十人委員会とは、フィレンツェ共和国の対外戦争と外交を担当する行政機関。1384年に制定。1494年以降は自由と平和の十人委員会と呼ばれる。任期は6ヶ月で、場合によっては延長される。シニョーリアコッレージョによって選出される。

軍事十人委員会

 1480年ナポリ王国との講和締結後解体され、代わって特別諮問八人会議が設立された。国家の重要な外交問題を監視し、十人委員会が戦時中に行ってきたような仕事を平和時に行うことになる。
 1494年、ピサ戦を行うために十人委員会が再び設立される。フィレンツェ共和国の法律に基づいて通常の権限を持ち、任期は6ヶ月。ピエロ・ヴェットーリピエロ・コルシーニパオラントーニオ・ソデリーニピエロ・グイッチャルディーニ、ピエロ・ピエリ、ロレンツォ・モレッリロレンツォ・レンツィフランチェスコ・デリ・アルビッツィヤコポ・パンドルフィーニ、ロレンツォ・ベンインテンディが選出される。

自由と平和の十人委員会書記官 Segretario dei Dieci di Libertà e Pace

 ニッコロ・マキアヴェッリ 1498年~1512年

別表記

 ディエチ・ディ・バーリア、バーリア十人会、戦争のための十人委員会、軍事委員会、10人委員会、Council of Ten

関連項目

 ピッティ陰謀事件
 アニョーロ・アッチャイウオリ
 ルカ・デリ・アルビッツィ

参考文献

 『君主論』
 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『The Life of Cesare Borgia

十二人の良き人々 Dodici Buonuomini

概要

 十二人の良き人々は、1321年制定されたシニョーリアを監視するための諮問機関。任期は3ヶ月。選出方法はくじ引き。
 シニョーリアゴンファロニエーレ・ディ・コンパーニアと共に、フィレンツェの三大要職の一つ。十六人ゴンファロニエーレ・ディ・コンパーニアと併せてコッレージョと言われている。
 しかし、フランチェスコ・グイッチャルディーニの時代にあっては、権威は高かったものの、コッレージョはすでに政治的な意味を失っている。

別表記

 十二人の良い人々、十二人会、助言者十二人会議、Dodici Buoni Uomini

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』

フィレンツェ共和国書記局 Cancelleria

概要

 フィレンツェ共和国シニョーリアの下部組織である官僚機構で、ヴェッキオ宮殿にあった。

起源

 その起源は、記録文書が法的措置の証明並びに行政に有効な手段として用いられだした13世紀に遡る。カンチェッレーリアとは、都市国家とその各機関の文書起草及び活動に関与する全ての書記官を指していた。1325年に初めて行政長官という定義で記載される。

構成

 制度的枠組みを変更することなくメディチ家の意向に沿うことを可能にするため、コジモ・イル・ヴェッキオが当主だった1435年12月12日に選挙監督業務が切り離された。さらに1437年に第二書記局が創設され、選挙監督官はこちらに組み込まれる。
 第二書記官は第一書記官に次ぐ地位で、発足当時のアントーニオ・ムージはフィレンツェ市内の役人と判事へ送られる書簡の管理をしていた。 しかし、ニッコロ・マキアヴェッリは主に各国の首長との外交を担当。という風に、内政、外交、軍事の区分で仕事が分けられているわけではなかった。 内政である第二書記局に組み込まれている。  第一書記局が外交担当、第二書記局が内政と軍事担当とされていたが、実際には仕事の分担は明確ではなかった。
 ニッコロ・マキアヴェッリが雇用後しばらくして、軍事担当の「自由と平和の十人委員会」が設立され、第二書記局の仕事は内政に限られるが、実質的には何も変わらなかった。

第一書記官

 モナーキ・ヴェンチュラ
 ニッコロ・ヴェンチュラ・モナーキ
 コルッチョ・サルターティ 1375年~1406年
 レオナルド・ブルーニ
 カルロ・マルズッピーニ 1410年~1411年、1427年~1444年
 ポッジョ・ブラッチョリーニ
 ベネデット・アッコルティ
 バルトロメオ・スカーラ
 マルチェッロ・ヴィルジーリオ・アドリアーニ
 フランチェスコ・カンパーナ

第二書記官

 アントーニオ・ムージ 1436年~1494年
 ニッコロ・マキアヴェッリ

選挙監督官 Notaio delle Tratte

 シモーネ・グラッツィーニ 1494年~
 アゴスティーノ・ヴェスプッチ  

1498年の書記局員と年給

第一書記局

 書記官マルチェッロ・ヴィルジーリオ・アドリアーニ・・・330フィオリーノ
 書記官補佐ビアージオ・ブオナッコルシ・・・・・・・・・72フィオリーノ
 局員アントーニオ・デッラ・ヴァッレ・・・・・・・・・・80フィオリーノ
 局員ルカ・フィチーノ
 局員オッタヴィアーノ・ディ・リーバ

第二書記局 Seconda Cancelleria

 書記官ニッコロ・マキアヴェッリ・・・・・・・・・・192フィオリーノ
 書記官第一補佐アンドレア・ディ・ロモロ・・・・・・60フィオリーノ
 書記官第二補佐ジュリアーノ・デッラ・ヴァッレ
 選挙監督官アゴスティーノ・ヴェスプッチ・・・96フィオリーノ
 局員バルトロメオ・ルッフィーニ
 局員ニッコロ・ヴァローリ

 書記局には上記の他に、訓令や情報の運搬要員がいた。書記官は終身制である。

外部リンク

 塩野七生「わが友マキアヴェッリ」の世界

人文主義者

別表記

 人文学者、ユマニスト、ヒューマニスト、HumanisteHumanistUmanista

外部リンク

 ウィキペディア

スルタン Sultan

外部リンク

 ウィキペディア

特別諮問八人会議 Otto di Pratica

概要

 特別諮問八人会議は、フィレンツェ共和国の重要な外交問題を監視する、戦時中の十人委員会に代わる機関。半年毎に8名が七十人評議会の中から選出される。

経緯

 1480年4月19日、バーリアで特別諮問八人会議を設置する法案が可決される。  1494年12月2日、パルラメントで、メディチ家支配下で設立された特別諮問八人会議などの諸機関廃止を承認。
 1513年11月20日、バーリアで特別諮問八人会議を設置する法案が可決され。メディチ家支配体制が再成立。
 1527年5月21日、コンシーリオ・マッジョーレで再び廃止。

別表記

 八人委員会、オットー・ディ・プラティカ、オット・ディ・プラティカ、オット・ディ・プラティケ

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ドゥカート Ducato, Ducati

概要

 ドゥカートは、ヴェネツィア共和国で発行された金貨で、フィレンツェ共和国のフィオリーノと同等の価値を持つ。複数形はドゥカーティ。
 15世紀、労働者は年に1ドゥカート稼げれば生活できた。1ドゥカート=6又は7リラ

ドゥカート銀貨

 1140年にプッリャ・カラブリア公国ブリンディジで最初に鋳造され、同年にシチリア王ルッジェーロ2世によって発行された。ドゥカートとはこの公国に由来するものである。
 1202年頃にヴェネツィア共和国ドージェであるエンリコ・ダンドロによってグロッソが発行され、後にマタパンと呼ばれるようになる。

ドゥカート金貨

 1284年にヴェネツィア共和国ドージェであるジョヴァンニ・ダンドロによって初めて発行され、16世紀前半からゼッキーノという名称に変わる。
 24金3.44グラムで、2リラソルドの価値があった。表面に聖マルコの前に跪くドージェが、裏面にはマンドルラの中にイエス・キリストが描かれており、その周りにはSit tibi Christe datus quem tu regis iste ducatusという碑文が刻まれている。共和国の崩壊まで、同じ金属量と同じ型で発行された。
 ドゥカートという呼称は、教皇神聖ローマ帝国ミラノ公国、ロードス島、サヴォイア公国ウルビーノ公国など、他の造幣所によって発行された金貨にも用いられた。

ヴェネツィア共和国のドゥカート


ミケーレ・ステーノ(1400年~1413年)21 mm3.50 g

ミラノ公国のドゥカート


フランチェスコ1世・スフォルツァ(1450年~1464年)22.2 mm3.45 g

フェッラーラ公国のドゥカート


1471年フェッラーラ鋳造、3.49 gボルソ・デステの肖像、個人蔵

別表記

 デュカート、デュカーティ、デュカティ、ドゥカーテン

外部リンク

 Storie & ArcheoStorie
 Wikipedia

フィオリーノ Fiorino, Fiorini

概要

 複数形はフィオリーニ。フィオリーノ金貨は1252年から1533年にかけてフィレンツェ共和国で発行され、その間意匠や金含有量に大きな変更はなく、国際的な貨幣価値決定の中心的役割を担った。名称は表のフィレンツェの百合の紋章に由来。
 ヴェッキオ宮殿にあるアルノルフォの塔の前に建っていたヴァッカの塔そばに、1237年に設立されていた造幣所で鋳造され、重要な商業的役割を果たすに足る十分な量を供給した。フィレンツェの銀行の多くはヨーロッパ中に支店を持つ国際的な会社であったため、大規模な取引に用いられる西ヨーロッパの支配的な貿易貨幣となり、14世紀には1百50の国で独自のフィオリーノが製造された。
 13世紀から14世紀頃の庶民は年間20~30フィオリーノ程度の暮らしをしていた。

意匠

 フィレンツェ共和国の意匠は、表に菖蒲(百合)の花、裏に洗礼者ヨハネの立像。
 他国のフィオリーノでは碑文が変更され、百合の代わりに支配者の紋章が使われた。その後、洗礼者ヨハネではなく、しばしば支配者が描かれるようになった。

換算

 1252年の時点では1フィオリーノは1リラ、つまり20ソルドで2百40デナーロ。ただし、フィオリーノの金含有量は変化しなかったものの物価は上昇し続け、1500年には7リラの価値があった。
 フィレンツェのフィオリーノ金貨とヴェネツィアドゥカート金貨の価値はほぼ同じ。

フィレンツェ共和国のフィオリーノ金貨 第2期1347年

アレクサンデル6世のフィオリーノ金貨


1492~1503年ローマ鋳造、21 mm3.38 g
SANCTVS PETRVS ALMA ROMA、聖ペテロ
ALEXANDER VI PONT MAXアレクサンデル6世の紋章

別表記

 フローリン、フロリン、florin

外部リンク

 ウィキペディア
 Wikimedia Commons

デナーロ Denaro, Denari

概要

 複数形はデナーリ。デナーロは中世で使われていた銀貨で、名前は古代ローマの貨幣デナリウスに由来している。

別表記

 デナロ

外部リンク

 Wikipedia

ソルド Soldo, Soldi

概要

 複数形はソルディ。中世イタリアで一般に広く流通していた銀貨。
 1ソルド=12デナーロ

外部リンク

 ウィキペディア

リラ Lira, Lire

概要

 複数形はリレ。リラは会計上で使用されていた単位で、リラという硬貨は存在しなかった。
 1リラ=20ソルド=240デナーロ

外部リンク

 Wikipedia

スクード Scudo, Scudi

概要

 1スクード=1フィオリーノ=1ドゥカート
 フランスの金貨エキュのことで、15世紀末からイタリアでも流通し始めた。

外部リンク

 Wikipedia

ティンブラ Timbre

概要

 ティンブラは、バレンシア王国の金貨。

アルフォンス3世時代 1416年~1458年

別表記

 タンブル

外部リンク

 Aureo & Calicó
 NumisBids
 NumisBids
 Numista

治安八人委員会 Otto di Guardia e Balìa

概要

 治安八人委員会は、フィレンツェ共和国の行政機関。政治犯の逮捕、審問を行う。その後、一般の刑事・民事事件も扱うようになる。任期は6ヶ月、後に4ヶ月となる。選出はくじ、あるいはシニョーリアによって選出される。この機関で解決できなかった重大な国事犯は、特別の四十人法廷に委ねられる。
 八聖人戦争中の1376年に社会秩序維持のため、オット・ディ・バリーア創設。チオンピの乱の鎮圧直後、1378年9月2日にオット・ディ・グァルディア創設。ナポリを目指すカルロ3世・ダンジオアレッツォに駐屯しており、追放されていたギベッリーニと結びついてフィレンツェを攻撃する恐れがあったため、1380年9月18日にオット・ディ・グァルディア・エ・バリーア創設。
 1494年、グイド・マネッリアンドレア・ストロッツィ、マウロ・ファントーニ、マルコ・ディ・ピエロ・ナルディ、サルヴェット・サルヴェッティ、カルロ・ディ・ベルナルド・ルチェッライ、バルトロメオ・タダルディ、アントーニオ・ゲラルディーニが選出される。彼らは役職入りを祝って、大金を投じて盛大な宴会を催したので、享楽八人委員会(オット・コデンティ)と呼ばれる。

別表記

 オット・ディ・バリーア、オット・ディ・グァルディア、オットー・ディ・グァルディア、バーリア、監視の八人、警察八人会、警察・治安八人委員会

関連項目

 ルカ・デリ・アルビッツィ

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『Pompeo Caccini and Euridice

パルラメント Parlamento

概要

 パルラメントは、共和国が危機に直面した時など、しばしば召集されるフィレンツェ人の総会。大改革がなされるべきかどうか、またはバリーア(balia)を承認すべきかどうかを決定するためである。バリーアとは本来、権力を意味するが、ここでは危機を克服するために臨時につくられる委員会を指す。一定期間、危機克服のために大きな権限が与えられる。

別表記

 全市民集会、高等法院、il parlamento

参考文献

 『君主論』
 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

プロヴェディトーレ Provveditore

概要

 プロヴェディトーレとは、ヴェネツィア共和国の役職で、軍監のこと。フィレンツェ共和国ではコッミッサーリオと呼ばれる。ヴェネツィア貴族から選ばれたもので,戦争に際して主として兵の徴集、糧食の調達など、輜重関係の仕事に当たり、傭兵隊長の支援及び監視の役割を受け持つ。外交交渉などを行う場合もある。

別表記

 proveditoreProveditori

外部リンク

 CORE
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』

平民長官 Capitano del Popolo

概要

 平民長官とは、中世イタリアの都市国家の役職名。貴族出身で外国人、司法と市民軍の司令官が主な仕事。

別表記

 カピターノ・デル・ポーポロ

外部リンク

 フィレンツェ便り
 Wikipedia

参考文献

 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『April Blood

ポデスタ Podestà

概要

 ポデスタとは、中世イタリアのコムーネにおける執政長官。外政及び内政における行政長官で、外国との条約締結や司法権の行使、軍事最高司令官を担う。貴族の他都市出身者が任期1年で務める。
 12世紀から13世紀にかけて、都市経済の発展とコンタード(都市周辺の地域)からの旧領主層の移住により、従来の都市貴族支配(コンソーレ制)は動揺した。このようなコムーネの危機を克服するために導入されたのがポデスタ制である。

発端

 力を意味するラテン語potestasから発するポデスタという語が最初に記録されたのは、1151年ボローニャにおいてである。コムーネの勢力が伸長するにつれ、頻繁に生じ出した支配階級の抗争を阻止するため、ファエンツァ出身のグイド・ダ・カノッサが就任した。
 北イタリアの諸都市に対する権力拡大のために、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が初めて広範に任命し始める。1158年11月のロンカーリアの第二帝国議会で、皇帝の代官としてポデスタを任命。選出執政官を直接指名して、帝国の権限を強硬に行使させた。当初から非常に不評であり、彼らのしばしば恣意的な行動は、ロンバルディア同盟の結成と1167年のフリードリヒ1世に対する反乱を引き起こす要因となった。
 皇帝の試みは短命に終わったが、行政的な最高地位の必要性からポデスタの制度はすぐにイタリア北部で重要かつ一般的なものとなり、1200年頃にはほとんどのコムーネで採用される。皇帝による指名ではなく、市民や市民代表によって任命されるようになった。ポデスタは、戦時も平時も、国際外交であれ国内問題であれ、都市における全権を有する。しかし、任期は僅か1年ほどに限られていた。党派抗争に巻き込まれず、公正な正義を行使するために、地元の利害関係や人間関係に無縁な人物を選出することがすぐに浸透した慣習となった。

フィレンツェ共和国

 コンタードへ勢力拡大したフィレンツェには、封建領主層の臣下の騎士たちが流入し、古い都市貴族と融合して「塔仲間」という団体が形成される。13世紀にはフィレンツェに約3百の塔が立ち並ぶ。これはいくつかの派閥が生まれたこと、分裂が進んだことを意味する。ここでコンソーレから外れた人員による政権の奪い合いが始まる。
 党派間の対立を中立の立場で裁くために12世紀後半から13世紀前半に制定。ポデスタになり得る資格はまず、外国人であること、ついで貴族であること、グエルフィに属する者である。当時、ポデスタがフィレンツェの最高の官職であり、条約に署名し、裁判を行い、戦時には軍の総司令官を兼ねていた。ピサ、ピストイア、アレッツォ、ヴォルテッラ、コルトーナ、リヴォルノなどなどに派遣される。任期は当初1年であったが、1290年に至ってポデスタの権力を抑えるために6ヶ月に短縮される。
 14世紀以降は、特に15世紀のメディチ政権下に至ってポデスタの大きな権限は次々と他の行政職に奪われていく。わずかに裁判上の権限のみに限定される。さらにその裁判上の権限も縮小され、最後には三大要職の選出に立ち会う程度の機能しか果たさなくなる。1498年に再びその法的権限を回復するが、これも1502年、正義の評議会に取って代わられる。

関連項目

 ルカ・デリ・アルビッツィ

外部リンク

 コトバンク
 Wikipedia

参考文献

 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Lucretia Borgia

レットーレ Rettore

概要

 レットーレとは町内会から選ばれた複数の代表者のことで、領主や司教代理との交渉にあたる。

別表記

 レットーリ、総代、代官、rector

外部リンク

 フィレンツェ便り

七十人評議会 Consiglio dei Settanta

概要

 七十人評議会は、フィレンツェ共和国の行政機関。これまでアッコピアトーリが担ってきた業務である官職選出に加えて、立法、行政、財政、外交、軍事、司法の全分野を掌握する。
 特別諮問八人会議と代表十二人会議は自らの議員が務める小委員会であり、その大公使の選出、シニョーリア治安八人委員会の選出。さらに、シニョーリアの発議する法案の事前承認権を有する。
 1480年4月19日、バーリアは、七十人評議会を設置する5年期限の法案を可決。パッツィ家の陰謀に続く政治危機に対処するため、この最重要機関は創設される。評議会はメディチ派が占め、プリオーレ正義の旗手の権威を低下させ、ロレンツォ・イル・マニーフィコの支配をさらに強化した。
 1522年から七十人評議会議員でもあったニッコロ・カッポーニは、1527年にフィレンツェからのメディチ家排除に決定的に貢献した。

別表記

 七十人委員会、七十人会、コンシーリオ・デ・セッタンタ、コンシーリオ・セタンタ

外部リンク

 Wikipedia

フィレンツェの組合 Arti di Firenze

概要

 12世紀以降のフィレンツェの政体は、貴族層と商工業市民層との軋轢によって、コンソーレ制、ポデスタ制、第一次平民政府と、絶えず変化を繰り返していた。そのような政治状況の中、アルテは13世紀はじめに次々と結成され、フィレンツェ経済のめざましい発展の担い手となった。その結果、絶え間ない党派争いで疲弊した貴族層に代わって、商工業者が政治の実権を握り始め、1282年に第二次平民政府が打ち出した、アルテの代表であるプリオーレ団が政府の中核を構成するというプリオーレ制により、貴族といえどもアルテに従属しなければならない富裕商工業者中心の国家体制が確立した。その後、7つの大組合、5つの中組合、9つの小組合の、21の組合に編成されたアルテは、すべての公職の選出母体となり、以後のフィレンツェの権力基盤となった。

大アルテ Arti Maggiori

 カリマーラ組合(旧商人組合、毛織物貿易商組合)
 羊毛組合(毛織物製造組合)
 銀行組合(両替商組合)
 ポル・サンタ・マリア組合(絹織物組合)
 医師・薬種商組合
 毛皮商組合
 裁判官・公証人組合(弁護士、公証人、判事組合)

小アルテ Arti Minori

 食肉組合
 鍛冶師組合
 靴職人組合
 石工・木工師組合
 古着商・麻織物組合
 葡萄酒商組合(葡萄酒醸造業者並びに居酒屋経営者組合)
 宿屋組合
 革鞣工組合
 食料油組合
 馬具屋・楯工組合
 錠前屋組合
 武具甲冑師組合
 木材商組合
 パン屋組合

外部リンク

 Wikipedia

プラティカ Pratica

概要

 プラティカは、公式の会議体ではないが、フィレンツェ共和国が重大な外政、内政問題に直面した際、重要な政策を協議するために随時召集される諮問会議。但し、法的拘束力は持たない。召集される人数によって、小会議(stretta)と拡大会議(larga)に分けられる。三大機関の成員、アルテの代表、任意に指名された名門の有力市民層が構成員。

別表記

 プラティケ、特別会議、特別諮問会議、pratiche

参考文献

 『フィレンツェ史』

モンテ局 Ufficiali di Monte

概要

 モンテ局は1343年に設置されたもので、公債を扱ったが、次第に税の徴収、その他、有力市民によるフィレンツェに対する貸付金の徴収など、広くフィレンツェの財政問題を扱うようになる。5年に1度、あるいは必要が生じた場合、モンテの改革が行われる。主として利率の変更がその目的である。1494年以降、改革は定期的に毎年行われることになる。

参考文献

 『フィレンツェ史』

モンテ・ディ・ピエタ Monte di Pietà

概要

 モンテ・ディ・ピエタとは、15世紀イタリア発祥の公営質店のこと。営利を目的とせず、聖職者など複数の出資者で始められた質屋。

外部リンク

 記録庫 ・ イタリア・絵に描ける珠玉の町・村、 そしてもろもろ!
 Wikipedia

記載日

 2006年7月15日

更新日

 2023年10月29日