Valori

ヴァローリ家

タルド・ヴァローリ Taldo Valori

生没
1???年~1344年頃
ヴァローレ・デ・ルスティケッリ
オスティア
フランチェスカ・デリ・アルビッツィ
フランチェスカ・デ・バルディ
ニッコロ・ヴァローリ
ガブリエーレ・ヴァローリ

概要

 タルド・ヴァローリは、14世紀頃のイタリアの男性。

年表

1320年4月5日

フランチェスカ・デリ・アルビッツィと結婚。

1328年

ヴェネツィアへ大使として派遣される。

別表記

 Taldo di Valore Rustichelli

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ニッコロ・ヴァローリ Niccolò Valori

タルド・ヴァローリ
フランチェスカ・デ・バルディ
カルレッタ・アディマリ
バルトロメオ・ヴァローリ
アラマンノ・ヴァローリ
フィリッポ・ヴァローリ
フランチェスカ・ヴァローリ

概要

 ニッコロ・ヴァローリは、14世紀頃のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。

在職

 正義の旗手 1367年1月~2月

外部リンク

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バルトロメオ・ヴァローリ Bartolomeo Valori

生没
1354年5月7日~1427年9月11日
ニッコロ・ヴァローリ
カルレッタ・アディマリ
イザベッラ・デリ・アレッサンドリ
?・マチンギ
ニッコロ・ヴァローリ
フィリッポ・ヴァローリ
アニョーラ・ヴァローリ
ジョヴァンナ・ヴァローリ
ナンナ・ヴァローリ

概要

 バルトロメオ・ヴァローリは、14世紀から15世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家、外交官。

在職

 正義の旗手 1421年1月~2月

年表

1419年

教皇マルティヌス5世のもとへ大使として派遣される。

1423年

ミラノ公フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティのもとへ大使として派遣される。

外部リンク

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フィリッポ・ヴァローリ Filippo Valori

生没
1???年~1438年8月11日
バルトロメオ・ヴァローリ
ピッキーナ・ディ・ピエロ・カッポーニ
バルトロメオ・ヴァローリ
フランチェスコ・ヴァローリ
フィアンメッタ・ヴァローリ
アレッサンドラ・ヴァローリ
ピエラ・ヴァローリ

概要

 フィリッポ・ヴァローリは、15世紀頃のイタリアの男性。

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ジョヴァンナ・ヴァローリ Giovanna Valori

生没
13??年~
バルトロメオ・ヴァローリ
ピエロ・グイッチャルディーニ

概要

 ジョヴァンナ・ヴァローリは、14~15世紀頃のイタリアの女性。

年表

1399年

ピエロ・グイッチャルディーニと結婚。

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ナンナ・ヴァローリ Nanna Valori

生没
14??年~
バルトロメオ・ヴァローリ
ジャンノッツォ・パンドルフィーニ
パンドルフォ・パンドルフィーニ
ピエルフィリッポ・パンドルフィーニ
プリオーレ・パンドルフィーニ
ニッコロ・パンドルフィーニ
ヤコポ・パンドルフィーニ
バッティスタ・パンドルフィーニ
マッダレーナ・パンドルフィーニ
マリエッタ・パンドルフィーニ
ドーラ・パンドルフィーニ

概要

 ナンナ・ヴァローリは、15世紀頃のイタリアの女性。ナンナはジョヴァンナの愛称で、同名の姉がいるため、おそらくすでに嫁いでいた姉の死後に生まれて同じ名前を付けられたのだろう。タルド・ヴァローリの孫とされていることもあるが、バルトロメオという名の息子は見当たらず、バルトロメオ・ヴァローリの娘にジャンノッツォ・パンドルフィーニに嫁いだ娘がいる記述があったので、そちらを採用した。

年表

別表記

 Giovanna di Bartolomeo di Taldo Valori

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バルトロメオ・ヴァローリ Bartolomeo Valori

生没
1426年8月31日~1477年1月14日
フィリッポ・ヴァローリ
ピッキーナ・ディ・ピエロ・カッポーニ
カテリーナ・デ・パッツィ
フィリッポ・ヴァローリ
ニッコロ・ヴァローリ
エリザベッタ・ヴァローリ
ジネヴラ・ヴァローリ
ルクレツィア・ヴァローリ
ピッキーナ・ヴァローリ
カッサンドラ・ヴァローリ
マリーア・ヴァローリ
フィアンメッタ・ヴァローリ
トンマーゾ・ヴァローリ

概要

 バルトロメオ・ヴァローリは、15世紀のイタリアの男性。

年表

1453年

カテリーナ・デ・パッツィと結婚(1452年)。

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フランチェスコ・ヴァローリ Francesco Valori

生没
1439年~1498年4月8日
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ
フィリッポ・ヴァローリ
ピッキーナ・ディ・ピエロ・カッポーニ
コスタンツァ・カニジャーニ
マリエッタ・ヴァローリ
カテリーナ・ヴァローリ
ロレータ・ヴァローリ
ディアノーラ・ヴァローリ

概要

 フランチェスコ・ヴァローリは、15世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。

在職

 正義の旗手 1489年1月~2月、1493年9月~10月、1497年1月~2月

年表

1497年1~2月

正義の旗手ジローラモ・サヴォナローラ派(フラテスキ)の最有力者フランチェスコ・ヴァローリが選出される。

1497年2月9日

フランシスコ会の修道士ら、前日から始まったジローラモ・サヴォナローラの説教を激しく非難する説教を始めるが、正義の旗手フランチェスコ・ヴァローリに強制的に中止させられる。

1497年3~4月

フランチェスコ・ヴァローリに代わり、メディチ派(=Bigi)で反ジローラモ・サヴォナローラ感情の極めて強いベルナルド・デル・ネロ(1426年~1497年)が正義の旗手に選出される。

1497年8月21日

フラテスキの指導者フランチェスコ・ヴァローリの強硬発言によって提訴権否認、処刑にまとまり、答申。夜、首謀者5名処刑される。

この過程でフランチェスコ・ヴァローリは実質上フィレンツェの支配者だと見なされ、ジローラモ・サヴォナローラはかねて自ら訴えていた全市民の融和、団結とそのための1495年3月19日の方を自ら否定したと非難され、彼に対する一般の崇敬と信頼、大きく揺らぐ。

1498年4月8日

夕刻、ジローラモ・サヴォナローラに信従する修道士が説教すべく信徒たちに守られて大聖堂に近づくや、アッラビアーティなど反ジローラモ・サヴォナローラ派の者たち、ジローラモ・サヴォナローラ派追放を叫んで騒動を起こし、続いて民衆を扇動して武器を手にサン・マルコを包囲、襲撃。

シニョーリアは、ジローラモ・サヴォナローラに対して12時間以内にフィレンツェ領内から退去せよとの布告を出す。続いてサン・マルコの内部にいるジローラモ・サヴォナローラ派を退出させるべく、俗人は教会から退出しなければ全て反逆者と見なすとの布告を出す。

これらの布告により包囲側の気勢上がり、サン・マルコの襲撃はさらに激しくなる。

フランチェスコ・ヴァローリ、手兵を集めるべくサン・マルコを出て私宅に向かうが騒動のため進めず、ヴェッキオ宮殿に向かう。しかし庁宮内に引きずり込まれ、前年8月の彼の強硬発言にも影響されてコンシーリオ・マッジョーレへの提訴権を奪われたまま処刑されたメディチ派(=Bigi)の陰謀の指導者の遺族ヴィンチェンツォ・リドルフィとシモーネ・トルナブオーニ(1472年~1543年)に殺害される。この頃すでに彼の自宅も襲撃され、妻コスタンツァ・カニジャーニも殺害される。

サン・マルコは、ほとんど群衆に占拠される。

ジローラモ・サヴォナローラは、Domenico da Pesciaと共に死を決意して外に出、捕縛されてヴェッキオ宮殿の塔内の獄に入れられる。Domenico da Pescia及び先に捕らえられた修道士シルヴェストロも投獄される。

外部リンク

 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

フィリッポ・ヴァローリ Filippo Valori

生没
1456年~1494年11月25日
没地
ナポリ王国ナポリ
バルトロメオ・ヴァローリ
カテリーナ・デ・パッツィ
アレッサンドラ・サルヴィアーティ
バッチオ・ヴァローリ
カテリーナ・ヴァローリ

概要

 フィリッポ・ヴァローリは、15世紀のイタリアの男性。

年表

1492年8月12日

ローマにて特別諮問八人会議宛に手紙を書く。

外部リンク

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 Internet Archive

参考文献

 『メディチ家の人びと』
 『ルネサンス精神の深層』
 『The Life of Cesare Borgia

ニッコロ・ヴァローリ Niccolò Valori

生没
1464年1月20日~1527年5月20日
出身
フィレンツェ
没地
ローマ
バルトロメオ・ヴァローリ
カテリーナ・デ・パッツィ
ジネヴラ・ランフレディーニ
フランチェスコ・ヴァローリ
フィリッポ・ヴァローリ
ジャンバッティスタ・ヴァローリ
カテリーナ・ヴァローリ
ルクレツィア・ヴァローリ

概要

 ニッコロ・ヴァローリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

職歴

 第二書記局員

年表

1504年1月初旬

フィレンツェにより、対スペイン戦争に関するルイ12世の意図と準備態勢を知るため、ルイ12世のもとに派遣される。

1512年9月3日

フィレンツェにより、ライモンド・ディ・カルドーナのもとへBaldassarre CarducciOrmannozzo DetiNiccolò del Neroコジモ・デ・パッツィヤコポ・サルヴィアーティパオロ・ヴェットーリと共に派遣される。メディチ家とその郎党の私人としての市内復帰、神聖同盟への加入、フェルナンド2世・デ・アラゴン及びライモンド・ディ・カルドーナへの献金、ライモンド・ディ・カルドーナの占領したフィレンツェ領の返還と彼の軍の撤退について合意すると共に、フェルナンド2世・デ・アラゴンとの相互防衛協定を結んで彼の傭兵200名分の賃金の支払いを引き受ける。

1513年2月18日

反メディチ陰謀発覚:参画していたとの嫌疑を受け、逮捕、拘留される。

1513年

ヴォルテッラの城塞に投獄される。

1513年

教皇レオ10世の赦免により釈放される。

15??年

ロレンツォ・イル・マニーフィコの伝記を著す。

1527年5月20日

ローマにて、死(1526年、1528年、1530年)。

外部リンク

 Academia.ed
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 Treccani

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ディアノーラ・ヴァローリ Dianora Valori

生没
14??年~1526年6月28日
フランチェスコ・ヴァローリ
コスタンツァ・カニジャーニ
ニッコロ・デリ・アレッサンドリ
ジローラモ・デリ・アレッサンドリ
フランチェスコ・デリ・アレッサンドリ
ピエラ・デリ・アレッサンドリ
ピエロ・デリ・アレッサンドリ

概要

 ディアノーラ・ヴァローリは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。

年表

1492年4月26日

ジローラモ・デリ・アレッサンドリを出産。

1502年9月20日

フランチェスコ・デリ・アレッサンドリを出産。

バッチオ・ヴァローリ Baccio Valori

生没
1477年12月5日~1537年8月20日
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ
フィリッポ・ヴァローリ
アレッサンドラ・サルヴィアーティ
ディアノーラ・ソデリーニ
パオラントーニオ・ヴァローリ
フィリッポ・ヴァローリ

概要

 バッチオ・ヴァローリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

年表

1512年8月31日

パオロ・ヴェットーリアントンフランチェスコ・デリ・アルビッツィらメディチ派の有力者と共に、少数の兵を率いて政庁宮に入り、ピエロ・ソデリーニを脅迫して辞任を強制。夜ピエロ・ソデリーニは、シエナへ逃亡。後ラグーサへ逃れる。

1530年8月11日

朝、フィレンツェの4使節は、和平(降伏)協定案を持って市内に帰る。彼らに同道したカール5世軍陣営における委員バッチオ・ヴァローリとフィレンツェのシニョーリアとの交渉は、夜妥結。コンシーリオ・デリ・オッタンタもこれを承認。

1530年8月~10月31日

メディチ派が制した新体制の中で、クレメンス7世の全権代理バッチオ・ヴァローリが事実上、支配権を握り、彼をロベルト・アッチャイウオリフランチェスコ・ヴェットーリフランチェスコ・グイッチャルディーニらが補佐。以後、彼らによりフィレンツェ市民軍九人委員会の廃止、全市民の武装解除、共和政下最後の正義の旗手ラッファエーレ・ジローラミ、その前の正義の旗手で熱烈な共和政派のフランチェスコ・カルドゥッチら48名の共和政派の逮捕、拷問、内フランチェスコ・カルドゥッチ(1465年~)ら6名の処刑などが次々に断行される。共和政の指導者及びその下での反メディチ行為については不問とするとの和平(降伏)協定は早くも踏みにじられる。

1531年1月29日

メディチ派内部に対してさえ非寛容な専断をなし過ぎたため解任された(1530年末)バッチオ・ヴァローリに代わってクレメンス7世によりその全権代理に任命されたカプア大司教Nikolaus von Schönberg着任。

1532年4月4日

バーリア、クレメンス7世の命に従い、12名(フランチェスコ・グイッチャルディーニフランチェスコ・ヴェットーリロベルト・アッチャイウオリ、マッテオ・ストロッツィ、バッチオ・ヴァローリ、Matteo NiccoliniRobert Pucciパッラ・ルチェッライヤコポ・ジャンフィリアッツィ(1470年~1549年)、Agostino Diniジャンフランチェスコ・リドルフィGiuliano Capponi)のRiformatori(改革者)を選出し、政体変改の権限を与える。この12名と現正義の旗手Gianfrancesco de' Nobili、新政体について協議を開始。

1537年7月下旬

軍の編成に励んでいたフィリッポ・ストロッツィ、バッチオ・ヴァローリら亡命者たち、ミランドラで決起。数千の兵をフィリッポ・ストロッツィの子ピエロ・ストロッツィ(1510年頃~1558年)及びベルナルド・サルヴィアーティ(1492年~1568年)に指揮させてアペニンを越え、ピストイアとプラートの中間地モンテムルロに集結。

1537年8月1日

午前2時フィレンツェを発ち未明にプラートに到着したアレッサンドロ・ヴィテッリ指揮のスペイン軍、直ちにモンテムルロに向かい、亡命者たちの軍を急襲して壊滅させ、フィリッポ・ストロッツィ、バッチオ・ヴァローリ両父子、アントンフランチェスコ・デリ・アルビッツィLudovico Rucellaiら指揮者をことごとく捕虜とする。

正午、亡命者たちの軍壊滅の報、市内に届く。

夜、捕虜、市内に連行され、コジモ1世・デ・メディチの前に引き出される。

1537年8月20日

アントンフランチェスコ・デリ・アルビッツィ(1486年~)及びバッチオ・ヴァローリ(?~)父子らが処刑される。

別表記

 バッチョ、バルトロメオ、バルトロメ-オ・ディ・フィリッポ・ヴァローリ、Bartolomeo

外部リンク

 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2022年11月23日