Acciaiuoli

アッチャイウオリ家

グイダロット・アッチャイウオリ Guidalotto Acciaiuoli

生没
12??年~12??年
アッチャイオロ・アッチャイウオリ
ギゼッラ
ニッコロ・アッチャイウオリ
ドナート・アッチャイウオリ
トンマーゾ・アッチャイウオリ
オッタヴィアーノ・アッチャイウオリ
ティンガ・アッチャイウオリ
ソフィア・アッチャイウオリ

概要

 グイダロット・アッチャイウオリは、13世紀頃のイタリアの男性。

別表記

 Lotto

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

ニッコロ・アッチャイウオリ Niccolò Acciaiuoli

生没
12??年~1???年
グイダロット・アッチャイウオリ
ギゼッラ
ペラ・マンツオーリ
アッチャイオロ・アッチャイウオリ

概要

 ニッコロ・アッチャイウオリは、13世紀頃のイタリアの男性。

在職

 フィレンツェ市判事
 プリオーレ 1289年、1294年、1298年
 査定及び徴収官 1297年

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

トンマーゾ・アッチャイウオリ Tommaso Acciaiuoli

生没
12??年~1???年
グイダロット・アッチャイウオリ
ギゼッラ
?・デリ・アルビッツィ
ドナート・アッチャイウオリ
モンテ・アッチャイウオリ
フィリッポ・アッチャイウオリ
アルビツォ・アッチャイウオリ
アラマンノ・アッチャイウオリ

概要

 トンマーゾ・アッチャイウオリは、13世紀頃のイタリアの男性。

在職

 フィレンツェ市議会議員 1278年
 ウミリアーティ騎士団とフィレンツェ共和国間の紛争調停官 1278年
 プリオーレ 1285年、1288年、1290年、1295年
 フィレンツェ市権利回復担当会計官 1295年
 正義の旗手 1298年
 公道修復担当官 1299年

別表記

 Mannino

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

アッチャイオロ・アッチャイウオリ Acciaiolo Acciaiuoli

生没
1???年~1349年
没地
フィレンツェ
ニッコロ・アッチャイウオリ
グリエルミーナ・デ・パッツィ
ニッコロ・アッチャイウオリ
ラパ・アッチャイウオリ
アンドレイナ・アッチャイウオリ

概要

 アッチャイオロ・アッチャイウオリは、13~14世紀頃のイタリアの男性。
 ナポリ、バルレッタ、ギリシャ、レヴァント、バルベリアに支店を設立。ナポリ王ロベルト・ダンジオに多額の資金を融資。

在職

 プリオーレ 1322年、1333年
 ゴンファロニエーレ・ディ・コンパーニア 1332年、1337年
 駐サン・ジミニャーノ外交官 1332年
 駐ピストイア外交官 1333年
 ナポリ王侍従兼評議員 1333年~
 橋建設担当官 1334年
 プラートのナポリ王終身代官 1335年~1349年
 カメラ・デル・コムーネのコッミッサーリオ 1336年
 十二人の良き人々 1336年、1339年
 軍事六人委員会 1336年
 ピストイア城主 1339年

埋葬地

 フィレンツェ修道院

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

ドナート・アッチャイウオリ Donato Acciaiuoli

生没
1???年~1335年
没地
フィレンツェ
トンマーゾ・アッチャイウオリ
?・デリ・アルビッツィ
タッジア・ビロッティ
ヤコポ・アッチャイウオリ
ゲラルド・アッチャイウオリ
アンジェロ・アッチャイウオリ

概要

 ドナート・アッチャイウオリは、13~14世紀頃のイタリアの男性。

在職

 プリオーレ 1316年、1320年、1326年、1329年
 メルカンツィア評議会議員 1320年
 駐ナポリ外交官 1323年、1325年、1333年
 フィレンツェ共和国戦争カピターノ 1325年
 フィレンツェ共和国政府再編の代議員 1328年
 セスト・ディ・ボルゴの十二人の良き人々 1328年、1333年
 ゴンファロニエーレ・ディ・コンパーニア 1331年
 駐ボローニャ外交官 1332年

埋葬地

 フィレンツェ、サンティ・アポストリ教会

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

ニッコロ・アッチャイウオリ Niccolò Acciaiuoli

生没
1310年9月12日~1365年11月8日
出身
カステッロ・ディ・モンテグフォーニ
没地
ナポリ
アッチャイオロ・アッチャイウオリ
グリエルミーナ・デ・パッツィ
マルゲリータ・デリ・スピーニ
ロレンツィーノ・アッチャイウオリ
アンジェロ・アッチャイウオリ
ロレンツォ・アッチャイウオリ
ベネデット・アッチャイウオリ

概要

 ニッコロ・アッチャイウオリは、14世紀のイタリアの男性。

在位

 ナポリ王のバンデレーゼ騎士 1338年~
 カラマータ、ヴォスティッツァ、ニヴェロ男爵 1338年~
 パラティーノ伯爵 1348年~
 ジョイア、カノーザ、コルネート、パロ領主 1348年~
 ナポリのカステッロ・ディ・サンテルモ領主 1348年~
 テルリッツィ伯爵、サトリアーノ伯爵 1348年~1349年
 ジノーザ、マテーラ領主 1348年~1349年
 初代メルフィ、ラポッラ、チステルナ、スピナッツォーラ伯爵 1349年~
 初代ジェラーチェ、トロペア、セミナーラ伯爵 1349年~
 トラモンティ、ロッカピエモンテ、マイオーリ、グラニャーノ、ピノ、スカファーティ、ノチェーラ・デイ・パガーニ、レッテーレ領主 1349年~
 カヴァ、ブッチーノ、サン・マルツァーノ、ヴァッレ、チヴィテッラ・ダブルッツォ領主 1349年~
 サント・スピリト・デル・レット・デジデリオ騎士団騎士 1352年~
 ソヴラーノ・ディ・コリント領主 1358年~

在職

 ナポリ王の駐フィレンツェ大使 1341年~
 テッラ・ディ・ラヴォロの判事 1341年~
 ナポリ王国大執事 1348年~
 カラブリア公国総大将 1349年~
 シチリア島へのナポリ遠征軍総司令官 1354年
 ローマ上院議員 1359年12月~
 カンパーニャ・ロマーニャ伯爵(知事) 1359年12月~
 サン・ピエトロの財産の管理官 1359年12月~
 駐ミラノ教皇大使 1359年12月
 ロマーニャの副伯爵(副知事) 1360年10月~
 教皇顧問 1360年10月~

年表

1328年

マルゲリータ・デリ・スピーニと結婚。

1348年

ポルタ・カプアーナ地区のナポリ王国貴族として子孫と共に登録される。

1350年

インノケンティウス6世から黄金の薔薇を拝受。

作品

埋葬地

 ヴァル・デマ修道院

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani
 Wikipedia

ヤコポ・アッチャイウオリ Jacopo Acciaiuoli

生没
1???年~1356年
没地
フィレンツェ
ドナート・アッチャイウオリ
タッジア・ビロッティ
バルトロメア・リカーゾリ
ドナート・アッチャイウオリ
ビンダッチョ・アッチャイウオリ
ジョヴァンニ・アッチャイウオリ
ネリ1世・アッチャイウオリ
アンジェロ・アッチャイウオリ
アンドレイナ・アッチャイウオリ
カテリーナ・アッチャイウオリ
シジスモンダ・アッチャイウオリ

概要

 ヤコポ・アッチャイウオリは、14世紀頃のイタリアの男性。

在職

 ヴァル・ディ・グレーヴェのカピターノ 1336年
 アペニン山脈の管理責任者 1337年
 ゴンファロニエーレ・ディ・コンパーニア 1340年
 ルッカの治安判事 1341年
 正義の旗手 1341年5月~6月

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

ドナート・アッチャイウオリ Donato Acciaiuoli

生没
1334年~1405年頃
没地
ローマ
ヤコポ・アッチャイウオリ
バルトロメア・リカーゾリ
オネスタ・ストロッツィ
テッカ・テバルドゥッチ
ヤコポ・アッチャイウオリ
ジョヴァンニ・アッチャイウオリ
アントーニオ・アッチャイウオリ
ラウドミア・アッチャイウオリ
バルトロメア・アッチャイウオリ
ネリ・アッチャイウオリ
マルゲリータ・アッチャイウオリ
フランチェスコ・アッチャイウオリ
ヴァンニ・アッチャイウオリ

概要

 ドナート・アッチャイウオリは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。

在位

 カッサーノ、カスターニョ男爵 1392年10月10日~

在職

 正義の旗手 1391年7月~8月、1394年11月~12月

年表

1359年

オネスタ・ストロッツィと結婚(1369年)。

1365年~

コリント知事。

1373年

フィレンツェ共和国の外交官としてピストイアに派遣される。

1378年7月20日

チオンピの乱に積極的に参加した後、この日フィレンツェより騎士とされる。

1379年

ヴェローナのポデスタ

1381年

コッレージョ・デッラ・シニョーリアの一員。

1383年

フィレンツェ共和国の外交官としてナポリ王のもとに派遣される。

1384年

ペシアのフィレンツェ共和国代官。

1384年

フィレンツェ共和国の外交官としてペルージアに派遣される。

1385年

フィレンツェ共和国の外交官としてナポリ王のもとに派遣される。

1389年

フィレンツェ共和国の外交官としてパドヴァとヴェネツィアに派遣される。

1390年

ヴァル・デルサのフィレンツェ共和国コッミッサーリオ

1391年

正義の旗手

1392年10月10日

ナポリ王によりカッサーノとカスターニョ(アブルッツィ)の男爵に叙爵される。

1393年

フィレンツェ共和国の外交官としてフェッラーラに派遣される。

1394年

正義の旗手

1395年

フィレンツェ共和国の外交官としてミラノに派遣される。

1405年頃

ローマにて、死(1400年)。

埋葬地

 チェルトーザ・ディ・ヴァル・デルサ

外部リンク

 CORE
 Famille de Carné
 Google Books
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 RootsWeb.com
 Treccani
 Wikipedia

ヤコポ・アッチャイウオリ Jacopo Acciaiuoli

生没
13??年~14??年
ドナート・アッチャイウオリ
オネスタ・ストロッツィ
コスタンツァ・デ・バルディ
アニョーロ・アッチャイウオリ
ラウドミア・アッチャイウオリ

概要

 ヤコポ・アッチャイウオリは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。

在位

 カッサーノ、カスターニョ男爵

外部リンク

 Famille de Carné
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 RootsWeb.com

ラウドミア・アッチャイウオリ Laudomia Acciaiuoli

生没
13??年~1397年
ドナート・アッチャイウオリ
オネスタ・ストロッツィ
ピエロ・グイッチャルディーニ

概要

 ラウドミア・アッチャイウオリは、14世紀のイタリアの女性。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

ネリ・アッチャイウオリ Neri Acciaiuoli

生没
1401年~1429年3月
出身
ローマ
没地
フィレンツェ
ドナート・アッチャイウオリ
テッカ・テバルドゥッチ
レーナ・ストロッツィ
ピエトロ・アッチャイウオリ
ドメニコ・アッチャイウオリ
マルゲリータ・アッチャイウオリ
バルトロメア・アッチャイウオリ
コンテッサ・アッチャイウオリ
アニョレッタ・アッチャイウオリ
ドナート・アッチャイウオリ

概要

 ネリ・アッチャイウオリは、15世紀のイタリアの男性。

年表

1421年頃

レーナ・ストロッツィと結婚。

外部リンク

 CORE
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

アニョーロ・アッチャイウオリ Agnolo Acciaiuoli

生没
?~1467年以降
ヤコポ・アッチャイウオリ
コスタンツァ・デ・バルディ
サラチーナ・テバルドゥッチ
ヤコポ・アッチャイウオリ
ロレンツォ・アッチャイウオリ
ニッコロ・アッチャイウオリ
ヤコポ・アッチャイウオリ
ネリ・アッチャイウオリ
ヤコポ・アッチャイウオリ
ラッファエーレ・アッチャイウオリ
タンチア・アッチャイウオリ
ラウドミア・アッチャイウオリ

概要

 アニョーロ・アッチャイウオリは、イタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
 祖父のドナート・アッチャイウオリよりカッサーノ男爵位を相続するが、ナポリ王国内の彼の領地は1467年に没収される。
 外交官としての経歴はナポリより始まり、1415年、ジョヴァンナ2世・ダンジオより騎士の称号を授与される。
 その後、先祖代々の地であるフィレンツェに引っ越し、フィレンツェにおいても騎士の称号を授与される。ヴェネツィア、ルッカ、フェッラーラ、教皇庁などの地へ派遣される。
 1451年5月初め頃に発足した、ヴェネツィアとアルフォンソ5世・デ・アラゴンらの同盟に対抗するための十人委員会に、コシモ・イル・ヴェッキオネリ・カッポーニルカ・ディ・マーゾ・デリ・アルビッツィらと共に選ばれる。
 1452年10月、フィレンツェは、使節として彼をシャルル7世の元に送り、ルネ・ダンジュー軍のイタリア派遣を要請して受諾される。
 このようにメディチ支配下で指導的地位を占めていたフィレンツェの有力者であったが、ルカ・ピッティディエティサルヴィ・ネローニニッコロ・ソデリーニらと共に、ピッティ陰謀事件に加担したことにより、失脚。息子たちと共にバーリ近郊Barlettaへ、20年間追放の処分を受ける。

在位

 カッサーノ男爵 ~1467年
  先代:ヤコポ・アッチャイウオリ
 正義の旗手 1448年11月~12月、1454年

年表

1415年

ナポリ王ジョヴァンナ2世・ダンジオより騎士の称号を授与される。

1415年

armato Cavaliere di Popolo dalla Signoria di Firenze

1415年

フィレンツェ共和国外交官としてGiacomo di Borbone di la Marcheの元へ。

1420年5月23日

サラチーナ・テバルドゥッチと結婚。

1422年

フィレンツェ共和国外交官としてヴェネツィアへ。

1438年

フィレンツェ共和国外交官としてルッカへ。

1438年

Membro della Magistratura dei Dieci di Balia

1440年

Membro della Magistratura dei Dieci di Balia

1440年

フィレンツェ共和国外交官としてフェッラーラへ。

1441年

Membro della Magistratura dei Dieci di Balia

1441年

フィレンツェ共和国外交官としてフェッラーラへ。

1447年

Oratore della Repubblica di Firenze al Sommo Pontefice

1448年11月~12月

正義の旗手

1449年

フィレンツェ共和国外交官としてフランチェスコ1世・スフォルツァの元へ。

1450年

フィレンツェ共和国外交官としてフランチェスコ1世・スフォルツァの元へ。

1451年

Oratore della Repubblica di Firenze al Re di Francia

1451年5月初め

ヴェネツィアとアルフォンソ5世・デ・アラゴンらの同盟に対抗すべく、この頃?、コジモ・イル・ヴェッキオネリ・カッポーニ、アニョーロ・アッチャイウオリ、ルカ・デリ・アルビッツィ(1382年~1458年)らを委員とする新十人委員会を編成。

1452年10月

フィレンツェは、使節としてアニョーロ・アッチャイウオリをシャルル7世の元に送り、ルネ・ダンジュー軍のイタリア派遣を要請して受諾される。

1453年11月5日

イタリア諸国間の和平が実現しない状況に対処すべく、ルカ・ピッティコジモ・イル・ヴェッキオ、ネリ・カッポーニ、アニョーロ・アッチャイウオリらを委員とする新十人委員会が編成され、委員の任期は5年と定められる。

このバーリア、アッコピアトーリシニョーリアなど主要官職選出の大権の延長を承認。

1454年

正義の旗手

1458年

Barone di Cassano e del Castagno, Signore di Corato (Quarata) in Terra di Bari, investito dal Re di Napoli

1466年

per aver tramato contro i Medici fu esiliato a Barletta

1466年5月27日

コジモ・イル・ヴェッキオ死後もしばらくはピエロ・イル・ゴットーソの最強の支持者だったものの次第にメディチ家を離れ、その権力、威勢の限定、縮小と、共和政の復活を唱えてきたルカ・ピッティを指導者とし、ジャンノッツォ・ピッティManno Temperani、アニョーロ・アッチャイウオリ、ディエティサルヴィ・ネローニらメディチ支配下で指導的地位を占めてきた有力者を中心とする約400名の市民、共和政の再建、維持に全力を尽くして当たるとの誓約を行う。但しこの誓約、今だピエロ・イル・ゴットーソの追放などは唱えず。

1466年8月

ルカ・ピッティの陰謀:新ミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァからの、父、故フランチェスコ1世・スフォルツァ時代以来の定期支援金の求めに応じようとするピエロ・イル・ゴットーソと対立したのを契機にメディチ支配の一掃を企図するようになったルカ・ピッティを中心とするアニョーロ・アッチャイウオリ、ディエティサルヴィ・ネローニニッコロ・ソデリーニら、病弱なピエロ・イル・ゴットーソの行動力の欠如と彼の強大な支援者フランチェスコ1世・スフォルツァの死を利して一気にピエロ・イル・ゴットーソを殺害しメディチ支配を打倒することを狙う。このためボルソ・デステに密かに支援を求める。

1466年9月11日

バーリア、ピッティ陰謀事件の関係者の処罰を決める:アニョーロ・アッチャイウオリは息子たちと共にバーリ近郊バルレッタへ、ディエティサルヴィ・ネローニは兄弟と共にシチリアへ、ニッコロ・ソデリーニは息子と共にフランス・プロヴァンスへ、それぞれ20年追放する他、関係者をことごとく追放や罰金刑に処する。しかし中心メンバーのルカ・ピッティのみは処罰せず放置。

以後ルカ・ピッティ、各派から軽蔑され、事実上の陰棲を余儀なくされる。

1467年5月10日

バルトロメオ・コッレオーニ指揮のフィレンツェ被追放者軍、エルコーレ1世・デステ及びアレッサンドロ・スフォルツァらの軍も加え、この日ポー河を越えてフィレンツェ攻撃に向かう。アニョーロ・アッチャイウオリ、ディエティサルヴィ・ネローニルカ・ピッティの陰謀の首謀者たちもこれに従う。

1467年

patì la confisca di tutti i feudi napoletani

1467年6月13日

bandito il 13-VI-1467 per aver rotto il confino, ebbe nel 1415 il privilegio della Corona di Palme dalla Regina Giovanna II di Napoli e dalla Signoria di Firenze il privilegio della Croce sulla Targa in Capo allo Stemma (+post 1467)。

別表記

 アニョロ・アッチャイウオリ、アニョーロ・アッチァイウォーリ、Angelo Acciaioli di Cassano

関連項目

 ピッティ陰謀事件

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ラウドミア・アッチャイウオリ Laudomia Acciaiuoli

ヤコポ・アッチャイウオリ又はアニョーロ・アッチャイウオリ
ピエルフランチェスコ・デ・メディチ
ロレンツォ・イル・ポポラーノ
ジョヴァンニ・イル・ポポラーノ

別表記

 ラウダミア・アッチャイウォーリ

外部リンク

 Famille de Carné
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 RootsWeb.com

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『ルネッサンス夜話』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ピエトロ・アッチャイウオリ Pietro Acciaiuoli

生没
1426年11月24日~1460年頃
出身
フィレンツェ
ネリ・アッチャイウオリ
レーナ・ストロッツィ
レオナルダ・ネローニ
ネリ・アッチャイウオリ
ジョヴァンニ・アッチャイウオリ
パンドルフォ・アッチャイウオリ
フランチェスカ・アッチャイウオリ
ニッコロ・アッチャイウオリ
マッダレーナ・アッチャイウオリ
オネスタ・アッチャイウオリ
バルトロメア・アッチャイウオリ
アレッサンドラ・アッチャイウオリ

概要

 ピエトロ・アッチャイウオリは、15世紀のイタリアの男性。

年表

1450年

レオナルダ・ネローニと結婚。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

ドナート・アッチャイウオリ Donato Acciaiuoli

生没
1429年3月15日~1478年8月28日
出身
フィレンツェ
没地
ミラノ公国ミラノ
ネリ・アッチャイウオリ
レーナ・ストロッツィ
マリエッタ・デ・パッツィ
アレッサンドロ・アッチャイウオリ
ロベルト・アッチャイウオリ
ロレンツォ・アッチャイウオリ
ピエトロ・アッチャイウオリ
カテリーナ・アッチャイウオリ
カッサンドラ・アッチャイウオリ

概要

 ドナート・アッチャイウオリは、15世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。

在職

 正義の旗手 1474年3月~4月

年表

1429年3月15日

フィレンツェにて、生。

1461年

騎士ピエロ・デ・パッツィフィアンメッタ・ジューニの娘マリエッタ・デ・パッツィと結婚。

1461年10月20日

新フランス王ルイ11世のもとへ派遣のピエロ・デ・パッツィ率いる使節団に参加。

1461年

フランス王宮の顧問兼教師に任命される。

1462年

ポッピとカセンティーノの総督。

1463年

プリオーレ・ディ・リベルタ。

1464年

コッミッサーリオとしてピストイアへ。

コジモ・イル・ヴェッキオの弔辞を読む。

コジモ・イル・ヴェッキオに「祖国の父」の称号を与えることを提案し、法令をまとめる。

1467年

ミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァのもとへ派遣のルカ・ピーニ率いる使節団に参加。

1469年

ヴォルテッラ長官。

1470年

モンテプルチアーノのポデスタ

聖職者の財産に対する課税の許可を得るために、教皇パウルス2世のもとへ使節。

1471年

新教皇シクストゥス4世のもとへ即位祝賀のため使節団を率いて訪問。

1471年10月3日

シクストゥス4世の前で演説を行う。

1471年

ヴォルテッラの反乱への支援を妨げるため、シエナへ使節として派遣される。

1473~1474年

Ufficiale dello Studio

1473年8月17日

レオナルド・ブルーニの『Historiarum florentini populi libri Ⅻ』(1440)のイタリア語訳『フィレンツェ史(Storia fiorentina)』完了。

1474年3月~4月

フィレンツェ共和国正義の旗手

1476年

ピサのポデスタ

ローマ駐在大使。

『フィレンツェ史』ヴェネツィアで刊行。

1477年

ヴォルテッラ長官。

1478年

パッツィ家の陰謀ローマにまだ駐在しており、報復としてジローラモ・リアリオに逮捕されるが、ヴェネツィアミラノの大使が猛反対し、サンタンジェロ城の地下牢には入れられず。

フランス王宮への使節。

1478年8月28日

ミラノにて、死。

1479年

『フィレンツェ史』ローマで刊行。

別表記

 ドナート・アッチャユオーリ

外部リンク

 イタリアのコンフラテルニタとドチリナ・キリシタン
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス精神の深層』

ジョヴァンニ・アッチャイウオリ Giovanni Acciaiuoli

生没
1460年12月29日~1527年
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ
ピエトロ・アッチャイウオリ
レオナルダ・ネローニ
ジネヴラ・リドルフィ
カテリーナ・アルディンゲッリ
バルトロメア・アッチャイウオリ
ニッコロ・アッチャイウオリ
ピエトロ・アッチャイウオリ
コジモ・アッチャイウオリ
マルチェッロ・アッチャイウオリ
ベルナルド・アッチャイウオリ
アントーニオ・マリーア・アッチャイウオリ
フランチェスコ・アッチャイウオリ
ヤコポ・アッチャイウオリ

概要

 ジョヴァンニ・アッチャイウオリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

年表

1489年

ジネヴラ・リドルフィと結婚。

1496年

カテリーナ・アルディンゲッリと結婚。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

アレッサンドロ・アッチャイウオリ Alessandro Acciaiuoli

生没
1466年10月12日~15??年
出身
フィレンツェ
ドナート・アッチャイウオリ
マリエッタ・デ・パッツィ
マリーア・デリ・アルビッツィ
オネスタ・ナージ

概要

 アレッサンドロ・アッチャイウオリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、ローマの貴族。

年表

1493年

マリーア・デリ・アルビッツィと結婚。

1496年

オネスタ・ナージと結婚。

1497年

プリオーレ・ディ・リベルタ。

1498年

火の試練でジローラモ・サヴォナローラの代父を務める。

1501年5月15日

領内深くに軍を進めてカンピにまで迫ってきたチェーザレ・ボルジアの元に新使節としてコジモ・デ・パッツィ、フランチェスコ・デ・ネルリと共に派遣される。チェーザレ・ボルジアに妥協してチェーザレ・ボルジアを3年間傭兵隊長として雇う契約を結び、トスカーナからの退却を承認させる。しかしチェーザレ・ボルジアは退却せず。

1502年

プリオーレ・ディ・リベルタ。

1505年

ヴォルテッラのカピターノ。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ロベルト・アッチャイウオリ Roberto Acciaiuoli

生没
1467年11月7日~1547年8月6日
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ
ドナート・アッチャイウオリ
マリエッタ・デ・パッツィ
ルクレツィア・ストロッツィ
マルゲリータ・アッチャイウオリ
ドナート・アッチャイウオリ
カルロ・アッチャイウオリ
フランチェスカ・アッチャイウオリ
ディアノーラ・アッチャイウオリ

概要

 ロベルト・アッチャイウオリは、15世紀から16世紀のフィレンツェの男性。

年表

1505年

フィレンツェは彼をナポリのゴンザロ・デ・コルドバの元に派遣してバルトロメオ・ダルヴィアーノを支援せぬよう工作し了承を得るが、ゴンザロ・デ・コルドバからピサ攻撃を中止するよう求められる。

1526年4月20日

クレメンス7世は、フィレンツェ人ロベルト・アッチャイウオリをフランソワ1世の宮廷駐在大使に任命し、フランソワ1世との関係の緊密化を図る。

1505年5月4日

フィレンツェは、マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガを傭兵隊長に雇うべく侯のもとにニッコロ・マキアヴェッリを派遣して交渉するが失敗に終わる。

この頃?、ロベルト・アッチャイウオリをナポリのゴンザロ・デ・コルドバのもとに派遣してバルトロメオ・ダルヴィアーノを支援せぬよう工作し了承を得るが、彼からピサ攻撃を中止するよう求められる。

1523年

ジューリオ・デ・メディチの教皇即位の祝賀行事、市を挙げて盛大かつ華麗に繰り広げられる。

新教皇クレメンス7世に祝意と恭順の意を表する使節を派遣することにし、フランチェスコ・ミネルベッティフランチェスコ・ヴェットーリロレンツォ・モレッリヤコポ・サルヴィアーティ、ジョヴァンニ・トルナブオーニ、ロレンツォ・ストロッツィ、パッラ・ルチェッライ、ロベルト・アッチャイウオリ、アントーニオ・デ・パッツィ、ガレオット・メディチ、アレッサンドロ・プッチの11名が選出される。

1529年9月下旬~末

1529年9月21日ミケランジェロ、1529年9月24日フランチェスコ・グイッチャルディーニが市内から逃亡したのを初め、アレッサンドロ・デ・パッツィ、ロベルト・アッチャイウオリ、トンマーゾ・ソデリーニヤコポ・サルヴィアーティ、ルイジ・リドルフィ、バッチオ・カッポーニ、アゴスティーノ・デル・ネッロなどメディチ派と目された要人多数、状況の緊迫化と共にパニック状態に陥りつつある市内から、身の危険を覚えて逃亡。

逃亡者は直ちに帰国しなければ追放に処すとの帰国命令が出されるが大部分の者が従わず。ミケランジェロは1529年11月21日ようやく帰る。

1530年8月~10月31日

メディチ派が制した新体制の中で、クレメンス7世の全権代理バッチオ・ヴァローリが事実上、支配権を握り、彼をロベルト・アッチャイウオリ、フランチェスコ・ヴェットーリフランチェスコ・グイッチャルディーニらが補佐。以後、彼らによりフィレンツェ市民軍九人委員会の廃止、全市民の武装解除、共和政下最後の正義の旗手ラッファエーレ・ジローラミ、その前の正義の旗手で熱烈な共和政派のフランチェスコ・カルドゥッチら48名の共和政派の逮捕、拷問、内フランチェスコ・カルドゥッチ(1465年~)ら6名の処刑などが次々に断行される。共和政の指導者及びその下での反メディチ行為については不問とするとの和平(降伏)協定は早くも踏みにじられる。

1532年4月4日

バーリア、クレメンス7世の命に従い、12名(フランチェスコ・グイッチャルディーニフランチェスコ・ヴェットーリ、ロベルト・アッチャイウオリ、マッテオ・ストロッツィ、バッチオ・ヴァローリMatteo NiccoliniRobert Pucciパッラ・ルチェッライヤコポ・ジャンフィリアッツィ(1470年~1549年)、Agostino Diniジャンフランチェスコ・リドルフィGiuliano Capponi)のRiformatori(改革者)を選出し、政体変改の権限を与える。この12名と現正義の旗手Gianfrancesco de' Nobili、新政体について協議を開始。

1532年4月27日

君主政体の成立:Riformatori(改革者)により、シニョーリア及び正義の旗手の廃止、民事訴訟などに関する僅かな権限を持つConsiglio del Dugento(二百人評議会)及びSenatoとしての政治的権限を持つConsiglio de' Quarantotto(四十八人評議会)の設置(共に委員は終身)、アレッサンドロ・デ・メディチの終身Doge della Repubblica Fiorentinaフィレンツェ共和国統領)就任、アレッサンドロ・デ・メディチと彼の3ヶ月任期の4名のConsiglieri(助言者:四十八人評議会の成員ロベルト・アッチャイウオリ、Prinzivalle della Stufaフィリッポ・ストロッツィ、ルイジ・リドルフィ)による執政府の構成が宣言される。

コジモ・イル・ヴェッキオ以来、形式上は伝統的なComuneの制度に従って形式上共和政を保持しつつ実質上、君主政的支配体制を敷こうとしてきたメディチ家、公然と共和政を葬りPrincipato(君主国)の確立を目指す。

以後アレッサンドロ・デ・メディチは、限られた側近を私的顧問として重用し、中下層市民を引きつける施策を続けながら貴族の特権を制限ないしは排除し、自身の独裁権の確立、強化に励む。それと共に私的専横も目立ち始め、最有力者フィリッポ・ストロッツィを初め有力貴族が離反、抵抗し始める。

1534年

アレッサンドロ・デ・メディチクレメンス7世死後の支配体制を固めるためルイジ・グイッチャルディーニフランチェスコ・グイッチャルディーニ兄弟、ロベルト・アッチャイウオリ、フランチェスコ・ヴェットーリを側近としてフィレンツェに集める。

1537年1月9日

早朝、四十八人評議会召集、開催され、フランチェスコ・グイッチャルディーニらの主導によりコジモ1世・デ・メディチを、Ducaとしてではなく、カール5世によってアレッサンドロ・デ・メディチに承認された(1531年)Capo della Repubblica Fiorentinaの正統後継者として承認。同時にそのConsigliereとしてフランチェスコ・グイッチャルディーニフランチェスコ・ヴェットーリ、マッテオ・ストロッツィ、ロベルト・アッチャイウオリ、Matteo Niccoliniヤコポ・ジャンフィリアッツィGiuliano CapponiRaffaello de' Mediciの8名を指名。

別表記

 Ruberto di Donato di Neri Acciajuoli

外部リンク

 Google Books
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

カテリーナ・アッチャイウオリ Caterina Acciaiuoli

生没
14??年~
ドナート・アッチャイウオリ
マリエッタ・デ・パッツィ
ベネデット・ストロッツィ

概要

 カテリーナ・アッチャイウオリは、15世紀頃のイタリアの女性。

年表

1495年

ベネデット・ストロッツィと結婚。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2023年11月2日