Charles VII

シャルル7世

生没
1403年2月22日~1461年7月22日
出身
フランス王国パリ
没地
フランス王国メアン=シュル=イェーヴル
シャルル6世
イザボー・ド・バヴィエール
マリー・ダンジュー
アニェス・ソレル
ルイ11世
ジャン・ド・ヴァロワ
ラドゴンド・ド・ヴァロワ
カトリーヌ・ド・ヴァロワ
ジャック・ド・ヴァロワ
ヨランド・ド・ヴァロワ
ジャンヌ・ド・ヴァロワ
マルグリット・ド・ヴァロワ
マリー・ド・ヴァロワ
ジャンヌ・ド・ヴァロワ
マドレーヌ・ド・ヴァロワ
マリー・ド・ヴァロワ
シャルル・ド・フランス
シャルロット・ド・ヴァロワ
ジャンヌ・ド・ヴァロワ

概要

 シャルル7世は、15世紀の男性。イギリス人との百年戦争に終止符を打ったフランス王。

在位

 ベリー公 1417年~1422年
 第5代フランス王 1422年~1461年

年表

1403年2月22日

誕生。

1419年以降

マルティヌス5世から、1419年に制作された祝福された剣を拝受。

1420年

トロワの和約。イングランド王をフランス王位継承者とする。

1429年5月8日

小軍を与えたジャンヌ・ダルクが、オルレアンをイングランドから解放。

1429年7月17日

ジャンヌ・ダルクのオルレアン解放により、伝統に則りランス大聖堂でフランス王として戴冠式を実現。

1431年

シャルル7世、ポワチエ大学設立。

1435年9月21日

シャルル7世はブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボンの封建的臣従義務を一代限り免除し主権者として承認することで和約し(アラスの和)、フィリップ・ル・ボンを制肘下に入れる。但し、フィリップ・ル・ボンと結ぶイングランドはシャルル7世の優位を認めるこの和に抵抗し戦いを続行。

1436年4月3日

シャルル7世軍、イングランド軍からパリを奪回。以後シャルル7世のフランス内政改革始まる。

1436年

行政改革。

1438年7月7日

シャルル7世、「ブールジュの国事詔書」を発布。これによりフランス国民教会(ガリカニズム)の確立・王権による教会統制の強化、本格的に始まる。

1439年11月2日

シャルル7世、非貴族層に対する恒久的な直接税tailleを制定。

これを元に正規軍として自身の常備軍を設置すべく、まず封建貴族の軍隊保有を禁止。着々と集権的統一国家の形成に向かう。

1445年2~3月

シャルル7世、勅命によりCompagnies d'Ordonnace(騎士軍団)を創設し、自身の常備軍の設置を進める。

1448年8月28日

シャルル7世、Francs Archers(国民軍歩兵弓手隊)を創設し、自身の常備軍を整える。

1451年12月

フィレンツェ、フランチェスコ1世・スフォルツァ、ジェノヴァ及びマントヴァ侯ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ、同盟を締結。さらにフランス王シャルル7世に、対ヴェネツィア戦終結後はルネ・ダンジューの対アルフォンソ5世・デ・アラゴン戦、ナポリ奪還を支援することなどを挙げて同盟加入を働きかける。

1452年2月21日

シャルル7世、1451年12月以来のフィレンツェの呼びかけに応じ、(1)フィレンツェがその対ヴェネツィア戦争終了後ルネ・ダンジューの対アルフォンソ5世・デ・アラゴン戦、ナポリ奪還に協力することを条件にフィレンツェ・フランチェスコ1世・スフォルツァ・ジェノヴァ・マントヴァ同盟に加わり、(2)自分の対イングランド戦終了後ルネ・ダンジュー軍をイタリアに送ることを約束。1452年4月9日公表。

1452年10月

フィレンツェは、使節としてアニョーロ・アッチャイウオリをシャルル7世の元に送り、ルネ・ダンジュー軍のイタリア派遣を要請して受諾される。

1453年10月19日

シャルル7世配下のフランス軍は、ボルドーを解放し、カレーを除く大陸全土からイングランド軍を撃退。百年戦争、終結(1337/1339年~1453年)。イングランドはカレーを除き大陸における知行権の全てを失う。

この戦中、戦後、両国で封建諸侯の勢力衰退、没落と王権強化、中央集権化、促進される。

1457年

カリストゥス3世から黄金の薔薇を拝受。

1457年

カリストゥス3世 から祝福された剣を拝受。

1458年2月

ジェノヴァのドージェ、ピエトロ2世・フレゴーソは、対立する有力家門アドルノ家などと呼応してジェノヴァ攻撃を続けるアルフォンソ5世・デ・アラゴンに効しきれず、シャルル7世に帰順を申し入れ、ジェノヴァをナポリ再支配の根拠地としようと狙う彼はこれを受容。

1458年5月初め

シャルル7世、アルフォンソ5世・デ・アラゴンのジェノヴァ攻略を阻むべく、彼によりナポリから放逐されたルネ・ダンジューの子ジャン・ダンジューを総督としてジェノヴァに派遣。1458年5月11日頃からジャン・ダンジューはジェノヴァを統治し軍を指揮。

1459年10月5日

シャルル7世のジェノヴァ総督ジャン・ダンジューは、ナポリ王国内部のアンジュー家系領主たちの反フェッランテ・ダラゴーナの動向と呼応しつつ、この日頃、水軍を率いてナポリ湾に現われる。

1460年1月

ナポリ全土でアンジュー家系領主の反乱、発生。窮地に立たされたフェッランテ・ダラゴーナ、以後ヴェネツィア、フィレンツェなどイタリア同盟(1454年)諸国に支援を求める。しかし両国ともシャルル7世との対決を回避すべく中立を保持。対オスマン・トルコ聖戦への参加、協力を拒み続けるシャルル7世に敵対心を募らせるピウス2世と、シャルル7世のイタリアにおける勢力拡大がシャルル1世・ド・ヴァロワの自領ミラノへの要求を復活させることを恐れるフランチェスコ1世・スフォルツァは、援軍を派遣。

1461年3月9日~1461年3月10日

フランス支配下で重税に不満を高めてきたジェノヴァの民衆、大司教パオロ・フレゴーソ(1430年~1498年)の巧妙な策に導かれ武装蜂起。たちまちシャルル7世総督府の者たちを城塞に追いやる。

間もなくパオロ・フレゴーソ及びプロスペロ・アドルノがそれぞれ武装農民を率いて市内に入る。長年の宿敵フレゴーソ家とアドルノ家、対立を残しながらも和を結んでフランス支配に反抗し、シャルル7世軍守備隊を城塞に追い込む。

1461年3月12日

プロスペロ・アドルノが、ジェノヴァのドージェに選出される。

パオロ・フレゴーソ、自らミラノに赴いてフランチェスコ1世・スフォルツァに支援を求め、ジェノヴァからシャルル7世の勢威を排したいフランチェスコ1世・スフォルツァから十分な支援の約束を得る。

1461年7月前半

シャルル7世の送った軍が陸路、ルネ・ダンジュー指揮の水軍が海路ジェノヴァに到着し、総攻撃。フランチェスコ1世・スフォルツァ軍と共にジェノヴァ市民、反撃。

1461年7月17日

パオロ・フレゴーソ、プロスペロ・アドルノ指揮のジェノヴァ市民にフランス軍が総反撃され、撃退される。シャルル7世のジェノヴァ支配、事実上終わる。

1461年7月22日

死。

肖像

外部リンク

 ウィキペディア
 Genealogy.EU
 kleio.org

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア史Ⅴ』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『快楽の中世史』
 『君主論』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『大聖堂のコスモロジー』
 『中世の食卓から』
 『馬車の文化史』
 『服飾の中世』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの歴史』

記載日

 2005年5月29日以前