シルヴィオ・ピッコローミニ Silvio Piccolomini
- 生没
- 13??年~1420年
- 妻
- ヴィットーリア・フォルテグエッリ
- 子
- ラウドミア・ピッコローミニ
ピウス2世
コスタンツァ・ピッコローミニ
概要
シルヴィオ・ピッコローミニは、14世紀から15世紀のイタリアの男性、シエナ貴族。
外部リンク
ラウドミア・ピッコローミニ Laudomia Piccolomini
- 生没
- 14??年~
- 父
- シルヴィオ・ピッコローミニ
- 母
- ヴィットーリア・フォルテグエッリ
- 夫
- ?
?
ナンニ・ピッコローミニ - 子
- アントーニオ・ピッコローミニ
ピウス3世
ヤコポ・ピッコローミニ
アンドレア・ピッコローミニ
モンタニーナ・ピッコローミニ
概要
ラウドミア・ピッコローミニは、15世紀のイタリアの女性、シエナ貴族。
外部リンク
JDA's Family Tree
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
ナンニ・ピッコローミニ Nanni Piccolomini Todeschini
- 生没
- 1???年~1460年以降
- 出身
- サルテアーノ
- 父
- ピエトロ・トデスキーニ
- 妻
- ラウドミア・ピッコローミニ
- 子
- アントーニオ・ピッコローミニ
ピウス3世
ヤコポ・ピッコローミニ
アンドレア・ピッコローミニ
モンタニーナ・ピッコローミニ
概要
ナンニ・ピッコローミニ・トデスキーニは、15世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
ピウス2世 Pius II
- 生没
- 1405年10月18日~1464年8月14日
- 出身
- シエナ共和国コルシニャーノ
- 没地
- アンコーナ
- 父
- シルヴィオ・ピッコローミニ
- 母
- ヴィットーリア・フォルテグエッリ
概要
エネア・シルヴィオ・ピッコロミーニは、15世紀のイタリアの男性、聖職者、人文主義者、詩人、歴史家。第210代教皇ピウス2世。
在位
シエナ司教 1450年9月23日~1457年8月12日
枢機卿 1456年12月17日~1458年
任命した教皇:カリストゥス3世
第210代教皇 1458年~1464年
著作
『回想録』
年表
1456年12月17日
カリストゥス3世により、枢機卿に叙任される。
1458年8月19日
1456年末に枢機卿に叙任されたばかりのエネア・シルヴィオ・ピッコロミーニ、教皇に即位しピウス2世を名乗る。
オスマン・トルコの東ヨーロッパ侵攻に対抗するためにキリスト教世界の、とりわけイタリアの平穏と結束が不可欠と見てその実現に腐心。
1458年8月20日
まずナポリを巡る争乱を鎮めることが緊要と見て、フェッランテ・ダラゴーナをその正統王とみなし、教皇庁における彼の使節を王国使節と見なすことに決意。
1458年10月13日
オスマン・トルコに対すべく次年にキリスト教君主会議を召集、開催するとの勅書を発す。
1458年10月17日
ピウス2世とフェッランテ・ダラゴーナ、それぞれの代理の間で、前者は後者にナポリを封与後者をその王に叙任すること、後者は前者に忠誠を尽くすこと、を本旨とする前者に有利な協定をローマで締結。
1458年11月10日
前月の協定の旨の勅書を、ルネ・ダンジューをナポリ王となすべきとするフランス人枢機卿たちの反対を押さえて、発する。
1458年
1459年1月22日
オスマン・トルコ軍のセルビアの侵攻の報が届く中、1459年6月にマントヴァで開催することに決めたキリスト教君主会議のため、ローマを出発。以後ペルージア、シエナ、フィレンツェ、ボローニャ、フェッラーラなどでそれぞれの政情に応じた歓迎、供応を受けながらマントヴァに向かう。その途上、ヨーロッパ及びイタリアの諸国、諸君主に君侯自身ないしはその全権使節が会議に出席するよう促す書状を発し続ける。
1459年2月
シエナ到着。一足早く春が来たかの如く、町は花々、植物で飾られており、凱旋式のような歓迎を受ける。大司教宮殿に滞在。
1459年
1459年4月25日
フィレンツェ市内に入り、富を尽くした大歓迎を受ける。
滞在中、リーミニのシジスモンド・マラテスタら諸君主にまじりフランチェスコ1世・スフォルツァの長子ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが騎兵350を率いて表敬に現われ、以後マントヴァまで教皇を先導。
1459年5月5日
フィレンツェ市内を離れボローニャに向かう。
コジモ・イル・ヴェッキオは、健康が優れないことを理由に、ついに表敬せず。
1459年5月27日
大歓迎を受けてマントヴァに入る。しかし、召集した君主会議に出席すべき君主ないし全権使節は一人も到着していないことを知る。
1459年6月1日
ミサを開き、キリスト教君主会議の開催を宣言。同時に1459年6月2日にかけて会議への出席を求める回状を各国、各都市、各君主に発する。
1459年9月26日
1459年9月半ば過ぎ再三の招請に応えてフランチェスコ1世・スフォルツァがようやくマントヴァに現われたのに続き、イタリアの大小の君主ないしはその使節及びヴェネツィア、フィレンツェ、シエナ、ボローニャ、フェッラーラなどの使節が到着し、この日、開会宣言後3ヵ月半余を経てようやくキリスト教君主会議第一回会議を開催。
冒頭で教皇、オスマン・トルコに対するキリスト教世界の防衛を熱烈に訴え、その聖戦の遂行を決議させる。
1459年9月27日
この日から始まった対オスマン・トルコ聖戦の態勢の整備についての討議、自国の商業上の利益のため対オスマン・トルコ戦に加わりたくないヴェネツィア及びフィレンツェ、ことに前者の意義のため成案を得られず。
引き続き、ドイツ、フランス、イングランドなどの諸君主に会議への出席ないし全権使節の派遣を求める書状を送り続ける。
1459年11月30日
ルネ・ダンジューの使節から、面前で対オスマン・トルコ問題について語るより先にフェッランテ・ダラゴーナへのナポリ王位承認を非難し、その撤回とルネ・ダンジューへの王位授与を要求される。後日、これを却ける。
1459年
1460年1月半ば
対オスマン・トルコ聖戦の遂行の具体案を得られないままマントヴァを離れる(1460年1月半ば~1460年1月19日)。
1460年1月31日
フェッラーラ、ボローニャ、フィレンツェなどを経て、この日シエナ着。
1460年2月2日
聖燭祭をシエナ大聖堂で執り行い、シエナ市民1人1人に自ら蝋燭を手渡す。
1460年6月11日
バーニ・ディ・ペトリオーロにて、ロドリゴ・ボルジア枢機卿の不品行を戒める手紙をしたためる。
余の聞き知ったところによれば、3日前、シエナの数名の婦人がジョヴァンニ・ビーキの庭園(現シエナ国立絵画館)に集い、貴下は自らの品位をほとんどおもんばかるところなく午後の1時から6時までこの婦女子らと共にあり、しかも1名の枢機卿が貴下と行を共にしたとのことである。彼は、教皇庁への敬意からでないまでも、少なくともその年齢からして自らの義務を想起すべきであったろうと思われる。かなりに淫らな舞踏がなされたことも報告されている。あらゆる愛の誘惑がなされ、貴下は俗界の若者の如くに振舞ったとのことである。その場で起こったことを明記するのは憚られる。名を挙げることさえ貴下の品位には相応しからぬことである。若い婦人らに付き添ってきた夫、父親、兄弟、その他の近親者らは入場を禁じられた。貴下、及び貴下の意に従って参加し、踊る一部の親しい者たちが欲しいままに振る舞い、楽しむためである。シエナでは、この噂でもちきりであり、人々は貴下の軽薄な振る舞いを笑っている由である。教会人や信徒たちの多くいるこの温泉地においてさえ、貴下の名前が万人の話題にのぼっている。聖なる地位と職場を貶めた貴下の行為がもたらした、余の不愉快は言葉にできぬほどである。清廉潔白な生活を送るからではなく、欲望を満たすがために我々は富裕で地位が高いのだと、人々は言うだろう。これこそが君主や権力をして、我々や教会の長を定めるのだ。枢機卿たちと肩を並べ、教皇座の助言者として教皇と共にある者だという事実が、貴下の行為をいっそう咎むべきものとしているのだ。人を非難すれば自身の生活態度こそが己に仕返しするだから、女子に言い寄り、信徒たちに嘲られることが貴下の品位になるのかどうかは貴下に委ねよう。このような行為を放置しているように見えるのだから、キリストの代理人が侮辱されるのだ。愛する息子よ、貴下はスペインで最も重要なヴァレンシアの司教職を預かっていながら、果実や葡萄酒を愛し、あらゆる楽しみごとに1日中打ち興じた。貴下の故に、余は非難され、貴下に多くの名誉ある職責を委託したとして貴下の伯父上カリストゥス3世の名声も傷つけられた。若さゆえの過ちだと訴えるなら、貴下は己の職責を弁えぬほど若くはないと返そう。一枢機卿は非の打ちどころがなく、万人の目に善き生活の模範とならなければならない。それならば、俗世の君主たちが余に蔑称を浴びせる時、財産を巡って対立し余を意に従わせようとする時、正当な怒りを感じることができるのだ。その行いこそが教会の権威をないがしろにするがために、自ら己を傷つけ、自ら己に苦悩を与えているというのが真実なのだ。現世では、不名誉こそがその罰であり、受けて然るべき拷問である。それ故、分別でもって軽率な行動を慎み、自己の尊厳を見失うことのなきよう。そして、若い男女の間に粋人としての評判を立てようなどと求めてはならぬ。もし同じようなことが再び起こったならば、余も心苦しいが、そんなことを奨励しているわけではないということを示さざるを得なくなる。その問責は貴下を恥辱に苛まさせるだろう。貴下を常から愛し、熱心で謙虚な性格の男として目をかけるに値する者と思っている。しかるに、これから自らの振る舞いを正すなら前述の貴下への評価を変えないであろうし、秩序正しい生活の手本としてのみ貴下に注目するであろう。父親の如く叱るのは、改善を不可能とはしない貴下の年齢のせいなのだ。
1460年10月6日
シエナに8ヶ月余逗留し、ローマに帰着。
1460年
アルブレヒト1世・フォン・ブランデンブルクに祝福された剣を授与。
1461年8月上旬
この頃?、スカンデルベグ指揮のアルバニア騎兵隊、教皇の指示により対オスマン・トルコ戦からフェッランテ・ダラゴーナ支援にナポリに到着。
1461年
フランス王ルイ11世にブールジュの国事詔書(1438年)を形式的にではあれ撤回させる。
1461年
フィリップ・ル・ボンに祝福された剣を授与。
1462年3月31日
イフラヴァ協約(1436年、1437年)を無効とし廃棄すると宣言して俗人の聖餐を禁ずる。
1462年6月17日(木)
ヴィテルボで聖体祭を開催。聖体の行列のために「神に相応しい」方法で町を装飾するよう命じ、町全体が華やかに飾られる。壁にはタペストリーが掛けられ、道沿いには花や植物のアーチが置かれ、教皇は道中に散らばった花弁の上を聖体拝領体を抱えて歩く。
1462年7月6日
チヴィタヴェッキア近郊の教会領の山地トルファで明礬鉱が発見され、この日、教皇庁はトルファ明礬鉱の発見者(ジョヴァンニ・ディ・カストロ)及びそのパトロン(Bartolomeo da Framura、カルロ・ガエターニ)と鉱の開発について契約。
以後この地の明礬の独占販売の収入、教皇庁の財政を潤し、対オスマン・トルコ十字軍などに向けられる。
1462年9月
オスマン・トルコ軍、エーゲ海の大島レスボスを制圧。
1462年11月
オスマン・トルコ軍、コリントス湾とパトラ湾を結ぶ都市レパントを包囲し周辺を略奪。
1462年
1463年4月3日
オスマン・トルコ軍、モレア(ペロポネソス半島)東部アルゴリスのヴェネツィア植民地を襲撃し、この日、アルゴスを占領。
1463年5月
ヴェネツィアはまず艦隊を、続いて陸軍をモレアに送り、オスマン・トルコ軍と対峙、戦争状態に入る。
しかしヴェネツィア、公的には宣戦を布告せずになおオスマン・トルコとの協調を探り、トルコの脅威に曝されるボスニアからの同盟の提案を拒み続ける。
1463年5月~1463年6月
この間にオスマン・トルコ軍、ボスニアを制圧。トルコの脅威、イタリア本土にも及び始める。
1463年7月
対オスマン・トルコ十字軍の結成に再び専心。
この月、枢機卿ヨハネス・ベッサリオンをヴェネツィアに派遣し、オスマン・トルコに対する公式の宣戦布告及びキリスト教諸国・諸権力者による十字軍への参加を促す。しかしヴェネツィアはいずれにも難色を示す。
1463年7月24日
対オスマン・トルコの一環としてハンガリーの内紛を調停し、マティアス・コルヴィヌスを終身王とする和を結ばせる。
1463年7月28日
ヴェネツィアがオスマン・トルコに公式に宣戦を布告。
1463年9月1日
リュイス・ジョアン・デル・ミラ枢機卿に対して、カタルーニャ内戦終息のためにあらゆる手段を講じるよう命じる。
1463年9月12日
ヴェネツィアとハンガリーは、対オスマン・トルコ攻撃協定を結び、公表。
イタリア諸国、諸権力者の使節に対オスマン・トルコ十字軍の結成を呼びかける。
これに対し、レヴァントとの通商をヴェネツィアと競うフィレンツェの使節が、対トルコ問題はヴェネツィアの問題であり、ヴェネツィアが単独で対処すべきだとして最も強い難色を示す。
1463年10月
対オスマン・トルコ十字軍の結成にヴェネツィアの尽力が不可欠との観点からその要請を入れ、コンタードを5マイルに限定してリーミニを封与し教皇庁への貢納を義務付けるなどの厳しい条件付で、シジスモンド・マラテスタを免罪。
1463年10月22日
対オスマン・トルコ十字軍の結成を宣言し全キリスト教徒に応分の参加協力を訴える勅書を発す。
1463年11月初め
諸国、諸権力者の使節に対し、アンコーナに結集する十字軍の先頭に自ら立つとの決意を表明。
1463年
クリストフォロ・モーロに祝福された剣を授与。
1463年
自叙伝Commentarii rerum memorabilium quaetemporibus suis contigerunt(備忘録)を執筆。(1584年ローマで刊)。
1464年3月18日
カタルーニャに出立しないリュイス・ジョアン・デル・ミラに対し、前の勅書の制裁を取り消し、カタルーニャ内戦終結の協議が成立すれば祝福を強調する。
1464年6月18日
その病身を慮り周囲がこぞって反対する中、生きて再びローマを見ることはあるまいとの言葉を残し、対オスマン・トルコ十字軍を自ら率いるためアンコーナに向かってローマを出発。
教皇の悲愴な決意と行動、この後ヨーロッパ各地の民衆には感動を与え十字軍参加の熱を高める。
1464年6月20日
フィアーノに宿泊。
1464年7月19日
イタリア全土を覆うペストが猖獗を極めるアンコーナに到着。すでに甚だしく衰弱した彼は、ヴェネツィア初め諸国、諸権力者が約束した艦船、兵士がまだ到着していないことを知る。以後、ひたすらその到着を待つ。
1464年8月8日
コジモ・イル・ヴェッキオの死を悼み、継承者、長子ピエロ・イル・ゴットーソにアンコーナから弔文を送る。最後の手紙となる。
1464年8月14日
夜半、身命を賭した対オスマン・トルコ十字軍の結集を見ないままアンコーナで死(8月15日)。
この日、ヴェネツィアの小艦隊、アンコーナに到着。
肖像
任命した枢機卿
1460年3月5日 |
ニッコロ・フォルテゲッラ フランチェスコ・ピッコローミニ |
1461年12月18日 | フランチェスコ・ゴンザーガ |
本名
エネア・シルヴィオ・ピッコロミーニ、Enea Silvio Piccolomini
別表記
ピオ2世(Pio II)、アエネアス・シルヴィウス(Aeneas Silvius)
エネア・シルヴィオ・デ・ピッコロミニ、Enea Silvio de Piccolomini
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
GCatholic.com
Google Books
IDLE SPECULATIONS
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
The Cardinals of the Holy Roman Church
Treccani
参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『メディチ家』
『ルネサンス舞踊紀行』
『傭兵の二千年史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスとは何であったか』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの歴史』
『ルネサンス百科事典』
『ローマ教皇検死録』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
アントーニオ・ピッコローミニ Antonio Piccolomini Todeschini
- 生没
- 1437年~1493年
- 出身
- サルテアーノ
- 没地
- ナポリ王国ナポリ
- 父
- ナンニ・ピッコローミニ
- 母
- ラウドミア・ピッコローミニ
- 妻
- マリーア・ダラゴーナ
マリーア・ダ・マルツァーノ - 子
- イザベッラ・ピッコローミニ
ヴィットーリア・ピッコローミニ
マリーア・ピッコローミニ
アルフォンソ・ピッコローミニ
エレオノーラ・ピッコローミニ
ジャン・バッティスタ・ピッコローミニ
ジョヴァンナ・ピッコローミニ
フェッランテ・ピッコローミニ
フランチェスコ・ピッコローミニ
概要
アントーニオ・ピッコローミニ・トデスキーニは、15世紀のイタリアの男性。
在位
第1代アマルフィ公 1461年~1493年
先代:ライモンド2世・オルシーニ・デル・バルツォ
次代:アルフォンソ・ピッコローミニ
セニガッリア領主 1462年~1474年
年表
1458年
ナポリにて、マリーア・ダラゴーナと結婚。
外部リンク
Famille de Carné
JDA's Family Tree
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
ピウス3世 Pius III
- 生没
- 1439年5月9日~1503年10月18日
- 出身
- シエナ
- 没地
- ローマ
- 父
- ナンニ・ピッコローミニ
- 母
- ラウドミア・ピッコローミニ
概要
フランチェスコ・ピッコローミニ・トデスキーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。第215代教皇ピウス3世。
在位
シエナ教区長 1460年2月6日~1503年9月22日
枢機卿 1460年3月5日~1503年9月22日
第215代教皇 1503年9月22日~1503年10月18日
年表
1460年3月5日
ピウス2世により、枢機卿に選出される。
1497年9月6日(水)
朝、サンタ・マリア・ノヴァ聖堂でナポリ王戴冠式から帰還したチェーザレ・ボルジアを迎える。
1503年9月16日~1503年9月22日
コンクラーヴェに参加。
1503年9月22日
教皇に即位しピウス3世を名乗る。
1503年9月
チェーザレ・ボルジアの支持、協力で即位したため、チェーザレ・ボルジアのこれまでの地位、領国を全て改めて承認。
1503年9月23日
ヴェネツィア大使アントーニオ・ジュスティニアーニに、ヴェネツィア共和国のロマーニャへの企てに対する不満を表明。
1503年9月
ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿の甥フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレにセニガッリアを認めず。
ラッファエーレ・サンソーニ枢機卿の母方のいとこオッタヴィアーノ・リアリオらにイーモラとフォルリを認めず。
1503年9月25日
勅書を発し、反ボルジア同盟に対し、教会への反抗をやめるよう要求。
1503年9月26日
チェーザレ・ボルジアの傭兵隊長たちとロマーニャの領民に対し、彼に忠誠を尽くすよう命令(1503年9月25日)。
1503年10月3日
オルシーニ家が反乱し、2人の子供と共にサンタンジェロ城に避難。
1503年10月8日
勅書を発し、チェーザレ・ボルジアが教会の旗手であることを追認する。
1503年10月18日
夜12刻、在位26日間で病死。
関連項目
The Borgias: 101, 102, 107, 108, 109, 201
本名
フランチェスコ・トデスキーニ、Francesco Todeschini
別表記
Cardinal Piccolomini、cardinalis Senensis
外部リンク
ウィキペディア
GCatholic.com
JDA's Family Tree
The Cardinals of the Holy Roman Church
THE BORGIAS wiki
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネッサンスの光と闇』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『ローマ教皇検死録』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
アンドレア・ピッコローミニ Andrea Piccolomini Todeschini
- 生没
- 1445年頃~1505年12月
- 出身
- シエナ
- 没地
- シエナ
- 父
- ナンニ・ピッコローミニ
- 母
- ラウドミア・ピッコローミニ
- 妻
- アニェーゼ・ファルネーゼ
- 子
- ジョヴァンニ・ピッコローミニ
モンタニーナ・ピッコローミニ
ピエルフランチェスコ・ピッコローミニ
アレッサンドロ・ピッコローミニ
アレッサンドロ・ピッコローミニ
カテリーナ・ピッコローミニ
ヴィットーリア・ピッコローミニ
概要
アンドレア・ピッコローミニ・トデスキーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
年表
外部リンク
ヴィットーリア・ピッコローミニ Vittoria Piccolomini Todeschini
- 生没
- 14??年~
- 父
- アントーニオ・ピッコローミニ
- 母
- マリーア・ダラゴーナ
- 夫
- ヤコポ4世・ダッピアーノ
- 子
- ヤコポ5世・ダッピアーノ
ベアトリーチェ・ダッピアーノ
概要
ヴィットーリア・ピッコローミニ・トデスキーニは、15世紀頃のイタリアの女性。
年表
1478年
ヤコポ4世・ダッピアーノと結婚。
外部リンク
JDA's Family Tree
Geneanet
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
マリーア・ピッコローミニ Maria Piccolomini Todeschini
- 生没
- 1460年頃~
- 父
- アントーニオ・ピッコローミニ
- 母
- マリーア・ダラゴーナ
- 夫
- フランチェスコ2世・オルシーニ
- 子
- フェルディナンド1世・オルシーニ
カテリーナ・オルシーニ
ジョヴァンニ・オルシーニ
ジャナントーニオ・オルシーニ
概要
マリーア・ピッコローミニ・トデスキーニは、15世紀頃のイタリアの女性。
外部リンク
アルフォンソ・ピッコローミニ Alfonso Piccolomini Todeschini
- 生没
- 14??年~1503年頃
- 父
- アントーニオ・ピッコローミニ
- 母
- マリーア・ダ・マルツァーノ
- 妻
- ジョヴァンナ・ダラゴーナ
- 子
- アルフォンソ2世・ピッコローミニ
イザベッラ・ピッコローミニ
概要
アルフォンソ・ピッコローミニ・トデスキーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
在位
第2代アマルフィ公 1493年~1498年
先代:アントーニオ・ピッコローミニ
次代:アルフォンソ2世・ピッコローミニ
外部リンク
JDA's Family Tree
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
エレオノーラ・ピッコローミニ Eleonora Piccolomini Todeschini
- 生没
- 14??年~
- 父
- アントーニオ・ピッコローミニ
- 母
- マリーア・ダ・マルツァーノ
- 夫
- ベルナルディーノ・サンセヴェリーノ
- 子
- グリエルモ・サンセヴェリーノ
ピエトロ・アントーニオ・サンセヴェリーノ
ピエトロ・ロマーノ・サンセヴェリーノ
アンナ・サンセヴェリーノ
マリーア・サンセヴェリーノ
カテリーナ・サンセヴェリーノ
グリエルモ・サンセヴェリーノ
ジョヴァンナ・サンセヴェリーノ
ジローラマ・サンセヴェリーノ
概要
エレオノーラ・ピッコローミニ・トデスキーニは、15世紀頃のイタリアの女性、シエナ貴族。
別表記
Dianora
外部リンク
ヴィットーリア・ピッコローミニ Vittoria Piccolomini Todeschini
- 生没
- 1494年10月9日~1570年頃
- 出身
- シエナ
- 没地
- サルテアーノ
- 父
- アンドレア・ピッコローミニ
- 母
- アニェーゼ・ファルネーゼ
- 夫
- ボルゲーゼ・ペトルッチ
概要
ヴィットーリア・ピッコローミニ・トデスキーニは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
年表
1511年2月25日
シエナにてボルゲーゼ・ペトルッチと結婚。
外部リンク
イザベッラ・ピッコローミニ Isabella Piccolomini Todeschini
- 生没
- 1503年~
- 父
- アルフォンソ・ピッコローミニ
- 母
- ジョヴァンナ・ダラゴーナ
- 夫
- フランチェスコ・ボルジア
- 子
- ジョヴァンニ・バッティスタ・ボルジア
アントーニア・ボルジア
概要
イザベッラ・ピッコローミニ・トデスキーニは、16世紀のイタリアの女性、シエナの貴族。
別表記
Sancia
外部リンク
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2024年2月28日